2017年9月24日日曜日

Khmer/Larga sombra

スペインはマドリードのネオクラストバンドの2ndアルバム。
2017年に複数のレーベル、WOOAAARGH、Long Legs Long Arms、In My Heart Empire、Halo Of Flies、The Braves Recordsからリリースされた。
私が買ったのは日本盤のLPでこれはLong Legs Long Armsからリリースされている。この通称3LAというレーベルはこのKhmerというバンドに黎明期(バンドは2012年結成)から注目しており、ディスコグラフィー含めて幾つかの音源をリリースしている。前回のノルウェイのLivstidとのスプリットもそうだったが、今回も上質の紙を利用した二つ折りジャケットを使った特殊な装丁から始まり、スペイン語の歌詞とそれを日本語に訳した(曲名全てに邦題をつけている徹底ぶり)小冊子がついている。小冊子にはバンドのボーカリストMarioの手による絵が収録されている。ただ帯をつけて日本盤としてリリースするレーベルもあれば(これも発売してくれるという意味では有益だとは思うが)、こうやって手作りで物理的な距離と言語の相違を埋めようとしてバンド側の言わんことを日本人のリスナーに伝えようと奮闘するレーベルもあるものだ。

さて装丁も素晴らしいこの作品タイトルは「長い影」。聞いてみると結構難しいなと。内容がイマイチというのではなく内容は素晴らしく、ディスコグラフィーをこのタイミングで聞いてみると音の拡充ぶりがただならぬことになっており、その表現力には改めて驚かされるわけだが、このいわば拡大し、充実し、芳醇になったハードコアを一体なんと言ったらいいかわからなくなったのだ。「Khmerね、はいはい、ネオクラストっしょ。新作、いいね。」といってしまえば良いのだが、個人的にはこの作品を聞いてみてそもそも一体ネオクラストがなんなのかという問題に直面してしまった。正直今までの音源だとブラッケンドなクラスト・コアなんですかね〜くらいの認識でいたわけで、それがまあつまりネオクラストすっかね…という感じだったのだが、今作を聞いてみるとあまりブラッケンドな感じがしなくてちょっと驚いてしまったわけです。
ブラッケンドはそもそもブラック・メタルに特有な音的特徴を他のジャンルに持ち込んだもので、一番印象的なのは何と言ってもコールドなのにメロディアスなトレモロギターだろう。この要素は(もともとあったものだが)シューゲイザーやドリーム・ポップの方面にまで(ときにはAlcestのようにブラック・メタルを通過しつつ)その触手を伸ばしている。今回のKhmerの新作ではあまりこのトレモロを使っていない。Khmerはだいたいがその黎明期からあまりミュートを使った力強いメタリックなリフをメインの武器に数えてこなかったから、ノンストップで弾きまくるハードコアなリフがその持ち味であり、今作でもそれは多用しているのだが、あまりこう型にはまった美麗トレモロという感じではない。ギタリストは一人なので必要性から、そしておそらく目指している音の方向性から低音に特化して極端に重たくエフェクトをかけるやり方ではなく、低音から高音まで全域を贅沢に使って、アッタクの音も生々しくも非常に厚みのある(温かみのある)音に仕上げている。実際のところは分からないがコード感にあふれていて6つの弦すべてがなっている印象といえば伝わるのではなかろうか。音がギュッと詰まっていて、弾き方についても単にオルタネイトに弾きまくっていくトレモロとは違う。もっと余韻を活かしたひねりのあるもので、腕の振り方というのか程よく音を抜いていて緩急がついている。非常にメロディアスという意味ではブラッケンドに共通点があるが、メロディは別にブラック・メタルにしかない要素ではないので、これはもっと別の何かだろうと思う。あえていうならもっと色鮮やかな何かである。別に明るいわけではなく、むしろ確実に暗い方だと思うがその黒さは単に黒一色で塗りつぶすのではなく、無数の色彩が兼ねられているような印象だ。(レーベルでは「哀愁」といっててなるほど!と思う。)
慌てて過去作を聞き返してみると、やはり単純なブラッケンドとは明らかに一線を画す曲を展開していて、そういった意味では軸がぶれていない。私の聞き込みがあまかったというのと、黒と白の世界に大胆に色彩を持ち込んだかのような大胆な音の使い方を持ち込んだことでその異質さがより明確に現れたのがこの2ndアルバムなのでは。(特に1stと聴き比べてみると大変面白い。)たとえば曲にわかりやすいメロディ(流行したメタルコアのサビのような)を持ち込んだとしたらわかりやすく、そして感情的になるがそうではないところに美学を感じる。歌詞もそうだが、そうそうわかりやすくはなく、感情を溶かしてリフと曲に塗り込めている。それで書いたのがこの絵(アルバム)というわけだ。そういえばMario(デザイナー/グラフティアーティストとして活動している)のアートワークは完全にモノクロで構成されているのも面白い要素だと思う。
ちなみにMarioのボーカルは特徴的でしゃがれていて、やはり低音強くないので強いて言えばこの要素はブラック・メタル的だが、持って生まれた天性もあってこれだけでブラッケンドというのは個人的にはちょっと難しいかな〜という感じ。
個人的にはブラッケンド≒ネオクラストくらいの適当な感覚でいたもので、今回の音源はそういった意味では違うのか〜という驚きがあって面白かった。

歌詞を読むとかなり長さがある。多分あまりリフレインがないのだと思う。その世界観は抽象的だが読んでみるとかなり個人的であって驚く。まるで人の日記をこっそり読んでいるような感じがある。例えばラストの曲のタイトルは「孤独」という意味なのだが、歌詞はアルバム全般に渡って結構閉塞感がある。いわゆるハードコア的な歌詞(打ち倒せ、もしくはユナイトしろ)とは一線を画す。どうしてもTragedy以降という認識があるんだけど、歌詞の内容は明快にクラストだったそこからもう一歩進んだのがネオクラストなのだろうか。激情というと悩んでいる内省的な(歌詞)世界が曲に反映されているから似通っているところはやはりあるのではともおもう。

とにかく曲と音の充実ぶりに驚く新作。暗くもメロディアスな作風は日本人に結構あっているのではと思う。Khmer気になっていたけど、という人は是非今作からどうぞ。

Coke Bust/Confined

アメリカの首都コロンビア特別区(District of ColumbiaでD.C.)ワシントンのハードコアバンドの2ndアルバム。2013年にGrave Mistake Recordsからリリースされた。その後スプリット2枚とライブアルバム1枚をくっつけた「Confined/Anthology」という同じジャケット(手に取ったわけではないのでひょっとして違うかも)の編集盤もリリースされているが、私はBandcampで購入した9曲入りの「Confined」。たしかユニオンの中古LPのところでよく見るな〜と思って買ってみた次第。とにかくジャケットがかっこいい。メンバーの一人はMagurudergrindのメンバーらしい。ストレートエッジのバンドである。どうもCoke Bustというのはちょっとふざけたバンド名らしい。(なんだろうコーラの胸???スラングでしょうね。twitterで教えていただいたのですがコカインで逮捕される、という意味だそうです。)

全9曲を9分4秒でやってのけるわけだからフルアルバムったって、普通のアルバムを聞く間に4周くらいできるコスパの良いアルバム。(最近の人はとにかく損をしたくないらしくコスパの良さを重視するよな。)とにかく激烈な音を出しているので「ウヒョーこれはパワーバイオレンス…!」と思ってしまうのだが、じっくり聞いてみるとちょっと違うかもな、というのが私の印象。
ノイジーなフィードバックにまみれたハードコアで(このアルバムでは)1分20秒より長い曲は存在せず、露骨な速度のチェンジが短い曲中で何回もある。ここまではOK。このバンドあんまりスラッシーではない。ミュートを挟んだメタリックなリフは使わないという意味で。もちろん使わないわけではないのだが、疾走するパートでは特に伝統的なハードコアの流れをくむジャージャーと休止を利かせない弾きまくるリフを使ってくる。下手すれば単調に聞こえるわけだけど、単にアップダウンで弾くのではなく抑揚は聞いているし、コード進行がよく練られているからか非常にかっこよく、かつキャッチーである。
昨今のパワーバイオレンスというと速度のチェンジ、というか低速パートに落とし込むいわゆるブレイクダウンが大胆に取り入れられており、洗練されたそれより音も汚く、ラフなアトモスフィアを感じさせるそれは遅いハードコア、つまりスラッジコアからの影響を強く感じさせる事が多い。一方速いパートはとにかく速いので、同じ曲の中で両極端を行ったり来たりするという醍醐味があるわけなのだ。しかしこのCoke Bustはそのスラッジ的な成分はあまり感じられない。遅いパートはあるのだが地獄のように遅く、引きずるようなそれではない。むしろ中速くらいで一点突っ走ったリフがちょうどよくグルーヴィにうねりだすイメージ。速度を落としても結構音の数は多い。踊れる(つまり暴れる)ハードコアというハードコア的なノリの良さはありつつ、現行のパワーバイオレンスとは微妙に一線を画す攻め方、曲の作り方である。
そう考えると前述の速いパートのリフもそうだが、パワーバイオレンスというか往年のハードコアを激速で演奏しているのがこのCoke Bustなのでは、という感じがしてきた。たしかに高速に対応する低速パートがあるわけだけど、そこもうまく自分たちなりの色を出していてちょっと他のパワーバイオレンスとは結果違うなと。ファストコアのモダンなアップデートみたいな感じだろうか。

パワーバイオレンスじゃない!ってわけではなくてよく聞くと結構面白いことやっているなあという感じで、人々がパワーバイオレンスに求める爽快な暴力性はきちんと備わっている。速いパートでも遅いパートでもスラッシーではない、リフのかっこよさがあるので大変聞きやすい。気になってい人は是非どうぞ。

2017年9月23日土曜日

ジェフリー・フォード/ガラスのなかの少女

アメリカの作家の長編小説。
山尾悠子さんの本が読みたいけど高いな〜と思っていたところ、彼女が訳している本があるという。それがジェフリー・フォードの「白い果実」という本でこちらもやはりというか国書刊行会から出版されておるわけで、それならまず作者の違う本を読んでみるかと思って手に取ったのがこの本。絶版なので中古品を購入した。

1932年のアメリカは大恐慌真っ最中。市民は貧困に喘いでいるが、金はあるところにはあるものだ。17歳の少年ディエゴはメキシコからの不法移民で今はインド人になりすまし、インチキ霊媒師トマス・シェルを父親代わりに詐欺を働いて生計を立てている。ある日訪れた金持ちの屋敷でシェルが本物の幽霊の少女を目撃、彼女はその少し前に失踪していた。ディエゴたちは彼女たちの失踪事件を調べ始める。

どうもジェフリー・フォードというのは山尾悠子さんが翻訳するくらいなので、普段は幻想文学のジャンルで活躍している人のようだが、この小説は霊媒師という”不思議”を扱いつつも結構真面目なミステリーになっている。この小説でアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したというのだからなかなかどうして器用な人である。禁酒法が幅を利かせており、人種差別が色濃く残る過去のアメリカのミステリーというとまっさきにジョー・ランズデールの名作「ボトムズ」が頭に浮かぶし、実際その雰囲気もいくらか共通していると思うのだが、こちらの方は「ボトムズ」ほど暴力的ではないし、むせかえるような南部のねっとりとした闇は書かれていない。フォードの幻想文学という出自もあってかもっと上品に(しかし差別や歴史の暗部に鋭くメスを入れる批判精神は負けていない)書かれているのが本作だろうか。ロマンスあり、弱い立場にいるものたちが団結して巨悪に立ち向かうという構図の胸のすく冒険的な展開もあり、さらには主人公が大人になりきれない17歳というのもあってヤングアダルト小説と言ってもいいくらいの雰囲気がある。
主人公が過去を回顧するという形式もあってか昔のアメリカのセピア写真を見ているようなノスタルジーがあってそこが魅力。インチキ霊媒師やフリークスなど、現代ではおそらく善意によって生きられない存在がたくましく生きている姿が端正な文体で描写されている。ディエゴのターバンを巻いたオンドゥーの格好もそうだが、ややゴシックな香りがするのだが、もちろんそれも虚構であって中身はもっとしたたか。蝶を愛するシェルというキャラクターの性で腕っ節で生き抜くアンダーグラウンドというより、華麗に人を煙にまく幻想味といった空気感になっている。

がっちりした男たちによるミステリーと言うよりは、どこか奇妙の色合いのする謎めいたミステリーと言う感じなので、そんな感じの世界観が好きな人は是非どうぞ。
私も楽しく読めたのでいよいよフォードの書く幻想文学の本も読んでみたいと思っている。

2017年9月18日月曜日

Queens of the Stone Age/Villains

アメリカ合衆国カリフォルニア州パームデザートのロックバンドの7枚目のアルバム。
2017年にMatador Recordsからリリースされた。
元Kyussのなんていう言葉はもはや不要になっているJosh Homme率いるロックバンドの最新作。ビルボードで3位、英国では1位、iTunesでは日本含む各国で1位になっているらしい。要するにとても売れている。この夏にはFujiRockに出演して大いに聴衆を沸かせたそうだ。
元々私は学生時代に友達から教えてもらったのが知ったきっかけ。「Songs for the Deaf」の頃で「Go with the Flow」はいいけど、友達が押している「No One Knows」はそこまで…って感じだった。(当時はグラインドコアとかを好んで聞いていた。)それがなんのきっかけかは忘れたけど再発された1stを買ったらこれにハマって、結局アルバムを買い揃えることになった。なので新作出たら買うぜとなったわけ。

プロデューサーにMark Ronsonという人を迎えていてどうもそれが結構な驚きとともに迎えられたらしい。私は知らない人なのだが調べてみるとヒットチャートによく出るような音楽を主にプロデュースしている人らしい。QotSAはいってもその出自はアンダーグラウンドであるから、そうやって表舞台の仕事をこなしている人を起用するというのは結構意外な出来事だったのかと思う。
さて多分山崎さんのサイトで見たのだと思うけど、JoshはQotSAの音楽をストーナーと評されるのをたいへん嫌っており、ロボットロックだよ!と彼の作った言葉で読んでくれといっているらしい。このロボットロックというのは機械的にという意味で確かにリフをリフレインしていく様はロボットのようだ。QotSAは面白いバンドでどんどんメジャーになっていく(というか私が知った3rdの頃は(その時点でKyussは知らなかった)とっくにメジャーなバンドだったんだけど)けどどこかのアルバムの時点で強烈にその音楽性を変えたわけではないけど、自然に少しずつ洗練されていって表舞台に出てきた、というイメージが有る。私は1stでハマッているから懐古主義者というわけではないけど「Avon」や「The Bronze」(ギターソロがめちゃかっこいい)、それから一番が「In the Shade」(ちなみに歌詞もすごく良いのだ)ってな具合で昔の曲のほうが好きかも。そんなもんで長くなってしまったけどもうロボットロックではないかな〜なんて思っていたのだが、いざ買って聞いてみると「Feet Don't Fail Me」のイントロなんてまさにロボットロックじゃん!音こそ初期のそれとは違う軽くて乾いたものだけど、まるで戯画化された工場の流れ作業を視覚的に聞いているようだ。
Joshはもっと光の中に出ていきたかったのかもしれない。7枚というアルバムの中で初期のこもって埃っぽく重量感のある、いわばストーナーの幽霊というか呪いを引きずった音(私はこの音も超好きなのだが)が徐々にJoshとバンドから落ちていき、そして残ったのが、もっと普遍的に”楽しい”(このバンドは暗い曲はいっぱいあるけど陰鬱とまで突き抜けた、あるいは落ち込んだ曲はないし、アルバムで見ればどれもやはり楽しい。)ビートがそのままリフになり、それを繰り返していくような”ロック”が残ったのかもしれない。「悪者たち」というタイトルには「ロックって悪いものでしょ」というJoshの思いが込められているとのこと。このアルバムの音は枯れたように軽く、ゆったりとしており、そしてとにかくJoshの声は演奏に縛られないくらい(音を軽くして更に歌が自由になった印象)自由だ。楽しくて、しかしでもやっぱり鈍く光るロックのかっこよさがある。それは枠にとらわれない”悪さ”でもあるのだ。演奏はソリッドだが、歌う声の艶もあって出来上がった局は非常に幻想的で浮遊感すらある。ソリッドでかつ浮遊感があるのだ。この相反する2つの要素を徐々に完成させていったのがQotSAなのだ。バンドからしたらこれはまだ通過点だろうがそれでもやはり初期から聞いていると、その進化っぷりにすげーなと思わせる。革ジャンをきて荒野を歩く大きい背中のJoshのバンドの最新作である。かっこいいぜ。

ハーメルンの笛吹き男のように男の子(と女の子)を惹き寄せてやまないQueens of the Stone Ageの新作。ロックが好きな人は是非どうぞ。おすすめ。

2017年9月17日日曜日

GASP/Sore For Days Demo'96

アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスのパワーバイオレンスバンドのデモ音源。
1996年に自主リリースされていたものが2017年にDark Symphoniesから再発された。もとはカセットだったが、今回はCDのフォーマットで再発。
Gaspは1996年から1999年まで活動していたバンドでフルアルバムは1枚のみしかリリースしていない。ベーシストの女性はDespise Youでツインボーカルの片方をやっていた人のようだ。InstagramやFBでの動きがあるのでどうも再活動を始めているような感じがする。Full of Hellが影響を受けたアルバムとして彼らの唯一のフル「Drome Triler of Puzzle Zoo People」(これはかのSlap a Ham Recordsからリリースされた。)を挙げていたので気になっていたのだが廃盤だしな〜と思っていたところ図ったようなタイミングで再発されたので買ってみた次第。

なんとなくパワーバイオレンスにノイズを加えた激烈なショートカットチューンをやってそうな先入観があったのだが、果たして聞いてみると結構印象が違った。
このデモ音源には8つの曲が収録されていて、トータルタイムは約28分だから結構この手のジャンルにしては尺が長い。
不穏なニュースのSEから幕を開ける1曲め表題曲「Sore For Days」からして圧倒的に遅い。ヌケの良い乾いたドラムがパタパタ刻み、その上をジリジリノイズがかかったギターが叩きのめしたような牛歩リフを奏でていくさまはどう聞いてもスラッジコア。タフというより何かに追い詰められている、もしくはそのたぐいの妄想を抱いている偏執病患者のような病的な声でタフなハードコア、パワーバイレオンスのそれとは明らかに一線を画す。もったり陰鬱なスラッジから、不穏なアルペジオを挟み突如切れたかとのように疾走パート(曲によってはブラスビートを入れているのでグラインドコアといっても差し支えないはず。)に突入する。パワーバイオレンスといっても色んな形があるが、その一つに低速から高速を中間を挟まずに移動する、というのがある。今でこそ目新しくないが、Gaspはこれをもっと時間を贅沢に使って表現している。スラッジパートはスラッジバンドのそれと同じように楽しめるし、激走パートはファストコアさながらである。今はいいとこ取りがパワーバイオレンスの醍醐味見たくなっているが、Gaspの場合はこれを馬鹿正直に1つの曲に丁寧に両パートを演奏する。曲によってはそのつなぎに不穏なパートを入れて、唐突な激速チェンジに一旦かませることで違和感を減じようとしているのだ。これは今ある程度パワーバイオレンスの方が決まっているから、こういうことができるけど当時はこれが試行錯誤の果にあった最先端だったのだと思う。これを今再発するということがどういう意味を持っているかを考えると特に。
(今聞いても)たらたら長いパワーバイレオンスにならずに、私からすると奇形のスラッジコアと言う印象が強くてめちゃかっこいい。逆に型にはまっておらず非常に自由だ。ある程度長い時間を使って曲を演奏するからこそできる、パワーバイレオンスだと思う。「何日間ものひりつく痛み」というタイトル(医者が言うセリフのようだ)が不穏である、病的なジャケットもやはり一捻りした厭世的スラッジの成分を感じてしまう。

世界で1,000枚限定とのこと。現時点では普通に店頭に並んでいるので気になっている人は早めにどうぞ。パワーバイオレンスファンはもちろん、Griefなど往年のスラッジバンドのファンにはピッタリあってくる音楽だと思う。
このアルバムはノイジーであるもののハーシュノイズの要素はあまり感じられず、話を聞いているとどうもフルアルバムはまたこの音像とは全く異なるらしいので、再始動をしている今他の音源も再発されないかなと、密かに期待しているものである。

2017年9月16日土曜日

エドワード・バンカー/ストレートタイム

アメリカの作家による長編小説。
原題は「No Beast So Fierce」、どうやらシェイクスピアの文(創作物の一部なのか、格言なのかはわからないが)の一部からとっているらしい。
1973年に発表された小説。
さて世の中にはいろいろな作家がいるが、このエドワード・バンカーという人はプロの犯罪者だったという意味で非常に珍しい経歴を持っている。プロというのはつまり犯罪で飯を食っていたという意味だ。この長編は彼が獄中で書いた(おそらく)フィクションの第一冊めということで、もちろん創作だがその多くは本人が実際に体験した事柄で構成されているようだ。あとがきでも触れられているとおり、私の好きなジェイムズ・エルロイも怪しい経歴と収監歴があるが、バンカーのように完全に犯罪をなりわいにしていた人とは明確に異なる。日本でも元ヤクザの作家の方がいるが、どうもバンカーは特定の組織に属さずに一匹狼でやっていたようだ。ギャングに関しては組織だって金儲けに特化しているが臆病だとこの作品中でバッサリ切っているのは面白い。

マックス・デンボーは31歳で仮出獄を迎えた。物心ついた頃から犯罪を働き、幼くしては感化院、ある程度の年を食ってからは監獄とシャバを行ったり来たりの毎日で、この度は八年間のお勤めを食らっていた。八年間の間にマックスは改心することを決意。もう二度と(少なくとも)重犯罪には手を出さない。まっとうな職業を得てカタギとして生きていく。しかし獄中から送った履歴書はことごとく不採用の返信が。自分には犯罪者の知り合いしかいない。果たしてまっとうに生きていけるのか、マックスは自由になれる喜びと同じくらいの不安を抱えながら出所の日を迎える。

私は犯罪者でないからこの小説がリアルであるか?という判断はできない。しかしこの物語では他の犯罪小説が書いていない(知らないのでかけないということだろうと思うが)犯罪者の生活、彼らが犯す犯罪について事細かく書いている。麻薬の隠し場所、使い方、強盗に入るときの心得、盗品の捌き方、犯罪と犯罪の合間に彼らがすること、それから犯罪者の家族に生まれるということがその後の生活どういう影響を及ぼすかなどなど。マックスの目を通して平明な文体でサラリと書いてある。(もちろんフィクションだから誇張や省略大いにあるだろうが、決して大げさに書かないのがバンカーの流儀らしく、私はそんな文体がとても好きだ。)
マックスは犯罪者以外の生活しか知らないし、当然周りの人も(出所したとしても)犯罪者として扱うので、彼は自然に昔の生活に引き戻されていく。この生き方しか知らない、といえばかっこいいが、実際にはそんな格好いいものではない。当然周囲の圧力に負けずにカタギとして改心して生きている犯罪者もいるわけで(おそらく作者もこの本を書いたあとはまっとうに生きている)、そういった意味ではこの小説はマックスによる長い言い訳でもあるのだが、それでもなかなかどうして元犯罪者というのは辛い目に合うのである。面白いのはそれでももしあなたが隣人を選べるとして、犯罪履歴のある人とない人どちらをえらぶだろうか?私はきっと犯罪歴のない人を選ぶだろうと思う、臆病者だから。マックスが悪さを犯すことを言い訳するように、私も適当な言い訳で犯罪者を差別して圧力をかけていることになるわけで、なんとも素晴らしい世界が構築されていくさまが見えるようだ。私は犯罪をおかすことは悪いことだと思うし、やはり懲役を終えても周囲の人が同じように扱うのは難しいし仕方のないことだと思うが、元犯罪者だからといって不法に不当に扱えばそれは犯罪である。その場合は犯罪者を犯罪者と断罪せしめたまさにその法で裁かれるのは当然であると思う。
デニス・ルヘインの「夜に生きる」だったと思うが、やはり犯罪者の主人公が犯罪者というのは生き方で、とにかく他人のルールで生きるのはまっぴらゴメンである、というようなことを言っていてこの小説の主人公マックスもやはり同じように感じているのが面白い。彼は誰にも守られない立場で育ったので、根本的に豊かに育った人々(例えば私のような)とは根本的に考え方が異なる。彼らは怒りで生きているようだし、実際そのようだがマックスも言うとおり人間というのはどんなときでもいかっているのは非常に難しい。そしてどんな手段で手に入ったとしてもお金はお金で、犯罪者は稼いだ金を湯水のごとく使ってしまう。一回ミスをすれば下手するとしぬ世界で、宵越しの銭はルールの中で生きているものとは異なった価値を持つ。犯罪者はこの世のすべてが虚飾で、金で楽しむ世界がかつて彼の尻を手ひどく蹴飛ばしたこともわかっているが、それでもそこで酔いしれずにはいられない。一体ルールの外で生きるとは何なのか、ルールは誰が作っているのか、本当のルーラーはどこにいるのか、私たちは誰の手のひらの上で踊っているのか、そんなことを考えるのである。

というわけで非常に面白かった。この小説はもう40年も前にかかれているのだが、犯罪者のというの何時の時代もいるし、使っているデバイスは変わっても彼らの心持ちというのはきっと大差がない。この本にはそういった意味で犯罪(者)の本質がある程度書かれているだろうと思う。気になっている人は是非どうぞ。ちなみ過剰な暴力描写なんかはあまりないのが驚きでもある。すでに絶版なので(しかし作者の他の長編「ドッグ・イート・ドッグ」がニコラス・ケイジ主演で最近映画化されているというのにその原作本すら再販しないって一体どういうことなんだろうと思わざるをえないのだが)、古本でどうぞ。

DEATH SIDE/BET THE ON POSSIBILITY

日本のハードコアバンドの2ndアルバム。
元々は1991年にSelfish Recordsからリリースされた。私は1stアルバムとともにリマスターの上Break the Recordsから再発されたCDを購入。
DEATH SIDE前作から二年後にリリースした2nd。もちろん1stと同時に購入したわけです。「その可能性に掛けろ」という希望に満ちたタイトル。バンドはこのあとはフルアルバムはリリースせずに1995年には解散している。

レコード屋のdisk unionが配布しているfollow upという冊子に今回のリマスターにあたってDEATH SIDEのボーカリストであるIshiyaさんのアルバム解説が乗っている。それによるとこのアルバムというのは、当時プログレに凝りだしたギタリストのChelseaさんがああでもない、こうでもないと1年以上もレコーディングを続けていてさらに終わりのみえない感じになっていた(非常に凝り性な方だったのだろう)のをIshiyaさんがある程度ディレクションをして完成に導いたそうだ。
もともと1stもハードコアとして素晴らしい攻撃性を持ちながらも、非常に表情豊かな曲が魅力的なアルバムだったわけで、その背後にはこのハードコア以外のジャンルに対する音楽的なバックグラウンドがあったのだろうと思う。(大体バンドをやっている人はとにかく音楽好きなのだから幅広い知見を持っているのはどのバンドでもそうだろうとは思うけど。)この2ndではさらにその方向性が推し進められており、インタールード的な曲の導入や一貫した世界観(Chelseaさんにはコンセプトアルバムにしたい!という希望があったそうだ。)、チャンネルを多用した録音、ピアノの音(!)などが取り入れられている。15曲と1stから曲数は落としているが、トータルは42分半と収録時間は伸びている。
ただ1stであった爆発するかのような推進力を失っているかというとそうではない。最後の曲が7分あるので実は1曲あたりの曲の長さも1stからそんなに変わっていない。このバンドはとにかく表現力がすごいと個人的には思うわけなんだけど、この2ndでは1stをさらに推し進めて、短く、速く、攻撃的というハードコアの枠の中で一体どれくらいの表現ができるのか、というテーマにチャレンジしている。速くて短く恐ろしい曲がハードコアの最高峰なら、Naplam Deathの名曲「You Suffer」があればハードコアはもう充分なはずではないか?
低音部だけでなく、中音域から高音域までを自由に使ったリフはなんとなくオリエンタルな雰囲気がある(1曲めや8曲目など!)、吐き捨て型のボーカルを彩る熱いコーラスワーク(にも曲によって非常にバリエーションが有る)、あいかわらずメリハリの効いた曲展開(ギターのアルペジオパートを導入するなど1stに比べるとかなり鮮やかだ。遙か後ののポストロックや激情に影響を与えたというと言いすぎだろうか。)、そこに込められた渦巻く感情の豊かさ(このあたりはただ怒りを撒き散らすのではなく、ただクソだと言い捨てられない世界に対する様々な感情を、「どうしたら良いのだ?」という一種のやるせなさに彩られた歌詞にこめているように思えて、個人的にはとても好きだ。このアルバムから歌詞はIshiyaさんも書くようになったとのこと。それまではChelseaさんが書いていたようだ。)、それを表現する叙情的なメロディ、そしてなにより技術一辺倒にはなりようがないトータルできっちりまとめるハードコア。
やはり8曲目の「Life is Only Once」が個人的には好きだ。テーマとなるリフがかっこいいし、その背後で黙々とリフを綴るようなベースも良い。その上に乗るギターは中音域がよく伸びて感情の高まりとともに高音域に伸びてくる。コーラスに彩られたボーカルがメッセージを吐き出すが、曲全体を覆う雰囲気はもっと複雑だ。そしてテーマを速度を落としながらリフレインするクライマックス。1stの「Mirror」が突進型ハードコアの一つの精華だとすると、この曲にはグラデーションがあって、ハードコアでありながらもそこを飛び越えようとするこのバンドの良さがギュッと詰まっているような気がする。

ハードコアでありながらも豊かな表現力が魅力のバンドだと思うし、まさにその限界に挑んだという感じがするのがこの2ndアルバム。個人的には非常に甲乙つけがたいのだけど、通して聞くなら1st。じっくり曲単位で聴き込むならこちらの2ndかな〜〜。是非1stとセットでどうぞ!

DEATH SIDE/WASTED DREAM

日本のハードコアバンドの1stアルバム。
元々は1989年にSelfish Recordsから発売された。私が買ったのは2017年にBreak the Recordsから三度目に再発されたもので、紙ジャケ仕様でリマスターが施されている。
DEATH SIDEは1983年、もしくは1984年頃に結成されたハードコアパンクバンドで1995年には解散している。近年何回か再結成の上、ライブをやっているようだ。
私も最近知ったのだが日本のハードコアというのはかなり独特で非常に先鋭的。日本でなく海外のバンドに多大な影響を与えたそうだ。時にバーニング・スピリットというサブジャンルで語られることもあるその手の音だが、「Burning Spirit」というのはこのDEATH SIDEというバンドの曲名である(この曲はこのアルバムでなくこのあとの2ndアルバムに収録されている)。また再結成して海外に遠征すればアメリカのニューヨークのライブハウス(700人入るという規模)が2日間瞬く間に完売するという人気がある。そんなバンドなので三回も再発されているのもうなずけるが、私は聞いたことがなかったのでこれを気に購入した次第。ボーカルのIshiyaさんが今やっているForwardのライブを何回か見て感銘を受けたというのもある。

全18曲を39分で駆け抜ける、1曲大体2分のハードコア。一般のポップスからしたら短いが、最先端のハードコアからすると馬鹿みたいに短くはないことがわかってもらえるだろう。ただその中には爆発するかのような突進力があり、それを120秒維持できる(ただ突っ走って120秒は長い)曲の構成力がある。
リマスターのせいもあるだろうが、楽器の音はどれもクリアでクラストのそれのように意図的に(あるいは環境的に)わざとたわませたような劣悪な音質で録音されていない。ベースとギターはどれもメタリックな硬質なカバーでその音を武装している。いわゆるメタリックなハードコアを演奏している。ギターは特に重量感のある太い音で曲に迫力を持たせている。基本的にミュートを多用せず(効果的に用いている場面は多々ある)、常に突っ走るように弾き、初期衝動に満ちたハードコアを自由奔放に描き出していく。だがそれならもっと曲が短くてよいはず。このギターと曲には実は結構秘密があると思う。
一つはリフが魅力てかつ多彩。ただただジャージャー、ジャージャー、ジャージャーとただ同じようなストロークでコードだけ変えて引くのではなく、きちんと抑揚がついたリフをかなりの速さで弾いている。(例えば「Laugh Til You DIe」なんかは速くて短い拍の中に乙一の多いリフがギュッとコンパクトに入って繰り返されているのがよくわかる。)速い、ミュートを使わないという厳しいルールの中で多彩なハードコアリフが詰め込まれている。後ろの演奏がこっているから基本吐き捨て型のボーカルだけど曲が非常に豊か。
もう一つ、曲がよく練られていてわかりやすい展開があること。それはリフの種類もそうだし、イントロ、Aメロ、サビのように明確に展開がわかれている日本の歌謡の影響もあるのかもしれない。(別にわかりやすいサビがあるわけではないが。)それからちゃんと聞くとハードコアのかっこよさのキモである速度(テンポ)のチェンジをうまく取り入れている。遅めのイントロから加速するのはわかりやすいし、ある程度の速度を維持しながらこっそり(ってわけでもないと思うけど)変えたりよくよく曲が練られているな〜と思うのはここらへんが由縁である。
短いけどたまに入るギターソロは昨今のハードコアのそれとは趣が異なり、かなり感情に満ちて叙情的である。コードの妙なのかわからないが曲もほどよくメロディアスである。ボーカルは叫びっぱなしなので、やはり曲が感情的なのだ。歌詞を見るとやはり怒りに満ちているのだが、その怒りを表現するにしてもいろいろな手法、アプローチでただ聞き手に叩きつける以上の成果物を提供していると思う。
とにかくアイディアと気配りがこれだけ込められているのに、結果曲からハードコアの初期衝動に満ちた攻撃性が全く削がれていないのが、この音源の一番すごいところ。凝ったリフ、メロディアスな叙情性すべて入っているが、完成したのは全くタフなハードコアだ。つまり技術的な説明をしてもこの音源に関してはその魅力を半分も伝えられないかもしれない。怒りに満ちて叫ぶのがハードコアならこのアルバムは最高のハードコアアルバムである。

前述の通り曲の良さに加えて、リマスターの質が非常に良いせいもあるのだろう、とにかく全く古びて聞こえないのでハードコア興味があるという人は(好きな人はもうすでに聞いているような気がするので)この機会に是非どうぞ。ハードコアってこんなに表現力豊かなのか!とびっくりすると思う。おすすめ。

2017年9月10日日曜日

ブライアン・オールディス/スーパートイズ

イギリスの作家の短編集。
ブライアン・オールディスといえば「地球の長い午後」が有名だろうか。いわゆるニュー・ウェーブの先鋒に数えられる人で、J・G・バラードとともにこのムーブメントの勃興と発展に大いに寄与したとか。(そういえばバラードの本は日本でも数多く出版されていてまだ読めるのに、オールディスはそうでないのはなぜなんだろう。)「地球の長い午後」は最近装いも新たに再発されたはずで私も買って読んだ。たしか弐瓶勉さんもすごい好きだ、みたいに書いているのをどこかで見た。その後何気なくかった「寄港地のない船」が素晴らしかったのだが、日本ではこの二冊くらいしか売っていないため、その他の本は読めていなかった。最近は古本を買い出し始めたので(ちょっと前まで結構抵抗あった、今でも新品のほうが好きだ。)、そういえばという感じでオールディスの短編集を買ってみた。全然知らなかったのだが、タイトルにもなっている「スーパートイズ」という非常に短い短編はスティーブン・スピルバーグの手によって「A.I.」として映画化されている。もともとはオールディスが鬼才スタンリー・キューブリックと長いことタッグを組んで映画化をもくろんでいたが、断念。ポシャった企画をスピルバーグがキューブリックの死後買い取り、「A.I.」として映画化したそうな。そんなキューブリックとの経緯を書いたオールディスのエッセイもこの本に収録されている。恥ずかしながら私は「A.I.」見ていないんだが。

SFでいうところの「ニュー・ウェーブ」というのは私はバラードの作品を通してしかほぼ触れていないので大層なことは言えないが、少なくともバラードは宇宙の神秘を外部でなくて人間の内部に求めて、それまでのSFとは趣の異なる作品を多く書いている。異常な状況に揺れる人間心理を丁寧かつ登場人物に近づきすぎないように冷静に書いているのが印象的で、非常にSF的異常な世界を書いた「結晶世界」や「沈んだ世界」に限らず、その作品的な求心力はたとえば「楽園への疾走」や「クラッシュ」など私達の日常生活、現代の状況にもその精神を適用して様々な作品を書いている。ハードコアなSF原理主義者というわけでもない私は大変面白くバラードを読み、あまりニュー・ウェーブ感を意識もしてなかったが、このオールディスの短編集を読んでなるほどニュー・ウェーブか〜と少し思った次第だ。というのもオールディスの上記2つに上げた長編というのはこれもやはり異常な世界を書いていて、その他の描写もかなりはっきり緻密になっている、いわば真面目なSFというイメージだったのだが、短編になるとその想像力とそれを形にする筆致というのはもっと自由奔放に制限のないシュールな世界を描き出すようだ。一連の「スーパートイズ」三部作はそれでも分かり易いが、ただし思っていたよりずっと短いし、意識的にほぼ登場人物たちの行動をシンプルに書いているだけである。オールディスはどうやらその言いたいところをあえて書かずに読み手に感じさせるタイプの作家のようだ。この短編集に収められている短編はどれも短く、そして世界観の異様さは様々だが(見たこともない異世界を描いているのもあれば、一見現代を舞台にしたような作品もある)たいてい説明が不足しており、ぼんやりとした認識のままきりの間から現れた断崖絶壁のように唐突のように幕を閉じていく。難怪というよりはややシュールでとにかく作者の意図が読み取りにくい。作者の意図というのは概ね読者にとっては意味のないものではあるが、それでもなにかしらの例えば批判的な精神が感じ取れる場合はそれは結構重要にもなってくる。オールディスはどうもその批判的な精神で持ってかなり痛烈かつシニカルに現代文明を風刺をしているらしいのだが、フィクションのオブラートで何重にもそれを包んでいるため、結構わかりにくくなっちゃうのだ。ただ終わりまで読むとここの作品というよりは全体的なオールディス感をつかめるのでそういった意味では大変有益な意味がある。
概ねオールディスは人間はおろかで、広大かつ深遠な自然というものが地球という楽園では人類に取って大いに有益に働いているのに(聖職者が主人公の作品もあるし異形の神が出てくる話もある。要するに神がこの楽園(もしくは別の宇宙)を意図的に作り出したという理由付け)それを全く解せず、自分たちのわがままで持って自分たちだけでなく自然とその美を破壊している。破壊している私達も連帯すれば幸福になれるチャンスが有るのに、ここの隔絶と猜疑心、エゴイズムが私達を不幸にして破滅させていると(はっきりとここが地獄だと言っている短編がある)、そういうふうに思っているようだ。非常にシニカルであって救いがない。そんな中で「遠地点、ふたたび」は無知がほろび、また新しいサイクルが始まるという無常観かつ深遠な輪廻の車輪の存在を感じさせる一品だし、ラストを飾る「完全な蝶になる」は無知に対する歯止めがやっときくその軌跡の瞬間を色鮮やかに書いてなんともいえない感動がある。まだオールディスも希望を捨ててないのではと思わせる。

スピルバーグの作った「A.I.」が原作をどう解釈しているのか気になるので、今度機会があれば見てみようと思う。なんかすごい感動系みたいなプロモートだったのであまり興味がわかなかったが、実際はそうでないなら良いな。
オールディスはまず新品で手に入る長編の二作を読んでみて、感動に震えたぜ!という方々はこの本を手にとって見ることをおすすめ。

Dead Cross/Dead Cross

アメリカ合衆国はカリフォルニア州南カリフォルニアのハードコアバンドの1stアルバム。
2017年にIpecac Recordingsからリリースされた。
Dead Crossは2015年にSlayerの元ドラマーDave LombardoがカリフォルニアのハードコアバンドRetoxのメンバーといろいろな偶然が重なって始めたバンド。オリジナルメンバーだったボーカリストが脱退したため、2016年に様々なグループで活動するMike Pattonが加入した。新体制になって録音されたのがこの音源。プロデューサーはRoss Robinson。いわゆるスーパーグループなのだろうが、結果的にという感じで面白い。もともとDaveがやっていたバンドが急に解散してしまったがライブのブッキングは残っており、Rossとレコーディングを約束していたスタジオに居合わせたメンバーと結成。ボーカル脱退のため、Mikeに声をかけたと。DaveはFantomasでもドラムを叩いているからおそらくその流れでMikeを誘ったのだろう。

さてMike Pattonである。Faith No Moreのボーカリストとして有名なのだろうが、私はマスコアバンドThe Dillinger Escape Planとコラボした作品から知って、そこからMr Bungle、Fantomas、Tomahawk、Peeping Tom、Naked City(これはJohn ZornのバンドにMike Pattonが参加した感じかな?)なんかを聞いた。アヴァンギャルド・メタルというとこの人のイメージでとにかく型にはまらないボーカルワークが特徴。Bjorkの作品に声で参加したり、ラップをやったり、テクノとコラボしたりと声を武器に八面六臂の活躍をしている人だ。今度はハードコアと聞いておお?どんな?となるのが人情ってものだ。
RetoxにMike Pattonだからまあゴリゴリのハードコアにはならないだろうという事はわかる。このジャケットのアートワークは結構秀逸だと思うのだが、骸骨がバタバタ騒いでいるその軌道を描いているもので、中身の方もそうやってなんだかバタバタ騒いでいる。
イメージ的にはやはりMike PattonのプロジェクトでDaveも参加しているMelvinsのBuzらとのFantomasのごった煮グラインドコアに似ている。ただブラストビートという縛りもない中でよりPatton先生の多彩な声の魅力にあふれているのがDead Crossかな。さらに音も意図的に重さを幾分抜いてメタルの重々しさから見事に脱却している。The Dillinger Escape Planとのコラボはもっとマスマスしていたが、こちらはもっと妖しさにパラメータを振った感じ。
やはりMike Pattonの個性が凄まじく、がなりたてる早口、妙な擬音(ちゃんと歌詞があるのかも)、酔っ払ったような咆哮、金切り声、ハリとツヤのある美しくも怪しい歌声でのメロディアスな歌を歌い、オペラのように声量のあるボーカル、怪しいウィスパー、次々に飛び出してくる。それこそまるでおもちゃ箱をひっくり返したように、まるで息継ぎなしのように、違和感なく、そしてきちんと曲と調和して声だけでプログレッシブなパットン劇場を繰り広げていく。
Daveはじめとする演奏陣もそんな人間離れした個性に引けを取らずに負けじと短いスパンのなかでコロコロ変わる楽曲を提供。止まったりかと思ったら突進したり、低音かとおもったら高音に移動したり、うるさいと思ったら急に黙ったりと目まぐるしく動い気回る楽曲は次の展開が読めない。Daveのドラムは流石に手数が多くて、速度が乗っていないときでもむしろ回転しつつおかずを入れまくるように軽快かつグルーヴィ、そしてベースとギターに関しても相当変なことをやっていて1曲の中でもリフのバリエーションが非常に多彩。かなりノイジーなリフもあったりで、ボーカルが特異な分シンプルに抑えるのかと思いきや、かなりややこしいことをやっている。たまにでてくるメロディはPattonに任せているところもあって、多分ボーカル無しで聞いたらかなり演奏もすごいことになっているのではなかろうか。ふと思ったのだがひょっとしたらコロコロ展開を変えるブレイクコアもどきみたいに聞こえるかもしれない。昔のVenetian Snaresみたいな。
相当ややこしいことをやっているし、オペラっぽい雰囲気はその独特な歌唱法で演出しつつ、かったるいプログレッシブさは排除しているところがハードコアだろうか。相当異形のハードコアで、タフなそれとは全然趣が異なるが。よくPattonの関わる音楽は”変態”という言葉で語られることが多く、そういった意味ではこのDead Crossも変態的なのだが、この場合の変態的、もしくはイカれているという表現は病的とも言えるほどの表情の豊かさであろう。超高速で喜怒哀楽をコロコロ変えている人がいたらヤバイやつだが、まさにそういった感じ。それをきちんと表現できるスキルが有るのは本当すごい。

一つ不満があるとしたら音質かな。ちょっとこもっていて分離が悪い。私はあまり良い環境で音楽を聞いていないし、さらにBandcampでかったMP3形式なのでそこらへんの事情もあるかもしれない(ただこの形式でも分離が良いのはあるのでやっぱりちょっとこもっているとは思う。)が、かなりごたごたしているテクニカルなバンドなので、もっとクリアでも良かったような気もする。

さすがのクオリティは保証されているので、Mike Pattonの各種プロジェクト好きな人、FantomasとかThe Locust、Retoxとかちょっと変態的なエクストリームい音楽が好きな人は是非どうぞ。

東雅夫 編/文豪妖怪名作選

アンソロジストの東雅夫さんが編纂したその名の通り文豪たちが書いた妖怪のお話(フィクション/ノンフィクション)を集めたアンソロジー。
収録作家と作品は以下の通り(東京創元社のHPより)

「鬼桃太郎」尾崎紅葉
「天守物語」泉鏡花
「獅子舞考」柳田國男
「ざしき童子のはなし」宮澤賢治
「ムジナ」小泉八雲(円城塔訳)
「貉」芥川龍之介
「狢」瀧井孝作
「最後の狐狸」檀一雄
「山姫」日影丈吉
「屋上の怪音──赤い木の実を頬張って」徳田秋聲
「天狗」室生犀星
「一反木綿」椋鳩十
「件」内田百閒
「からかさ神」小田仁二郎
「邪恋」火野葦平
「山妖海異」佐藤春夫
「荒譚」稲垣足穂
「兵六夢物語」獅子文六
「化物の進化」寺田寅彦
文豪というので全部日本人、ラフカディオ・ハーン先生が入っているが帰化しているの日本人ということでひとつ。私は適当な読書好きなのでかつて読んだことのあるのは「天守物語」と「ムジナ」だけであとは初めて読む作品だった。

「妖怪」なのでおおよそそのプロフィールと外見(私の場合はほぼ水木しげるさんの描く姿が思い浮かんだりして、そうやって考えると本当水木しげるという人は医大で影響力のある人だったんだなと改めて思う。)がある程度はっきりしているのでよくわからない怪異と異なり概ね読む人各人に同じような姿が思い浮かぶはずである。出てくるのも河童、一反木綿、のっぺらぼう、座敷わらしなどなど結構メジャーどころが出てくるので日本人としては非常に読みやすい。尾崎紅葉の一種異様な目新しいおとぎ話もあれば、宮沢賢治の手による私達が見たことないはずなのにたしかにノスタルジーを感じ取ってしまうようなかつての日本の山野が息づいている不思議な昔話もある。
一体妖怪とは何なのか。それは今ほど科学が発展しておらず、知識の敷衍も十分でなかった時代に住む人々が説明不可能な不可知の減少に名前を与えたものと言うこともできるが、その怪異にいろいろな特性を与えて恐ろしくも可愛げのあるキャラクターにしてしまう(今で言うところの擬人化であろうか)のは、これは日本人の特性というのはきっともう何百年も変わらずに私達にあるのではなかろうか。存在のきっかけに寓意を含んだとしても(しばしば怪談や昔話というのは何らかの教訓を示唆していることが多い)、妖怪かあるいは物語の作者たちが妖怪を自由に遊ばせるものだから、ただ単に「親孝行しろ」という説教臭くてつまらないお話にならなかったのが日本のおとぎ話かもしれない。そのために怪談というのは縱橫に広がり、その真意は時に全く汲み取れないシュールさを持つこともある。そんないわば創作にうってつけの存在たちを題材に文豪たちが筆を執った作品を集めたのがこの本と言える。
なかでも気に入ったのは下記の作品。
宮澤賢治の「ざしき童子のはなし」。こちらは視界いっぱいに広がる東北の満天の星空が心のなかにブワーッとパノラマで浮かび上がってくるような静かな説得力がある。妖怪という得意な存在を呼び出すにはやはりそれなりの場所が必要(現代の怪談でも怪異が出てくるのはたいてい廃屋など曰く付きの場所だろう。)なのだが、この座敷わらしという無邪気な妖怪はまったくきれいな日本の原風景にしか生きていないのである。綺麗な水がないと生きていくことのできないカジカのように、そこには儚さとすでになくなったものに対する憧憬がある。それは大変美しく、そしてなんとなく胸を打つ。
室生犀星の「天狗」も良い。一見妖怪が出てこないような滑り出しがよい。人間なのか?妖怪なのか?という構図と、一応現代に立ち戻って科学的な説明をつける様はいかにもミステリー的だが、それでも説明のできない一抹の不安が残り続けるラストはまさに怪談といっていい。妖怪が機能なら、立派に妖怪譚である。
個人的に一番良かったのは寺田寅彦の「化物の進化」でこれは物語ではなく、物理学者でもあった寺田のエッセイというか妖怪評である。私は前々からもし科学技術の発展が人類を不老不死にするだろう、と思う人があればそれはもう信仰であり宗教にほかならないと思っている。私は科学に囲まれその恩恵を受け、科学は好きだが、それを必要以上に崇め奉っていてそれで私は実際的な人間的ですといっているような人たちが好きでないだけだ。このエッセイは1929年に書かれたのだが、もう90年弱昔には発展する科学をこのように冷静に見ている科学者の方がいたとは素直に感服する他ないし、その仰るところは非常にしっくりくる。教科書に乗せてくれと本当にそう思うくらい好きだ。
点が3つ並んでいれば人の顔に見えるのが人間なのだから、妖怪なんて現代にアホらしいというのは非常に愚かしい。豊かな想像の世界是非飛び込んでどうぞ。絢爛豪華に血みどろなんでもござれの。

2017年9月3日日曜日

ジェイムズ・エルロイ/ハリウッド・ノクターン

アメリカの作家ジェイムズ・エルロイの短編集。
個人的なエルロイの著作をちょくちょく読んでいこうシリーズの第何弾。

今度は短編集で書かれたのは1994年で、四部作の最後を飾る長編「ホワイト・ジャズ」が1992年。一区切りしたあとに書かれたのが今作ということになるのだろうか。そういうこともあって四部作に出てきたキャラクターがちょいちょい出てくる。
LAのギャングミッキー・コーエンを始め実際に当時を生きた人をしょっちゅう小説の中に登場させるのがエルロイ流(別にこの人の専売特許でもなかろうが)なのだが、今作では執筆当時存命だった人(残念ながら2017年4月に鬼籍に入られたそうだ)が主役を張っている「ディック・コンティーノ・ブルース」がやはり目玉だろうか。さすがのエルロイも当人に何回か実際にあって執筆の許諾をもらったそうな。
実際どうだったかは謎だが、エルロイが書くアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッドとは相当胡散臭いところだったらしく、今と同じ映画・芸能業界の華々しさの後ろには詐欺師と売春婦と犯罪者がひしめき合っており、彼らは金を巡って醜聞を撒き散らしている。ある意味では大らかでそんな浮ついた半端者を取り締まる警察官というのも(やはり実際のところはわからないが)結構自由に犯罪者や半端者をぶん殴ったり、袖の下を受け取ったり、権力の手先たる自分の地位をそれなりに謳歌している。いわば現代から見たらタガが半分外れかけた混沌の世界で、善悪の彼岸も曖昧なもったり暑い熱気に浮かされて右も左もろくでなしが右往左往拳や拳銃を奮っているわけで、血と暴力と死に彩られたそれはまさに低俗。美女と拳銃、血に汚れた警官バッヂなんかは完全に男(の子)の世界である。男のロマンといったら聞こえが良いし、フィクションでは概ね狂気の沙汰は褒め言葉であるが、わかりやすい権力欲、逆に恐怖心の克服、見栄なんかはばっさり益体もない、と切り捨てられるものかもしれない。だがその低俗さ、露骨な悪趣味さがエルロイの魅力だろう。エルロイの描く小説はマッチョイズム賛美、あるいはそのものの描写とはことなる。マッチョであろうとして失敗する様、といったらいいかもしれない。あるいは失敗し続ける。権謀術数渦巻く世界でもあるが、例えばエリス・ロウなんかも一皮むけば権力欲に取り憑かれた臆病者であって、どの人物も非常にピュアだと思う。不器用と言ってもいい。卑小存在が渇望するのがエルロイの書く人物たちであって、だから非常に親しみやすいんだよね。それがエルロイの書く一見とっつきにくいこと極まりないが、じつは読んでみると非常に読みやすく、また共感できる理由ではなかろうか。

薬と不眠と披露で目がかすみように、ページをめくるごとに正気を失っていく少人口たちが特徴だけど、短編だと狂気のバロメータがページ的な制限もあって振り切れないから、物足りないところもないわけではないけど、手っ取り早く楽しめる利点もある。これも現在では絶版状態だが気になる人は古本屋さんで探してみてどうぞ。

Framtid/Defeat of Civilization + Split EP Tracks

日本は大阪のクラストコアバンドの編集盤。
2017年にMCR Companyからリリースされた。
耳慣れない「Framtid」という言葉はスウェーデン語で「未来」という意味らしい。ひねくれた名前も良いけど、シンプルかつストレートでかっこいい。
2002年には1stアルバムをリリースしているから結成はその以前ということになるが、この手のバンドにありがちなあまり情報がない。Discogsを見るとそこまで音源の数が多くなく、マイペースに活動しているよう(1stと2ndの間には11年の隔たりがある)だが、その名は日本だけでなく世界でも広く知られているようで、由緒あるアメリカの音楽祭のトリを飾ったりしているそうな。名前は気になっていたし、1stのカセットはユニオン新品コーナーでも横目にしていたけどなんとなく聴けてなかったが(私はカセットを再生できる機器を持っていない)、CD形式で音源が出るということで購入してみた。タイトルもストレートで2ndアルバム(ミニアルバムと書いているページもある)「Defeat of Civilization」(2013)を主体に(アートワークはこちらのアルバムから引き継いでいるようだ、少なくとも表のカヴァーは)3つのスプリット音源(2004〜2009)を収録している。2016年の音源を除いて、概ねこのバンドの最近の音楽を聴くことができる編集版のようだ。

音の方は完全にクラストコアだ。トゲトゲに逆立てた頭、鋲を打ちまくった革ジャンという見た目、「どんな理由だろうが戦争はいらねえ」というメッセージ、見た目も音もクラストスタイル。D-ビートに高音に潰れた特徴的なサウンドのギターが乗る。思うにクラストというのは非常にとっつきにくい音楽性だ。(いろんなバンドがいるけど大抵は)メロディアスではないし。速度も速く激しいが、熱いシンガロングがあるわけではない。ひたすら疾走する地獄感に聞き手も打ちのめされるような感じがする。このバンドも間違いなくそんな厳格なクラストの血統を受け継ぐもので、決してフレンドリーではないが、ギターのノイズ加減も程よく調整されていてノイズコアというほどにリフが判別できないわけではない。終始弾き倒すでもなく、ミュートを挟んできちんと曲にメリハリをつけている。ボーカルも伝統的なクラストスタイルを受け継ぎつつ低音に特化している野太い歌唱方法とはちょっと違って中音も出ているので聴きやすいと思う。
歌詞は基本的に英語で歌われているが、この編集盤でもきちんと読める形で掲載されていてしかも和訳もついている。ハードコアで歌詞がきちんと読めるバンドが私は好きだ。私たちの主張を読んでくれ、ってことだもの。一体大抵はひどくうるさい形式で発される音楽が何を言いたいのかというのは私にとっては重要だ。戦争、(大量破壊)兵器、虐殺、格差をテーマとした歌詞からは攻撃的なパンクアティテュードをひしひしと感じられるが、思った以上に攻撃的ではないのに驚く。「あいつを打ち倒せ」「破壊しろ」なんて少なくともこの音源のどの曲でも一言も言ってない。むしろ淡々と悲劇的な光景の描写をするそれからは、怒りを通り越した嘆きを強く感じられる。音楽自体は力強くうるさいのだが、その歌詞はなんとも言えない無常観に包まれていて、それゆえ瞬間風速的な、というよりこの世の不条理に対する怒りがふつふつと燃え続けている様が感じられている。黒い瞳の奥に地獄の業火が燃え盛っているように。奥に秘めた激情が溢れてくるようで私的には非常に好きな歌詞の書き方だ。
何と言っても「ヒロシマ」「ナガサキ」という歌詞が轟音から飛び出して脳に突き刺さる15曲目「Land of Devastation」が良い。その後は「私たちは立ち続けよう あの荒廃の地に」と続く。誰を責めるわけでもないが覚悟が見て取れる、非常にかっこいい歌詞だと思う。

今ならまだ手に入りやすいと思うので、気になっている人はこのタイミングで是非どうぞ。クラストという音楽性がおっけーという人なら購入して間違いないだろう。激しい音楽性はもちろん是非歌詞も読んでいただきたい作品。オススメ。

Martyr A.D./On Earth As Its In Hell

アメリカ合衆国はミネソタ州ミネアポリスのハードコアバンドの2ndアルバム。
2004年にVictory Recordsからリリースされた。
Martyr A.D.はこの間紹介した同じくミネアポリスのハードコアバンドDisembodiedが解散後に、楽器隊(ギター、ベース、ドラム)の3人が新しく1999年に始めたバンド。残念ながら2005年には解散してしまっている。(かわりにDisembodiedが再結成している模様。)Disembodiedがかっこよかったので買った次第です。

いわゆるメタルコアというジャンルに属するバンドで、この場合のメタルコアその名の通りメタルとハードコアをくっつけた、1990年台後半にアメリカで勃興した音楽のことを指す。とにかくガッチリ金属質に武装したギターが装飾性のない鉄塊のようなリフを刻みまくるハードコアで、ハードコアの一つの信条であるスピードを犠牲にしてでもハードコアにはなかった重さを獲得しにいっている。メタルにありがちなこってりとした様式美はなく、良くも悪くも形を強引に拝借してきたようなストレートなブルータルさが特徴だろうか。どうしてもメインストリームに躍り出た激しい演奏と一点メロディアスなサビの対比が思い浮かんでしまうが、このバンドはそのようなキャッチーさとは無縁。
Disembodiedと何が違うかというとブルータルながらひたすら内にこもるような陰鬱さ、暗さがあったそちらと違って、どう聞いても明るいとはいえないのだがそれでもやや外向きに開かれた音楽を演奏しているのがこちらのバンド。なので聞きやすいというかとっつきやすいのはこちらかな?と思う。ボーカルは前バンドから人が変わっていてこの人は基本的にほぼスクリームしかしていない。いい感じに汚さのある荒々しいボーカルはやはりハードコアで、Disembodiedのボーカルの用いていたボソボソクリーン(ほぼ聞き取れない)のような技は使わないのでもっとピュアで攻撃的なハードコア。ほぼリズムだけで構成されているような、低音プラス(おそらく)ハーモニクスを聞かせた超高音の対比をバリバリに聞かせたモッシュパート(尺的には結構短い)も健在というか、より磨いてきていて、その他のリフもハードコア文脈的にひたすら攻撃的なので自然と体が暴れだす危険な音楽になっている。基本的には圧殺するような低音リフを中速で刻みまくり、曲によってはツーバスを踏んだりしてかなりデスメタリック。中音厚みがあり抜けのあるドラムの音と、ギロギロしたベース、吐き捨て型のボーカルでハードコアらしさを保っている。曲の方もよくよく練られているものの(テンポチェンジだけでない展開の妙がある)、無駄を削ぎ落とした非常に肉体的なものできっちりメタル”コア”をやっている印象。

ゴリゴリのメタルコアを聞きたい人は是非どうぞ。非常に筋肉質であくまでもハードコア。Disembodiedであったややドリーミィな陰鬱さはきれいに払拭されてよりピュアになった印象。