2018年9月23日日曜日

コーマック・マッカーシー/ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤

アメリカの作家による長編小説。
この「ブラッド・メリディアン」は作者初期の作品だが、日本では遅れて発表されたそうだ。あとがきにも書かれているが本書「チャイルド・オブ・ゴッド」という作品はその作品内容の過激さからやや敬遠されて射たようで、国境三部作の受けが良かったのでおそらく翻訳が決まったのだろう。そんなわけでこの度やっと文庫化し、購入した。
私は前述のような状況を知らなかったから少しくこの本の内容に驚いたが、とはいえマッカーシーはどの本でも形は違えで様々な残酷さを描いてきた。だから読み終わってから思い返しても彼の作品群でほの本だけが浮いているとは思わない。むしろ野蛮な世界で右往左往する人間たちという共通のテーマがこれほどわかりやすく書かれている作品もないのかもしれない。野蛮さというのは二つあって、一つは大自然の過酷さ。今作でも主人公たち一行は水のない砂漠を砂埃まみれになって旅をする。その過酷さったら現代人からしたら本当にない。もう一つの野蛮さが人の残酷さであって、これら人間というのはおよそ文明ができる前からそして、できた後ですら全く飽きずに殺し合っているのである。映画化もされた「血と暴力の国」ではそんな残酷さが一人の人間に結実して不気味な殺し屋として結晶化していたが、この本に出てくる人間たちというのはほとんどみんな残酷なのだ。主人公はメキシコが非公式に雇ったインディアン狩りのアメリカ人部隊に入隊。賞金がかけられたインディアンの頭皮を求めて、彼らを殺しまくる。好戦的なインディアンも殺しまくるし、異邦人に敵対しないインディアンも殺しまくる。メキシコ人も殺しまくるし、果てにはアメリカ人も殺しまくる。殺して奪って犯してしまう。女だろうが、老人だろうが、子供だろうが、乳児だろうが殺す殺す殺す。彼らは常に呑んだくれて無鉄砲である。明日死ぬかもしれないから金も使い切るし、別にどうなったって良いのだ。彼らは誰にも感謝しないが、今日1日の命に感謝し、そしてその幸運が長続きしないことを知っているので、とにかく好き放題やるのである。それによってほとんどは命を落とすのだが、そんなこと知ったことか。恐ろしいことにこの主人公が属するグラントン・ギャング団は実在したそうだ。主要な人物とエピソードは実際のものから取ってきているらしい。となるとこの本が描いているのはまさにアメリカの歴史で、そして血と暴力に彩られているのだ。
マッカーシーの描く作品は陰影が色濃く出ていてそこが好きだ。具体的には人間たちの興じる些細な残酷ごとに対比して、常にアメリカの自然が目をみはるほど美しい。死んだ鹿の目に世界が写るシーンがあって、私はそれが文学の一つの到達点ではと確信しているが、そんな崇高な美しさが必ずそっけない(これが重要だ、個人的には)筆致で描かれている。いわば天と地の対比であり、単に自然が崇高で人間が卑小というのではない。人間の不自然さが自然の産物であり、私たちはそこの中に含まれる。そして自然の圧倒的な無関心さ、無頓着さ。言葉にできない世界がそのまま文字に込められて物語として構築されている。ただただ畏怖するばかり。
この本で異彩を放っているのがギャング団の古株の一人ホールデン判事であり、荒くれ者の中で彼らの尊敬を集めているのに決して交わらず、そしてその独自の哲学で畏怖されているというキャラクター。主人公の行くてに現れ何かと問答を仕掛けてくる。踊りと殺しが上手い(子供をあっさり殺す)この男は端的に言って悪魔であり、人間の世に混乱をもたらすものであり、人間をたぶらかすものであり、人間は常にこれらと相対しないといけないものだ。前述の「血と暴力の国」のシュガーは悪魔のような男だったし死神であったが、人間とは交わらなかった。ところがホールデンは悪魔であり、悪魔は人間の魂が常に彼の関心ごとなのだ。地上の悪徳は全て悪魔のせいである、というのではない。人間の悪徳は人間のものである。そうすると悪魔だけが人間の本質を理解していて、それについて報せようと語りかけてくるのだろうか。人間は記憶喪失の悪魔なのだろうか、でも簡単に死ぬ人間に悪魔の強靭さはなく、そしてそうなると地上が残酷に溢れる悲劇になるのだ。なんて嫌な世界だろうか。こんな美しいのに。

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