アンソロジストの東雅夫さんが編纂したその名の通り文豪たちが書いた妖怪のお話(フィクション/ノンフィクション)を集めたアンソロジー。
収録作家と作品は以下の通り(東京創元社のHPより)
「鬼桃太郎」尾崎紅葉
「天守物語」泉鏡花
「獅子舞考」柳田國男
「ざしき童子のはなし」宮澤賢治
「ムジナ」小泉八雲(円城塔訳)
「貉」芥川龍之介
「狢」瀧井孝作
「最後の狐狸」檀一雄
「山姫」日影丈吉
「屋上の怪音──赤い木の実を頬張って」徳田秋聲
「天狗」室生犀星
「一反木綿」椋鳩十
「件」内田百閒
「からかさ神」小田仁二郎
「邪恋」火野葦平
「山妖海異」佐藤春夫
「荒譚」稲垣足穂
「兵六夢物語」獅子文六
「化物の進化」寺田寅彦
文豪というので全部日本人、ラフカディオ・ハーン先生が入っているが帰化しているの日本人ということでひとつ。私は適当な読書好きなのでかつて読んだことのあるのは「天守物語」と「ムジナ」だけであとは初めて読む作品だった。
「妖怪」なのでおおよそそのプロフィールと外見(私の場合はほぼ水木しげるさんの描く姿が思い浮かんだりして、そうやって考えると本当水木しげるという人は医大で影響力のある人だったんだなと改めて思う。)がある程度はっきりしているのでよくわからない怪異と異なり概ね読む人各人に同じような姿が思い浮かぶはずである。出てくるのも河童、一反木綿、のっぺらぼう、座敷わらしなどなど結構メジャーどころが出てくるので日本人としては非常に読みやすい。尾崎紅葉の一種異様な目新しいおとぎ話もあれば、宮沢賢治の手による私達が見たことないはずなのにたしかにノスタルジーを感じ取ってしまうようなかつての日本の山野が息づいている不思議な昔話もある。
一体妖怪とは何なのか。それは今ほど科学が発展しておらず、知識の敷衍も十分でなかった時代に住む人々が説明不可能な不可知の減少に名前を与えたものと言うこともできるが、その怪異にいろいろな特性を与えて恐ろしくも可愛げのあるキャラクターにしてしまう(今で言うところの擬人化であろうか)のは、これは日本人の特性というのはきっともう何百年も変わらずに私達にあるのではなかろうか。存在のきっかけに寓意を含んだとしても(しばしば怪談や昔話というのは何らかの教訓を示唆していることが多い)、妖怪かあるいは物語の作者たちが妖怪を自由に遊ばせるものだから、ただ単に「親孝行しろ」という説教臭くてつまらないお話にならなかったのが日本のおとぎ話かもしれない。そのために怪談というのは縱橫に広がり、その真意は時に全く汲み取れないシュールさを持つこともある。そんないわば創作にうってつけの存在たちを題材に文豪たちが筆を執った作品を集めたのがこの本と言える。
なかでも気に入ったのは下記の作品。
宮澤賢治の「ざしき童子のはなし」。こちらは視界いっぱいに広がる東北の満天の星空が心のなかにブワーッとパノラマで浮かび上がってくるような静かな説得力がある。妖怪という得意な存在を呼び出すにはやはりそれなりの場所が必要(現代の怪談でも怪異が出てくるのはたいてい廃屋など曰く付きの場所だろう。)なのだが、この座敷わらしという無邪気な妖怪はまったくきれいな日本の原風景にしか生きていないのである。綺麗な水がないと生きていくことのできないカジカのように、そこには儚さとすでになくなったものに対する憧憬がある。それは大変美しく、そしてなんとなく胸を打つ。
室生犀星の「天狗」も良い。一見妖怪が出てこないような滑り出しがよい。人間なのか?妖怪なのか?という構図と、一応現代に立ち戻って科学的な説明をつける様はいかにもミステリー的だが、それでも説明のできない一抹の不安が残り続けるラストはまさに怪談といっていい。妖怪が機能なら、立派に妖怪譚である。
個人的に一番良かったのは寺田寅彦の「化物の進化」でこれは物語ではなく、物理学者でもあった寺田のエッセイというか妖怪評である。私は前々からもし科学技術の発展が人類を不老不死にするだろう、と思う人があればそれはもう信仰であり宗教にほかならないと思っている。私は科学に囲まれその恩恵を受け、科学は好きだが、それを必要以上に崇め奉っていてそれで私は実際的な人間的ですといっているような人たちが好きでないだけだ。このエッセイは1929年に書かれたのだが、もう90年弱昔には発展する科学をこのように冷静に見ている科学者の方がいたとは素直に感服する他ないし、その仰るところは非常にしっくりくる。教科書に乗せてくれと本当にそう思うくらい好きだ。
点が3つ並んでいれば人の顔に見えるのが人間なのだから、妖怪なんて現代にアホらしいというのは非常に愚かしい。豊かな想像の世界是非飛び込んでどうぞ。絢爛豪華に血みどろなんでもござれの。
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