この本は400ページちょっとある長編だが、途中大きな時間的飛躍を挟むものの取り扱っている出来事としては非常に短い。
とある島の別荘に主である哲学者の一家とそのお客さんが集まっており、その中の一日を切り取ったようである。誰かが殺される、といったような劇的な事件もない。思い思いに午後を過ごしたあと、みんなで晩餐を囲む、といったくらいである。しかしそれなりにおページがあるわけで、じゃあ何が書いてあるのだろうというと、コロコロ変わる視点の中での各登場人物の心情が丁寧に書いてある。例えば誰かが庭を横切るとそれを見ていた他の誰かが彼はどんな人でそれに対して自分はどう思っているのか、ということを思う。で、ヴァージニア・ウルフはその心の動きを綿密に書いている。これはなかなか変わっていると思う。書き方で戸惑うというのはコーマック・マッカーシーが思い浮かぶ。一旦慣れればあとはあっという間に読んでしまう、というところも同じだった。中盤からはあっという間に読めたけど、やはり何かしらが起こるわけではなかった。
この本が何を指しているのか、というのは難しい。大まかに人の動きははっきり書いている。私はこのスタイルは好きだ。逆に登場人物の心情を素直に書くやり方はあまり好きじゃない。この本は私の好きな/苦手なスタイルを2つ同時に書いているから面白い。心情に関してもここまで丁寧書かれると(極端な話私は「彼は嬉しかった」のような書き方が苦手なので)、逆に面白く読めるものである。
独り言というのがあって、私は不安になったときによくこれをつぶやく。同様の気持ちを登場人物、特に絵描きのリリー(後書きによると作者自身の投影らしい)がそうで、彼女はいつも外界、さらにいうと他人に対して不安を感じている。ある人を得意/苦手と思っているけどそれが正しいかどうか全く自信がなくて、理由を丁寧に述べて言い訳しているようなところがある。つまりウルフがこの作品で丁寧に書いている心情というのは基本的に他者に対する不安に根ざしているような気がする。
この物語では大したことが起きないがそれはつまり世界というのはただあるだけで不安に満ちているということなのだ、少なくともウルフにとっては。彼女の人生を思うと結構納得感がある。いわば知覚過敏が見た世界を書いているのであって、だから風景は牧歌的だがその中身は不安で溢れている。ところで私は非常に小心者なのでそういう雰囲気に共感してしまうのであった。
灯台ってなんだろう。ラムジーさん一家はここに行こうとしているのになぜかいろいろな事情でなかなかたどり着くことができない。峻厳なところに孤独に立ち、そして別荘に人がいようがいまいがお構いなしに、その強烈な光を投げかけ、そして観察する。どうも神様のようではある。光が部屋やその中においてあるベッドの上を舐めるように移動するさまは強烈な観察者の視線のようである。また未知の海原を旅する者にとって道標であり、故郷の端っこに立つものでもある。やっぱり神様のような気がする。そこにたどり着けないというのはなかなか厳しいことだ。
さてようやっとじゃあそこにたどり着いたとして、やっぱりそこにあるのは灯台なのでした。肩透かしを食らうようだが、やはり地上にはあるべきものしかないようだ。そこにあるのは日常なのだ。私達は気分が良かったり、悪かったりして毎日を過ごしていくのだ。ふつうのコトだ、なんてことはない。でもそんな普通のことに結構すり減る人がいるのだ。例えばヴァージニア・ウルフもそうだったのかも知れない。ちょっとなにか、なんとも言えない気分になる。この本はそういう本だ。
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