ウンベルト・エーコといったらショーン・コネリー主演で映画化もされた「薔薇の名前」なのだろうが、手が出ずにいるうちにこの「ヌメロ・ゼロ」が出版されたので手っ取り早くこちらを読むことにした。これがウンベルト・エーコ最後の長編小説になったそうだ。
「薔薇の名前」は確か中世の修道院で起こる殺人事件に関する小説ではと思うが、こちらは現代の小さい、一時的な出版チームに起こる出来事を描いている。
割と短い本で本編は250ページくらい。話の動き自体はさほどないが興味深く読ませる。ずばりメディアの欺瞞に満ちた仕組みを描いた本で、普段彼らがどうやって紙面を埋めているか、ニュースを作り出しているかというところが物語仕立てで説明されている、と言っても良いくらいの作りだと思う。それなのに読ませる物語に仕立て上げるのはすごい。
さて出来事が起こってそれをなるべく客観的に報告するのが、私の考えるニュースというか報道であって、どうしても人が記事を書く以上は主観が入るのは仕方がないにしても、なるべく簡潔なのがその本文なのだろうなと思う。
ところが実際はかなり違うというところをエーコが描いていく。主人公たちは特殊な目的で集められ、あるスポンサーの役に立つように出版されなかったという体で過去の新聞を作る。ちょっとわかりにくいのだが、すでに起こった事件について書く、という形。
まず新聞会社も公的な会社である以上確かにスポンサーがいる。つまり彼らの顔色をうかがいつつ紙面を作っていくことになる。この時点で公平ではないし、彼らはどのニュースをどういう書き方で紙面に乗せるのか、というのを当然の顔してこなしていく。つまり読者に届けられるのは意図的、恣意的にひどく歪められたニュースであり、多分に書き手の印象操作がその中には含まれている。彼らはその雑味をなるべくさとられないように描くので、つまり新聞(ひいては他のメディア)というのは特定の誰かの思想を、それとわからないように一般人に浸透させるという、報道とはかけ離れたものにすでに成り下がっているよ、というわけだ。誤謬があっても問題ない。読者はもうすでにそのニュースのことなんて忘れているよ、だって新聞は毎日刷られているからね、とこういうわけだ。
これはひどい!ということになるのだが、物語には一つの筋があってそちらでは主人公は同僚の妄想じみた陰謀論に少しづつ絡め取られていく。同僚はとりつかれたような周年で持ってイタリアのかつての独裁者ムッソリーニが生きていたという陰謀を追っているのだ。最終的には紙面に乗せることを企んで入るものの、彼はライフワークとしてほぼ病的に真実を追っている。ところが同僚は明らかに行き過ぎているし、主人公にはやはりどこかしらありふれた陰謀論の持つ危うさを感じてしまう。
新聞が嘘しかかかない、少なくとも本当のことをありのままに書かないとして、しかし真実とは?という問いかけがもう一つこの物語には埋め込まれている。
真実は隠されている、しかし真実なんてありましたっけ?処刑されたムッソリーニは本当に本人だったのか?たしかに明確に答えがあるだろう。それは事象だからだ。しかし事象を観察するのは人間なのだ。伝聞の度に人間の観察がはいる。
交通事故というのは大抵揉めるそうだ。お互いに向こうが悪いというから。同じように人の観測というのは概ね適当なのだ。私は真実は人の数だけあるとかテキトー言いたいわけではない。そもそも事象をありのままに観測すること自体がほぼ不可能なのだ。たしかに事象があったとしても人間にはまともにそれを観測することができない。概ね真実とは人間から絶対的に離れているようだ。
2019年1月6日日曜日
2018年9月2日日曜日
アントニオ・タブッキ/レクイエム
イタリアのサッカアントニオ・タブッキの長編小説。
タブッキはポルトガル(イタリアとは結構距離があるね)に魅せられた人らしい。特にポルトガルの詩人・作家であるフェルナンド・ペソアという人に。この人はどうも3つのオルターエゴを自ら作り出し、それらの変名で作風を使い分けていたとか。面白そうな人である。そんなポルトガル愛もあってこの本はなんともともとポルトガル語で書かれている。なかなかの愛情である。普通ではない。途端にいい感じがしてくるよね。
話の筋としてはこうだ。ある一人の男が待ち合わせまでの時間を潰すためにポルトガルの首都であるリスボンをうろつく。と、いろんな人が彼の前に現れて出会いや会話や出来事が生じたりする。これだけだ。もちろん変わったところもあって、それは彼が出会うのが使者だったりしてちょこちょこ非現実が紛れ込んでくる。とはいえお化けが殺しに来るわけでもない。主人公である「私」も全く動じず、まあ死人くらいでてくるだろ、くらいのテンションで全く生者と変わらないように彼らと付き合っていく。使者にしたって何か示唆するような、一見わからないようなしかし何かしらの象徴を含んでいるような偉そうなことを言うでもない。彼らも自分が死んでいることは納得した上でほとんど生前と同じように行動するのだ。会話もどこかのんびりしていて全体的にゆっくりしている。ただしあとがきでも指摘されているように「私」の運動量はかなりのもので、どう考えても時間の進み方がおかしい。また人とも出会いすぎである。普通そんなに見知らぬ人と会話するところまで進まない。とするとこの小説はより長いものを意図的に縮めて表現しているように思えて来る。その何かより長いものというのは私たちの毎日の延長線上、つまり人生だと捉えるのが通常だと思う。そうするとしかし、こんないい人生はない。自分の育った家を回ったり、今はもう離れ離れになった父親に会ったりする。何かしらの悶着があったらしい恋人にあったりする。彼らは自分をなじるわけでもなく、とにかく落ち着いており、会話は楽しく弾み、酒も料理も美味しい。「私」が話すのは知らない人か死んだ人である。いわば過ぎ去った過去と話しているわけで(崩壊しかけたかつて住んだ家を訪れるシーンは象徴的である)、過去は概ね全ての人に優しい。このリスボンには彼に危害を加える人は出てこない。死んだ恋人と何を話したのか?それは気になるが、別に将来生まれて来るはずの子供が出て来るわけでもない。責任から解放されて主人公は自由に動き回っている。これはおかしい。少し前まで郊外のアゼイタン(調べてみると確かにリスボンの近くであるが、湾を挟んでそれなりに距離がありそうだ。)にある友人の農場の庭にある木の下で本を読んでいたはずなのに。これは夢というのは簡単だが、要するにここリスボンはどこにも存在しないリスボンであって、異界である。何かの運命で主人公はこの異世界に迷い込むことが許された。そして過去の思い残りと対面するのである。日本なら死者の国に行ってその食べ物を食べたりしたら帰れなくなってしまうわけだけど、主人公はそんなのお構いなしに美味しそうな料理をばくばく食べる。空も曇るわけでもなく、7月末のリスボンは暑い。「私」は汗だくになってリスボンの街を行ったり来たり。なんだかおかしい世界である。こうなったらいいな、という世界でもある。夢でもある。
タブッキはポルトガル(イタリアとは結構距離があるね)に魅せられた人らしい。特にポルトガルの詩人・作家であるフェルナンド・ペソアという人に。この人はどうも3つのオルターエゴを自ら作り出し、それらの変名で作風を使い分けていたとか。面白そうな人である。そんなポルトガル愛もあってこの本はなんともともとポルトガル語で書かれている。なかなかの愛情である。普通ではない。途端にいい感じがしてくるよね。
話の筋としてはこうだ。ある一人の男が待ち合わせまでの時間を潰すためにポルトガルの首都であるリスボンをうろつく。と、いろんな人が彼の前に現れて出会いや会話や出来事が生じたりする。これだけだ。もちろん変わったところもあって、それは彼が出会うのが使者だったりしてちょこちょこ非現実が紛れ込んでくる。とはいえお化けが殺しに来るわけでもない。主人公である「私」も全く動じず、まあ死人くらいでてくるだろ、くらいのテンションで全く生者と変わらないように彼らと付き合っていく。使者にしたって何か示唆するような、一見わからないようなしかし何かしらの象徴を含んでいるような偉そうなことを言うでもない。彼らも自分が死んでいることは納得した上でほとんど生前と同じように行動するのだ。会話もどこかのんびりしていて全体的にゆっくりしている。ただしあとがきでも指摘されているように「私」の運動量はかなりのもので、どう考えても時間の進み方がおかしい。また人とも出会いすぎである。普通そんなに見知らぬ人と会話するところまで進まない。とするとこの小説はより長いものを意図的に縮めて表現しているように思えて来る。その何かより長いものというのは私たちの毎日の延長線上、つまり人生だと捉えるのが通常だと思う。そうするとしかし、こんないい人生はない。自分の育った家を回ったり、今はもう離れ離れになった父親に会ったりする。何かしらの悶着があったらしい恋人にあったりする。彼らは自分をなじるわけでもなく、とにかく落ち着いており、会話は楽しく弾み、酒も料理も美味しい。「私」が話すのは知らない人か死んだ人である。いわば過ぎ去った過去と話しているわけで(崩壊しかけたかつて住んだ家を訪れるシーンは象徴的である)、過去は概ね全ての人に優しい。このリスボンには彼に危害を加える人は出てこない。死んだ恋人と何を話したのか?それは気になるが、別に将来生まれて来るはずの子供が出て来るわけでもない。責任から解放されて主人公は自由に動き回っている。これはおかしい。少し前まで郊外のアゼイタン(調べてみると確かにリスボンの近くであるが、湾を挟んでそれなりに距離がありそうだ。)にある友人の農場の庭にある木の下で本を読んでいたはずなのに。これは夢というのは簡単だが、要するにここリスボンはどこにも存在しないリスボンであって、異界である。何かの運命で主人公はこの異世界に迷い込むことが許された。そして過去の思い残りと対面するのである。日本なら死者の国に行ってその食べ物を食べたりしたら帰れなくなってしまうわけだけど、主人公はそんなのお構いなしに美味しそうな料理をばくばく食べる。空も曇るわけでもなく、7月末のリスボンは暑い。「私」は汗だくになってリスボンの街を行ったり来たり。なんだかおかしい世界である。こうなったらいいな、という世界でもある。夢でもある。
ラベル:
アントニオ・タブッキ,
イタリア,
幻想文学,
本
2018年7月8日日曜日
From the Dying Sky/Towards Last Horizon
イタリアはフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州トリエステのハードコアバンドの1stアルバム(MCD)。元々2000年にDark Sun Recordsから「Truth's Last Horizon」と言う名前でリリースされた。その後2002年に名前を変えてBurning Season Recordsから再発。私が買ったのはその後のさらにの再発盤でオフィシャル盤ながらも盤そのもはCD-Rと言う男らしい仕様。ボーナストラックが1曲追加され、さらにリマスターが施されているようだ。
From the Dying Skyはイタリアのヴィーガン・ストレートエッジ・ハードコアバンド。1999年に結成されこの音源だけを発表し、2003年には解散。メンバーはその後The Secretを結成。音楽的にはArkangelのようなフューリー・エッジに属するバンドでこのジャンルを調べると必ずと行っていいほど目にするバンドだったので、再発と言うことですぐさま購入した次第。(私が買ったところではもう売り切れているので結構な人気が伺える。)
人間の愚かさを揶揄するような独白調のSEがもはや完全に様式美という感じで1曲めからテンション上がる。よく言われるように「Slayer直系」の単音リフを効果的にリフの中に組み込んだ完全にフューリーな音楽だ。激しい音楽といえば低音に慣れた耳に高い音で鳴らされる単音リフが気持ち良い。ハードコアを感じさせるのは単音だろうが高音だろうが、やはりミュートで歯切れよく区切っていくところ。音の鳴らし方はあれど愚直なまでも刻んで行くその先に意識されるのはあくまでも肉感的なリズム感だ。どうしても類型的になりがちなこの手の音楽で個性を出してきている。一つは徹底的に単音リフにこだわっている訳ではないところ。ここら辺は最近やはり聞いたReprisalを思わせる。きっちり低音パートも使ってくる。いわゆる”落とし”、つまり曲中で速度を落とすブレイクダウン・パートでの低音リフは非常に効果的だ。このバンドは展開がかなり複雑でリフも多彩だ。単に単音リフが特徴的という言葉では勿体無いくらいの引き出しがある。単音リフにしてもフレーズといよりはその一歩先メロディを獲得するくらいのキャッチーさがあるし、流石にブラックメタルとまでは言わないが、トレモロを披露したりしている。私が購入したお店では「メロデスニュースクール」という言葉で説明されていた。なるほど、確かにタフでいながら同時にメロディアスさをボーカル以外の演奏陣で表現している。そういった意味では叙情派ニュースクールに通じるところにあるよ、という一文もしっくりくる。
もはやイーヴィルといっていいくらいしゃがれたボーカルも良い。ニュースクール・ハードコア/メタルコアの中でも異端と言えるような行き過ぎた攻撃性というものが良くよく表現されていると思う。並みの考えで肉食をたち、社会的な快楽をあえて避けている訳ではなく、人間の社会に対する強い批判の精神が見て取れる。ブックレットには「メッセージがないと私たちの音楽は空っぽになってしまう」とはっきり書かれている。動物を食料として消費することに対して強い嫌悪感を持っているようだ。肉食で歌詞も理解できない私が偉そうにいうの甚だ恥ずかしところだが、人間を主体的に考えた時の強烈な自己批判的な攻撃性(自傷性)が彼らの音楽をハードコアの中でも特別攻撃的なものにしているのかもしれない。個人的には最後のボーナストラックはキャッチーさが尋常ではなく、間違いなく次のステージを予見させるものだっただけに、その後音源の発表がなく解散してしまったのは非常に残念。
このジャンルを語る時に必ず名前が上がるのも納得の出来だ。強烈なメッセージに単に音楽として消費してしまう自分が情けなくなってしまう。今回のリリースも数量限定のようなので、もしきになる人は早めにどうぞ。非常に格好いいです。
ラベル:
From the Dying Sky,
イタリア,
ハードコ,
メタルコア,
音楽
2018年4月23日月曜日
Sentence/domination on evil
イタリアのハードコア/メタルコアバンドの1stアルバム。
2000年にDark Sun Recordsからリリースされた。私が買ったのはその後2003年に日本のAlliance Traxから再発されたもので、ジャケットが一新されてボーナストラックが2曲追加されている。5人組のバンドで1997年に結成、2007年には解散している。
Arkangelに触発されて前回紹介したReprisalと一緒に買ったもの。いわゆるフュリー・エッジというジャンルでは有名なバンドのようだ。ReprisalもこのSentenceもイタリアのバンド。あとFrom the Dying Skyというバンドがいて、こちらの音源を手に入れるのはちょっとむずかしいかもしれない。(ReprisalとSentenceはまだ新品で買える。)
ミリタントといわれるハードコアのくくり(フュリー・エッジは音を指す、音のカテゴリと言えるがミリタントはもう少し大きいカテゴリのようだ。)に入れられる。Millitantというくらいだから音は攻撃的で、とくにSlayer直系といわれるくらいにリフを単音で組み立てるのがフューリー・エッジ。同郷ということでReprisalに似ているが、こちらのほうが体感速度は速めに感じられる。こちらはボーカルは1人でかすれた声のボーカルは声は高めだが中音も抑えていてかなりドスが効いている。
やはりアコギをフィーチャーした楽曲を混ぜてきたりで単にブルータリティを追求しているバンドではない。というか叙情派ニュースクールを筆頭に引き合いに出すまでもなく、メタルなどの他ジャンルから要素を引っ張ってきて何かしらの”追加の表現”を試みるのが、ニュースクールなのかもしれない。頻度は多くないがつぶやくようなクリーンボーカルも導入し、そしてなにより単音リフのストレートというよりはフックのような速度を落とした豊かな表現力が、速度を至上とした初期のハードコアにはない魅力を生み出している。いわゆるイカツさだったりするのだが、単に「ゴリゴリ」のような単純な説明では圧倒的に不十分だ。そんな単純なものではない。このジャンルの中にはたとえ最終的に追求しているのがイカツさだっととしてもそれをなんとか音で表現しようとする切磋琢磨が垣間見える。フューリー・エッジの場合は低音に頓着しない単音リフがある意味では耳で判別しやすいので、実は結構前述の表現力が判断しやすいのでは…と思った。
速度を落とした低音でミュートを使ってすりつぶすように演奏する、いわゆるビートダウンのパートも、高音の単音リフからよどみなくつなげるのでそういった意味でも節ごとにメリハリがある。とにかくきっちりとしていたReprisalより、(もちろん演奏がラフ、というのではなく)もっと自由にやっているのがこちらのSentence、という感じ。
筋肉は鍛錬によってのみ発達するのであって見た目がゴリラのごときでも脳まで筋肉ということはない。このメタルコアのジャンルでもイカツさを表現するために表現力を研ぎ澄ましていてそこがやはり面白く、そして格好いいなと思う次第。ReprisalとSentenceは音源をもう一枚ずつ買っているのでそちらも楽しみ。
2000年にDark Sun Recordsからリリースされた。私が買ったのはその後2003年に日本のAlliance Traxから再発されたもので、ジャケットが一新されてボーナストラックが2曲追加されている。5人組のバンドで1997年に結成、2007年には解散している。
Arkangelに触発されて前回紹介したReprisalと一緒に買ったもの。いわゆるフュリー・エッジというジャンルでは有名なバンドのようだ。ReprisalもこのSentenceもイタリアのバンド。あとFrom the Dying Skyというバンドがいて、こちらの音源を手に入れるのはちょっとむずかしいかもしれない。(ReprisalとSentenceはまだ新品で買える。)
ミリタントといわれるハードコアのくくり(フュリー・エッジは音を指す、音のカテゴリと言えるがミリタントはもう少し大きいカテゴリのようだ。)に入れられる。Millitantというくらいだから音は攻撃的で、とくにSlayer直系といわれるくらいにリフを単音で組み立てるのがフューリー・エッジ。同郷ということでReprisalに似ているが、こちらのほうが体感速度は速めに感じられる。こちらはボーカルは1人でかすれた声のボーカルは声は高めだが中音も抑えていてかなりドスが効いている。
やはりアコギをフィーチャーした楽曲を混ぜてきたりで単にブルータリティを追求しているバンドではない。というか叙情派ニュースクールを筆頭に引き合いに出すまでもなく、メタルなどの他ジャンルから要素を引っ張ってきて何かしらの”追加の表現”を試みるのが、ニュースクールなのかもしれない。頻度は多くないがつぶやくようなクリーンボーカルも導入し、そしてなにより単音リフのストレートというよりはフックのような速度を落とした豊かな表現力が、速度を至上とした初期のハードコアにはない魅力を生み出している。いわゆるイカツさだったりするのだが、単に「ゴリゴリ」のような単純な説明では圧倒的に不十分だ。そんな単純なものではない。このジャンルの中にはたとえ最終的に追求しているのがイカツさだっととしてもそれをなんとか音で表現しようとする切磋琢磨が垣間見える。フューリー・エッジの場合は低音に頓着しない単音リフがある意味では耳で判別しやすいので、実は結構前述の表現力が判断しやすいのでは…と思った。
速度を落とした低音でミュートを使ってすりつぶすように演奏する、いわゆるビートダウンのパートも、高音の単音リフからよどみなくつなげるのでそういった意味でも節ごとにメリハリがある。とにかくきっちりとしていたReprisalより、(もちろん演奏がラフ、というのではなく)もっと自由にやっているのがこちらのSentence、という感じ。
筋肉は鍛錬によってのみ発達するのであって見た目がゴリラのごときでも脳まで筋肉ということはない。このメタルコアのジャンルでもイカツさを表現するために表現力を研ぎ澄ましていてそこがやはり面白く、そして格好いいなと思う次第。ReprisalとSentenceは音源をもう一枚ずつ買っているのでそちらも楽しみ。
2018年4月15日日曜日
Reprisal/Boundless Human Stupidity
イタリアのメタルコアバンドの2ndアルバム。
2000年にGood Life Recordingsからリリースされた。
同名のイギリスのメタルバンドとは違ってイタリアのヴィーガン・ストレートエッジ・ハードコアバンド。1996年に結成し、2003年に解散済み。サブジャンルで言うところのフュリー・エッジに属するバンドで、先日感想を書いたベルギーのArkangelがかっこよかったので同じジャンルに属するバンド、ということでReprisalにたどり着いた。
余談なのだが、ここらへんのバンドの多くが音源をデジタルで販売していないような気がする。これは新品CDで購入できた。私が持っているのはボーナストラックが2曲入っている特殊ジャケットのもの。
スラッシュ・メタルバンドSlayerに影響された単音リフに、やはりメタルの影響色濃いイーヴィルなボーカルを載せた攻撃的なハードコア、言うまでもなくメタルとハードコアの融合という意味でメタルコアのことをフューリー・エッジ、エッジ・メタルというらしい。アルバムのタイトルは「果てしない人間の愚かさ」であるからやはり自己反省的で厳格なミリタントなバンドなのだろう。菜食主義で酒もタバコもドラッグも快楽目的のセックスもなし。現代社会の良さと言われるすべてに中指を立てるスタイル。
経験がある人ならわかってもらえるだろうが普通の人はあまり激しい音楽を聞かない。だから私も会社の人とかには面倒くさいので「デスメタル好き」とか言われてそれを甘んじて受けている。普通の人からすると激しい音楽というととりあえずデスメタルで、別にそれ以上の興味は持っていないから仕方がない。私も今はフュリー・エッジにハマっているんです、なんていわないし。なんでこんなことを書くのかというと、この手のジャンルを聞くとハードコアをハードコアたらしめるのは何なのか?と思うからだ。前述の通りリフもボーカルもメタルからの影響がでかいとしたらそれはメタルではないの?となる。前情報でメタルコアだと知っているからということもあるだろうが、ArkangelもReprisalもメタルっぽくはあれどやはりハードコアに聞こえる。
ドラムはよく叩くが曲の速度は中速くらい。それから単音リフも間にブリッヂミュートを挟んでいる。速さを追求してよどみなく突っ走る、もしくはザクザク刻んでいくというメタルの王道からは逸脱している。タイムラインにリフをわかりやすく分解したような変則的なメタルノームを聴いているような感覚で、やはり強烈にビート感(モッシュ感)を意識している。つまりあえて遅くしている。高速をスローモーションのように引き伸ばしていくドゥーミィなそれとは明らかに異なる。首を振る縦の動きではなく、合わせて体が揺れる横の動きだ。
Arkangelと比べると単音リフ意外の低音リフの頻度がかなり高く、鎧を着ているように堅固。吐き捨てるイーヴィルボーカルに低音咆哮も乗るので、より遅くより暴力的になっている。演奏はかっちりしていて、ミニマルなリフを振り回し一転してやや速度の乗る単音トレモロリフに突入、溜めのあるミュートを挟んだ単音リフに回帰、という流れ。
7曲目はツーバスにストレートなミュートリフを主体としたほぼメタルな曲なのでこの曲を聞くとフュリー・エッジらしさが明確に浮き彫りにされていて面白い。
ニュースクール・ハードコアというとなんとなく叙情派のイメージがあったけど、こういうクリーンボーカルやメロディを一切顧みない激しい音楽があるのかと思うと面白い。
2000年にGood Life Recordingsからリリースされた。
同名のイギリスのメタルバンドとは違ってイタリアのヴィーガン・ストレートエッジ・ハードコアバンド。1996年に結成し、2003年に解散済み。サブジャンルで言うところのフュリー・エッジに属するバンドで、先日感想を書いたベルギーのArkangelがかっこよかったので同じジャンルに属するバンド、ということでReprisalにたどり着いた。
余談なのだが、ここらへんのバンドの多くが音源をデジタルで販売していないような気がする。これは新品CDで購入できた。私が持っているのはボーナストラックが2曲入っている特殊ジャケットのもの。
スラッシュ・メタルバンドSlayerに影響された単音リフに、やはりメタルの影響色濃いイーヴィルなボーカルを載せた攻撃的なハードコア、言うまでもなくメタルとハードコアの融合という意味でメタルコアのことをフューリー・エッジ、エッジ・メタルというらしい。アルバムのタイトルは「果てしない人間の愚かさ」であるからやはり自己反省的で厳格なミリタントなバンドなのだろう。菜食主義で酒もタバコもドラッグも快楽目的のセックスもなし。現代社会の良さと言われるすべてに中指を立てるスタイル。
経験がある人ならわかってもらえるだろうが普通の人はあまり激しい音楽を聞かない。だから私も会社の人とかには面倒くさいので「デスメタル好き」とか言われてそれを甘んじて受けている。普通の人からすると激しい音楽というととりあえずデスメタルで、別にそれ以上の興味は持っていないから仕方がない。私も今はフュリー・エッジにハマっているんです、なんていわないし。なんでこんなことを書くのかというと、この手のジャンルを聞くとハードコアをハードコアたらしめるのは何なのか?と思うからだ。前述の通りリフもボーカルもメタルからの影響がでかいとしたらそれはメタルではないの?となる。前情報でメタルコアだと知っているからということもあるだろうが、ArkangelもReprisalもメタルっぽくはあれどやはりハードコアに聞こえる。
ドラムはよく叩くが曲の速度は中速くらい。それから単音リフも間にブリッヂミュートを挟んでいる。速さを追求してよどみなく突っ走る、もしくはザクザク刻んでいくというメタルの王道からは逸脱している。タイムラインにリフをわかりやすく分解したような変則的なメタルノームを聴いているような感覚で、やはり強烈にビート感(モッシュ感)を意識している。つまりあえて遅くしている。高速をスローモーションのように引き伸ばしていくドゥーミィなそれとは明らかに異なる。首を振る縦の動きではなく、合わせて体が揺れる横の動きだ。
Arkangelと比べると単音リフ意外の低音リフの頻度がかなり高く、鎧を着ているように堅固。吐き捨てるイーヴィルボーカルに低音咆哮も乗るので、より遅くより暴力的になっている。演奏はかっちりしていて、ミニマルなリフを振り回し一転してやや速度の乗る単音トレモロリフに突入、溜めのあるミュートを挟んだ単音リフに回帰、という流れ。
7曲目はツーバスにストレートなミュートリフを主体としたほぼメタルな曲なのでこの曲を聞くとフュリー・エッジらしさが明確に浮き彫りにされていて面白い。
ニュースクール・ハードコアというとなんとなく叙情派のイメージがあったけど、こういうクリーンボーカルやメロディを一切顧みない激しい音楽があるのかと思うと面白い。
2017年7月2日日曜日
イタロ・カルヴィーノ/見えない都市
イタリアの作家の長編小説。
あらすじに惹かれて購入。
1271年から1275年の間(作中では明示されていないので間違っているかもです。)、モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・汗(カン、あるいはハン)の権威はあまねく大陸に広がり、その尖兵たちは周囲の国々を次々に併呑して行った。偉大な汗はヴェネツィア共和国からやってきた冒険者マルコ・ポーロを寵愛し、その口から語られるまだ汗の見ぬ都市のことを語らせるのであった。
さて、物語というのは要するに虚構である。冒険家マルコ・ポーロといえば彼の「東方見聞録」が有名だろうが、その中で日本は黄金の国となっている。おそらく過去の日本ではそんなことはなかったろうから、やはりこれも虚構ということになる。この「見えない都市」ではそんなマルコ・ポーロが時の権力者に真っ赤な嘘をつくわけである。彼の語る奇妙な都市はおそらく地球のどこを探しても見つけられないだろう。(逆に各都市にその架空の都市の片鱗を見つけることができるのだが、つまりマルコの語る都市はどこにでも存在する。)王の中の王に嘘を平然とついたら、それはもう死罪ということになるだろうが、マルコは涼しい顔で嘘をつくし、フビライの方も「そんな都市はねえだろ〜、怪しいな〜」と嘘であることを承知でどんどん都市の話をせがんで行く。「こんな都市はないだろな?」というフビライに「いや〜それがあるんすよね〜」と適当をいうマルコ(実際にはこんな気が抜けた会話ではないのですが)。自分が語る都市ってのはどこにでもあって、どこにでもないんす。こういう風に語っても、全く別の一面があるんです。語る人によって都市はその姿を変えるんです。つまりある都市(the city)はどこにでもあるし、同時にどこにもないんです。という。どうも哲学的な話になってくる。よくよく読むとマルコの語る都市はおかしいのだ。オートバイやバス、空港や上下水道を活かした現代風のシャワー(水道管で構成された都市の無機質な美しさよ!)なんかが出てくる。幾ら何でも1200年代にそんな技術はなかろう。え〜と思っていると、フビライは「俺はフビライじゃないかもだし、お前もマルコじゃないかもだし、俺らただの酔っ払ったコジキでたわごと言っているのかもよ」などとのたまい出す始末。つまりこの「見えない都市」という本には真実らしい真実が全然ない、全体が蜃気楼のような嘘八百なのである。繰り返すが小説、物語というのは虚構だが、それは(虚構ゆえに)楽しい。この舌先3寸に乗らない手はなかろう。
どこまでも同じ都市が延々と続いて行く都市。ずっと同じ女の幻を見続けて、そして彼女にはずっと会うことのできないままでいる都市。美しい青い入り江に身投げをした女の死骸が沈む都市。谷に張り渡された綱で作られた都市。様々な奇抜で、美しい都市が登場する。この本の魅力の一つにそんなありえない都市の例えようもない美しさがあるだろう。奇抜な設定だがSFではないのは、今ある技術で作られているからだ。つまり私たちの想像力を使えばおぼろげながらその都市の情景を思い描くことができる。その色鮮やかさは私たちの脳(あるいはハート)から出てきたもの。それゆえに見知った都市であるそれらの見知らぬ都市は読み手のノスタルジーを刺激するだろう。鏡のような構造になっている、非常に巧みな小説であると思う。
俺にいる場所はここではないんだ、という夢見がちな諸兄は是非どうぞ。
あらすじに惹かれて購入。
1271年から1275年の間(作中では明示されていないので間違っているかもです。)、モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・汗(カン、あるいはハン)の権威はあまねく大陸に広がり、その尖兵たちは周囲の国々を次々に併呑して行った。偉大な汗はヴェネツィア共和国からやってきた冒険者マルコ・ポーロを寵愛し、その口から語られるまだ汗の見ぬ都市のことを語らせるのであった。
さて、物語というのは要するに虚構である。冒険家マルコ・ポーロといえば彼の「東方見聞録」が有名だろうが、その中で日本は黄金の国となっている。おそらく過去の日本ではそんなことはなかったろうから、やはりこれも虚構ということになる。この「見えない都市」ではそんなマルコ・ポーロが時の権力者に真っ赤な嘘をつくわけである。彼の語る奇妙な都市はおそらく地球のどこを探しても見つけられないだろう。(逆に各都市にその架空の都市の片鱗を見つけることができるのだが、つまりマルコの語る都市はどこにでも存在する。)王の中の王に嘘を平然とついたら、それはもう死罪ということになるだろうが、マルコは涼しい顔で嘘をつくし、フビライの方も「そんな都市はねえだろ〜、怪しいな〜」と嘘であることを承知でどんどん都市の話をせがんで行く。「こんな都市はないだろな?」というフビライに「いや〜それがあるんすよね〜」と適当をいうマルコ(実際にはこんな気が抜けた会話ではないのですが)。自分が語る都市ってのはどこにでもあって、どこにでもないんす。こういう風に語っても、全く別の一面があるんです。語る人によって都市はその姿を変えるんです。つまりある都市(the city)はどこにでもあるし、同時にどこにもないんです。という。どうも哲学的な話になってくる。よくよく読むとマルコの語る都市はおかしいのだ。オートバイやバス、空港や上下水道を活かした現代風のシャワー(水道管で構成された都市の無機質な美しさよ!)なんかが出てくる。幾ら何でも1200年代にそんな技術はなかろう。え〜と思っていると、フビライは「俺はフビライじゃないかもだし、お前もマルコじゃないかもだし、俺らただの酔っ払ったコジキでたわごと言っているのかもよ」などとのたまい出す始末。つまりこの「見えない都市」という本には真実らしい真実が全然ない、全体が蜃気楼のような嘘八百なのである。繰り返すが小説、物語というのは虚構だが、それは(虚構ゆえに)楽しい。この舌先3寸に乗らない手はなかろう。
どこまでも同じ都市が延々と続いて行く都市。ずっと同じ女の幻を見続けて、そして彼女にはずっと会うことのできないままでいる都市。美しい青い入り江に身投げをした女の死骸が沈む都市。谷に張り渡された綱で作られた都市。様々な奇抜で、美しい都市が登場する。この本の魅力の一つにそんなありえない都市の例えようもない美しさがあるだろう。奇抜な設定だがSFではないのは、今ある技術で作られているからだ。つまり私たちの想像力を使えばおぼろげながらその都市の情景を思い描くことができる。その色鮮やかさは私たちの脳(あるいはハート)から出てきたもの。それゆえに見知った都市であるそれらの見知らぬ都市は読み手のノスタルジーを刺激するだろう。鏡のような構造になっている、非常に巧みな小説であると思う。
俺にいる場所はここではないんだ、という夢見がちな諸兄は是非どうぞ。
ラベル:
イタリア,
イタロ・カルヴィーノ,
幻想文学,
本
2017年2月25日土曜日
Berlin Atonal presents New Assembly Tokyo@渋谷Contact
Berlin Atonalはその名の通りドイツ、ベルリンで行われる実験的な電子音楽のイベントのことらしい。それが日本でもやりますよ、というのがこのイベント。これには元Nine Inch Nais(2004-2008,2013)のキーボディストAlessandro Cortiniが出演するとのこと。私はなんだかんだ言って一番好きなのは中学生の時に出会ったninなのだが、熱心なファンというわけではなく、現にTrent以外のメンバーときたらDanny Lohnerくらいしか思い浮かばない(Lohnerはとっくに辞めてる)。これはきっかけみたいなもので実は(単独)音源も持っていないMerzbowと共演するということもあって、なんとなく渋谷Contactに行って見た。
Contactは入場する際に会員登録しないといけないのでちょっとめんどい。駐車場の地下にあるので秘密基地感があるのは良いけど。中に入るとバカみたいに広いわけではないけどいくつかのフロアに分かれている。
19時過ぎに着くとメインフロアではRyo Murakamiがプレイしている。ドローンとしたノイズをプレイしているのだが、弦楽器のアンサンブルをサンプリングしていたりと結構お面白そうだった。しかし私は同時にやっているKiller-Bongが気になったのでそこを離れた。
Killer-OMA
いわゆるダブってことになるのだと思う。おそらく即興性の高いもので日本で一番黒い(あるいは煙たい)レーベルBlack Smokerの首魁Killer-Bongがビートを作ってラップを乗せていく。ラップには音響処理がその場で書かれており、ぼわんぼわんしている。独特の声をしている人だが、実際生で聴くとその変態性は頭抜けており、台本があるとは思えないのだが、流れるように言葉を吐き出していく。声質と音質で歌詞の内容は聞き取れない。まるで酔っ払った男の日記めいた独白を聞いているようだ。五月蠅くないトラックとあってこれがかっこいい。どうでも良いがベースラインが凄すぎないか?と思ったらなんとこの日は鈴木勲さんというベースプレイヤーとのコラボ。鈴木さんは真っ白な髪の毛が印象的などう見てもたたき上げのジャズプレイヤー。ウッドベースをバッキバッキスラップ奏法で聞いていく。研ぎ澄まされた短いリフが途切れることなくフロアにこだまする。眩惑的なダブだが、ベースの音に限って言えばこの上なくソリッドでリアルだ。時にビートになって曲を作っていく。体を揺らせていたらあっという間に終わってしまった。
伊東篤宏+カイライバンチ
先ほどとは違うフロア。この時は既に人がすごくてかなり後ろの方で見たんだけど、蛍光灯が等間隔に3つ放射状に設置されたさながら風車のような機械がぐるぐる回転をしている。何かと思われるが、他に表現のしようがない。風車はマニュピレーターになっており、蛍光灯は広がった状態から蕾のように閉じたりしながらその回転速度を変えていく。蛍光灯は明滅しており、その時に音が出るようだ。伊東さんは蛍光灯を使ったノイズユニットoptrumの人。私はこのoptrumはCDを持っている。この日は巨大なよくわからない機械を使って音楽を奏でるカイライバンチとのコラボ。蛍光灯風車の他にも、ジェットエンジンみたいなのが回転したり、アナログテレビを複数台つなげたものが明滅することで出すノイズを出したりと、音楽というよりそれを包括する前衛芸術だと思う。というのも機械の動きが音を出しているので(音と機械が連動している)、妙な機械がすなわち楽器である。出される音は全部ノイズといっても良い。人類が死に絶えた未来で壊れかけた機械が偶然出している音を聞いているみたいで面白かった。
Ena + Rashad Becker
続いてはメインのフロアでドイツ人と日本人の音楽家のコラボ。
音としては完全にノイズなのだがいわゆるハーシュノイズとは一線を画す内容。音がもっと単発で無作為である。それも引きずるような、軋むような、どこかに引っかかったような音が落ちてくる水滴のように予測不能で繰り出される。それからベースとなるような低音が出てくる(これはパイプオルガンのような音で非常に好みだった)と音の数が次第に増えていく。とは言え相変わらず音の種類は同じで連続性がない。ふと思ったのだが深宇宙からやってくる電波を受信したのをなんらかの機械を使って音響化したような響きがある。声はランダムさが最大の魅力で、連続するノイズのそれとはかなり違う。グリッチ音のみで構成されたノイズのようなイメージ。常に前に前に進んでいく直線のイメージ。渦を巻いていないからトンネルで音が通り過ぎていくみたい。とっかかりになる低音を見つけたとしても、それはいつの間にか何処かに行ってしまう。黙って宇宙からの音に耳を傾けることにした。
Alessandro Cortini + Merzbow
続いては元ninのキーボーディストと日本のノイズシーンの巨人とのコラボ。Merbowはロック、ハードコアのアーティストとも積極的にコラボしている。私は単独音源は持っていないけど、ぱっと思い浮かぶとBorisとFull of Hellのコラボ作を持っている。
Alessandroはyoutube見ていると相当の機材マニアみたいで私からするともはや楽器にすら見えない機械を使って音を出す人のようだ。
始まってみるとAlessandroがシンセサイザーを使ってループする小単位を作ってそれの形を少しずつ変えていく。一方Merzbowは連続性はあるが単位はない低音のノイズを出していく。明確にビートがあるわけではないがシンセ音は時にそれの代替物としての機能を持っており、またMerzbowの出す音も良いバランスで抑えられているので大変聴きやすい。同じノイズでもEna + Rashad Beckerとは全く違った音だ。こちらの方も次第に音の厚みが増してくる。それに浸っているとこの上なく快感だ。音がでかいが耳が痛いということはなかった。シャーとどこまでも滑らかな平面上を滑っていくかのようなノイズが例えようもなく美しい。音の洪水でそれは幻なのだ。たまに現れる高音も霧の波間に浮かぶビーコンのように幽玄としている。阿吽像のように佇む二人はさながらゲートのようだった。本当に最後合わせるところ以外、ほとんどお互いをみることもしなかった。
軽い気持ちで行って見たが楽しかった。Black Smokerはもう少しライブを見てみたい。
Contactは入場する際に会員登録しないといけないのでちょっとめんどい。駐車場の地下にあるので秘密基地感があるのは良いけど。中に入るとバカみたいに広いわけではないけどいくつかのフロアに分かれている。
19時過ぎに着くとメインフロアではRyo Murakamiがプレイしている。ドローンとしたノイズをプレイしているのだが、弦楽器のアンサンブルをサンプリングしていたりと結構お面白そうだった。しかし私は同時にやっているKiller-Bongが気になったのでそこを離れた。
Killer-OMA
いわゆるダブってことになるのだと思う。おそらく即興性の高いもので日本で一番黒い(あるいは煙たい)レーベルBlack Smokerの首魁Killer-Bongがビートを作ってラップを乗せていく。ラップには音響処理がその場で書かれており、ぼわんぼわんしている。独特の声をしている人だが、実際生で聴くとその変態性は頭抜けており、台本があるとは思えないのだが、流れるように言葉を吐き出していく。声質と音質で歌詞の内容は聞き取れない。まるで酔っ払った男の日記めいた独白を聞いているようだ。五月蠅くないトラックとあってこれがかっこいい。どうでも良いがベースラインが凄すぎないか?と思ったらなんとこの日は鈴木勲さんというベースプレイヤーとのコラボ。鈴木さんは真っ白な髪の毛が印象的などう見てもたたき上げのジャズプレイヤー。ウッドベースをバッキバッキスラップ奏法で聞いていく。研ぎ澄まされた短いリフが途切れることなくフロアにこだまする。眩惑的なダブだが、ベースの音に限って言えばこの上なくソリッドでリアルだ。時にビートになって曲を作っていく。体を揺らせていたらあっという間に終わってしまった。
伊東篤宏+カイライバンチ
先ほどとは違うフロア。この時は既に人がすごくてかなり後ろの方で見たんだけど、蛍光灯が等間隔に3つ放射状に設置されたさながら風車のような機械がぐるぐる回転をしている。何かと思われるが、他に表現のしようがない。風車はマニュピレーターになっており、蛍光灯は広がった状態から蕾のように閉じたりしながらその回転速度を変えていく。蛍光灯は明滅しており、その時に音が出るようだ。伊東さんは蛍光灯を使ったノイズユニットoptrumの人。私はこのoptrumはCDを持っている。この日は巨大なよくわからない機械を使って音楽を奏でるカイライバンチとのコラボ。蛍光灯風車の他にも、ジェットエンジンみたいなのが回転したり、アナログテレビを複数台つなげたものが明滅することで出すノイズを出したりと、音楽というよりそれを包括する前衛芸術だと思う。というのも機械の動きが音を出しているので(音と機械が連動している)、妙な機械がすなわち楽器である。出される音は全部ノイズといっても良い。人類が死に絶えた未来で壊れかけた機械が偶然出している音を聞いているみたいで面白かった。
Ena + Rashad Becker
続いてはメインのフロアでドイツ人と日本人の音楽家のコラボ。
音としては完全にノイズなのだがいわゆるハーシュノイズとは一線を画す内容。音がもっと単発で無作為である。それも引きずるような、軋むような、どこかに引っかかったような音が落ちてくる水滴のように予測不能で繰り出される。それからベースとなるような低音が出てくる(これはパイプオルガンのような音で非常に好みだった)と音の数が次第に増えていく。とは言え相変わらず音の種類は同じで連続性がない。ふと思ったのだが深宇宙からやってくる電波を受信したのをなんらかの機械を使って音響化したような響きがある。声はランダムさが最大の魅力で、連続するノイズのそれとはかなり違う。グリッチ音のみで構成されたノイズのようなイメージ。常に前に前に進んでいく直線のイメージ。渦を巻いていないからトンネルで音が通り過ぎていくみたい。とっかかりになる低音を見つけたとしても、それはいつの間にか何処かに行ってしまう。黙って宇宙からの音に耳を傾けることにした。
Alessandro Cortini + Merzbow
続いては元ninのキーボーディストと日本のノイズシーンの巨人とのコラボ。Merbowはロック、ハードコアのアーティストとも積極的にコラボしている。私は単独音源は持っていないけど、ぱっと思い浮かぶとBorisとFull of Hellのコラボ作を持っている。
Alessandroはyoutube見ていると相当の機材マニアみたいで私からするともはや楽器にすら見えない機械を使って音を出す人のようだ。
始まってみるとAlessandroがシンセサイザーを使ってループする小単位を作ってそれの形を少しずつ変えていく。一方Merzbowは連続性はあるが単位はない低音のノイズを出していく。明確にビートがあるわけではないがシンセ音は時にそれの代替物としての機能を持っており、またMerzbowの出す音も良いバランスで抑えられているので大変聴きやすい。同じノイズでもEna + Rashad Beckerとは全く違った音だ。こちらの方も次第に音の厚みが増してくる。それに浸っているとこの上なく快感だ。音がでかいが耳が痛いということはなかった。シャーとどこまでも滑らかな平面上を滑っていくかのようなノイズが例えようもなく美しい。音の洪水でそれは幻なのだ。たまに現れる高音も霧の波間に浮かぶビーコンのように幽玄としている。阿吽像のように佇む二人はさながらゲートのようだった。本当に最後合わせるところ以外、ほとんどお互いをみることもしなかった。
軽い気持ちで行って見たが楽しかった。Black Smokerはもう少しライブを見てみたい。
2016年7月31日日曜日
ブッツァーティ/タタール人の砂漠
イタリア人の作家による幻想小説。
ブッツァーティは昔光文社から出ている「神を見た犬」という短篇集を読んだ事がある。もうあんまり内容を憶えていないのだけれど。(そういった事もあってこのブログを始めた的な感じです。)
幻想文学界では結構有名な話らしくそんなら読んでみるかというくらいの気持ちで購入。
イタリア人の青年ジョヴァンニ・ドローゴは将校として辺境のバスティアーニ砦に配属される事になった。砦は人の通わない谷に位置し、戦略的な価値はほぼないという。町からも離れ、出世も見込めない。嫌気のさしたドローゴは着任早々に転任を求めるが、上官に諭された彼はすぐに離れるつもりで任務に就く。砦は広大な砂漠に面しており、その砂漠には凶暴なタタール人が住み、いつか武装して攻めて来るという。ドローゴは離れるつもりが砦の生活に沈み込んでいく。
幻想的で不条理なその作風で持ってイタリアのカフカと称される事もあるという作者であって、今作はそんな作者の代表作という事でどんな幻想的な世界が!と思って読んだのだが結構思っていたのと違ってビックリした。つまらなかったという事は全然なくてむしろ夢中によって読み進めたのだが。
要するにこの物語は、前途ある若者がつまらない仕事にとらわれて未だ和解から大丈夫だろと考えているうちに時間は矢のように過ぎて青春と人生の時間をどんどん失ってしまうという話なのだが、発表された当時は幻想性もあって評価されたのだが現代の私が読むと幻想も何もあったものじゃない、実際の自分の姿を見ているようで、たしかに妙に夢の様な陶酔感のある寓話ではあるのだが、現実的過ぎて恐ろしかった。(下手な怪談寄りよっぽど怖い。)
私もいい加減良い年なのだが、やっぱり働くのは大変。働く事はすべての人間にとって苦痛でしかないとは言わないが、なかなか満足する様な環境で働いている人は少ないのではなかろうか。いっそ罵倒される、給料払われない、殴られる、そんなブラックな環境で働いていればやめる事しかなくて良いのだが(勿論大変な事なのだが)、頑張ればまあ我慢できるかな、ちょっと働いてしばらくしたら転職するぞ!というような状況の方が結果的にはやめられなくて、いつの間にか時間が経って辛いのでは。毎日それなりに疲れてしまい、自分のための活動は先延ばしにされ続ける。なんとかやり過ごせる故感覚が麻痺してくる。ある日ふと思う「あれ?今から何かするには俺としとりすぎてねえ?」
状況が悪いのは仕方ないにしてもこの時、一番危ないのは危機感の欠如と自分には未だ時間があるという慢心である。時間は有限である。いつもでも若くはない。この純然たる事実をみんな知っているだろうが、分かっている人は敢えて言うけどほぼ皆無じゃないのか。みんなそれなりにとしくっても未だ自分には何か出来る、と心の奥底では思っているのじゃないか。そしていよいよのっぴきならない状況になると「こんなはずでは…なんであの時」と思うのである。これよっぽどの人でもなければ大半の人はこう思って死んでいったんじゃないかと思うと辛すぎる。
世界には色んな奇麗なところがあって、いつか行けるしいつか行こうと思っていると結局行かないで死ぬ。これはそんな話である様な気がする。作者もそういっている(と思うんだけど)が待っていても何も起こりませんよ、悪いけど。そりゃ運もあって待って海路の日和ありな人もいるんだろうけど、そんな確立低い事にかけて自分の限られた時間を空費するのですか?という話ですよ。
まあ人間なんてどんな環境にあっても満足する訳ではないし、実際に満足できる状況なんて希有だろうが、それでもつまらない仕事や些事に毎日の時間とらわれて公開するのは悲劇としか言いようがない。もっと自分勝手に生きようぜ、という幻想文学らしからぬ作者の激励が詰まっている様な気がして来た。なんだろう、こう感じるのは私だけなのか。
幻想という言葉つられたけど全然違うじゃねえか、こっちは現実逃避で小説読んでんだぞ!と作者に詰め寄りたくなる様な本。激怖い。若い人、毎日の仕事にイマイチ納得感のない人は是非読んだ方が良いです。
ブッツァーティは昔光文社から出ている「神を見た犬」という短篇集を読んだ事がある。もうあんまり内容を憶えていないのだけれど。(そういった事もあってこのブログを始めた的な感じです。)
幻想文学界では結構有名な話らしくそんなら読んでみるかというくらいの気持ちで購入。
イタリア人の青年ジョヴァンニ・ドローゴは将校として辺境のバスティアーニ砦に配属される事になった。砦は人の通わない谷に位置し、戦略的な価値はほぼないという。町からも離れ、出世も見込めない。嫌気のさしたドローゴは着任早々に転任を求めるが、上官に諭された彼はすぐに離れるつもりで任務に就く。砦は広大な砂漠に面しており、その砂漠には凶暴なタタール人が住み、いつか武装して攻めて来るという。ドローゴは離れるつもりが砦の生活に沈み込んでいく。
幻想的で不条理なその作風で持ってイタリアのカフカと称される事もあるという作者であって、今作はそんな作者の代表作という事でどんな幻想的な世界が!と思って読んだのだが結構思っていたのと違ってビックリした。つまらなかったという事は全然なくてむしろ夢中によって読み進めたのだが。
要するにこの物語は、前途ある若者がつまらない仕事にとらわれて未だ和解から大丈夫だろと考えているうちに時間は矢のように過ぎて青春と人生の時間をどんどん失ってしまうという話なのだが、発表された当時は幻想性もあって評価されたのだが現代の私が読むと幻想も何もあったものじゃない、実際の自分の姿を見ているようで、たしかに妙に夢の様な陶酔感のある寓話ではあるのだが、現実的過ぎて恐ろしかった。(下手な怪談寄りよっぽど怖い。)
私もいい加減良い年なのだが、やっぱり働くのは大変。働く事はすべての人間にとって苦痛でしかないとは言わないが、なかなか満足する様な環境で働いている人は少ないのではなかろうか。いっそ罵倒される、給料払われない、殴られる、そんなブラックな環境で働いていればやめる事しかなくて良いのだが(勿論大変な事なのだが)、頑張ればまあ我慢できるかな、ちょっと働いてしばらくしたら転職するぞ!というような状況の方が結果的にはやめられなくて、いつの間にか時間が経って辛いのでは。毎日それなりに疲れてしまい、自分のための活動は先延ばしにされ続ける。なんとかやり過ごせる故感覚が麻痺してくる。ある日ふと思う「あれ?今から何かするには俺としとりすぎてねえ?」
状況が悪いのは仕方ないにしてもこの時、一番危ないのは危機感の欠如と自分には未だ時間があるという慢心である。時間は有限である。いつもでも若くはない。この純然たる事実をみんな知っているだろうが、分かっている人は敢えて言うけどほぼ皆無じゃないのか。みんなそれなりにとしくっても未だ自分には何か出来る、と心の奥底では思っているのじゃないか。そしていよいよのっぴきならない状況になると「こんなはずでは…なんであの時」と思うのである。これよっぽどの人でもなければ大半の人はこう思って死んでいったんじゃないかと思うと辛すぎる。
世界には色んな奇麗なところがあって、いつか行けるしいつか行こうと思っていると結局行かないで死ぬ。これはそんな話である様な気がする。作者もそういっている(と思うんだけど)が待っていても何も起こりませんよ、悪いけど。そりゃ運もあって待って海路の日和ありな人もいるんだろうけど、そんな確立低い事にかけて自分の限られた時間を空費するのですか?という話ですよ。
まあ人間なんてどんな環境にあっても満足する訳ではないし、実際に満足できる状況なんて希有だろうが、それでもつまらない仕事や些事に毎日の時間とらわれて公開するのは悲劇としか言いようがない。もっと自分勝手に生きようぜ、という幻想文学らしからぬ作者の激励が詰まっている様な気がして来た。なんだろう、こう感じるのは私だけなのか。
幻想という言葉つられたけど全然違うじゃねえか、こっちは現実逃避で小説読んでんだぞ!と作者に詰め寄りたくなる様な本。激怖い。若い人、毎日の仕事にイマイチ納得感のない人は是非読んだ方が良いです。
2015年12月28日月曜日
Shapednoise/Different Selves
イタリアはパレルモ出身、今はドイツのベルリンを中心に活動しているアーティストNino Pedoneによるノイズユニットの恐らく2ndアルバム。
2015年にType Recordsからリリースされた。
かのJustin K Broadrickが参加しているという事で興味を持ち買ってみた。アナログもあるらしいが私はデジタル形式で購入。
Ninoさんは若干20代ながらもレーベルを2つ立ち上げたり変名でリリースしたりと精力的に活動している人のようだ。2013年には来日経験もあるという。
ハーシュノイズを使ったハードな音楽を演奏しているが、テクノ的なアプローチによって聴きやすさを獲得しているというまさに私好みのスタイル。
その手法と言えばドラムとベースのリズムパターンを組み込む事でノイズがもたらすカオスに法則性を与える試みが一つと、さらにノイズ自体を切り刻むなどの処理を加えて制御しようという試み。さらにはともすると放っておくとどこまでも五月蝿くなろうとするノイズをうまくしぼる(音の数的にも、質的にも)ことで聴きやすさと面白さを、ノイズ自体の魅力を失う事無く獲得している。
例えば2曲目は歪みまくったキックを派手に導入することでダブ感のあるトラックを作り出し、そこに飛び交う妙に浮遊感のあるノイズを貼付ける事で、荒廃しきったSF的な音風景を現出させる事に成功している。妙に退廃的でロボットが人類を抹殺しきった後のような世紀末感がたまらん。
一方8分ある8曲目や続くラストを飾る9曲目なんかはリズムトラックは一切登場しないが、強力なハーシュノイズが刻一刻とその姿を変えていく。低音、中音、グリッチな高音を混ぜる事で多彩でありつつも、それぞれが非常に上手く音数がしぼられていてドローン的な側面が強い。ノイズの魅力の一つにはミニマルさとそれに相反するように形を変えていく不定形さがあると思うけど、そんなジャンルを非常に上手く深堀していると思う。
ノイズを軸にジャケットが表現する様な灰色の世界観を構築しているのだが、曲単位で結構バリエーションがあり聴いていて飽きない。
個人的にはノイズの使い方すごく上手くてかなり好きです。
まさに「整形されたノイズ」というユニット名にぴったりの音楽。変名も含めて他の音源が気になるところです。
インダストリアルなノイズにがつんとやられたい人は是非どうぞ。
2015年にType Recordsからリリースされた。
かのJustin K Broadrickが参加しているという事で興味を持ち買ってみた。アナログもあるらしいが私はデジタル形式で購入。
Ninoさんは若干20代ながらもレーベルを2つ立ち上げたり変名でリリースしたりと精力的に活動している人のようだ。2013年には来日経験もあるという。
ハーシュノイズを使ったハードな音楽を演奏しているが、テクノ的なアプローチによって聴きやすさを獲得しているというまさに私好みのスタイル。
その手法と言えばドラムとベースのリズムパターンを組み込む事でノイズがもたらすカオスに法則性を与える試みが一つと、さらにノイズ自体を切り刻むなどの処理を加えて制御しようという試み。さらにはともすると放っておくとどこまでも五月蝿くなろうとするノイズをうまくしぼる(音の数的にも、質的にも)ことで聴きやすさと面白さを、ノイズ自体の魅力を失う事無く獲得している。
例えば2曲目は歪みまくったキックを派手に導入することでダブ感のあるトラックを作り出し、そこに飛び交う妙に浮遊感のあるノイズを貼付ける事で、荒廃しきったSF的な音風景を現出させる事に成功している。妙に退廃的でロボットが人類を抹殺しきった後のような世紀末感がたまらん。
一方8分ある8曲目や続くラストを飾る9曲目なんかはリズムトラックは一切登場しないが、強力なハーシュノイズが刻一刻とその姿を変えていく。低音、中音、グリッチな高音を混ぜる事で多彩でありつつも、それぞれが非常に上手く音数がしぼられていてドローン的な側面が強い。ノイズの魅力の一つにはミニマルさとそれに相反するように形を変えていく不定形さがあると思うけど、そんなジャンルを非常に上手く深堀していると思う。
ノイズを軸にジャケットが表現する様な灰色の世界観を構築しているのだが、曲単位で結構バリエーションがあり聴いていて飽きない。
個人的にはノイズの使い方すごく上手くてかなり好きです。
まさに「整形されたノイズ」というユニット名にぴったりの音楽。変名も含めて他の音源が気になるところです。
インダストリアルなノイズにがつんとやられたい人は是非どうぞ。
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