2018年12月16日日曜日

メルヴィル/白鯨

アメリカ文学に一つのモニュメントして立つ小説の一つではなかろうか。
様々な作家がその影響を口にし、またその他の芸術でも引用されることが多い。音楽界隈でもMastodonが「Leviathan」(聖書に出てくる怪物だが、クジラのことをまたレヴィアタンともいう)というアルバムを作成しアートワークには白いクジラを配している。またAhabというドゥームメタルバンドもいたりする。
私はNHKのアニメーションで「白鯨物語」というのを再放送でちらりと見たことがあるのが「白鯨」に関わる一番古い記憶だろうか。

複数の版元から出版されているが、世界観をよく表現している版画が収録されているということで岩波文庫版を購入。全三冊。大長編ではあるが、前編これクジラと戦っているわけではない。そもそも捕鯨とはどんな仕事なのか、どんな人達がその事業に関わっているのか、そもクジラとはどんな生態を持った生き物なのか、ということがメルヴィルの手で丁寧に丁寧に書かれている。どうもメルヴィルの時代に捕鯨業(とクジラという生き物)というのは正しく理解されていなかったようで、そんなみんなの間違った認識(メルヴィルに言わせると中世くらいの知識)を、捕鯨船に乗った経験がある作者がただしてやろう!という強い意志を感じる。どうしても荒波に漕ぎ出す海の男の物語というと暗く、重苦しいものを想像しがちだが、そんなことはない。3年以上に及ぶ長い航海では荒天もあればもちろん晴天もあるわけで、メルヴィルは海の美しさ雄大さ、海の男達の友情というものをきちんと真摯に描いている。なるほど後の時代の研究科がメルヴィルの生物学的な知見にはだいぶ間違いがあることを指摘しているが、メルヴィルの時代にはそれが精一杯だったのだし、そしてなにより人間というのはいつの時代にも変わらないもの。知識を土台に人間を書いている「白鯨」はそんなわけで今の時代も読みつがれているのだと思う。
あとがきでも書かれている通り、様々な人種が一隻の船に乗り合い、まさに生き死にをともにする捕鯨船ではびっくりするくらい人種差別がなく(これはメルヴィルの個性による所も多いとは思うが)、また狭いスペースの中で個人の個性が尊重されている。一歩間違えれば全滅する船の上で、肌の色がどうとかとか言っているいる余裕が無いのかもしれない。つまり仲間か、それでないかなのだ。これに関してはこの小説が持つ美点の一つだろうと思う。つまり人間の根源的な共感できる能力への賛美である。

「白鯨」はいろんな脇道(前述の博物学など)をもった小説だが、筋としては単純で化物のような白く巨大なクジラに人間が挑む話である。その単純さ故にいろいろな含蓄を含み、多くの人がそれにいろいろな意味を付加しようとしている。(私もその一人。)だが、物語としてみれば鬼気迫る戦いに赴く船員たちを書いており、その指揮を採るのが言わずとしれたエイハブ船長である。気の触れた船長といえば読んだことがない人でもそのなは知っているだろう。(脱線するが学生の頃に見た「ラストエグザイル」というアニメもこの「白鯨」の物語をなぞっているね。)
このエイハブは魅力的な人間で、自分が気が狂っていることに気がついており、世界には明るい面があることがわかりつつ、そこに背を向けて敢えて自分だけでなく船員の身を危険に晒す半分狂った男である。白鯨が凶暴だと言っても陸に攻めてくるわけでもなし、鯨油が目的なら他の黒いクジラで十分ではないか。彼はいわば恨みで動いている人間で、いわば煩悩に囚われた人間のわかりやすい戯画化された姿でもある。(だから彼は常に魅力的な人間なのだ。)私怨に対する理性の象徴として登場するスターバック。彼に対するエイハブ船長の愛情が私には非常に面白かった。邪険にするが敬意を感じている。破滅するのがわかっているのにスターバックは船長を止めることができないのである。エイハブの狂気は力を持っているゆえに船内に伝染し、そして逃げ場がないためピークオッド号は帆に風を受けて彼らの死である白鯨に向かっていく。これは理性の敗北であり、豊かな海が底なしの墓場にその姿を変えていく。

一連の物語を覆うのは無常観である。この物語で私が好きなのは、メルヴィルは実際的な人物でたしかに間違いはあるのかもしれないが、決して大きなことを吹聴したりはしない。捕鯨は栄えある仕事だが、それはあくまでも捕鯨に過ぎないのだ。登場人物たちのクラス世界の美しさ。そしてあっという間に人が死ぬ酷薄さ。捕鯨船とそれを囲む青い世界にメルヴィルはそれを詰め込んだのだ。起こった出来事を書き、そして結果的にできあがった「白鯨」という巨大な画を見て、私はそこに万物流転の無常さをみてとったのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿