2018年11月25日日曜日

Spirits/Discontent

アメリカ合衆国はマサチューセッツ州ボストンのハードコアバンドの1stアルバム。
2015年にState of Mind Recordingsからリリースされた。
Spiritsはストレートエッジのバンド。メンバーは4人でかつてはTest of Timeという名前で活動していたそうだ。

お酒飲まない、タバコ吸わない、愛のないセックスは無しという厳格なルールで生活を縛るストレートエッジというのはハードコアカルチャーに結びついているものの、音楽的な特徴を表現する言葉ではない。どうしてもストレートエッジというとユースクルーかなと思ってしまうところがあるが、(一見すると)このSpiritsはあまりそれっぽくはない。もっとフックが効いている。わかりやすく言えばバキバキのブルータルさは全くないが、かといってタフなオールドスクールという感じではなく、自然体なニュースクールという感じだろうか。技術力というか、表現力はかなり豊かでパームミュートだったり、エモバイオレンスを思わせるトレモロ奏法などを短い曲の中に持ち込んでいる。ハードコアというのはどうしても力強さを志向するあまり極端に走りがちなジャンルだと思うが(メタルだとここに様式美的な表現力が加わるから音楽性自体は雑多になる)、このバンドに関してはとにかく中間が格好良く、そこが自分には自然体、に見えるのだ。言葉にできない余白的な感情を持て余すのではなく素直に表現している。概ねその感情がエモバイオレンスのような懊悩や葛藤になってしまいがちなのだが、このバンドはあくまでも健康的なハードコアのフォーマットに落とし込むことに成功しているイメージ。結果的に速くもなく落としどころ満載という感じではないのだが、とにかく横ノリといっていいくらいの気持ち良さが詰まったハードコアが出来上がっている。
そうなると俄然丁寧な作りが気になって聞き込んでしまう。例えば8曲め「The Pledge」疾走するパートでうおってなって、コーラスワークでじんわり感動する。あ、ここ実はユースクルーっぽいぞと気がつく。これは良い。
SNSには「世界をよくしていこう」「ホモフォビア(ホモに対する嫌悪)、ファシズム、女性差別主義、人種差別主義、憎悪のいるところは無い」と書かれている。ポジティブ里そして強い決心が伺えるバンドだ。そういったバンドがこういったしなやかな音楽を鳴らしているというのは非常に格好いい。(別に強面の音楽を鳴らしているバンドがかっこつけだといっているのでは無い。)

こういうシーンの中で断固とした主張をしながらも、大勢のやり方をなぞるでもなく自分たちなりのやり方を模索しているようなバンドにどうしてひかれてしまう。

2018年11月24日土曜日

ハード・コア

「ボーダー・ライン」の続編を見にいくはずがなぜか「ハード・コア」を見ていた。
原作は狩撫麻礼、画はいましろたかしの漫画「ハード・コア 平成地獄ブラザーズ」を元にした邦画である。監督は山下敦弘でこの人は「リンダ リンダ リンダ」などを撮った人だ。主演でプロデュースを務めるのは山田孝之で、彼が原作に惚れ込んでこの映画を取ることを発心したそうだ。

2時間の映画で途中何回も笑った。しかし最後まで見て残ったのは圧倒的な絶望感でもあった。なんて暗く、そしてひどい映画だろう。誤解を与えるかもしれない表現なのではじめに断っておくが、映画自体はものすごくよかった。でも終わったあと感動して慟哭することはなく、むしろ恐ろしさで戦慄が走った。私は原作を読んだことがなく、軽い気持ちで冴えない中年が頑張る話かな、と思って見に行ったのだ。なぜなら私も冴えない中年だからだ。でも見終わると冴えない中年は死ぬしかないのか…という気持ちになってしまった。

主人公の権藤右近は冴えない男だ。感想を見て見たら「クズ」と称されてもいた。まあそうかもしれない。良い年をして定職につかず胡乱な反社会的な組織でよくわからない仕事(埋蔵金の発掘)を任されている。金もなければ女にもモテない。すぐに頭に血が登る性格で口が悪いし、それより先に手が出てしまう。堕落した生活を楽しんでいるなら良いのだが、自分の境遇には強い不満感を持っている。悪いのは世の中なのだ、その世の中の腐敗の割りを食っているのが純粋な俺なんだ、とそういうわけだ。
彼の何かダメなんだろうと考えたときに思ったのは、暴力的だからでも、怠惰だからでもない。強烈な個性があるし、主張もする割に本当にダメなのは自分の意思がないのであった。彼がよく口にする雇い主である「金城には恩があるから」というのはなるほどわかる。でも右近自身は金城の思想に染まっているわけではない。彼には月7万円というお金のために世話になっているだけで、いわば金城を便利に使っているわけだ。7万円はなるほど大金だが、仕事は他にもある。彼はあえてその境遇に甘んじているわけだ。彼は考えるということが得意ではない。自分の意見がない。というよりは責任は負いたくない。だから埋蔵金を見つけてもそれをどうしたら良いかわからない。(全部自分で欲しくはあるのだが、怖くて雇い主に報告しようかと悩む。)強い言葉で上司の水沼からテロルの覚悟を問われると、なんとなく偉そうな言葉でその場を凌いでしまう。彼は根っからのダメ人間というのではないのだ。彼は確かに牛山に対して優しい。人間ですらないロボオに対してもそうだ。暴力で脅してくるヤクザには我慢ができない。いいやつなのだ。不器用で、でもやっぱり自分の意思がなく、重責からは逃げてしまう。
唾棄すべき世の中に漠然とした憧れがあって、だから牛山とロボオといったキャバクラで踊ったのは彼にとっては最高の体験だった。自分がバカにした仲間と浮かれさわぐ、という行為(いうまでもなく冒頭のバーのシーンの逆の再現)をやっと自分ができたからだ。彼は世の中が嫌いだったわけではない。憧れた世の中に拒否されていると感じているから、その世界に憎しみを覚えているのである。あああああこれはどう考えても私ではないか。

一方彼の弟、佐藤健演じる権藤左近はどうか。彼は意志の人だ。商社に入り金を稼ぎ、女にもモテる。行動力と知識があり、そして強い野心とそれを実現させる速やかな行動力がある。埋蔵金を手に入れた直後、すぐにそれを強奪し、そして実際の金に帰る術を思いつくのも彼だ。左近がいなければ右近は埋蔵金を金城に渡していただろうし、よしんば強奪しても日本円に換金することはできなかっただろう。彼は生まれながらの完璧な人間ではないのだ。居酒屋で激昂した兄右近を殴り返しそしていう、「世界など腐って当たり前。そこで要領よくやっていくしかねえだろ。」彼だってこんな世の中が正しいとなんて思っていなかったのだ。だから埋蔵金が欲しかった。くだらない雇われ人である商社マンから抜け出し、世間を出し抜きそして一人高笑いすることができる。埋蔵金は彼にとって復讐の道具でもあった。彼はなるほど顔が良いが、AIの知識、妙子の本性を見抜く眼力など、全て経験によるもので単に才能の問題ではないことがわかるだろう。彼だって右近のいう腐った世の中で彼なりに辛酸を舐めてきたのだった。

映画をご覧になった人ならわかるだろうが、この映画は終わる前に一度終わっている。最後の最後は優しさであり、それこそ逃げの一手かもしれない。私もこの作品のコメディ要素は究極このラストへの布石だったと思うところもあり不満はないのだが、やはりその前のロボオがいう「こうするのが一番なのです」という言葉とそのあとが忘れられない。同じ時間を与えられて結局何もできなかった右近。最後の最後まで自分の意思がなく、結局自分の大切な人生を他人にいいように奪われた右近。そんな彼はもはやああなるのが一番なのか。そんなわけで自分の中に右近を見出していた私は大いに戦慄したのだった。現実的な恐怖といっても良い。甘い糖衣に包まれたフィクションだなんてとんでもない。(それだけにあの最後の最後が私にはむしろ恐ろしかったのだった。あれこそが現実から身をそらす幻覚剤だからだ。)現実にぶん殴られたようである。全ての冴えない中年はこの映画を見た方が良い。手遅れになる前に。そして私たちは既に半分かそれ以上は手遅れなのだ。

この物語に出てくる存在の中で明らかにロボオがおかしい。だって彼は人間じゃない、彼はロボットなのだから。左近が言っていた言葉にヒントというか答えがある。「AIは命令されれば行動することができるが、その行動がどう言った目的なのかわからないのだ。」皮肉だ。ある意味では意志薄弱な右近もそうなのだが、本質的にロボオは行動の規範が人間とは違うということを言っているわけだ。ところがどうだろう。この映画に出てくる人間は牛山も左近も含めてみんな大なり小なり歪んでいる、おかしい。優しくはあっても結局は人を利用していく。そして人を壊していく。そんな世界の中でただ一人ロボオだけが優しい。彼は人を傷つけない。身を呈して人の幸福を守ろうとする。(最終的には感情が明らかに生まれている。水沼とのシーン。)ロボオの完全な人間性が非人間の中に実現しているという存在は明らかに皮肉であり、そしてこの「腐りきった世界」に対する批判である。狩撫麻礼という方はハードボイルドな方だったそうだ。おそらくこの世界に対して内心複雑な思いを抱えていたのだろう。

本当に素直に「ボーダー・ライン」を見に行けばよかった…と思うくらいの衝撃だった。しかしそれゆえ優しい。どんな気持ちで山田孝之と山下敦弘監督はこの映画を今この時代に撮ろうとしたのか。大変失礼は承知ではっきりいって大ヒットするような作品じゃないと思う。しかし少なくとも私の心臓にはグッサリ刺さった。刺さりすぎて痛いほどに。俳優の方々の限界を超えたような演技も素晴らしかった。
何もしないのもいい。優しいのはもっといい。でもそれだけではダメなのかもしれない。人生はハードだ。タフになれ。冴えない中年、腐りきった世の中に言葉にできない思いを抱えている方はこの映画を見た方が良い。強烈なパンチ力に驚くだろうが、ぼんやりしている場合ではない。

My Purest Heart For You/Both Paralyzed

アメリカ合衆国サウスカロライナ州マートルビーチのブラックメタルバンドの2ndアルバム。2018年に自主リリースされた。
またくどいバンド名である。「僕のあなたに対する最も純粋な心」。調べてみるとマートルビーチというのはアメリカ南東部のリゾート地のようだ。とても綺麗なところだ。君、もっと外に出てきたらどうだ、泳いできなさい、と親戚の叔父さんになっていってあげたい気持ちもある。輝かしい土地で部屋にこもってこういう音楽を作るやつもいるのである。全く最高だ。バンドと称したがメンバーなどは非公開でよくある変名どころかメンバーの人数も不明。2016年にデモを発表して以来、活発に活動しているようだ。(多分ライブはやっていない。)

どんな地下音楽でも流行り廃りというものが露骨にあって、そのムーブメントは「もう聞き飽きたぜ?」と玄人のしたり顔で敬遠されたりもするのだが、雨後の筍が枯れた後その土壌からまた新たな音楽が生まれることもまた確かだ。
このMy Purestもそんなバンドのような気がしている。ブラックゲイズだ。シューゲイザーにブラックメタル由来のトレモロを合体させたツエーやつで、世界中の根暗たちがこの音楽性に魅了された。もともと小汚い、危険、(ともすると)キモいという3K音楽たるブラックメタルから派生したという生まれながらの対照性もあってか、ブラックゲイズは掃き溜めに生まれた鶴のようなエモさがあった。マートルビーチに住む何がしかはそこに最も純粋な心を見つけたのだろう。(おそらく)根っからのブラックメタル・ファンである彼がこの音楽性にコンバインしたのはデプレッシブ(憂鬱な)・スーサイダル(自殺的)・ブラックメタルだった。それもかなり過酷でトゥルーなやつをだ。厭世観と自己嫌悪を音楽にして吐き出した音楽。吊り縄やリストカットされた手首をモチーフにしたアートワーク。あの世界観によりにもよってブラックゲイズをくっつけたのだ。確かに全編を覆うのはトレモロ、トレモロ、トレモロの嵐である。しかしガリガリとしたプリミティブな音質。ドゥームとまではいかないがすっきりとしないゆったりとした速度。マイナーなコードを使っているのかわからないが、爽快感を与えるはずのトレモロもやけに陰鬱に響いてくるのである。ボーカルは金切り声でずっと叫んでいる。全く抑揚などあったものではない。キャッチーな要素である「ゲイズ」の背後にあるのは確かにDSBMの息吹であった。チェコのTristをなんとなく私には思い出させる。あの荒涼としたモノクロの景色。
例えばAn Autumn for Crippled ChildrenがDSBMを飲み込んでほの明るい地平線を目指したのに、My Purest Heart For Youは明るい要素を用いているのにさらにDSBMのくらい渦に降下していくようである。私がブラックゲイズ学の講師なら「これは悪い例ですね〜」と生徒たちに紹介するだろう。しかし私はどこの先生でもないのでこの音楽に耽溺することができる。くらい情念がメエルシュトロムのように下に下に渦巻いていく。不健康な重力があなた方を優しく押さえつけるだろう。

ロス・マクドナルド/さむけ

アメリカの作家の長編小説。原題は「The Chill」で1963年に発表された。
いわゆるアメリカの古き良き時代のハードボイルド。アメリカの私立探偵というとどうしてもレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウが思い浮かぶが、時代的にはこちらの方が重なりつつも少し後になるようだ。
あとがきにも書いてある通り、両者のイメージはだいぶ違う。ハードボイルドというのはどうしても主人公のキャラクターによるところが多いと思う。そういった意味ではマーロウとこの物語の主人公アーチャーには多くの共通点がある(簡単にいうと喧嘩が強くて科目て格好良い。)物語全体としてはこちらの方が陰鬱である。舞台もカリフォルニア州の海沿いの町なのだが、華やかな雰囲気がほとんどない。むしろ霧が立ち込めて重苦しい。出てくる人たちも派手な金持ちやギャングは出てこない。要するに地味といっても良いかもしれない。

出てくる人たちはみんな問題を抱えているようではある。結局は孤独ということになるのだろうと思う。どこからしら欠陥がある人間たちが人生の中で右往左往しているうちに事件が生じてしまう。アーチャーはその絡まった糸をほぐしていくことになるわけだが、当然そうすると関係者たちの生まれや育ち人間関係とそこから生じる問題に直面していくわけだ。これは何かと言うとカウンセラーに近いなと思う。個々人の身勝手さがわかっていってげんなりもしてくるのだが、面白いのはこの登場人物たち、結果的に良いか悪いかはわからないがかなり他人のことを考えている。いわば関係性が強調された物語ということができる。利他の精神であり、また同時にすがる縁でもあって、愛情であり呪いでもある。重なっていく日々が過去を重たくし、距離を稼いでもそこから逃れることができないのは象徴的だ。こうなるとギャングたちが出てこないのも納得できて、つまり不和やそれを引き起こす問題というのは常に内側にあるというのが、この作品の言いたいことであって、それが全体的にやるせない雰囲気をこの作品に持ち込んでいる。殺人を起こすのはどこにでもいるあなたの隣人であり、殺人が起こるのは絢爛なハリウッドでもなく近所の家なのである。ここに異空間や非日常はなく、あるのは嫌になるくらいの日常である。
この日常の中で罪というのは相手の意を介さずに自分の思いのままにしようとすることだと示唆されているようだ。でも思いやりと強制の境はどこにあるのだろうか。
妙な諦観を持って動き回るリュウ・アーチャーは特異な霧に紛れて現れれる幽霊のようだ。積極的に事件に乗り出すがどこか頼りないところがあり魅力的だ。老獪な人物たちの間の中でボンボンで幼く、衝動的で直情径行のアレックス・キンケイドだけがその思い込みと優しさでくらい事件に一条の光を投げかけている。長く、優しい目で彼を見つめるアーチャー、とても良かった。彼もまたまだ死んでない男なのだ。

2018年11月11日日曜日

Jesus Piece/Only Self

アメリカ合衆国はペンシルベニア州フィラデルフィアのハードコアバンドの1stアルバム。
2018年にSouthern Lordからリリースされた。Southern LorddといえばSunn O)))のイメージが強いけど結構ハードコアもリリースしており、最近だとXibalbaとか何気にGriefの編集盤とか。
Jesus Pieceは2015年には音源をリリース。ツインギターに選任ボーカルの5人組。ボーカリストのAaron Heardは最近オルタナティブ/シューゲイザーバンドNothingにベーシストとして加入している。

初めての音源がかなりなのあるレーベルからリリースされたり、来日が決まったり、しかもその来日にはハードコアのライブ動画では知らない人はいないであろうhate5sixが帯同したりと、なにやら非常に注目度の高いバンド。
色々見てみると「次世代ブルータル」と称されることが多い。そんなことを言えるのはやはりシーンに一家言あるような方達だろうから、そんな玄人も唸らせる、新しい流れも伝統をきっちりと抑えたバンドなのだろう。どうしても個人的には次世代ブルータルというとCode Orangeが頭に浮かんでくる。なるほど音的には結構似ている。ここでいうブルータルというのはミュートを多用したモッシュパートを曲の中心に据えてくる、ということを言うのではと思う。となると確かにこの二つバンドはほぼモッシュパートがメイン、のような曲作りをしている。ただし前述のXibalbaのようなデスメタルからの影響は希薄。ミュートのリフもあくまでもメタルハードコアに移行されて以降の伝統を用いている、といった濃度。(そういった意味では地下臭はあまりしない。アクが強いがさっぱりしたサウンドと言える。)アクセントしてメインとなる低音に対する高音を効果的に用いる、ノイズをうまく使うという共通点もあるが、聞いた感じ結構印象は異なるなとも思う。
徹底的にソリッドなCode Orangeに比較するとこちらの方が音がややこもっている。その分生々しい威力に満ちている。低音に凝りすぎて一部金属みたいになっているが、表面がざらついていて好みによるが私は好きだ。勢いのある曲に圧倒されるがよく効くとシンプルにまとめる精神で、下手するとオールドスクールな感じすらあるような気がするパートもある。

基本的には脳筋ハードコアなのだが、最後の2曲だけは妙にしっとりとしたドゥーム・アトモスフィアに満ちていて、ダークアンビエント〜ノイズ〜ポスト的なスラッジと言う感じで異彩を放っている。広がりのある音像は明らかに奥行きがあり、ブルータルつまりゼロ距離を理想とする接近戦の音楽とは一線を画す。最後に何気に自分たちの知性をひけらかすと言うよりは、Convergeの「Jane Doe」におけるラストの「Jane Doe」を思わせる(個人的にはConvergeがアルバムのラストに入れて来がちな大曲は大好きなんだ。)やり方だなと思う。Code Orangeもはっきりとメロディを持ち込んだ楽曲をアルバムに入れてくるなど、異なったアプローチを大胆に導入する手法をとっており、なるほどなーと思う次第。二つ以上の異なった要素を楽曲に混ぜると言うより、アルバムに混ぜ込むと言うやり方ね。

リリース日が近いこと、注目度が高いと言うことでなんとなくVeinとセットで次世代と言うイメージ。それぞれブルータルながら目指している音が異なるのも良い。

BROCKHAMPTON/Iridescence

アメリカ合衆国はテキサス州サンマルコスで結成され今はカリフォルニアを拠点とするヒップホップ集団の4thアルバム。
2018年に自主レーベルとRCAからリリースされた。
BROCKHAMPTONは2015年にKevin Abstract(若干22歳)が中心になり、ウェブ上のフォーラムでメンバーを募集する形で結成された。メンバーは10人以上。自らをしてボーイ・バンドと称しており、また全ての制作物やライブをDIYでやっているそうだ。
2017年に「Saturation」シリーズをアルバム3枚分リリースしている。個人的には「SaturationⅡ」がとても好きだ。そんなわけで新作を購入した。

ヒップホップといえば集団である。横のつながりといっても良い。客演も多い。Wu-Tang Clanは文字通り一門である。そんな中でも10人を超える集団というのは珍しいのかもしれない。(私がしれないだけも。)この数の多さを武器にマイクリレーしまくる。性別や人種を超えてとにかくいろいろな声が入り乱れ、また曲もそんな個性を生かせるように非常に多彩でそこが面白いのだ。
ジャズなどの元ネタをサンプリングしてそれをループさせる。全身これビートといった隠しようもなく、と言うよりはラッパーにとっては隠れようもない赤裸々なその上にラップを乗っける。バースがあってフックが来る。そんな形ですら、もはやBROCKHAMPTONは置いていっているくらい意識しない。矢継ぎ早に言いたいことを乗って来る。トラックがしっくり来なければ曲の途中でも大胆に雰囲気を変える。逆にただただ奇をてらっているわけでもなく、とにかくメロディアスなサビを乗っけるわけでもない。これはしっくり来る、と言うマインドで作っているように感じられ、その自由さがこちらにも心地が良いのだ。ゆったりとした曲、張り詰めた曲。ヒップホップ強めの曲、R&Bをおもわせる歌声が印象的な曲。この最新アルバムではギターの音も大胆に使われているし、その他の楽器もよく使われている。どうやら製作陣もかなりメンバーの層が厚いようで、数の多さがそのまま楽曲の豊かさに繋がっているのではないか、と思う。このごった煮感はまさに人種のるつぼアメリカなんでは?と思う。だったら異なる人たちが集まって一つの音楽を作ると言うのは素晴らしいことだ。
個人的には露骨に導入されるテクノパートみたいなのが好きで、このアルバムだと「WEIGHT」は素晴らしい。ビープ音が不穏な「DISTRICT」も無理やりかぶさる歌が良いし、女性の声が金属のように艶かしい。

若いだけあって今の時代をしっかり捉えていると思う。一つは極力(新作はソニー系のレーベルと契約しているようだ)中間業者を挟まない、作り手⇄市場(客)の関係を構築していること。売上と分配の問題と言うよりは速さと質の保っているように私には思える。それから次々ラッパー/シンガーが入れ替わると言う曲の構成も、たった5秒の広告が物を言う「気に入らなければ次へ」の精神が大きく反映されているように思う。つまり初っ端でぐっとつかんでくるわかりやすさがある。非常にキャッチーな作りをしている。

ブログを見ていただければわかるが私はヒップホップには(別に他のジャンルにも詳しいと言うことではないんだけど)詳しくないので、よくよくヒップホップを聴いているフリークの人たちがこの新しい集団をどう考えているのかと言うのが知りたいところだ。ひょっとして苦い顔で見ているのだろうか。そんなことがあってもそれはそれで痛快で面白いね。

ウラジーミル・ナボコフ/ロリータ

ロシアに生まれその後亡命。色々な国(ヨーロッパやアメリカ)で暮らした作家の長編小説。原題は「LOLITA」で1955年に発表された。多感な思春期に読んでなかったので中年になってから読むことにした。
ロリータというとどうしてもロリコン(ロリータ・コンプレックス)を彷彿としてしまうのは私が低俗な人間だからだろうが、ロリータ・ファッションだってよく考えればこの小説がその名称の元ネタではないか。男性は若い女性に惹かれることは間違いない。(中年の私が首を少し回せばそんな意見はよく聞く。もしくは鏡を見れば良い。)その中には若さの限度がいきすぎていて明らかな児童に惹かれる男もいるだろうし、そんな性的嗜好を持つ人は昔からいただろう。ナボコフはそれらにわかりやすく名前をつけたのだ。つまりなんだかよくわからないけどある感情をその慧眼とよく動く指で掬い上げたのだ。センセーショナルな小説であることは間違い無いのだろうが、私がこの小説が一番話題性があると思うのはそこだ。この小説以降未収額くらいの年齢の女児にリビドーを燃やす男性(とその気質)という時には病気(ビョーキ)的に取り扱われる概念が地球上を覆ったかと思うとただただため息が出るでは無いか。

断っておくと現代において児童との露骨な性的な描写を期待してこの本を取る人は少なかろうが(かといって発表された当時に猥褻という理由で具体的な騒動がも違ったことが間違いだったとは思わない。)、読んでみるとやはり性的な描写はあるけど非常に洗練された形で端的に表現されているし、この本の面白さというのはそこ以外にある。というか大分長くて、ほとんど主人公ハンバート君の苦悩が綴られているんだった。中年男の自分の性的な思考を暴露する形を取っているから、はじめは面白くても500ページを超えれば流石に退屈である。そこでナボコフの手腕がわかる。面白いのはこのハンバートは表面的には(読めばわかるが後半に行くに従い体調を崩して行く原因をどこに求めるかということによる。個人的にはロリータとドロレスといる時から酒の量が増えていることに注目したい。)自分が普通から逸脱していることは認めているものの、その思い切った行動に対する後悔や悔恨はほとんどない。はっきりいって彼はドロレスに恋をしているのである。なるほどどうしたって彼女と寝たいというのはあるだろうが、彼女を所有したいし、彼女の気を引きたいし、最終的には彼女に自分に好きになってほしいのだ。年端もいかない少女に劣情を抱いたとして一番簡単なのは暴力に頼ることだが、ハンバートはその方針を採用していない。(ただしこの物語は彼の独白になっているから実のところはどうかわからない。実際ドロレスは作中で「レイプされ」たと言っていたはず。)どちらかというと彼女の行動を逐一眺め、男と話しているだけで嫉妬に狂うような有様。なるほど父親という偽の立場を使って高圧的に自分の意を飲ませようとしているが彼女もなかなか思い通りにはならずに、結果的にハンバートは右往左往しているような節がある。
彼女を失ったハンバートがいよいよ正気を失い一時はストーカーと化し、その後別の成熟した女性との暮らしを手に入れるが、愛しのロリータから金の無心をされればそんな生活を捨て去り彼女の元に駆けつけ、挙句彼女を奪った男性を射殺するのであった。確かにいつの間にか大人になった少女に振り回され、挙句に嫉妬に狂って恋敵を射殺した哀れな男、の物語である。最後のくだりは意図的に喜劇化されて書かれていることもあって、小説的というよりは体面を気にしたようなオチで物語全体をまるめようとしているような節がある。
なるほど病的な小説であり異常な話ではあるが、なんとなく普通の恋愛小説でもある。過去の挫折から似たような女性に惹かれ、彼女をものにするが、袖にされ、結果的には殺人に手を染めるというところも非常に男性的な恋愛小説の典型なのかもしれない。男性的というのが何かというとそれは”身勝手”というところに集約されるだろう。この小説の場合は特に。

MANDY 地獄のロード・ウォリアー

極めてメタル的な映画だった。明らかにブラックメタルのバンドロゴを意識したタイトルもそうだが、それだけじゃない。全体的にやりすぎでくどい演出に、ゴア表現。それらは手段であって目的ではない。メタル的って何か、メタルって何を表現しようとしているのか。解釈は様々だが私にとってはこうだ。世界に対する曖昧な嫌悪感。我ながら苦笑してしまうような表現だけど待ってほしい。この映画のラスト、愛する妻の幻影を見てニコラス・ケイジ演じるレッドは笑った。でもすぐに彼女の不在に顔つきが変わり、そして見知った地球が地獄のような景色に変わる。レッドは狂ってしまったのだろうか。違うね、断然違う。レッドにとってこの世が地獄なのだ。理解し合える誰か(マンディ)がいない地上なんて地獄にすぎないのだ。この考え方がメタル的なんだ。だから私はこの映画が好きになってしまった。
マンディは浮世離れした女性でレッドにとって現世の苦しみを忘れさせる運命の女だった。だから彼女がスクリーン上に現れる時、ある意味では不自然に光り輝いていたのだ。彼女がレッドの前から去った後、ほとんど画面は歪んでなかったはずだ。レッドはある場面では麻薬を吸引していた。それはそうだ。この世は地獄で、マンディという薬がなくなったしまったのだから、彼は半ば狂った徹頭徹尾ソリッドな現実の世の中で正気で孤独だったので残酷さに向かい合うためには、それが必要になったのだった。
敵役のツマラなさは確かにある。全く魅力的でなく、人間的に面白みがない。どいつもこいつもぱっと見個性的だが中身がない。それはそうだ。彼らはこの世の中の悪い部分の代表で、それゆえ誰もないし誰でもある。彼らはただこの世界のいやらしさの結晶であり、レッドはお手製の武器(某バンドのロゴをもじったような巨大な斧)で彼らを粉々に打ち砕くのだ。
しっかり教会も燃やすのだが全体的にはドゥーム・メタルだ。ドゥームすなわち呪い。登場人物たちは全員呪われてているが、それはこの世が不浄だから。全員が悪人になりきれず、一体このくそダメでどうしたら良いのかわからなくて右往左往しているような不安定な感じがある。まさにドゥーム。そうなるとあのラストもむしろ勝ちようのない戦いに沈み込んでいくカタルシスのまったくない感じがしてきてさらにドゥームに拍車(音圧=重圧)をかけてくるようだ。

ニコラス・ケイジはなんとなく昔から好きで、今更「ツイン・ピークス」にハマったのでそのままデヴィッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」を見たらめちゃくちゃ格好良くてさらに好きになってしまった。今作では彼は「苦しい」とか「辛い」とか一言も言わないが、全身から憎しみとそして再現ない疲れと寄る辺のない絶望が感じられてすごく良い。下半身ブリーフで慟哭する姿はなんとなく可愛い。
マンディ役のアンドレア・ライズブローは綺麗を通り越して怖い感じ。年齢不詳な感じで明らかに魔女っぽいけど、二人でテレビを見ているシーンはなんだか妙に可愛かった。コミュ障っぽいところもあって得体の知れない美女じゃなくてちゃんと愛嬌のある人間として書かれていてよかった。

2018年11月4日日曜日

Your Dream is Our Nightmare@鶯谷What's Up

この日もよいライブが被る週末だったが、私は鶯谷へ。大阪のZyanoseが来るからだ。音源が格好良かったからぜひぜひライブが見たかった。
ホテルと無料案内所に挟まれて神社の下にあるのがWhat's Up。建物の上に神社のあの寄付した人の名前が入っている柵(?)がついている。18時開場で概ねその時間に着いたら人がズラーっと並んでいる。なんと。ボヤーっと並んでいると演者の方が私のあたりに並んでいるクラスティーズに「お前らもう入れねえぞ」と声をかける。なんと。でもなんとか入ることが出来ました。お店の人がのちにツイートしていたが、この日お店至上一番人が入ったとのこと。大きさ的には横浜にあるEl Puenteより大きく荻窪にあるPit Barより小さいくらい。ここは縦にやや長い。天井が高く鉄筋が組んである上にスピーカーが載っている。ステージは本当に狭くて演者のバンドが4人いればもうステージに乗れないのだ。Pit Barと違ってこちらは一階である。防音扉もないので音漏れがえぐいことになるのではなかろうか。ホテル街だからあまり騎乗がこないのかもしれない。面白いとライブハウスだ。(一応バーということになっている。)そこに人がパンパンに入っている。本当パンパン。というのもZyanoseは活動休止をアナウンスしており、おそらく少なくとも東京でのライブは最後だということだ。

System Fucker
一番てはSystem Fucker。見るのは二度目。ラスタな風貌だったベーシストがいなくなり、代わりに短髪なのに後ろ髪だけを伸ばした新メンバーが加入。この方は非常に若いそうだが、なかなか堂々として格好良かった。ボーカルの方は前は長いモヒカンだったが、今はサイドもある感じ。周りの人がボーカルの方を指して俳優みたいだねと言っていた。始まってみれば見た目もそうだしパフォーマンスも非常に華がある。
見た目はクラスティーズなんだが、微妙に日本特有のヤンキー文化と融合しているような趣があり、面白い。音は明快なクラストコアだが、反抗心を燃やす粗野さにジャパニーズ・ハードコアの要素を持ち込みかなり叙情的に。短く速いギターソロで哀愁を充填するスタイル。歌詞はおそらく日本語で、「バカヤロー」「このヤロー」と飾らない言葉で強烈に語りかけてくる。(語りかけてくるというのはなんとなくジャパニーズ・ハードコアっぽい気がする。)メンバーは冷静だが、ボーカルはどんどん客席に向かって突っ込んでくる。パンパンなんでこれはやべえなという感じがあってこれが最高。
中盤ではかなりストレートなラブソング(なんせ音がでかいのでちゃんと聞き取れているか怪しいのだけれど)も披露。歌詞が結構びっくりするのだけど、普通に歌う(というより叫ぶだが)ってしまうボーカルの方はやはり格好良い。この人ちょっと独特の世界観があってしっくり理解できるというのではないけどなんとなくその世界観に惹かれてしまうという意味ではTMGEのチバユウスケさんに似ているかもな、なんて思ったりした。

LiFE
続いてはLiFE。大変有名なバンドだが私は見るのは初めて。一応最近リリースされたEPだけ持っている。選任ボーカルにギターが二人という五人組。ギターは役割分担がはっきりされていて一人が明確な輪郭なかっちりとしたリフを弾き、もう一人がかなりノイジーな輪郭が曖昧な音を出す。前者はかなりメタリックで音もでかいのでこれはもう一方がきこえないかも?なんて思ったが始まってみればそんなことはなかった。Eyehategod顔負けの高音フィードバックノイズがえらいカッコい良いのだ。
メンバーものちに振り返っていたがかなり問題続出のライブで、結果的にはギタリストのアンプが二つとも音が出なくなる。(片方は壊れたらしく交換した。)ギタリストの方のシールドが切れる。ベーシストの方がかなり激しく流血する。なかなかないです。というのも非常に狭いライブハウス、狭いステージなのにメンバがー動く動く。特にベーシストの方は縦横無尽に動き、落ちたり転んだりしておりました。危ない。
こちらは完全にクラストコア。それもかなり無骨でおそらく曲も短い。(セットリストを見ると多分30曲くらいやる感じ。)音は思った以上にメタリックではなく、本当にもっと汚いし、とにかくノイジー。耳を突き刺すようなノイズギターが非常に良い。良い!System Fuckerと比べると聴きやすさのとっかかりは非常に希薄に思えるが、曲によっては単音リフで組み立てたようなものがあったりして表現方法もかなり豊か。
私がびっくりしたのドラム。D-beatを中心に組み立てられたプレイで例えば手数が多いか、ブラストビートだとかではない(ただし基本めちゃ速い)のだが、妙に引き込まれる。これはグルーヴ感というやつなのだろうか。とにかく歯切れの良い音がカチカチ決まっていってそれだけですぐに持ってかれる感覚。めちゃくちゃ気持ちが良い。こうなるともはやメロディなどもはや不要で、そういった意味では全体のアンサンブルが肉体的。フロアもえらいことになっていて、さながらぎゅうぎゅうすし詰め状態の満員電車が巨大な力で揺さぶられているようだ。そんな荒々しさのど真ん中でみんな笑顔なのがさらに輪をかけてすごかった。

Zyanose
続いては大阪のノイズコアバンド。Insane Noise Raid!
こちらもギターが二人いる五人組。全体的に完全にクラスティーズなのだが、ギタリストの一人はロンドンな感じのパンクファッションに身を包んでいる。
始まって見るととにかくうるさい。ただ思っていたよりほぼノイズです、という感じでもない。耳がバカになって悟りを開いたのかもしれないが、なんとなく結構曲が判別できるような気がする。音源を聴いているといやーノイズですなーとか思っていたが、ライブで見ると違う。これはクラストコアだ。ちゃんと曲になっている。ただ異常にでかい音で演奏しているだけで。つまりノイズに逃げていない。全く抽象的ではない。音をどんどんでかくしたらこんなことになった、という趣でとにかく元はハードコアなのだ。轟音をつんざく嗄れ声の吐き捨て型のボーカルが非常に格好良いのだ。ギタリスト、ベーシストもコーラスを入れるのだが、これはもう「うぎゃー」と叫んでいるようにしか聞こえない。もう最高。LiFEと異なるのは音の出し方と時間軸に対するその埋め型で、あちらはノイズの中にも緩急をつけて隙間を開けていたが、Zyanoseはもう病的なまでに最初っから最後まで轟音で塗りつぶしていく。さながらブルドーザーのように全てを巻き込んで雪崩のように駆け抜けていく。
フロアの方は一体感というか、こっちも負けてられないくらいの対抗意識で盛り上がっていく感じで大荒れ。
やばい、頭おかしい、病的というのは簡単なんだけど、クラストコアはそうじゃないんだよな。音がでかいからそう思いがちだけど、もっと現実的な闘争だなと改めて思った。


いい気持ちで物販に向かったらすでにZyanoseの音源とT-シャツは売り切れていたのだった…。これはもう慟哭するくらい後悔したのだった。開演前にかっとけばよかった。
まあでも私が買えなかったということは他の誰かが買えたということなのだ。
楽しかったなあ。