2018年5月27日日曜日

killie/犯罪者が犯した罪の再審始まる

日本は東京のハードコアバンドの編集盤。
2018年に突如リリースされた。自主リリースという形だろうか。
killieは伝説的なバンドだ。ストイックなステージング、過激なステートメント、コンクリに包まれた音源、いくつかの事件(私は内容を知らない)。はたから見れば秘密主義のカルトの様相を呈し、尾ひれのついた噂が流布している始末。少なくとも現状音源が極めて手に入りにくいのは事実で、そういった状況の中では待望のリリースと言える。一応この編集盤も年単位で出る出るとは言われていたらしい。

音楽的なカテゴリーでは「激情」というジャンルで語られる事が多い。聞いてみるとなるほど(ポスト)ハードコアを土台にかなり複雑な音楽を鳴らしている。しかしそのサウンドには拡大解釈がない、またわかりやすい取っ掛かりがない。例えばメロディ性は希薄であり(たまに入るのが必殺なのが困る)、ブラックメタル要素もなし、分厚いサウンドだが重低音への偏重もなし(ギターの音に関しては元の素材が活かされているような音作り)、モッシュパートもなし。
何かの文脈にある時どうしても特徴的な要素を大げさにしてしまうのが世の常だが(なのでジャンルが盛り上がれば次第に音楽的にはわかりやすくなるはず。ただキャッチーになるという意味ではない。難解さが売りのジャンルならより難解になる。その場合はただ明確に難解になるのだ。)、killieに関してはその手の拡大解釈には与しない。オールドスクールであるというよりは「激情」がなにかというところに他とは違う本質を見ているのかも知れない。全体から一部を拾ってその特徴とするというよりは全体をすくい上げているイメージだろうか。
それなら彼らがその渾然とした音楽で何を表現しようとしているかというとこれは感情ということになるのではなかろうか。むろん古今東西のバンド、アーティストたちはすべて感情を表現しようとしているのだが、ことメタル/ハードコアというジャンルではそれがどんどん激化していくのが常ではないか。なんせ「激情」というのだ。つまり少年誌のバトル漫画のようにどんどん感情表現(=音)が強く強くなっていく。killieはなぜニュースのサンプリング音を頻繁に用いるかというと、あくまでも彼らは激化はしつつも基本的には生活について歌っているという意思表明では。ハードコアパンクという(たとえ形骸化した建前だとしても)メッセージ性が重要な意味を持つジャンルで、あくまでも一つの声を発信しているのだよ、という主張に私は思えた。もちろん単純に音的な趣味嗜好が大きく影響しているとも思うのだが、しかしDIYにこだわるバンドならやはり過剰装飾からは距離を置く姿勢というのも何となく分かる。先だって紹介したweeprayや活動休止中のisolateなど狂気に片足を突っ込みがちの日本の激情シーンに置いて、あくまでも正気で居ることに拘り続けているのがkillieなのかもしれない。前にも書いたがオフィシャルサイトの日記を読めばその溢れ出る生活感に、もはやこけおどしめいたバンド外発信の流言の幻想性がきれいに霞んでいくだろう。徹底したDIYや苛烈な言動、なによりわかりにくい歌詞もあって素顔が見えにくいのは確かだが、その実態は決して突飛それ自体を目的とする奇をてらうだけのバンドではないはずだ。

今まで音源に関しても手作業で数々の仕掛けを施してきたkillieだが、この音源は1,111円という低価格に最低限のジャケットという今までにないシンプルな形式。今までの自分たちに関する(他人が作った)神話を破壊するために広く自分たちの音楽を聞いてほしいという意図なのか、それともいろいろ主張ているものの結局は安価な大量生産品の「音」としてただ消費される売り物として自分たちを自己卑下しているのか、それとも全く別の理由なのかはわからない。ただこの作品にもやはり仕掛けがあって、この音源をただ手に取るだけでは未完成なのだ。つまりこのシンプルさは明確に意図されている。詳細は是非ご自身の手で確かめてみてください。

山尾悠子/飛ぶ孔雀

日本の作家による連作長編小説。
作者は寡作で有名だがこの本は前作から8年ぶりの新刊。

確か今までの物語はどれも洋風な雰囲気が漂う世界観で、設定が突飛かそうでないか以前に極東に住む私からすると見知らぬ異世界であったが、今作ではどうも近代(携帯電話やパーソナルコンピューターの描写はなかったような気がする)の日本が舞台だ。つまり東洋の見知った世界観でその分描写が生々しいというか、一見幻想味が減った感じがする。ただ物語の難解さは今まで群を抜いている。誰が何をやっているか、という描写は非常に鮮やかに書かれており、ただそれがかなり時系列と場所を混在させて書き込まれているわけだから、ここの出来事は追えても全体的に何が進行しているのかというのをつかむことが非常に難しいのだ。はっきりしているのに、わからないのだ。これはなかなか厄介だ。話の筋も混乱に加担していて、というか筋が混沌の源であって基本的に主要な登場人物たちに目的がないのが問題である。彼らは大抵全員巻き込まれ系の人たちで混乱の周辺部や爆心地に配置され、読者と同じように謎の一編だけを垣間見、何が起こっているのかわからないまま右往左往して流されている。構造的には男性陣の方が独自のルールを持っている、もしくは知っている女子陣に振り回されていることが多いようだ。
ただし舞台装置だけ見れば普通の世界だが、よくよく設定には不可思議が組み込まれており、まず全体的に火が燃えにくい世界になっている。これは文字通り火が燃えにくい。それから石が成長している。石で作られている町があるらしくこれは材料の成長によってその姿を微妙に変えていっている。それから人物も何人かは肉体が縮んているようでもある。なんてことはない温水プールの地下には広大な世界が広がっており、地上とは別系統の人々が生活している。ダクト屋、パイプ屋、掃除会などなど不思議な集団がうようよ独自のルールで動いている。山が震え異常な光を発し、そして二つに増える。山頂には廃棄された施設や謎のラボ、ホテルなどが存在しており、やはりその内部に不思議を抱えている。
山と地下という構造から分かるように物語には明確に高さと深度が設定されており、中央つまり地上を上がっても下がっても奇妙な世界につながっている。ただし山頂の地下という曖昧な世界もあったりしてどうもやはり一筋縄ではいかない。
実験的な、というのはよくわからない作品に対する消極的な評価(わからないことが認められずまた貶すことができない)としてはありがちだが、この小説の場合は幻想的な世界ものパーツは配置しつつもあとは徹底的に鮮明に書き出すことで幻想っていったいなんだろう、その端っこを見極めてやろうという意図からして実験的と言えるかもしれないな、と思った。

なんとなくあまり表に出てこない方なのかと思いきや新刊の発売に合わせていくつかご本人の言葉が読める記事がアップされていてそちらも興味深いので是非どうぞ。

Henry Fonda/Front Antinational

ドイツはベルリンのパワーバイオレンスバンドの2ndアルバム。
2017年にNerdcoreからリリースされた。
5人組のバンドでFBのステートメントからも分かる通り生粋のDIY、生粋のライブバンドのようだ。
日本のFast Zineのパワーバイオレンス特集で吉祥寺のtoosmell Recordsの方がリコメンドしていたのがこちらのアルバム。ほかに推していたMellow Harsherと一緒に購入した。

バンド名はアメリカの往年の有名俳優からとっている。同じパワーバイオレンスのCharles BronsonやスクリーモバンドのYaphet Kottoなどもそうだがどうもこう俳優から名前を拝借するバンドというのがいるのがハードコアらしい。
短い曲の中に高速と低速を巻き込んだ、つややかな音もモダンな香りのする今風パワーバイオレンスバンドだ。〜分というタイトな時間の中でも長尺(といっても3分くらい)のスラッジ曲もきっちり挟んでくる。
低速に落としてくるところは徹底的に暴力的だが、疾走するパートは重さを抜いており、またパンキッシュなリフをたようすることもあり、なめらかで爽快。ここら辺は同郷のYacøpsæを彷彿とさせるところがあると思う。低速高速どちらも地獄のバンドとは異なり、高低と明暗の対象がはっきりしている。流石にひたすら明るいという種の音楽でもない。メロディ性もきっちり皆無。なんといっても疾走感のあるパートからなめらかに、そして唐突に低速パートに突入するこの脈絡の無さが最高なのだ。気分屋の男が気持ちよく飲んでたら、突然本人しかわからない事情でキレだすみたいな、そんな嫌な感情の急展開を実にスムーズにこなす。この一見した所矛盾した自然な不自然さがこのバンドの何よりの魅力ではなかろうか。バンド名からして人を食っており、ステートメントにもユーモアのセンスを伺わせている。実際にその感覚は曲の所々で感じられて、やはりひたすら酷薄なバンドとは一線を画している。ただ終始ふざけているのかというとそんなことはなくて、特にアルバムの後半はそのシリアスさを増していく。雰囲気に酔っているとふとした瞬間張り詰める緊張感に突然気が付いて背筋が凍るということはたまにあるが、まさしくそんな流れを地で行っている。このファニーさとシリアスさの対比と同居というのも極端なパワーバイオレンスというジャンルによく合っている。
やかましくて展開が混沌としていてまさしく騒々しいという言葉ぴったりのパワーバイオレンスという。個人的に最近かなりよく聴いているお気に入り。

2018年5月25日金曜日

ボリス・ヴィアン/お前らの墓につばを吐いてやる

フランスの作家の長編小説。
今まで読んで一番面白かった小説はなにかというのは難しい質問だが、心にずっと残っている作品がいくつか上げることができる。
そのうちひとつがボリス・ヴィアンの「心臓抜き」だ。読んだときの衝撃は今でも強烈に覚えている。好きな割には他には「うたかたの日々」しか読んでなく、今回装いも新たに再発されたこの本を購入した。
知り合いの版元からなにか面白いアメリカのノワールは無いか?と聞かれたヴィアン(ジャズ・ミュージシャンとしての顔が有名な多才な人で海外小説の翻訳も行っていた)が「翻訳するくらいなら俺が書いてやるよ」ってぱぱっと書いたのがこの小説。
黒人作家のヴァーノン・サリヴァンなる人物の作品ということで(つまり変名を使って)出版された。内容は過激で裁判の果に発禁処分の憂き目にもあった。ヴィアンはこの騒ぎを大いに楽しんだようだが(謎のアメリカ黒人作家が彼であるということは結構早い段階でバレてたようだ)、良くも悪くも彼の生涯に大きな影響を与えた。ヴィアンはこの作品を原作とした映画の試写会で亡くなった。作品について監督ともめていたらしい。

内容はノワールだが、ギャングや麻薬が出てくるモダンなものとは違う。もっと泥臭くて個人的なものだ。雰囲気・構成的には「俺の中の殺し屋」などのジム・トンプスンのそれによく似ている。クレバーで器用な男(彼とアルコールは切っても切り離せない関係というのも共通している)が完璧な犯罪を組み立てるが、実際に実行の段になると不測の自体が発生し窮地に陥るという筋。
この作品の面白いところは主人公が黒人であることだ。これが彼を犯罪へ走らせる動機となっている。男三兄弟に生まれた彼は混血であるがゆえに見た目は白人にしか見えないのだった。ただしそれでもアメリカ以外の土地で奴隷として扱われ、やっとアメリカに帰り着くと弟は黒人であるゆえに殺されており、兄もまた生まれた土地から追いやられているのだった。意趣返しという意味では復讐譚だが、この場合は人々の人種差別意識とそれが根を張るアメリカ社会という巨大なシステムが彼の敵であって、したがってこれに影響を与えるということは難しい。そこで彼はその憎むべくシステムに与するものに対して個人的な報復に出ることにした。これをもって白人至上主義者会に対する警告とすべく企んだのであって、暴力でもってなされるそれはテロリズムであった。しかし彼は自信の思想というものを多く語らず、というよりはあくまでも個人的な恨みつらみを、個人的な感情によって説明しようとするので、堅苦しく、そして胡散臭くない(彼は自分に対する狂信者ということができるかも知れない)ので、結果的には表面的な政治色は極めて薄い物語になっている。
白人至上主義者の申し子のような地方の金持ちの女性を落として殺す、という復讐の手段がそれ自体艶のある娯楽性(赤裸々ではあるがそれでもまだ今に比較すると上品さが感じられる水準)をはらんでおり、また地元のティーン・エイジャーたちとの奇妙な友情関係、そしてその虚偽の関係に潜むバレるかもしれないというスリルもあって、パルプ・ノワールへ期待する読者の気持ちをしっかり満たしてくれる。しかし作品を貫いているのはあくまでも、(差別がはびこる、差別を肯定する)社会に対する断固とした「NO」である。あなた達のルールには与しない、首をかけられるくらいなら死を選ぶという態度。真っ赤に燃え盛る憤怒の本流がその途上にある人々を不幸に叩き込み、そしてそのまま否定的感情が破滅的な厭世観に熟れて、真っ逆さまに奈落に落ち込んでいくという下向きの真っ赤な矢印が物語を刺し貫いている。それは不幸ではない。偶然でもない。明確な運動(抑圧)とそれに対する抵抗である。
そんな物語が、生まれつき心臓が弱いのにジャズ(言うまでもなく黒人が生み出した音楽である)に傾倒し自分自身も一流のトランペット奏者で体を顧みない生き方をやめようとせず、そして激しい閃光のように散っていった作者ボリス・ヴィアンの生き方になんとなく重なるのであった。つまりそれは彼の生きた軌跡のようなものだ。閃光が消えた後も残り強烈に網膜を焼くあの強烈な。

2018年5月15日火曜日

weepray/楽園

日本の東京を活動拠点とするハードコアバンドの1stアルバム。
2018年にTill Your Death Recordsからリリースされた。
weeprayは2009年に結成されたバンドでメンバーチェンジを経て今は4人体制。過去にデモを2つリリースしているが私は聞いたことがなく、音源より先にライブを何回か見たことがある。全員黒装束に身を包み、持ち込みのライトを使う凝ったステージングだった。

「激情」というジャンルは結構日本独自のものでないかと思ってきた。純粋にハードコアの一つの発展系としてのエモ、エモバイオレンスが日本に持ち込まれ、そして時代を経ることでこの狭い島国で独特の形に進化しているのではと思う。私はisolateという日本のバンドが好きで、これもハードコアが悩みすぎた上によろしくない方向に発展してたいへんどうかしている。isolateは音楽的にはブラックメタルに多く影響を受けているが、一方でweeprayはそれとはまたちょっと違う。
ポエトリー・リーディング、激しいかと思えば一転して爪弾かれるアルペジオが目を引くアンビエントな展開に落ち込んでいく曲のなかの起伏など、「激情」の伝統を抑えつつ、独自の世界観を構築している。メンバーがハードコア、デスメタルなど様々なバンドで活動していることも関係があるのだろう。たとえば表題作「楽園」はノイズ・アーティストLeecherとのコラボ作で、こちらではフィールドレコーディングされた雑踏の上にハーシュノイズと、ノイズに溶けたボーカルがフィーチャーされており、バンドサウンドは一切使われていない。
その他の曲で使われているメロディアスなトレモロフレーズなどはブラックメタルへの接近を思わせる。ここ数年であっという間に使い古された感もあるブラッケンドを彷彿とさせるが、メロディやともすれば直接的な華麗さに中指を立てるようにざっくりとして無愛想なメタル/ハードコアの要素が強い。面白いのは初めからバッキバキの強面からスタートしていないのだ。前述の激情の要素もブラッケンドの要素もある。ただこのバンドはそれらの(様式美化された)わかりやすさとナイーブさをごついメタル/ハードコアの要素で叩き潰すかのようである。いわば曲の中に相反する要素があって、なるほど一直線でわかりやすい音楽ではないが、その相克がまた非常にややこしくて良いのである。isolateだとボーカルVS演奏陣という趣だったが、weeprayはメンバー全部で曲の中で相反する要素を作り出してぶつけ合っているようなイメージ。振れ幅の大きさがこの手のジャンルの売りだが、不安になるアルペジオとミュートで無理やり止めるみたいなハードコア暴力的ぶんまわしリフが同居しているのはちょっとなかなかないのだろうか。ぶつかりあう感情の渦巻きはしかし外に解放されずにひたすら内向的であり、総じて不安である。どこにも同着しない不穏さ、暗さ、陰鬱さ、悲痛さがある。自分の中が地獄なら楽園というのは他者のことかと思ったが、そこに期待をかけてる感じがしない音楽性なのだよな…。
歌詞は全編日本語だが漢字が多めで難解。しかし滲んだ青(背景もよく見ると真っ白ではない薄いクリーム色なのが良い)が美しいアートワークを見れば(例えば骸骨が山積みにされて悪魔が居座る真っ黒いジャケットとは違い)これらの歌が日常のことを歌っているということがわかる。楽園なんて方便や嘘なのだろうか。

捻じ曲げたような異様な姿に思わず顔をしかめてしまうかもしれないが、こうならざるをえない自意識というのも少しはわかるような気がする。このややこしさが私は好きですね。ちなみに流通は500枚のみで絶対に追加プレスはないそうなので、気になる人は早めにゲットでどうぞ。こういう音源の常でまだ大丈夫だろって思っているうちに気がつくともはやどこの店頭にもないのである。

2018年5月13日日曜日

ミハイル・ブルガーコフ/犬の心臓・運命の卵

ウクライナ出身の作家の短編集、といっても収録されているのは中編が2つ。
表紙は非常に可愛いのだが中身はかなり辛辣な社会風刺。当時のロシアはソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連として社会主義真っ只中であり、ブルガーコフはこのオーソリティを激しく批判する内容の小説を書いていたので当局に睨まれ、発表した小説・戯曲の多くが発禁処分になっていた。ここでいう小説というのは純粋な政権批判のパンフレットというよりは、風刺の意味合いが強く純粋な文学作品として単に共産主義に対するカウンターとしての意味合い以上に楽しめるものとなっている。面白いのは弾圧する側のスターリンもブルガーコフの作品が好きで、特例的に彼の戯曲の公演を許可しこっそり見に行っていたらしい。(あとがきより。)

「犬の心臓」も「運命の卵」もブルジョアで高等教育を受けており、変わり者ではあるが知的好奇心が旺盛で他人への思いやりのある研究者が主人公である。彼らが科学的な発展のために作り出した創造物が、思いとは裏腹に周囲や社会に対して害を及ぼすという筋書きになっている。面白いのは似たような2つの短編だが、途中で異なる方向へ分岐していく。「犬の心臓」は犬のコロに人間の臓器を移植し 、知識と言葉を獲得したコロ改めコロフがその本性を表して生みの親のフィリップの頭痛の種になっていく。こちらは奇妙な親子関係ともいうべき間柄で、フィリップの期待はことごとく裏切られ、次第にコロフの存在が許せなくなってくる。メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」のように驕った知性への警告とも解釈することができるかもしれない。自業自得というわけではないが、良かれと思ってやったことが異なる結果として自分に跳ね返ってきた。あとがきにあるようにこの母なるユーラシアの大地から生まれた共産主義が母親に害を及ぼす、と解釈することももちろんできる。
一方で「運命の卵」は風変わりな生物学者が生物を爆発的に増殖進化させる謎の光線を見つけることが物語の発端。これを当局に強制的に接収され、当局の担当者(マヌケ)が使い方を誤った結果、蛇などの爬虫類が巨大化し爆発的に増殖。故国を脅かすという話。「犬の心臓」より直接的に政権を批判している。つまりちゃんと使えば国のため人のためになる科学技術なのに無能な政権がそれを台無しにして逆に人に迷惑を与える代物にしてしまうというわけだ。技術の創造主である教授が暴徒とかした衆愚に八つ裂きにされて殺される、というクライマックスも単に政権だけを批判するというわけではなく、そこに安易に操られ追従する民に対する失望と嫌悪が見て取れる。独裁政権というのはそれだけで成立するのではなく、当たり前だがかならず抑圧される民草とセットで完成するものだ。殆どの人は不満はあるが仕方がないと下をむくところ(中には積極的に体制に取り入ろうとするものもいるだろう)、ブルガーコフは果敢に上を向いて過激な作品を作り、発表し続けたのだろう。

2018年5月6日日曜日

カミュ/ペスト

カミュの「異邦人」を読んだのは多分ご多分に漏れず大学生の頃だったと思う。名作ということに加えてCoaltar of the DeepersがカバーしたThe Cureの「Killing an Arab」の元ネタということで手に取ったのではなかったか。正直内容をそこまで覚えているわけではない。あれから結構な月日が経ちなんとなく手に取ったのがこの一冊。

アルジェリアのオラン市で鼠が死ぬようになった。日に日に街角で死んでいく鼠の死体が増えていく。なにかおかしいとは気がついたのだが、それがペストとわかったときにはすでに人間の死者も出ていた。ペストは伝染性が高く市は隔離・閉鎖された。医師のリウーは仲間とともにペストの治療・鎮火に心血を注ぐが死者の数は増えるばかり。

カミュを語るときとにかく「不条理」という言葉が出てくる。元々「筋道が通らないこと」という意味だったが、ここに哲学的な意味をカミュは加えたらしい。曰く「カミュによれば,〈不条理〉とは世界の属性でも人間の属性でもなく,人間に与えられた条件の根源的なあいまいさに由来する世界と人間との関係そのものであり,理解を拒絶するものと明晰な理解への願望との果てしない対決である。」とのこと。ペストというのは自然の理なので不条理というのは納得出来ないなと思っていたのだが、要するに人間が解せない(報われない)世界との関係性をそれというならたしかにこの小説は不条理をテーマにしていると言っていい。簡単に概要を説明するとリウーたちはペストの蔓延という状況を打破するべく超頑張る。なんせ異常な感染力だから自分たちだって超危ないけど超頑張る。でも全然報われない。という感じ。つまり「頑張れば報われる」というのが条理なのだと思うけど、これって結構勝手な論理だからまあそんなことはない。頑張っても報われないことはままある。この場合リウーたちもひとりでにペストが落ち着くまで家にこもっていればよかったのでは?というのが効率的な見解かもしれない。
でももし自分や親族がペストになり医者を呼んでも「全体的に沈静化するまでは打つ手ないです」と言われたら納得できるだろうか?「治療したら治るかもしれないだろ!」と怒るのではなかろうか。で、治療するのがリウーたち。「治療してもしなくても統計的にはそんなにかわらないんですよね」って病に伏せた人たちやリウーたちに言える人がいるだろうか??普通の人なら言わない。人は神のようには決して生きられない。そもそも人間(の精神)自体が不条理なのだ。人は神のようには決して生きられない。振られた賽の目が幾つになるか、振ってみなければわからないのだ。「6が出るのは6分の1だから振らないほうが良い」というのは効果的な時とそうでない時がある。説明できないから、論理的でないからといって納得出来ないときもあるということを、頭の片隅には置いておく必要がある。
なるほど、不幸の中には抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかって来たら、その抽象だって相手にしなければならないのだ。
人間が(時に論理的でなく、時に努力が報われるという)不条理で動いているのだとしたら、現実との間に齟齬が生じてくるのは当たり前であって(それこそが条理なので)、そこの葛藤を描いているのがこの小説。私はリウーたちの背中に崇高さを感じた。

名作たまには読まないとだめだなと思った。こういう本を読みたいんだよな。

ヘニング・マンケル/ピラミッド

スウェーデンの警察小説。
私はヘニング・マンケルのヴァランダー・シリーズが大好き。何回か書いているけど1作め「殺人者の顔」を本当なんともなしに買い、それからシリーズを読み進めるのは本当良い読書体験だった。なかなか苦しい時期だったこともあって良い思い出。作者ヘニング・マンケル氏は非常に残念ながら2015年に逝去されてしまった。ちょっと横道にそれるのだが、ご冥福を〜のようなコメントももちろん良いのだけど作者が生きているうちに手紙(今は紙媒体でなくてもよいわけだし)でも認めたほうが良いのではって気がしてする。

さてこの本はヴァランダーがまだ若い頃、というか警察に勤めだした制服警察官の頃から始まって、前述のシリーズ一冊目の「殺人者の顔」の本当手前(最後の「ピラミッド」はこの事件の冒頭で終わるという形式)までを時系列順に並べたもの。ヴァランダーの何が良かったかってそれは冴えないおっさんだからだと思うんだけど、どんなおっさんだって若い頃があったのだ。信じられないだろうけどそうなのだ。どの物語か忘れたけどヴァランダーは娘が誰と付き合っているか気になって尾行して「何やってんだ俺は」と思ったり、女性とデートする前に服にソースをこぼして凹んだりする、まあ結構なおっさんである。優秀な刑事ではあるけど癇癪持ちで独断専行が多すぎる。いわばそんな彼ができるまでを描いているのがこの短編集だ。人はそう簡単に変わらないもの、それは確かでなるほど元々彼の個性は若い頃があるし、逆にそうでないものもある。ヘニング・マンケルは本当巧みな作家だと思うのは言葉少なに(この本結構な厚さはあるんだけど、文章は極めて簡潔で読みやすい。翻訳者柳沢由実子(敬称略)の技量ももちろんあるはず。)、ヴァランダーの心構えの変遷を書いている。それはナイーブさかというとちょっと違う。冒頭少女に糾弾される場面はその後年を取ったヴァランダーの心に引っかき傷のように残り続けたわけだし。ナイーブさを覆うからのようなものが次第に形成されていく。それは防壁であり、生きる知恵であり、若者からしたら諦めやずるさ、つまり(汚い)大人の象徴でもある。繰り返しになるけどおっさんって自然におっさんの状態で発生するわけではないんだ。若者が老いておとなになっていくのだ。それをグラデーションで書いたのがこの連作短編集なのだ。だから次第に、増えていくシワのようにおっさん味を増していくヴァランダーには失っていくもの、そしてかわりに獲得していくものが(おとなになってもいいことはあると思うんだ、私は。辛いことも多いけど。)淡々と書かれている。汚い方便に見えてもそれが強靭さだったり、熟練だったりする。大人の悪いところは説明不足なところなのだ。自分がすでに経験してきたことだからある程度わかっているわけで(ただそう思い込んでいる場合も往々にしてあるのだが)、それをせめて年下の人たちには丁寧に説明してあげればよいのだが、どうしても例えば「〜するな!」のような高圧的な命令になってしまう。そりゃ老害とも呼ばれてしまう。ヴァランダーの父親を一つ上に配置することで、その関係性がもう一個入れ子構造というか多層構造になって俯瞰的に読者が気付けるるようにもなっている。良し悪しで判断すればヴァランダーの父親は良い人物ではないけど、でも2人の親子関係とても良いものにも見える。ヘニング・マンケルというと社会派と言われて実際そうだと思うんだけど、こうやって普通に身近なことをはっと気が付かせる、そういう優しい視点を常に持っている。だからやっぱりのめり込んで読んだのだなと思った。

刑事ヴァランダー・シリーズは冊数もあるのでまずこの一冊を手にとって見るというのは良いかもしれない。実はまだ未訳の作品もこの後邦訳が控えているということで嬉しい限り。

2018年5月5日土曜日

xRepentacex/The Sickness of Eden

イギリス南東部のハードコアバンドの1stアルバム。2015年にCarry the Weight Recordsからリリースされた。
バンド名の前後に「x」がついていることからも分かる通り(ヴィーガン)ストレート・エッジのバンド。結成は2013年。音楽的にはニュースクール・ハードコア/フューリー・エッジに属する。ここのところフューリー・エッジかっこいいなと思ったのだが、最近感想を書いたArkangelやSentece、Reprisalなどはいずれもすでに解散しているバンドなので現行で彼らのスタイルを引き継いで活動しているバンド、ということでこの音源を買ってみた。

「エデンの病」というタイトルもそういう世界観も含めて引き継いでいることが分かってニヤリとしてしまうが、中身の方もまごうことなきフューリー・エッジ。ただこれも単にリバイバルというよりはかなりモダンな形にアップデートしている。メタル的な表現は何と言ってもSlayer直系と称される単音リフを中心に、さらにその周辺部にはよりメタリックな音を惜しげもなく配置。落とし所だけでなく、単音リフの後ろ側に単音にこだわらない低音ゴリゴリリフを入れているので圧倒的に迫力が増している。ニュースクールな悲鳴のような高音ハーモニクスも随所に配置していて、とにかくモッシーでいかつい。えぐい感じでゴロゴロいっているベースがなんともハードコア的。随所にその不穏な鎌首をもたげている。ボーカルは完全にハードコア・スタイルの喉をからして叫ぶ高音特化タイプ。
いいなと思うのはただ落とすだけでなくて、つまりモッシュパートのみが本番で曲の後の部分はただそこにも低くまでの前奏にすぎない、というパターンではなく、きっちり速いパートもえらくかっこいい。単音リフにブリッジ・ミュートをかませる中速パート、低速に落とし込むパートももちろん、高速で疾走するパートもきっちり練り込まれていて文句なしにかっこいい。
表現力を豊かにするためにメタルの要素を取り込んだ、とはよく聴くけどフューリー・エッジはシンプルかつ、あくまでもハードコアなのでここの混交が結構理想的なのではなんて思ってしまう。途中世界観を煽るインストを挟みつつ全8曲22分であっという間に終わってしまう。無駄な要素一切なし。あまりリフレインがなく、一直線に進んで終わっていくというのは、なるほどメタル的ではなくてハードコア的な要素なのかもと思った。

いかついハードコア聞きたいなら是非どうぞ。パワーバイオレンスとは全く違う野蛮さ。

Daïtro/Laisser Vivre Les Squelettes

フランスはリヨンのスクリーモバンドの1stアルバム。オリジナルは2005年にリリースされた。ちなみに日本盤もリリースされたようだ。私が買ったのは2017年の再発盤(LP)で、こちらはEcho Canyonからリリースされた。なんかも再発されているようでまさに名盤の証といった風情である。タイトルの和訳をGoogle先生に聞くと「ライブスケルトンを放つ」という難解な答えを返してきた。かつての日本盤のタイトルは「白骨の命を乞う」だ。何となく分かるような。
Daïtroは2000年に結成されメンバーチェンジを経てかなりの数の音源をリリース。Heaven in Her Amrsの招聘で来日したこともある。残念ながら2012年に解散。私は後追いで(Article of Paradeというコンピに1曲入ってるのを持ってた)とにかくフレンチ激情といったらこのバンドで、国内のみならず国外への影響も大きいと聞いてあわててオーダーしたのだ。(初回のオーダーは早めに売り切れたので2回め。)

激情系という言葉は日本独自のカテゴライズで、海外で言えばエモかスクリーモ、エモバイオレンスというらしい。そうはいってもなんとなく激情というぼんやりとしてジャンルが自分の頭にはあって、envyを筆頭に日本のバンドがいくつか浮かんでくる。この間ライブを見たCity of Caterpillarもそうだけど、その日本の激情の頭で聞くと音楽的にはだいぶ隔たりがあって驚く。Daïtroに関してもやはり似た印象があって、静と動が同居したドラスティックな曲展開。叫びとつぶやきのコントラスト。ボーカルレスのパートにかける尺の長さなどはたしかに「激情」に通じるところがあるけど、それだけでは説明できない何かがある。City of Caterpillarほど削ぎ落とされて、それでいて筋肉質というわけではないが、Daïtroもやはりシンプルだ。
そんな中で目立つのが荒々しいけれども元の音の素材の良さが活かされたジャカジャカしたギターだろう。これが高音を奏でる1曲めのイントロでまずぐっと引き込まれるし、その後も確かに後続に影響を与えたであろう、爪弾かれるギターの余韻に潜む叙情や、なによりブラックメタルのトレモロを彷彿とさせる(音も密度もトレモロとは言えないと思う)溢れ出る感情をメロディに溶かしたようなリフ。その後発展していく激情の萌芽というか種子のようなものはあちこちに散らばっている。決して今の日本の激情を否定するわけではないのだけど、でもやっぱりそれだけでない気がしてしまう。一つには飾らなさ、があるのではないか。ちょっと語弊があるがスケールの小ささ(というより肥大化させないということ)といってもいい。手の届く範囲の出来事をそのまま歌にしているような感じがある。とくにポスト・ハードコアというのはときに宇宙に到達するような浮遊感を芸術性に昇華していく、壮大な運動力学があると思う。過剰なドラマ性というか。それはDaïtroでは一切ないよなと。ギターの音もそうだけどむしろ地に足がついている。この泥臭い感じ。
wikiにはDaïtroはDIYバンドだと書いてある。いうまでもなくDo It Yourself。ハードコアとくに激情というシーンだとこの言葉はよく聴く。(日本にはkillieがだいぶ厳格なやり方でその路線を走っていると思う。)このDIYというのは、バンドの音楽性を紐解く一つの鍵になっているような気もする。

音楽は進化していくものだし、技術の発展とともに音もアップデートされていくものだ。どんなマイナーなジャンルでも流行り廃りがある。私は昔の激情がリアルで今のがフェイクだとは全く思わないけど、City of Caterpillarのライブやこういった音源を体験するとちょっと今昔で差があるのが面白いなと感じたのだ。きっと今でもこういういわばオールドスクールな激情音を鳴らしているバンドもいるだろうから、現行のそれらも聞いてみないとなと、思った。

Will Haven/Muerte

アメリカ合衆国はカリフォルニア州サクラメントのハードコアバンドの6枚目のアルバム。
2018年にMinus Head Recordsからリリースされた。
同郷DeftonesのChinoが出ているMVで名前を知ったバンド。今作でもDeftonesのギタリストStephenがゲストに参加している。DeftonesはニューメタルバンドだがこのWill Havenはいわゆるニューメタルというジャンルには共通点があっても、そこにカテゴライズされることはあまりないのではないか。ハードコアというジャンルで語られることがあるが、なんとも言えない独特の音を出している。自らの音楽性をしてノイズ・メタルと称している。アルバムタイトルはスペイン語で「死」の意味。

基本的には前作「Voir Dire」(こちらは予審尋問という意味)の作風を踏襲する形。分厚い音で鳴らすハードコア/メタルコアなのだがニュースクールとは一線を画す。タフで筋肉質というよりは暗くて鬱屈している。ただしボーカルはほぼ(6曲目はYOBのボーカリストがゲストとしてあの独特な声でメロディのある歌を披露する。)叫びっぱなしで、かと言ってギターリフがメロディアスなわけでもない。暗いハードコアという感じでリフが独特。あまりミュートを多用しないのでいわゆるモッシーな仕上がりではなく、垂れ流しているような気怠さ、倦怠感に満ちいている。かといってドゥームのようにひたすら遅く遅くというわけではない。雰囲気すら漂う冷徹で重たいリフを、いわばノイズのようにぶちまけることでその音楽性の土台を作っている。この迫力はあるがぼんやりとしたところのある存在感のある音がWill Havenの音を独特なものにしていて、このやや曖昧と言っていいほどの巨体に、クリーンな単音リフ、コード感のある生々しいや時にインダストリアルにすら聞こえる金属質なギター(これはちょっとニュースクールの要素があると思う。)を重ねていく。またわかりやすくも、踊り(暴れ)やすくもないが、そこはハードコアというわけでリズムは結構かっちりしている。この相克が黄昏の宵闇のようなどっち付かずの、重苦しいがかといって弛緩しきっていない緊張感のある風景を描き出す。
展開はあるもののビートダウンなどの”落とし”はやらない、クリーンボーカルはいれないがかといってブラッケンドのようなわかりやすい小技を導入してメロディを補填するわけでもない。暗くて陰鬱だがポスト系のような荘厳な美麗さは取り入れない。はやりのわかりやすさは一切使わないバンドだが、それでも曲をコンパクトに纏めること、メタル化しないこと(過剰な装飾や物語性がない)でハードコアの範疇にとどまりつつ、オリジナリティのある音を鳴らしている。グルーミィであるという点ではなるほどDeftonesと共通項はあるなと思う。

独特の美意識で構成されたハードコア。退廃的な雰囲気すら漂うが、締めるところはきっちり締めてハードコアになっているからすごいなと思う。