2018年6月24日日曜日

Struggle for Pride/WE STRUGGLE FOR ALL OUR PRIDE.

日本のハードコアバンドの2ndアルバム。
2018年にAWDR/LR2(Spaceshower TVのレーベルとのこと)、WDSoundsからリリースされた。2017年に行われたライブ音源が別ディスクでついた2枚組のアルバム。
当時高校生だったメンバーらで結成され、途中で一時期活動停止状態になり、メンバーチェンジを経て再始動。前作「You Bark,We Bite」から12年ぶりの新しいアルバムのリリースになった。

クラストコアとも一線を画す、ほぼハーシュノイズとかした弦楽隊に極端に音量を下げたボーカルを乗せるという独自のハードコアスタイルを貫くバンドで、今作もなるほどそのアプローチは変わっていないのだが、アルバムトータルで見ると音楽性はかなり拡張されている。もともと前作からゲストを招くことにためらいのないバンドだったが、今作ではコラボレーションはもちろん、ほぼ楽曲丸ごとゲストがプレイ仕切っているものも数多くある。トラックメイカーが作ったインストが4曲。他のアーティストのカバーが2曲。
自分たちの自己紹介的なアルバムではなく、自分たちの周りの世界を丸ごとパッケージしているような、そんな趣がある。そういった意味ではとても文化的だなと思う。当然ほとんどの人はあるバンドの音源を買うときは彼らの楽曲を期待するわけだからかなり思い切った手法だと思う。当初からクラブシーン、カルチャーに接近したバンドと称されていたし、なるほど前作ではカヒミカリイはじめとするクラブ、ヒップホップ界隈の方々がゲストとして多数参加していた。ただし彼らの使い方(というとちょっと失礼になるのだけど)というのは曲の頭に彼らのスタイルで参加してもらいそれが終わるとバンド側が曲を始めるという、いわばSE的な趣が強かったと思うのだけれど、今作では(そのやり方もあるけど)そうではない。むしろゲストが積極的に「WE STRUGGLE FOR ALL OUR PRIDE.」というアルバムの構成要素になっている。バンド側はもう完全に彼らに任せてしまっている(とはいえインタビューを読むと歌詞はバンド側が用意しているしかなりディレクションはしているみたい)感じすらあってその懐の広さというのはなかなかない。
Struggle for Prideというバンドの音楽は非常に肉体的だから、享楽的と言えるのかな?と思っていた部分もあって、なのでクラブカルチャーの接近に関しても、ほとんど聞き取れない歌詞というのもそういった文脈にあるのかと思ったいたのだが、今作きいてそうじゃないなと。一つはライブ音源なのだけどこの音源はボーカルが音源よりは生々しく聞こえる。(ライブ聴いて生々しいってバカみたいだけど)まさに絶叫という感じでかなり余裕がない。殺してやるぜという気迫もあるんだけど、窮鼠的な俺が死ぬみたいな逼迫した感じがあってヒリヒリしている。そういった意味では今回のアルバム名、ひいてはバンド名にしても最初から闘争のことを歌っているのであり、今まで明確なメッセージはその音以外にあまり用いてこなかったバンドだと思う。今作では例えば「SING FOR PRISONER」などは特に非常に明確にわかりやすいメッセージが込められているのが一つ。(それを穏やかなカントリー調に乗せるというのも皮肉が効いたやり方だ。)それからあえてアルバムの音楽性を拡散させることで、よりバンドの楽曲のブルータルさ、というとちょっと格好付けなのでハードコアバンドとしての本質というか出自がくっきりしてきた。新作発売に伴うインタビューの中の一つでボーカリストは明確に「パーティは終わった」といっている。これらの楽曲の全てが反抗の歌だった。曲によって程よく弛緩しているのはなるほど事実だが。そもそも私がハードコアが好きな理由は「生活感」だ。よく言われる「ストリートな」感じにちょっと通じるものがあるかもしれない。(私のいう生活感はもうちょっとこう格好悪いものだ。)楽しいことがあれば、どうしようもないくらいに腹立つこともある。それらをストレートな楽曲、それから普段から遊んでいる(つまりバンド側の毎日)友人や尊敬する人に歌ってもらった色々な相の楽曲に込めたんだろうという感じがして私はこのアルバムのわい雑さが好きである。

2018年6月23日土曜日

アントナン・アルトー/ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト

すべての道はローマに通ず。
ローマ帝国はその長い歴史(調べると紀元前から始まり500年弱存在し、東西に分裂後最終的に東ローマ帝国が滅びたのが1453年だからひどく長い。)のなかにたくさんに皇帝を配したがその中でも悪名高いのが皇帝ネロではなかろうか。キリスト教大迫害を行なったことで有名。ところがそのネロより悪いとされるのがこのヘリオガバルスらしい。反乱の末14歳の若さで前皇帝を廃し帝位に就いた。23代目のローマ皇帝の誕生である。そして18歳の時には怒り狂った市民に八つ裂きにされて殺されたそうだ。
彼は太陽神の大祭司であり、相当の浪費家だった。女装癖があり、しかし何回も結婚と離婚をくりかえした。妻の一人は純潔を守れなかった場合は生き埋めにされて殺されるべきウェスタ(竃の女神)の巫女だったが、皇帝ヘリオガバルスは彼女を強姦し無理矢理妻にした。黒い石を御神体とし太陽の神エラ・ガバルを信奉した。この神のために壮大な宮殿を作り上げ、また少年を生贄に捧げた。男色家であり、皇帝自ら金でその体を男に任せた。屈強な男の妻として振る舞い、また宮廷を買春の場にして不貞を働き、相手の男に殴られることを喜んだという。また陽物の大きさで選んだ男達を重役につけたりもした。
いわば両刀使いであり、男役も女役も務める。サディスト的な一面とマゾヒスト的な一面を併せ持つ変態性欲のオンパレードみたいなひとであり、その変態性からしておそらく
大衆の恥の一面から知名度的にはネロに及ばないのではなかろうか。なかなかどうして強烈な個性だが、この本の著者、詩人であり演劇科であり、一時はシュールリアリスト達と連帯した(その後大きな波乱があり決裂したそうだ)芸術家であるアントナン・アルトーはこのヘリオガバルスをただ帝国に混乱を呼び起こした悪人というよりは突出したアナーキストとして捉え、そして評価しているのである。
幼い皇帝の奇行はそれまで敷延していたローマの前近代的なつまらなさ、無意味さ、助長さを貶めんとする企図された象徴的な行為だったとして。彼を一つの時代に終止符を打つ、それも人を傷つけるのではなく象徴的にその名誉を毀損する優美だが、非常にわかりにくいやり方をあえてとった傑出した才能だったとアルトーは考えるのだ。結局大衆には理解されず惨殺されたその悲劇性も彼の心を打ったのかもしれない。確かに結果だけ見ればネロのような大虐殺をヘリオガバルスは行なっていないようである。(ただし反乱の際には両陣営それなりに死者も出たろうと思うが。)エロスとタナトスがセットにして語れるなら、この皇帝は確かにエロス、つまりむせ返るような生を謳歌していたように思える。(これも生贄のことがあるから一概には言えないのだけど。)一夜の夢のような人生を殺し合うのではなく、楽しもうよというメッセージを一番人に注目される皇帝自ら規範を示したということもできると思う。ただそのメッセージの映像が普通の人には強烈すぎたのだ。

この本、前半ヘリオガバルスにまつわるエピソードが横に置かれてアルトーなりの考えが披露されるのだが、これが私の教養の無さと頭の悪さゆえになかなか追いついていくのが難しく、なんども文を見返していくうちに結局何も読めていないことに気がつく、ということを繰り返していたのだけど、中盤からは実際の歴史の出来事に焦点があってきてグッと読みやすくなってくる。安心のため息をつく間も無く最後まで読めてしまった。アルトーの熱い気持ちが稀代の皇帝に注がれているのがわかる。彼にとってヘリオガバルスは老いた旧体制の破壊者であり、芸術の信奉者そしてなにより急進的実行者だったのだ。ヘリオガバルスにとっては広大なローマ帝国が彼の舞台だった。そこで意図的に悪党を演じたのが彼だった。今とは異なり血と暴力が露骨に支配し、多様な神々が闊歩する野蛮な世界でたった4年間の帝位で見るも鮮やかで残酷で妖艶な誰も見たことのない帝国を作り出しのは当時たった14歳の少年皇帝だったのだ。

万引き家族

通常の作品は世界観は一つ持っている。しかしこの作品には二つの世界観がある。
家族の世界と、その外側の世界だ。世界、世界観は何か?それは視座の違いだ。万引きは悪いことなのは百も承知だが、あなたは映画見進めていくうちにリリーフランキー演じる父親、安藤サクラ演じる母親たち偽物の家族をだんだんと好きになっていったのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。万引きが仕方がない、罪がないというわけではなくて、彼らには彼らの事情があるのだということが理解できるようになるのだ。この歪だが安定した小さな平和が後半破られることになる。そしてその奇妙さが世間に対して暴かれ始める。池脇千鶴演じる女性刑事に怒りを覚えた人もいるだろう。「何も知らないのに好き勝手言いやがって」と。訳知り顔で有る事無い事喋る冷静なリポーター達の浅はかさに悔しい思いを抱いたかもしれない。しかしもしあなたがこの映画の前半部分を見ずに、このニュースを偶然目にしたとしたらどうだろうか。容疑者達は幼い女の子を誘拐した。事実だ。老婆が不審死を遂げその年金を不正に受け取っていた。事実だ。老婆の死には他殺の可能性が認められる。自然な解釈だ。容疑者達は定職につかず万引を繰り返していた。事実だ。容疑者達は実は血縁関係はなく偽物の家族だった。事実だ。実際に事件もあったし、後ろ暗い偽家族というのはありふれた設定ではある。人を惹きつける力がある。現実にこのニュースを見たらあなたは気味が悪いと思わないだろうか?そして偽家族の構成員達は犯罪者で、ロクでもない奴らだと思わないだろうか?その時あなたは間違っているだろうか?間違ってはいない。彼らが後ろ暗い犯罪者で誘拐者であることは事実なのだ。彼らを嫌いになる理由としては十分だろう。彼らはいくら規模が小さくても平和の破壊者だからだ。劇中の家族を見て抱いた温かい気持ちが、視座が変わる後半で打ちのめされる。温かい湯に浸かっていたと思っていたのに、突然それが冷水に変わったことに気がついたようになんとも落ち着かないいや気分になる。この世界観の反転が非常に巧みで、そして残酷である。前半部で彼らに対して感じた温かい思いは、後半を経ても変わるものではない(もちろん変わる人もいるだろうし、前半から主人公達に反感を持つ人も大勢いると思います。)だろうか。いわば一人の人を違う側面から見た。または異なる距離で見た。そうすると同じ人でも全く別人のように見える。映画は、物語は神の視点を持っているからこそこういう見せ方ができる。普通は私たちはこういうケースはほとんどニュースによってのみ知ることができる。そして彼らに対する判断はなされる。さらにこの時この判断は間違っていない。
神の視点とは何か、それは人間を全部平等に見る視点だと思った。例えばこうだ。人がみんな平等なら、自分の家族と他人いずれかが死ななければならない場面でいずれかの選択を迫られた場合、どちらでも構わないということになる。だから神の視点は人間にとっては到達のできない高みである。しかしこの映画を見て思ったのは、神の視点とは全ての人間をミクロな視点でくまなく見つめることである。彼の凹凸を知ろうとすることである。彼の良いところ悪いところを観察することである。これは映画を観る前の私の考えとは決定的に違うし、そして同様に人間には到達することができない。なぜならそんなことをできる能力も、時間も我々には残されていないのである。精々生涯を通しても近しい5、6人に対してだけだろう、そんなことができるのは。つまり人数的には親友とか、家族である。主人公達は家族になろうとした。つまり他人をわかろうとしたのだった。じゅりまたはゆりは血縁のある家族にいても幸福ではなかった。血縁は時に欺瞞に満ちた方便であり、失敗しており、そしてその失敗は秘匿されがちであった。偽家族達は分かり合えることで血縁に挑もうとしたのだった。しかし、結果的に彼ら偽家族は血縁に敗北したのだろうか?幸福とは選択肢の過多だった。主人公達に金があればもっと万引きをしなくて済んだろう。知識や学があれば違う職業を選べたかもしれない。彼らには切れるカードが少なかった。そしてその少ないカードの中で家族になることを選択したのだった。(祥太、そしてゆりの場合はだいぶ難しく、それが物語を面白くしているテーマの一つだ。彼らは選んだのだろうか?強要されたのだろうか?)共同体としての家族、中盤で亜紀が治に問いかける。治と信代はどこで繋がっているのか?つながりの最たるものは金だと。しかし万引きは手段であって、つまり彼らは幸福を求めて繋がっていたのだった。
ボロで繋いだシェルターはやがて壊れる。「誰も知らない」がそうだったように。今回登場人物には大人が含まれる分、責任と善悪(というよりその判断)がつきまとう。刑事達の物言いがしっくりこない私だが、やまとやの老いた店主が祥太に発した一言に希望を感じてしまうのは甘いのだろうか。でもみんなが、少なくとも自分があの対応ができれば…と思ってしまったのだ。

2018年6月17日日曜日

City of Caterpillar/Complete Discography

アメリカ合衆国ヴァージニア州リッチモンドのポストハードコアバンドのディスコグラフィー。2018年に日本のLong Legs Long Arms Recordsからリリースされた。
City of Caterpillarは2000年に結成された4人組で、2002年に1stにして唯一のアルバム「City of Caterpillar」をLevel Plane Recordsからリリース。いくつかの音源を発売し、来日もしたが、2003年には早々に解散してしまう。その後メンバーはPg.99やDarkest Hour(!)などのバンドで活動。メンバーの居住地はバラバラになったが2017年に再結成し、いくつかのライブをこなした。2018年にはいよいよ日本に再来日を果たした。(私もライブを見に行った。)ただこの再結成は期間限定のものらしく、以降の活動は不明である。ひょっとしたら本当にもう活動はないのかもしれない。この音源はそんな再結成に合わせてリリースされたもので、音源をまとめたディスコグラフィーとデモ、ライブ音源を集めた音源の2枚組。影響を受けた日本のバンドメンバーによるCoCに関するインタビューや音源の紹介などが収録されたzineが同梱されている。

来日ライブで結構な衝撃を受けていて、言葉にしにくい激情ハードコアの全容といったらなんだが、その一端尻尾の先くらいは見えたのではと思った。(言葉で音楽のジャンルを完全に説明することはそもそもできないと思うが。)それは緊張感であった。ともすると凡百のポストハードコアバンドを聞いている時ならスキップしてしまうような長尺の曲の中の、すべてのパートに意味があるのがCoCなのだなと思った。単にそれ(思考停止したアート)っぽいアトモスフィアを演出するわけでも、その後の轟音展開への形式化した布石でもない。極限まで削ぎ落としたようなリフをシンプルに反復していくことが必要なのである。いわばトランスを導き出す前段階の儀式めいた。あくまでもバンドアンサンブルで、そして高尚になり過ぎないように統制したのがこのバンドなのではと思った。
音源を聞いてみると改めてライブの思い出が蘇ってくるとともに、あの時は気がつかなかった点にも目がいくようになった。まずは音が結構違う。ライブの時はまな板(みたいな板に2、3個張り付いている)エフェクターも驚いたがとにかくに音が生々しかった。音源だともう少しとっつきやすいハードコアサウンドになっている。逆に言うとライブはもっと音が狭く、鋭く、タイトである。
それから決して長い尺にこだわっているバンドではないこと。特にDisc2の名前すらないでも音源の曲を聴くと、いわゆるポスト的な展開は結構もうオミットされており、生々しくも荒々しいエモバイオレンスが展開されている。これがまた格好いい。そのストレートさはやはり瞬発的な攻撃力があり、やはりわかりやすさと言うのは(少なくとも私にとっては)大切な要素なんだと言うことがわかる。激情は思考する(もしくは懊悩する)ハードコアなのかな、と思っていたが、当たり前にストレートでシンプルなハードコアにだって悩みや葛藤はある。(Black Flagを聴くまでもない)形式的に言えばいわば挑戦するハードコアだろうか。デモがいつ頃(具体的に唯一のアルバムの後なのか前なのか、リリース自体はオリジナルアルバムと同じ2002年である)録音されたのかはわからないけど、彼らはこのストレートな音でも十二分の勝負ができたはずなのだ。でも正式な音源では異なるやり方でハードコアにアプローチした。彼らが劇場のオリジネイターではないだろうが、よりニッチな方向性を模索したのだった。(結果活動期間が3年しかないのに伝説になった。もちろんその短命さも物語としてそれを助長しただろうけど。)
形式化する事への反抗であり、それが世に受けて結果形式化してしまうと言うことは一つの悲劇であるかもしれない。(ただ後続のものがまず形から模倣するのは私は全然構わないと思う。と言うかそれしかできなくない?って思っちゃう。)今はジャンルが結構盛り上がっていて、ブラッケンドだ!テクニカルなアンビエントパートだ!ってなってそれらはやはり一つ一つが元は挑戦だったはずだから全然構わないのだが、ちょっとここで振り返ってみようか、と言う意味で再結成や今回のディスコグラフィーの発売は(特に私のような遅れてきたリスナーにとっては)非常に良かった。音楽を言葉で説明しようとするのはやる前から、そしてなされた後も失敗であることが確定である。だって音源やライブを聴いた方が早いんだもの。ライブを見たから特にそう思っているところはあるけど、まるで顔面に叩きつけられたかのようで、このリリースと来日は非常に面白い経験だった。
これ1枚で激情は十分!とは全く思わないけど、この手のジャンルが好きな人で聞いたことない人は是非どうぞ。

Capitalist Casualties/Subdivisons In Ruin

アメリカ合衆国はカリフォルニア州のファストコア/パワーバイオレンスバンドの2ndアルバム。1999年にSix Weeksからリリースされた。1986年に結成されたこの手のジャンルでは知らない人はいないバンド。残念ながら今年ボーカリストのShawn Elliotが亡くなってしまった。私はHellnationとのスプリットしか持っていなかったのだが、最近Fast Zineパワーバイオレンス特集(非常に面白いので是非どうぞ。)を読んでちゃんと聞かないと!と思っておっとり刀で購入したのがこちら。(このアルバムは新品で買える。)

20曲を17分で駆け抜ける正しくパワーバイオレンスなアルバム。
リリースから20年近く経っているわけで当然昨今のパワーバイオレンスとは結構趣が異なり面白かった。当たり前だがこちらがオリジナル。ここからいろんな音楽が広がっていったのだ。
基本的に全編突っ走るタイプ。今風の速いパートと遅いパートを曲の中に同居させることはしない。またドラムもブラストを叩くわけではなくて抜けの良いタムをスタスタスタ刻んでいくタイプ。ギターの音もそこまで重量感があるわけではなく、またメタリックな音質、さらにはザクザク刻んでいくようなリフもほとんど使わない。あくまでも疾走感が意識されており、ハードコアをできうる限りの速度でプレイしたような感じ。まさにファストコア。(パワーバイオレンスという単語は最近よく聞くけど、逆にファストコアとあまり聞かないような気がする。)
初めは思ったよりパンキッシュだな、と思ったんだけど、よく聞くとただただ速度至上主義で既存のシンプルな曲を早回しでやっているのではないとわかる。一番わかりやすいのはリフの凝りよう。これ例えばスリーコードをばーばーばーとただストロークするようなものではなくて、どの曲も緩急をつけたリフがきちんと用意されている。ただただ低音弦を弾くのではなくてちゃんと高音も使っていて、これがちゃんと拍にきっちり収まるように演奏している。ドラムはなるほどブラストは叩かないにしても曲の中で頻繁にテンポを変えている。パンキッシュなツービートやマーチっぽいフレーズなど結構多彩。私の耳の問題かもしれないけどあまりシンバル系は多用しないみたい。
パワーバイレオンスというと字面からしてはちゃめちゃなことをしそうで、まあ実際そうだったりするけどCapitalist Casualtiesに関しては基本は結構かっちりしていると思う。きっちり練習量あってのはちゃめちゃぶりというか、なので単に奇をてらっているのではなくて、ハードコアの特異な進化系として説得力があり、結果魅了される人が続いたのかなと。この初期衝動にあふれたパワーバイオレンスの魅力はというとやはり性急さだろうか。今のバンドはとにかく速度という意味では激烈だけれどとにかく堂々としている。Capitalistは「ぼやぼやしているとヤバイ、なんだかじっとしていられない」というちょっと病的な焦燥感があってヒリヒリしていて、結構別の意味で危ない。これはボーカルの腕によるところも大きいと思う。ハードコアにおける「カオティック」であったり「病的さ」であったりは表現であってそのまま垂れ流すものではないから、やはりきっちりとした基礎がものを言うのではなかろうか。
17曲、20曲あたりは遅いパートが入っていてパワーバイオレンスの当時のこれから(つまり今の姿)の萌芽が感じられて面白い。

パワーバイレオンスは結構流行り廃りというか進化があって(すべてのジャンルでそうなのだと思うけど。)Capitalist Casualtiesを聞いておけばこのジャンルのすべてがわかる、というのではないかもしれないが、このジャンルが好きな人はもちろん聞いておいた方が良いだろう。2014年に来日した際に見にいっておけばよかったな。

Struggle for Pride/You Bark,We Bite.

日本は東京のハードコアバンドの1stアルバム。
2006年にTAD Sound/Tearbrigadeからリリースされた。それが12年ぶりにCutting Edgeから再発されたのが私が買ったもの。
Struggle for Prideは1993年に幼馴染の面々(当時高校生)で結成された4人組のバンドで、このアルバムを出してしばらく後に活動休止。メンバーを変えて最近また活動を再開している。ライブもやれば新しいアルバムもリリースされる。そのタイミングで廃盤になっていたこのアルバムの再発となったようだ。
当時からいろいろと人の耳目を集めるバンドであり、以上にやかましい楽器隊に比較してボーカルの音量は意図的に下げているという独特のスタイルで、私の記憶だとハードコアだがカヒミ・カリィらをゲストに迎え、ライブハウスだけでなくクラブでもライブをするとか、かなり過激ないくつかの出来事がまことしやかにネットに書き込まれていたと思う。
完全に後追いだったので、「Change the Mood EP」と後いくつかのスプリットやEPを手に入れた。中でもギターウルフとのスプリットの2曲は超お気に入り。(見つけたら絶対買ったほうが良い。)この1stアルバムはさっさと廃盤になっており、今回個人的には待望の再発だった。
再発に当たり、リマスタリングが施されてるほかいくつかの追加や変更が加えられているとのこと。またボーカリストによるライナーも追加されている。

音楽やその他の芸術を評する際に唯一無二という言葉を使うのはありふれている。つまりたと違うことが優れた点になる。私も何回もそんな言葉を使ってきたが、このStruggle for Prideに関しても他に似たようなやり方をしているバンドというのはあまり思いつかない。極端にノイジーにしたギターとベースにボリュームを下げたボーカルという手法。とはいえもともとハードコアとノイズは結構接近していて、昨今のハードコアとハーシュノイズのクロスオーバー(Full of Hellや本邦のEndon、Friendshipなど)もそうだし、もっと古くからノイズコアというサブジャンルが存在している。Chaos UKや日本ではDisclose、Zayanoseなどなど。どちらかというとクラストコアの流れにある音(とカルチャー)だと思う。SFPに関してはやり方と音に関してはクラストコア寄りだと思うのだけど、逆に音以外にその要素は少なめ。(そもそもクラストはボーカルのレベルは下げない。)格好もそうだし曲も結構違う。D-beatでドタドタというよりはもっとシンプルで早いリズムに乗っかって攻め立ててくる。じゃあモダンなハードコアかというとそうでもない。曲は短く結構シンプルだし、複雑な速度のコントロールはしなし、何よりニュースクール以降の重たくメタリックで複雑なリフはほとんど見られない。(おそらく分厚いノイズの多いを取ってみても中身のリフはそれらと一線を画すのではと思う。)そういった意味ではどちらかというとオールドスクール・ハードコアに近いのかもしれない。ザクザクのリフでモッシーな空間を作っていく、というタイプの音ではないのだがライブは以上に盛り上がる。それも納得の感で音源で聴いているだけでなんかこう暴れたくなるような、そんな原始的な感情に訴えかけてくるものがある。決して反復の要素を持ったリズミカルさはないのだが、なんとなく肉体的に作用する音楽という意味では確かにクラブカルチャーに接近していったのはわかるような気がする。カヒミカリイやMSCのMC漢をゲストに招いているのは結果であって、もともと共鳴するので自然に彼らが参加したということだろうか。ゲスト陣に関しても溶け合うというよりはメタルバンドのSEのような使い方で住み分けがはっきりされている。表層状にラップを取り入れたり、ブレイクビーツを用いたりするような表層的なミクスチャー感は皆無。
よくよく聞かなくても空間をノイズで埋め尽くしていくような、いわばある意味偏執的な音の作りなのだが、うちにこもらない外向的なポジティブさがあるのがとにかく不思議だ。マニアックなジャンルにありがちなマニアックなジレンマに陥っていない感じ。もちろん迫力のある、うるさく、エネルギッシュで残酷な音楽ではあるのだが。このバンドは歌詞を公開していない(し叫んでいるし、なんせボーカルのボリュームが小さいので聞き取れない)のだが、冒頭の「REFLECTOR」でカヒミカリイが何をいっているかというとこれはどうも恋人に向けて書いた手紙を読んでいるようである。クラストコアと一線を画す要素というのはここにもあって、これは私の予想だがもっと身近な物事に関してきっとこのバンドは歌っている(叫んでいる)のだろうと思う。

今までEPしか持っていなかったけどやっとフルアルバムで聴けた。やっぱりかっこいい。新アルバムと合わせて是非どうぞ。

2018年6月16日土曜日

椎名誠/ケレスの龍

日本の作家の長編SF小説。
何回も書いているが私は椎名誠のSFが好きである。
今回も灰汁銀次郎が交配した未来の世界を暴れまわるファンならもうおなじみの「北政府」シリーズに属する小説なのだが、今までの物語とは露骨に異なる。面白い小説を読んでいるときにたまにこういう時がある。面白くて読み進めたいのに、読み進めたら物語が終わってしまうのが惜しくて読めなくなってしまうのだ。私はこの本で久しぶりにそんな幸せな時間を味わったのであった。通勤のために使うバスの中で、降りる駅はまだ先なのにあえて本を閉じて余韻に浸ったのである。
椎名誠は一貫して通常とは異なるSFを書いてきた。流行の逆をいっているわけではなくて、通常のSF作家とは別の未来像、もっというと世界の風景を見ているのだ。それは筆者がとんでもない秘境を含めて地球上の各国いろいろなところに旅に出かけている、その経験が存分に活かされていることに由来するのは間違いないと思う。世界というのは新しい何かを創造するまでもなく、驚きと不思議と楽しみに満ちているのだ。それをほんのちょっと加速させてやれば良い。椎名誠の描く世界はだから非常に珍奇であると同時にどこまでいっても私達には親しみのある世界であった。逆に言えば常にこの世界の延長線上にあるもので、だから文字通り地に足の着いた泥臭い世界を舞台にしたSFだった。ところで題名になっている「ケレス」というのは小惑星のことである。今回はもう物語の後半は宇宙を舞台にしている。椎名誠が宇宙に!少なくとも私にとっては衝撃だった。思い返すと椎名誠ワールドには「つがね」「ねご銃」などなどどう考えても日本的な世界感があって、「銀天公社の偽月」など確かに空に対する言及はもちろんあった。また最近「チベットのラッパ犬」では舞台は広がり、そして宇宙に対する言及も確かにあった。けど、明確に宇宙に乗り出していく、なんてのはあっただろうか。(私もすべての椎名作品を読んでいるわけではないから断言はできないのだけれど。)しかし宇宙である。地面もなければ空気すら無い。地球上の生物で宇宙空間で変わらず行きていけるのはクマムシくらいではなかろうか。つまり椎名誠が描くヘンテコで強靭な生物たちのはいるスキがないのである。いわば自分の持ち味を全部放り投げた状態で、ただ今までなかったという要素以上に物語が面白くなるのだろうか?なるのである、少なくとも私はすごく面白く読んだ。椎名誠作品に軌道エレベーターが出てくるなんて誰が想像できた廊下。しかし彼の手にかかると軌道エレベーターもなんだか旧式の新幹線(しかも停まる駅が多いやつ)みたいになっちゃうのである。スケールが小さくなるのではない、だって宇宙だもの。簡素かつ軽快な文体(かつては昭和軽薄体と呼ばれた)は読みやすいが抑えるところはきっちり抑える、というか繰り返しになるが椎名誠はその珍奇な世界の描写が売りのSF作家であるのだ。最先端の科学の粋を集めた宇宙の光景を椎名フィルターで見るのが痛快なのである。作者が創造したが、なんとなく見覚えるのある植物、生物たちの生態からなんとなくこの奇妙な世界が具体性を持ち始めるのである。極端な話、匂いを嗅げるような、手触りが感じられるような、そんな既視感こそが椎名誠の魅力である。草一本生えない究極の環境である宇宙でもその感触が味わえて最高である。

椎名誠のSFは進歩しつづけている。上へ上へわかりやすく登って今ようやく宇宙に到達したのである。どうもこの「ケレスの龍」を読むと文明が衰退した日本を含める北半球を置いて、南半球は技術的に相当先を行っているらしい。もちろん泥臭いSFも面白いけど、もっと星の世界を舞台にした椎名流の物語も読みたいものだ。

2018年6月10日日曜日

The Armed/Only Love

アメリカ合衆国はミシガン州デトロイトのハードコアバンドの3rdアルバム。
2018年に自主リリースされた。またもや無料でである。録音はConvergeのギタリストで今やこの界隈では引っ張りだこのKurt Ballou。ドラムを叩いているのは同じくConvergeやMutoid ManのBen Kollerである。というのもThe Armedは2009年に結成されたのだが、メンバーは流動的なバンドのようだ。

2ndアルバム「Untitled」は私のお気に入りのアルバムである。2曲め「Forever Sccum」がすごく好きなのだ。今度のアルバムにはちゃんとタイトルがある。「愛だけ」。葉っぱ人間をあしらったジャケットもシュールだ。ちなみにこのアルバムには葉っぱのLPバージョンがある(「葉っぱだから音楽は聞けないよ」とストアには丁寧に書いてあった。)んだけど一瞬で売り切れていた。どうかしているが、どうかしているとわかってもらうには「どうかしている」と思われるような行動を選択しないといけないのだ。
中身の方もそんな外見に負けず劣らずである。前作からかなり抑制のきかない、フリーキーなハードコアを演奏していたが、今作ではさらにそれをお勧めている。簡単に言えば歌を大胆に導入している。この手の極端なジャンルで歌を導入することはかなりリスキーである。ある意味歌から離れるということが「激しい」ジャンルの流儀なので(これは結果論かもしれないが)、そこに回帰するということはある意味自己否定である。聞き手も「ヌルくなった」「セルアウトした」と好き勝手いうわけである。
しかしこのアルバムを聴いて少なくとも「大人しくなったな」という人はいないだろう、そういう意味では安心してほしい。The Armedにとってはハードコア・パンクというのは単に表現手法ではない。態度があってそれから音楽表現があるのだと証明しているようだ。だから歌でしか表現しかできないならそれを入れるまでなのだ。なんでもありがハードコアだろうが!という不遜な態度が他のバンドにはない音と攻撃性に現れていて面白い。
音が分厚いバンドは沢山いるが、The Armedのこのアルバムは高音から低音まで色々な音をまんべんなく使っている。そういった意味で分厚い。歌っていってもしっとり歌い上げるなんてことはしない。メロディラインを叫びまくるのだ。そして奇妙にピコピコしたシンセサイザーもこれでもかというくらいぶち込まれている。一瞬あたりの情報量の多いこと。おもちゃ箱をひっくり返したような、お祭り騒ぎ、そんな言葉がぴったりのやかましいハードコアに仕上がっている。この喧しさはちょっとThe Locustに通じるところがある。病的でたまにポップで、何が起こっているのかわからないくらい速くて、そしてファニーでもある。このバンドの本質はなんだったかというとやはりこの喧しさだったろう、と思うとこのアルバム表現力を広げたが全くぶれてはいないはずだ。元々The Armedはネガティブな感情をそのまま吐き出すタイプのバンドではない。「俺に余計なこと一切口出しすんな!」(前述の「Forever Scumより」)という世間に中指を立てつつも、彼らが選択するのはあくまでもエネルギッシュに感情を爆発させるやり方だ。暗くて陰惨としているから真面目なわけでもリアルなわけでもない。非常に挑戦的で不敵なアルバムだ。

2018年6月9日土曜日

ジョン・ヴァーリイ/汝、コンピュータの夢<八世界>全短編1

アメリカの作家の短編小説。
作品自体は土地も主人公もバラバラで直接のつながりはないことは多いが(中には主人公が同じ短編がある)すべての物語が作者の描く共通の未来世界に属している。
俗に「八世界」と呼ばれるこの世界では、人類の一部が月で暮らしているくらいの未来に地球は異星人に奪われてしまった。当初月で暮らしていた数少ない人類はその後また別の異星人からのメッセージ(通称へびつかい座ホットライン、別に人類に当てたものではない)を発見。そこに含まれる超技術を使って宇宙に適応し、長い期間をかけて月を含めて8つの星で暮らすようになった。
ここらへんの事情はこの短編では詳しくは説明されていない(後書きによると長編ではちゃんと経緯が書かれているそうだ)。ヴァーリイはくだくだしく技術一つ一つを取り上げて説明するタイプの作家ではないらしく、大まかな設定だけでなくギミックや技術の説明も最低限。それらを当たり前のものとして受けれて暮らしている私達からすると未来人の生活を丁寧に描く。作品によっては派手な事件も起こるのだが、大体が例えば長く離れて暮らしている姉が弟に会いに来るとか、珍しい鉱石を拾いに行くとかそういうった類の物語である。これで面白いのかと言われれば面白い。まずはスケールが違う。石を拾いに行くったって金星の砂漠にまでいくのである。金星の砂漠ってどんなのか知っている?私は知らない。ヴァーリイは現在(彼が書いた当時)推測できる科学的根拠に基づいて誰も見たことのない景色を描き出す。金星の砂漠は暗く(人間の目だと何も見えない)、それでいて太陽は楕円形で地平線に沈むことがない。当然呼吸できる大気はなくて、砂漠は高台でまた高低差が凄まじい。そんな過酷な状況を臍帯で接続された荷物持ちロボットと延々と歩いていくのである。過酷な状況が爆発性の鉱石を生み出すのだ。爆発寸前で特殊な加工をすれば他では見れない色で輝き出す。

ヴァーリイは徹底的に環境を書く作家である。環境×人で物語ができる。ところで人の方は柔軟である。地球を追われた人類は過酷な環境に適応すべく必要に応じて肉体に外科的な改造を施している。ある程度衣食住が確保された後ではレジャーの性質も帯びており、なかでも気軽に性転換できる「チェンジ」は未来の人類にとっては大きな意味を持っている。人間の見た目はもちろん、モラルや規範は環境に合わせて臨機応変に変わっていくのである。現状から大いにギャップがある環境を描くことでこれに合わせて人の姿は変わっていくので、ヴァーリイはまず徹底的に環境を書くのである。(作中出てくる環境エンジニアリングが芸術の域にまで高められているのは印象的だと思う。)いわばパラメータをセットして作り上げた箱庭に任意のキャラクターを設置し、あとはそのシミュレーションの再生ボタンを押すかのごとく。異常な環境下で異形の人間たちが繰り広げるのはやはり人間ドラマにほかならなく、そういった意味ではどこまで行けば人間ではなくなるのか、またはどこまで行っても人間は人間である、つまり人間を人間たらしめるのはなにか、という問いかけであり、そういった意味ではこの本に収められている物語は極めてSF的小説群ではないだろうか。

2018年6月3日日曜日

カズオ・イシグロ/忘れられた巨人

ノーベル文学賞を受賞した作家の長編小説。
初めて読む作家だったがなんとなく手に取ったのがこの一冊。中身はかなりかっちりしたファンタジーで意表を突かれたが、結果的にはこの一冊を選んで良かったのではと思っている。

アーサー王が崩御したのちのブリテン島。鬼や竜が普通に存在する世界では不思議に人々の記憶が徐々に薄れていくのだった。とある村で暮らす老夫婦はある日長い間離れて暮らしている息子に会いにいくことを思い立ち、良きを選んで出立する。途中の村で異国の腕の立つ騎士と、寡黙だが戦士の才がある少年と出会い、四人で旅路を進んでいく。

記憶を失わせるという霧に覆われているという世界設定通りに物語もどこかぼんやりしている。筆致はシンプルだが優しく、鬼や竜というわかりやすい敵がいる分戦闘の描写などもあるが、必要最低限のことを書き出し(なので十分に残酷である)、淡々と物語は進んでいく。剣と魔法の剣呑だが能天気なファンタジーというわけではなく、むしろ訪れた先々で不和と争いの痕跡や火種が見て取れる。かつてこの国では恐ろしい戦乱があったらしいのだ。そして今もその残火がくすぶり続けている。ひとえにこれらが再燃しないのは記憶の希薄化によるものらしいのだ。記憶がない分人は毎日新しい自分を生きるというわけでもない。むしろ断片的な記憶に固執し、そしてさらなる欠落を恐れているようでもある。不確かさが毎日をおおい、本当のことが常に隠されているように感じる。生活の本質がすでにどこかに行ってしまったような気がしている。
いわば曖昧になってしまった世の中で主人公たち4人たちはそれぞれに目的を持って前に進もうとするわけだ。他の人たちは記憶が薄れた世界で続く単調な毎日に特に疑問や不満はないようだ。ところが動き出してみると色々な災難が主人公たちに襲いかかってくる。様々な判断を迫られる、また肉体的な精神的な痛みも伴ってくる。忘却というぬるま湯に浸かって生きるか、痛みを伴いながらも記憶を取り戻していくか、そんな選択が案に物語の根底に表現されている。
そして不和。どこに行っても争いごとだらけ。口論、つかみ合い、殺し合い。集団生活の決まりごと、民族間の遺恨、諍いの理由は幾つでもある。そんなひどい世界でたったひとつ最後まで綺麗な絆があって、それが主人公の老夫婦二人の間にあるのがそれだ。もう相当おじいちゃんなのに妻のことを「お姫様」と呼ぶ、そんな関係だが、とにかくこの二人がよく喋る。なんでも喋って決める。単に心温まる会話というのではなくて、この世界で生きていく上での知恵であり手段でもある。ここに人々の間に蔓延する不和に対するシンプルな回答が用意されているわけだ。それがみんなに適応できるかはまた別の問題だろうけれども。
記憶を犠牲に過去の遺恨の一部を封印した世界はいわば一時停止中出会って、その操作を止めるべきか、それともこのまま安寧に停止したままにしておくのが良いのか。

Fairy Social Press presents Boys Don't Cry#6@初台Wall

someoneはsometimes言う。曰く地獄とはこの地上のことだった。いや正しくは地獄は仕事のことなのだ、私は言うだろう、特に最近のバージョンの私がだ。職場が地獄で不味かった。終わることがないような業務時間もそうだ。仕事は大体つまらないものだが、そのなかでも特に気が重い類のものがある。今回はそれがしんどい。深夜2時に翌日(当日)朝7時に偉い方々(どうして彼らは総じて早起きなのだろうか)に自分が詰められるための資料を作成するというのはなかなかどうしてテンションが上がりようのない仕事だ。空いた時間を寝て過ごすいうのも良い選択肢だが、寝て何かが発生することはない。私の人生に何もなくなるという恐怖感からライブに行くことにした。

Kruelty
昨今話題の東京のDepressive Hardcore。ちゃっかりでも音源は購入したのだが生で見たことはないので楽しみだった。爽やかな初夏なのに4人のメンバー全員が目出し帽を被るという容赦のないスタイル。始まってみればこれはデスメタルでは。ざっくざく刻むギター、地の底から響くような低音ボーカル、重苦しいリズムはドゥーミィなデスメタル。ただただ呆然とするのだが耳が慣れているとデスメタルにしては異常にシンプルじゃないか?と気がつく。偏執的に隙間を埋めるようなテクニカルなリフ。つんざくような高音ソロ。そのような装飾性がほとんどない。ひたすらミニマルにリフを刻んで行く。1分はどうしたって60秒だ。駆けぬけようが牛歩だろうが同じ60秒だ。Krueltyはこの空間をリフで分割して行く。なるほど執拗な正確さで等間隔に刻んで行く様はメタリックだがあまりにそっけない。引っ掛けるように進んで行くそれを聞いて思う「これはハードコアだな…」。そうこのつんのめるようなリズムはまさしくハードコア。モッシュパートを切り出してそれで曲を作りましたという態。まさしく邪悪。音的には大阪のsecond to noneに似ているが、こちらがもっとシンプルだ。その分執拗でなるほどDepressive。こうやって演奏中にこちらが気が付いていくようなバンド、良いですよね。

Runner
続いては大阪/京都のRunner。恥ずかしながらバンド名も知らない始末。
こちらも抜けの良い軽めのスネアが軽快な瞬間風速系ブラストビートがキレッキレのパワーバイオレンスバンド。落とすパートの頻度が非常に高く、ほぼほぼモッシュパートの合間合間にボーカルが入るのでは、というくらいのエゲツなさ。バンド名はまさに名を体を表すかのごとく遅いパートもしつこくなくてあっという間に駆け抜けていく。
ひたすら筋肉質そのスタイルから Fight it Otuに似ているかなと思ったが、日本語の歌詞や遅くも早くもないパートにジャパニーズスタイルのハードコアを感じてしまう。パワーバイオレンスというのはふざけているか、おっかないか、あるいはその両方なんだけど、このRunnerはシリアスでありつつもまっすぐな暑苦しさもあってそこがこういったジャンルでは結構珍しいのではと思った。やはり関西のバンドというのは独特のオリジナリティを持っているなあと再実感。

leech
続いては船橋パワーバイオレンス、leech。見るのは2回目か。ボーカルの方が丸坊主になっていて厳つさが増していた。
ギターが2本だがノイズ感がすごい。曲が始まる前からフィードバックノイズが垂れ流しでこちらも脳汁がドボドボ溢れてくる。曲が始まると流石に低音が目立つのだが、よくよく聞いているとその低音の裏には高音ノイズが渦を巻いている。(片方のギタリストはひたすら高音に徹しているのかもしれない。)いわば高音域と低音域を同時に抑えている音の厚みがあって、それが音の壁になっていてフロアにぶち当たってくる。気持ちが良いよ。もちろんコントロールはしているはずだが、このleechというバンドは全部の楽器を最大音量で鳴らしているかのような感じがしてひたすら煩い。楽器隊VSボーカルみたいになってそこの相克も面白い。ただし一つ前のRunnerに比べると圧倒的にこちらのが陰湿。高速から低速に移ってもいわゆるモッシュパートとは違う、もっとスラッジっぽい放心したような気怠い感じがしてもはや手の施しようの無い感じ。わかられてたまるかという病んだ雰囲気が不健康ですき。

Fight it Out
後半戦トップバッターは横浜パワーバイオレンスFight it Out。始まる前からフロアに緊張感漂ってきてすごいバンドだなあと。
ライブハウスの特徴なのかもしれないけどこの日は前見たときよりドラムより弦楽隊の音が前に出ているイメージ。(私がいた位置の関係もあるだろう。)このバンドは速度のコントロールがすごいと思っているので、今日はまたもっと混沌としたイメージで聴けて面白かった。とにかくなんでもありなジャンルの中でくっきりとした音のイメージを提供するバンドだなと改めて思った。とことん研ぎ澄まされた曲というのは、余計なパートが無いということだ。速いか遅いか、その中間はバッサリ切り捨てる。ただし短いながらも余韻を残すようなパートがあってそれがまた格好良い。ひたすら筋肉質で無骨だが、その分たまにある短いシンガロングパートが映えてくる。あえて誤解を恐れずにいうと非常にわかりやすいんだと思う。馴れ合いというわけではなくてわかる奴は乗ってこい、的な。そうなればフロアも当然盛り上がってくるわけで。短いMCにもそんな姿勢が表れているようでひたすらカッコよかった。

she luv it
続いては大阪のバンド。音源の数は少ないのだが結構その名を聞く機会が多く気になっていた。なかなか見れない関西のバンドということでこの日の目当てでもあった。
ステージにはギタリストが2人、それからベーシストが2人(一人はボーカル兼任)、ドラムが一人(この方は他のバンドの時からずっとフロアで楽しそうに踊っておりました。)という変則体制。
セッティングが終わった時点でフィードバックノイズがすごいよ。人もぎゅうぎゅう。曲が始まってみると大変ですよ。満員電車が急停車した時のような人の動き。さらには恐らくビールが飛んでくる。モッシャー同時多発テロなお祭り騒ぎなわけで、それもそのはずだって曲が全編モッシュパートなんだもの。ひたすら刻んできて、そこに低いボーカルが乗る。そういった意味では一番手Krueltyに似ているところがある。確かにデスメタリックなところもある。ただ形式は似ていても音の印象は結構違う。一つはこちらがハーシュノイズも生々しいロウさ(生々しさ)を備えていること。内側に掘り進めていくようなDepressiveさはこちらには無い。陰湿だが内向的というよりは外向的で外に外に放射していくような動きがある。ひどくブルータルだが、フロアは湧きに湧きモッシュは自然発生的。

Nervous Light of Sunday
最後は大森のハードコアバンド。最近出た2枚のEPがとにかくよかったので是非とも見たかった。ドラム、ベース、ギター2本に専任ボーカルという5人組。
前の5つのバンドに関してはスタイルは違えどだいぶ逸脱していたのだなとわかるな、というかっちりしたサウンド。メタリックさはサウンドの重たさ、ミュートを用いた弾き方によくよく表れている。リフの中での低音と高音の対比が目がさめるようにくっきりしている。これはニュースクールハードコアだ。メタリックなサウンドでもKrueltyとは異なって、重量感があっても突進力がある。ボーカルはほぼシャウトだがたまに呟くような歌い方をしていてそこが日本っぽい。ただメロディ性は皆無でそこらへんはギターリフで補う。といっても例えばトレモロのようなわかりやすいメロディ感はなくてかっちりとしたリフの中にエモさを感じ取るというマニアックさ。しかしリズミカルに構築されたガッチリしたリフに感情を見出すことのできる奇特な人たちもいるものだ。

この日6つのバンドが出演し、そのどれもがハードコアのバンドだった。それぞれに共通点がありながらも結果出ている音は全然異なり、聞けば聴くほどにわからなくなるのがハードコアなのかと思った。耳が爆音でやられているのが快感だ。完全にやられた感のあるshe luv itのT-シャツを買った。音に似合わずかわいい。
電波の届かない地下から出ると仕事関係のチャットが何件も届いていた。これが私の選んだ毎日なのだった。耳鳴りを引きずって京王線に乗る。ドアの開閉をアナウンスする徹底的に無機質な女性の声が、私は好きなのだった。楽しい時間でした。