インド生まれのラーフル・ジャイン(1991年生まれでまだ27歳だという)が監督として、インド、ドイツ、フィンランドの3か国で制作されたドキュメンタリー映画。
原題は「Machines」で2016年に公開された。日本では今映画館でかかっている。
舞台となるのはインドのグジャラート州にある繊維工場で、ここでは多くの労働者が働いている。ここにカメラが切り込んでいく。とにかく巨大な工場で、人の背丈を縦にも横にも遥かに凌駕する機械が休みなく(文字通りおそらく24時間)稼働している。巨大の機械の合間を人間たちが動き回っている。彼らは1回のシフトで12時間働く。そして1時間休んでまた12時間のシフトに入る(全労働者がこうなのかはわからないが)。あまりにも広い工場で、労働は多岐にわたる。肉体労働、事務。体を使うもの、頭を使うもの。手を動かすもの、全身を使うもの。単純作業、非常に神経を使う作業まで。染める前の繊維を運ぶ仕事。繊維の染料の配合の仕事。稼働している機織り機のような機械のリアルタイムのメンテナンス。コンベア状の染色作業の保守。染め上がった繊維が機械に詰まらないように手で引っ張る仕事。染め上がった染料の荷運び。大量のゴミの廃棄。巨大な乾燥機のような機械への繊維の出し入れ。ゴミの焼却。その他よくわからないような仕事の数々。ラーフル監督はこれらの作業を淡々と写していく。説明は皆無であるし、意外なことに労働者へのインタビューも全体から考えると非常に少ない。この映像作品の主人公は巨大な気工場だと言わんばかりに、その動きをひたすら取っていく。
巨大な機械は一寸の狂いもなく、巨大な轟音を巻き上げ、地響きをあげて稼働し続ける。その間を人間が動き回る。彼らはまるで巨大な機械のはらわたで蠢く、寄生機械のようだ。柔らかい体を持った意思のない、単純作業をこなす機械たち。しかし彼らはしっかり生きて、長時間働き、そして工場の中で食い、体を洗い、そして売り物となるはずの染料の上で寝る。出稼ぎ労働者が多く、この工場の中で生活しているのだろう。彼らは皆痩せている。寡黙である。子供もいる。彼らの何人かの服はありえないくらい汚れて濡れてビタビタ体に張り付いている。外から見ると白く美しい工場の中は混沌としている。ここでは機械が主役なのだ。人間は脇役に過ぎない。こう言う感想を抱くのは不謹慎かもしれないが、なんとなく漫画家の弐瓶勉さんや作家の酉島伝法さんの描く作品が現実に展開しているような、そんなSFを私はこの映像から嗅ぎ取ってしまった。柔らかく生々しい肉が、無機質な機械の間を埋めるような、そんなSFを。ことば少なな彼らは機械のように働く。それは機械のように働くことを求められているからに他ならない。誰に?
労働者の一人がいう。自分は望んでこの仕事をしているので搾取ではないと。彼らは社長を見たこともないという。工場側の人間は言う。給与を上げることはできるが、給与を上げると労働者は働かなくなる。怠慢になる。権利を主張すると。ここでは労働組合ができない。もしできれば工場側がリーダーを殺すから。
この工場で行われていることは搾取である。彼らは生活と家族を暗に人質に取られて、無理な労働を押し付けられている。これはまぎれもない搾取である。私たちはそう言う。彼らが作った服を着て。(当たり前だが直接私たちがこの工場由来の服を着ているかどうかは問題ではない。)
この映画はことさらメッセージ性が強くはないと思う。むしろ意図的にそう描かれている。終盤にカメラを取り囲んだ労働者たちがカメラの先に向かって言う。お前たちは何を撮っているのか?少しだけ撮影して、そうして帰ってしまう。結局何も変わらない。お前たちは政治家と同じだと。彼らの視線が痛い。
先日見た「ラッカは静かに殺されている」もそうだった。この手の映像を見るのは何故なのだろう。「非常に考えさせられる」、「ひどい話だ。何かしなければ。」そう言って、私たちはまた日常に戻ってしまう。それならはじめからこう言った作品を見なければ良いのでは。何も考えないで高級で質の良い外国製の服を、それがどこから着たのかを考えないで着ている方が、まだ卑怯ではないのではないかと思う。
この映画を見れば選択を迫られるのだ。この映画を見た後で何もしないのか、それとも何かをするかを。
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