アメリカのブラックメタルバンドPanopticonとドイツはミュンヘンのブラックメタルバンドWaldgeflüsterのスプリット音源。2016年にスウェーデンのNordvis Produktion(自らをpoor music for poor peopleと標榜するレーベル。)からリリースされた。私はbandcampでデジタル版を購入した。お目当てはPanopticon。因にざざっとしたアートワークはPanopticonのA.Lunnの手によるものとのこと。
全4曲収録でそれぞれ2曲。面白いのは双方ともに12分を越える大曲と3分から4分の比較的短い(まあ短くはないんだけれども)の曲のセットになっている。
まずはWaldgeflüster。
このバンドの事は全く知らなかった。2005年に結成され既に3枚のアルバムをリリースしているとのこと。バンド名を訳してみると「森のささやき」とのこと。ほう。FBのバンドの説明を見るとこう書いてある「情熱的で深遠で自然に結びついている」。なかなか分かりやすい。いまもこういうのか分からないけどカスカディアンな音を鳴らすブラックメタルバンドである。最新作では一人高見に解脱した感のあるWolves in the Throne Roomが一番有名だろうか、このジャンルでは。ブラックメタルという音楽形態をとりつつも、サタンや神、血みどろの人間界から遊離し、電気とテクノロジーを使うという矛盾をはらみつつも自然を賛美する曲を、長く複雑で攻撃性やイーヴィルなシャウトを盛り込みつつもなんとも雄大かつ美しさに満ちた曲を演奏するという、彼らである。Panoptioconもそちらの影響色濃いバンドなのでそういう流れでばっちりハマったスプリットってことになる。
儚いトレモロが一気になだれ落ちるイントロでばっちりこちらのハートの琴線を内ふるわせてくる。何と言ってもちょっと(同郷のエモバンドMournfulを彷彿とさせる様な)なよっとした感のある内省的かつ憂いを含んだボーカルが素晴らしい。ナイーブで大人しいヤツがぶち切れたみたいなシャウトも攻撃的でありながらもバックの演奏陣の美麗なトレモロに不思議にマッチするから不思議。早々にストリングスを持ち込んでくるあたり、完全に優しく殺しに来たりしている。ドコドコ高鳴るドラムにストリングが被ったらそりゃもうこっちとしては感涙に拳を振り上げるしか無いと行った有様である。あざとい。さらに男臭い落ち着きのあるコーラスワークまで入れてきやがるので琴線は崩壊状態。私は全く詳しくないのだがバイキングメタルというか、雄々しく高揚させる様なコーラスワークとキャッチーなメロディはそこら辺の影響があるのではなかろうかと思った。無骨なドイツ語のつぶやきがアコースティックギターとともにつま弾かれ、豊かなストリングスが彩る切ない幕切れも何とも余韻に満ちて素晴らしい。
一方のPanopticon。
長い尺の曲は「Roads to the north」を作っている間に出来た曲だそうで、彼の長男に捧げられたもの。Håkanというのは息子の名前だそうな。
Waldgeflüsterよりは太くぶ厚い音でより野性味があふれる。こちらのボーカルは完全にブラックメタル然とした堂に入ったものでやはり貫禄という点ではこちらに分があるか。表現力という意味では声意外のファクターがやはり非常に饒舌。トレモロを基調としながらもミュートやハーモニクスなどのブラックメタルではあまり見られないメタルの要素をうまーく取り込んでいると思う。「Roads to the north」を聴いた時にその表現力の幅が広がった事に驚いたものだけど、同時期に制作されたこの曲もやはりその流れを大言する様な感じで、「Autumun Eternal」はそれらの技巧をもう少し自分流に使い込んでいる印象だったけど、まだまだこちらではそれらが暴れている感じ。これはこれで喧しくカッコいい。ひとしきり暴れまくった後にアコースティックギターに子供の声を重ねてチルアウト、リバーブのかかったギターがつま弾かれて後、再び音を分厚くする展開は非常にドラマチックだ。ここでは敢えてその速度を落とす事で圧倒的に叙情性が高まっていると思う。前半は派手なギターも後半ではメロディアスなトレモロに徹している事に気づく。こちらで噛み締める時間があるからなのか、やたらと雄大なリフが耳に入ってくる。そこから連続的な再加速をしつつ曲は終了。素晴らしいぜ。
激しい音楽性の中にも深い(父性)愛を感じさせる。雄大な自然というよりは個人的なものがその対象になっている分より真に迫っているのかもしれぬ。
Panopticon目当てで実際素晴らしい出来なんだけどWaldgeflüsterもとてもカッコいいな
この手の音楽が好きな人は是非どうぞ。オススメ。
2016年3月28日月曜日
2016年3月26日土曜日
Khmer & Livstid/Khmer & Livstid split
スペインのネオクラストバンドKhmerとノルウェーのクラストバンドLivstidのスプリット音源。
2016年にノルウェーのDisiplin Media、アメリカのHalo of Files、そして日本のLong Legs Long Armsからリリースされた。私が買ったのは3LAがリリースする日本仕様のレコードでダウンロードクーポンがついている。
まずはこの日本國限定版と銘打たれたEPの作り手の気合いの入れように驚かされる。印象的なアートワークはKhmerのMarioの手によるもの(Redsheerの「Eternity」のアートワークも彼の手によるのは有名な話)。パンクバンドなので歌詞は勿論非常に重要なファクターだが、それぞれのバンドの本国の言葉(スペイン語とノルウェー語)はもちろん、世界を標準にリリースされている事もあり英訳、それから日本盤には日本語の訳がついている。ちなみに日本盤は曲のタイトルも和訳されている。例えばKhmerの「himno a las llamas」は「灼讃歌」である。熱すぎるぜ〜。
Khmerは10分の曲1曲のみ。
終始ストイックで劇的である。掠れ声で吐き捨て型のボーカルとその長い尺のなかに静と動を内包した展開を組み込んでいる事でやはりどうしてもブラックメタルとの関係について考えてしまうが、よくよく聴いてみるとどちらかというとポストハードコアというか、もっというと非常にハードコア的である事に気がつく。ポストハードコアというと例えばenvyのようにアルペジオや分厚い弦楽隊による美しくかつミニマリズムなどを導入した知的なアンサンブルが頭をよぎる。はっきりいってその美しさはこのKhmerというバンドからはあまり感じられなくて、なんならもっと粗野であるし、かっちり考え抜かれた構成は(粗野感といったのに矛盾しそうだが実は全然普通に両立する概念だと思う)様式美を高度な技術で実現しようとするメタルに通じるところがある(のでよりブラックメタル感というのが演出されているのだと思うのだ)けど、コールドという言葉で形容される事の多いブラックメタルにはない決定的な熱さがあってそれは非常にハードコア的だと思う。例えば中盤テンポが落ちるところから勢いを盛り返すところなどは鳥肌ものだ。手数を増やして(個人的にはキンキンいうシンバルの乱打に目が無い)加速して行くところは非常に肉感的な印象で、つまるところハードコアの野性味とメタルの表現力を両立させ手いるバンドなのだと思った。
対するB面、LivstidはこれはまたKhmerとは結構雰囲気も音楽性も違って驚く。同じくクラストと行っても自らを「Crusty d-beat punk attack」と称する彼らはもっと分かりやすくかつどこまでも直球ストレートである。のどに引っ掛ける様な掠れたボーカルは通じるものがあるが、メタルを通過したギターの音はより直感的・現実的に重たい。曲はほぼほぼ1分台でとにかく突っ走りまくる。うえ〜〜!?と驚いていると2曲目で滅茶苦茶おとこくさくかつキャッチーなコーラスワークが耳に突き刺さってくる。思わず笑ってしまうのだが、これは非常にカッコいい。馬鹿みたいに速い訳ではないけど、それでもスピードを一切落とさず終始走りっぱなし。かなりの恐もてなのだが、前述のコーラス(まさに必殺というかんじ)、さらにギターのラインが非常にメロディアスで思ったよりずっと聴きやすい。私かなり好きですね。
結構音楽性が違うバンドのスプリットなのでこれは中々難しいと思った。共通点を求めて歌詞を見てみると、Livstidは全くぶれない単純明快かつメッセージ性の強いパンク調のもの。一方のKhmerは何回とまでは言わないが抽象的な概念もつづられていて自戒的な意味合いも読み取れるから共通点というのはやはり一筋縄では行かない。恐らくこの空隙を違和感無く埋めているのが両者のバンドに共通する熱量では無いのだろうかと思うのだ。それはレーベルオーナー水谷さんがやはり熱量高くぶち上げた激情という要素なのかもしれないな…と思った次第。
趣を異にするバンドをひとまとめのスプリットにして両方カッコいいのだから、クラスト、それからハードコアというのは懐の広いジャンルだなと思う。
Khmerは来る4月に遂に来日という事もあって気になっている人は是非どうぞ。オススメです。
2016年にノルウェーのDisiplin Media、アメリカのHalo of Files、そして日本のLong Legs Long Armsからリリースされた。私が買ったのは3LAがリリースする日本仕様のレコードでダウンロードクーポンがついている。
まずはこの日本國限定版と銘打たれたEPの作り手の気合いの入れように驚かされる。印象的なアートワークはKhmerのMarioの手によるもの(Redsheerの「Eternity」のアートワークも彼の手によるのは有名な話)。パンクバンドなので歌詞は勿論非常に重要なファクターだが、それぞれのバンドの本国の言葉(スペイン語とノルウェー語)はもちろん、世界を標準にリリースされている事もあり英訳、それから日本盤には日本語の訳がついている。ちなみに日本盤は曲のタイトルも和訳されている。例えばKhmerの「himno a las llamas」は「灼讃歌」である。熱すぎるぜ〜。
Khmerは10分の曲1曲のみ。
終始ストイックで劇的である。掠れ声で吐き捨て型のボーカルとその長い尺のなかに静と動を内包した展開を組み込んでいる事でやはりどうしてもブラックメタルとの関係について考えてしまうが、よくよく聴いてみるとどちらかというとポストハードコアというか、もっというと非常にハードコア的である事に気がつく。ポストハードコアというと例えばenvyのようにアルペジオや分厚い弦楽隊による美しくかつミニマリズムなどを導入した知的なアンサンブルが頭をよぎる。はっきりいってその美しさはこのKhmerというバンドからはあまり感じられなくて、なんならもっと粗野であるし、かっちり考え抜かれた構成は(粗野感といったのに矛盾しそうだが実は全然普通に両立する概念だと思う)様式美を高度な技術で実現しようとするメタルに通じるところがある(のでよりブラックメタル感というのが演出されているのだと思うのだ)けど、コールドという言葉で形容される事の多いブラックメタルにはない決定的な熱さがあってそれは非常にハードコア的だと思う。例えば中盤テンポが落ちるところから勢いを盛り返すところなどは鳥肌ものだ。手数を増やして(個人的にはキンキンいうシンバルの乱打に目が無い)加速して行くところは非常に肉感的な印象で、つまるところハードコアの野性味とメタルの表現力を両立させ手いるバンドなのだと思った。
対するB面、LivstidはこれはまたKhmerとは結構雰囲気も音楽性も違って驚く。同じくクラストと行っても自らを「Crusty d-beat punk attack」と称する彼らはもっと分かりやすくかつどこまでも直球ストレートである。のどに引っ掛ける様な掠れたボーカルは通じるものがあるが、メタルを通過したギターの音はより直感的・現実的に重たい。曲はほぼほぼ1分台でとにかく突っ走りまくる。うえ〜〜!?と驚いていると2曲目で滅茶苦茶おとこくさくかつキャッチーなコーラスワークが耳に突き刺さってくる。思わず笑ってしまうのだが、これは非常にカッコいい。馬鹿みたいに速い訳ではないけど、それでもスピードを一切落とさず終始走りっぱなし。かなりの恐もてなのだが、前述のコーラス(まさに必殺というかんじ)、さらにギターのラインが非常にメロディアスで思ったよりずっと聴きやすい。私かなり好きですね。
結構音楽性が違うバンドのスプリットなのでこれは中々難しいと思った。共通点を求めて歌詞を見てみると、Livstidは全くぶれない単純明快かつメッセージ性の強いパンク調のもの。一方のKhmerは何回とまでは言わないが抽象的な概念もつづられていて自戒的な意味合いも読み取れるから共通点というのはやはり一筋縄では行かない。恐らくこの空隙を違和感無く埋めているのが両者のバンドに共通する熱量では無いのだろうかと思うのだ。それはレーベルオーナー水谷さんがやはり熱量高くぶち上げた激情という要素なのかもしれないな…と思った次第。
趣を異にするバンドをひとまとめのスプリットにして両方カッコいいのだから、クラスト、それからハードコアというのは懐の広いジャンルだなと思う。
Khmerは来る4月に遂に来日という事もあって気になっている人は是非どうぞ。オススメです。
2016年3月21日月曜日
The Body & Kreig/The Body & Kreig
アメリカはオレゴン州ポートランドのスラッジメタルバンドとニュージャージー州サマーズポイントのブラックメタルバンドのコラボレーションアルバム。
2015年にAt a Loss Recordingsからリリースされた。
なんともいえないジャケットが不安を煽ってくる。デジタル版を購入。
来日経験もあるThe Bodyだが今のところなぜだかコラボアルバムばっかり買っている。
The BodyもKreigも90年代に結成されたバンドで、調べてみたら距離的には近そう(広大なアメリカなんで実際のところには分からないんだけど)なので音楽性は違えどもそういうところでコラボの話が出たのかもしれない。とはいえ私はKreigの音を聞くのはこの音源が初めてなんだ。何曲か視聴してみた限りはブリザードの様なトレモロが印象的な正統ブラックメタルっぽい印象。この音源の音楽性はかなりスラッジ成分が強めなのでThe Bodyの音楽性をKreigが倍加させている様な、そんな体制なのかもしれない。
ブラックメタルも色んな音楽をならすバンドが多いが、一つにノイズへの接近があると思う。元々あまりよろしくない音質がその特徴だったりしたのでそこからノイズへの接近の因子があったのかもしれぬ。この音源ではそのノイズの成分がスラッジとブラックメタルをガッチリ結びつけているようだ。
他のコラボ音源でもそうだったが、スラッジの中でもとにかく一撃がひたすら重い、つまり全体的にぶっといリズム、というかドラムの一撃が中心に据えられている様なThe Bodyの楽曲の上にハーシュなノイズがおっかぶさったもので、勿論実際には入念にそのバランスを調整しているのだろうが、素人の耳にはスラッジとノイズを100対100でそのまま垂れ流しているように感じる。要するにクソ五月蝿い。私はIndian(惜しくも解散した…)もそうだが、この単純に暴力的で頭のよろしくない力業の様な足し算式の音楽性に非常に魅力を感じるので、このコラボは非常にそういった意味で楽しめる。
キャーキャー騒ぐ高音ボーカルとうめくような低音ボーカルが遠慮せずに騒ぎ立てる様はさしもの聖徳太子ですら一人ずつしゃべれ!と激怒するレベル。
例えば5曲目の荘厳なシンセによるイントロは間違いなくブラックメタルを彷彿とさせる陰鬱さで、スラッジ成分を押さえてノイズを全面に押し出し、ミニマリズムを持って乗ったり進様はなるほど、両者がよくよく溶け合ったコラボレーション具合ではなかろうか。
悪意がタールのように凝り固まった悪臭紛々たる音楽性で、澱の様な煮こごりが病み付きになったマニアの貴方は是非どうぞ。聴いていると爆音で耳の先の脳が溶けていくようで快感です!
2015年にAt a Loss Recordingsからリリースされた。
なんともいえないジャケットが不安を煽ってくる。デジタル版を購入。
来日経験もあるThe Bodyだが今のところなぜだかコラボアルバムばっかり買っている。
The BodyもKreigも90年代に結成されたバンドで、調べてみたら距離的には近そう(広大なアメリカなんで実際のところには分からないんだけど)なので音楽性は違えどもそういうところでコラボの話が出たのかもしれない。とはいえ私はKreigの音を聞くのはこの音源が初めてなんだ。何曲か視聴してみた限りはブリザードの様なトレモロが印象的な正統ブラックメタルっぽい印象。この音源の音楽性はかなりスラッジ成分が強めなのでThe Bodyの音楽性をKreigが倍加させている様な、そんな体制なのかもしれない。
ブラックメタルも色んな音楽をならすバンドが多いが、一つにノイズへの接近があると思う。元々あまりよろしくない音質がその特徴だったりしたのでそこからノイズへの接近の因子があったのかもしれぬ。この音源ではそのノイズの成分がスラッジとブラックメタルをガッチリ結びつけているようだ。
他のコラボ音源でもそうだったが、スラッジの中でもとにかく一撃がひたすら重い、つまり全体的にぶっといリズム、というかドラムの一撃が中心に据えられている様なThe Bodyの楽曲の上にハーシュなノイズがおっかぶさったもので、勿論実際には入念にそのバランスを調整しているのだろうが、素人の耳にはスラッジとノイズを100対100でそのまま垂れ流しているように感じる。要するにクソ五月蝿い。私はIndian(惜しくも解散した…)もそうだが、この単純に暴力的で頭のよろしくない力業の様な足し算式の音楽性に非常に魅力を感じるので、このコラボは非常にそういった意味で楽しめる。
キャーキャー騒ぐ高音ボーカルとうめくような低音ボーカルが遠慮せずに騒ぎ立てる様はさしもの聖徳太子ですら一人ずつしゃべれ!と激怒するレベル。
例えば5曲目の荘厳なシンセによるイントロは間違いなくブラックメタルを彷彿とさせる陰鬱さで、スラッジ成分を押さえてノイズを全面に押し出し、ミニマリズムを持って乗ったり進様はなるほど、両者がよくよく溶け合ったコラボレーション具合ではなかろうか。
悪意がタールのように凝り固まった悪臭紛々たる音楽性で、澱の様な煮こごりが病み付きになったマニアの貴方は是非どうぞ。聴いていると爆音で耳の先の脳が溶けていくようで快感です!
2016年3月20日日曜日
Shing02+Cradle Orchestra/Zone of Zen
日本人のラッパーとトラックメイカーのユニットによるコラボレーションアルバム。
2016年にPalette Soundからリリースされた。アートワークもかっこ良く、CDを購入。
Shing02さんと言えばNujabesとのコラボレーションが有名だろうか。私は学生の頃に友人に借りたアルバムに入っていた「Luv(sic)」でその名を知った。実は私のヒップホップをちゃんと聴いたのはNujabesが初めてだったのかもしれない。
このアルバムはそんな2カ国語を操るラッパーのShing02と日本を拠点に活動する瀬戸智樹とDJ Chikaによるユニット、Cradleが生音のオーケストラとタッグを組んだユニットCradle Orchestraとコラボレーションしたもの。ちなみにCradleの方もアルバム「Attitude」を学生時代に友人にかりて聴いたことがある。
ヒップホップといえばサンプリングなのだろうが、このアルバムはそんな出自もあって生音で構成されている。曲は前述のNujabesを彷彿とさせるオーガニックなもの。とはいえNujabesはサンプリング主体だろうと思うのでその音は共通点もあれば違うところも。こちらの方がさらに扱っている音の幅、というか種類とその出し方は豊富だ。乾いた音のどラム派結構音数が多い。とにかく良く動くピアノ。伸びやかに歌う様なホーン。アコースティックギター。ヴァイオリンにさらには琴などなど。それからコーラスもかなり大胆に取り入れている。オーケストラを自称するくらいだからさすがに音色が豊かだ。ジャズっぽさは勿論あるのだが、そこにとどまらずもっと自由で色々な音が飛び出してくる印象。一体これはどういったジャンルなのだろうと疑問に思うのだけど、よく考えたら当たり前のようにヒップホップである。
これだけ豊かな音に負ける事無く、曲をヒップホップにしてしまうのはMCを勤めるShing02の力量によるところも大きいだろう。問いかけるように紳士に言葉を紡ぎだす独特のスタイルだが、その冷静さの中に明確でラディカルなメッセージ性があるのは過去の作品を見ても明らかだろう。今回は全編英語のリリックだが、聴いて思うのはとにかく真面目で耳あたりは柔らかいのにとても鋭い印象だ。真面目というか、聴いている方も思わずその言葉をないがしろに出来ない様な、そんな雰囲気がある。実は結構なアジテーターなのかもしれない。
ヒップホップというとMCなしのバックトラックを聴くと音の数が少ないにもかかわらずそのかっこよさにしびれる事がある。このユニットの場合は音の数が多いから所謂ヒプホップの減算の美学とは異なるのだろうけれど、別の種類のかっこよさがあってラップと一緒にどんどん高みに登っていく様な楽しさがあってお互い切磋琢磨しつつも、曲として見事に調和しているから、トラックを作る側のCradleも相当だ。
奇麗で豊か、というと何となく軽いイメージがあるけどとんでもない。とにかく中身のぎゅっと詰まったヒップホップだと思う。素直にカッコいい。オススメです。
2016年にPalette Soundからリリースされた。アートワークもかっこ良く、CDを購入。
Shing02さんと言えばNujabesとのコラボレーションが有名だろうか。私は学生の頃に友人に借りたアルバムに入っていた「Luv(sic)」でその名を知った。実は私のヒップホップをちゃんと聴いたのはNujabesが初めてだったのかもしれない。
このアルバムはそんな2カ国語を操るラッパーのShing02と日本を拠点に活動する瀬戸智樹とDJ Chikaによるユニット、Cradleが生音のオーケストラとタッグを組んだユニットCradle Orchestraとコラボレーションしたもの。ちなみにCradleの方もアルバム「Attitude」を学生時代に友人にかりて聴いたことがある。
ヒップホップといえばサンプリングなのだろうが、このアルバムはそんな出自もあって生音で構成されている。曲は前述のNujabesを彷彿とさせるオーガニックなもの。とはいえNujabesはサンプリング主体だろうと思うのでその音は共通点もあれば違うところも。こちらの方がさらに扱っている音の幅、というか種類とその出し方は豊富だ。乾いた音のどラム派結構音数が多い。とにかく良く動くピアノ。伸びやかに歌う様なホーン。アコースティックギター。ヴァイオリンにさらには琴などなど。それからコーラスもかなり大胆に取り入れている。オーケストラを自称するくらいだからさすがに音色が豊かだ。ジャズっぽさは勿論あるのだが、そこにとどまらずもっと自由で色々な音が飛び出してくる印象。一体これはどういったジャンルなのだろうと疑問に思うのだけど、よく考えたら当たり前のようにヒップホップである。
これだけ豊かな音に負ける事無く、曲をヒップホップにしてしまうのはMCを勤めるShing02の力量によるところも大きいだろう。問いかけるように紳士に言葉を紡ぎだす独特のスタイルだが、その冷静さの中に明確でラディカルなメッセージ性があるのは過去の作品を見ても明らかだろう。今回は全編英語のリリックだが、聴いて思うのはとにかく真面目で耳あたりは柔らかいのにとても鋭い印象だ。真面目というか、聴いている方も思わずその言葉をないがしろに出来ない様な、そんな雰囲気がある。実は結構なアジテーターなのかもしれない。
ヒップホップというとMCなしのバックトラックを聴くと音の数が少ないにもかかわらずそのかっこよさにしびれる事がある。このユニットの場合は音の数が多いから所謂ヒプホップの減算の美学とは異なるのだろうけれど、別の種類のかっこよさがあってラップと一緒にどんどん高みに登っていく様な楽しさがあってお互い切磋琢磨しつつも、曲として見事に調和しているから、トラックを作る側のCradleも相当だ。
奇麗で豊か、というと何となく軽いイメージがあるけどとんでもない。とにかく中身のぎゅっと詰まったヒップホップだと思う。素直にカッコいい。オススメです。
ラベル:
Cradle Orchestra,
Hip-Hop,
Shing02,
音楽,
日本
2016年3月19日土曜日
日記
im fine thank you and you? お前はどうなの?良く考えろ
-OMSB 「Think Good」-
夜の6時位のランニングはくるものがある。
住宅街を走っていると夕餉のにおいが漂ってくる。楽しげな子供の嬌声が聴こえる。
今日は土曜日、きっと今日は早起きして家族三人で公園に遊びにいったのだろう。半日遊び疲れて帰り、今は心地よい疲労感に包まれて夕食の準備をしている。これから家族三人でご飯を食べ、食べ終えたらソファーに座りテレビを眺める。膝に乗せた子供は寝息を立てる。子供の心臓の鼓動に合わせて自分も眠りに落ちていく。心地よいまどろみに思う。「明日は日曜日。」
料理屋の前を通り過ぎる。向かい合うテーブルでカップルがご飯を食べている。
折角の連休だし、前から気になったあそこのイタリア料理屋に行ってみよう。ちょっと普段より良いワインを飲もう。メインの肉料理と魚料理、両方頼んで分けてみよう。デザートを食べコーヒーを飲んだら、帰りはサミットによって買い物をしていこう。明日は家具を見に行く。どんなソファが良いか、今はご飯を食べながら話そうか。
運動不足の俺は荒い息で市街地をのたのた走る。いかにも30すぎた男が健康のために仕方なしに走るその様は滑稽だろう。3キロ近くで早くも疲れた俺を、後ろに子供を乗せた自転車がゆっくり追い越していく。酒屋のライトに照らされた女の子の顔は微笑んでいる。俺には彼女の動きがスローモーションのように見える。母親の彼女への無限の愛で動くスピードによって彼女は俺からゆっくりと確実に遠ざかっていく。
赤いテールランプが俺を次々に追い越していく。街灯に照らされた濡れた道を俺は息を切らせて走っていく。今日が終わり、そして明日が今日と同じ今日になる今日に俺は帰っていく。
ジム・トンプスン/鬼警部アイアンサイド
アメリカの作家による警察小説。
名作ドラマのノベライズをノワール文学の巨匠が担当した異色作。
サンフランシスコ市警のロバート・アイアンサイドは優秀な刑事だったが何者かに銃撃され下半身に障害が残り車いすでの生活を余儀なくされた。しかし市警はアイアンサイドの才能と手腕を買い、通常の組織には捕われない別働隊として彼を抱え、2人の刑事をその部下としてつけた。黒人の運転手を加えた鉄壁のチームが犯罪に挑む。
元々「鬼警部アイアンサイド」というのは1967年から1975年の間に制作・放映されたアメリカのテレビドラマ。その人気は高く都合8シリーズ199話制作され、日本でも放映された。ちなみに設定を変更したリメイク版(アイアンサイドが黒人に、舞台がニューヨークにへんこうされているみたい)が2013年から2014年に放映されていたようで、時が立ってもその人気ぶりが伺える。オリジナル版のQuincy Jonesの手による印象的なテーマ曲は聴いた事のある人も多いはず。(私もアイアンサイドのテーマ曲とは全く知らなかった。改めて聴くととてもカッコいい!)
そのテレビシーズのノベライズが本書。(他にもトンプスンではない作家のノベライズもあるようだ。)始めはてっきりトンプスンが原作かな?と思ったのだがそうではなかった。トンプスンは言わずと知れたノワール文学の巨匠でこのブログでも何冊か感想を書いた。テレビシリーズの警察小説というと少し意外な気もするけど、晩年のトンプスンは映画を始め映像作品と関わっていたとのことなので、そういった繋がりでこの仕事が舞い込んだのかもしれない。ちなみにこの小説、短いながらも警察小説の面白さがぎゅっと詰まったとても良い本。
トンプスンが刑事、しかも悪徳ではなくて正義感に燃えるリーダーを書くとなるとこれだけでもうすごい事なのだけれど、この車いすにのった巨漢アイアンサイドは滅茶苦茶カッコいい。鬼警部の名はだてではなく部下をこき使いまくり、自分でも捜査に積極的に乗り出すが、銃は好きじゃない(銃は健常者のための武器である、というくだりはトンプスンっぽくて納得してしまった)、部下の女性にほのかな恋心があるが、厳しく自分を戒めている、と厳しくも優しい刑事の誕生である。
車いすというのはどうしても移動だけでも常人のように行かないから、チームワークが通常以上に発揮されるという小説的な利点があるのは勿論のことだが、個人的にはこの要素は主人公の不屈さを何より効果的に高めていると思った。アイアンサイドは車いす生活の不便さを嘆く事はあっても、たとえば理不尽だと行って他者を非難するものでもなく(彼が何故そうなったのかというのはほぼこの本では語られない)、自己憐憫などもってのほか。彼にはもっと気になる事がある。それはにっくき犯罪の全貌を白日にさらし、犯人
は法の庭に引っ張りだし(彼は暴力的な人間ではない)、犯罪の被害者には慈愛を持ってその傷をいやそうとするのである。障害は彼にとって何の影響も無いように見える。例えば障害によって改めて人として成長した、とかそんなのも無いのである。ただ不便だ!と悪態をつきつつ、きっと足が自由だった頃と変わらない情熱で持って事件に挑み続ける好漢がアイアンサイドという男なのだろうと感じさせる。
大衆を意識してなのかトンプスンの黒さはさすがに他のノワール作品に比較すると押さえ気味ではあるが、効果的にオブラートに包んだ口の悪さやユーモアは少しも減じる事無く、作者の魅力が濃縮されている。トンプスンお得意の本人すら気づいていない狂気への偏向というのはほぼほぼ書かれておらず(というか犯人サイドに関してはほぼ書かれていない)、あくまでも善人たる主人公サイドにフォーカスして書かれているので、あなり全うな警察小説に仕上がっている。
トンプスン節を期待してしまうとちょっと方向性が違うので驚いてしまうのだが、警察小説が好きな人は読んでみて損は無いのではと。
名作ドラマのノベライズをノワール文学の巨匠が担当した異色作。
サンフランシスコ市警のロバート・アイアンサイドは優秀な刑事だったが何者かに銃撃され下半身に障害が残り車いすでの生活を余儀なくされた。しかし市警はアイアンサイドの才能と手腕を買い、通常の組織には捕われない別働隊として彼を抱え、2人の刑事をその部下としてつけた。黒人の運転手を加えた鉄壁のチームが犯罪に挑む。
元々「鬼警部アイアンサイド」というのは1967年から1975年の間に制作・放映されたアメリカのテレビドラマ。その人気は高く都合8シリーズ199話制作され、日本でも放映された。ちなみに設定を変更したリメイク版(アイアンサイドが黒人に、舞台がニューヨークにへんこうされているみたい)が2013年から2014年に放映されていたようで、時が立ってもその人気ぶりが伺える。オリジナル版のQuincy Jonesの手による印象的なテーマ曲は聴いた事のある人も多いはず。(私もアイアンサイドのテーマ曲とは全く知らなかった。改めて聴くととてもカッコいい!)
そのテレビシーズのノベライズが本書。(他にもトンプスンではない作家のノベライズもあるようだ。)始めはてっきりトンプスンが原作かな?と思ったのだがそうではなかった。トンプスンは言わずと知れたノワール文学の巨匠でこのブログでも何冊か感想を書いた。テレビシリーズの警察小説というと少し意外な気もするけど、晩年のトンプスンは映画を始め映像作品と関わっていたとのことなので、そういった繋がりでこの仕事が舞い込んだのかもしれない。ちなみにこの小説、短いながらも警察小説の面白さがぎゅっと詰まったとても良い本。
トンプスンが刑事、しかも悪徳ではなくて正義感に燃えるリーダーを書くとなるとこれだけでもうすごい事なのだけれど、この車いすにのった巨漢アイアンサイドは滅茶苦茶カッコいい。鬼警部の名はだてではなく部下をこき使いまくり、自分でも捜査に積極的に乗り出すが、銃は好きじゃない(銃は健常者のための武器である、というくだりはトンプスンっぽくて納得してしまった)、部下の女性にほのかな恋心があるが、厳しく自分を戒めている、と厳しくも優しい刑事の誕生である。
車いすというのはどうしても移動だけでも常人のように行かないから、チームワークが通常以上に発揮されるという小説的な利点があるのは勿論のことだが、個人的にはこの要素は主人公の不屈さを何より効果的に高めていると思った。アイアンサイドは車いす生活の不便さを嘆く事はあっても、たとえば理不尽だと行って他者を非難するものでもなく(彼が何故そうなったのかというのはほぼこの本では語られない)、自己憐憫などもってのほか。彼にはもっと気になる事がある。それはにっくき犯罪の全貌を白日にさらし、犯人
は法の庭に引っ張りだし(彼は暴力的な人間ではない)、犯罪の被害者には慈愛を持ってその傷をいやそうとするのである。障害は彼にとって何の影響も無いように見える。例えば障害によって改めて人として成長した、とかそんなのも無いのである。ただ不便だ!と悪態をつきつつ、きっと足が自由だった頃と変わらない情熱で持って事件に挑み続ける好漢がアイアンサイドという男なのだろうと感じさせる。
大衆を意識してなのかトンプスンの黒さはさすがに他のノワール作品に比較すると押さえ気味ではあるが、効果的にオブラートに包んだ口の悪さやユーモアは少しも減じる事無く、作者の魅力が濃縮されている。トンプスンお得意の本人すら気づいていない狂気への偏向というのはほぼほぼ書かれておらず(というか犯人サイドに関してはほぼ書かれていない)、あくまでも善人たる主人公サイドにフォーカスして書かれているので、あなり全うな警察小説に仕上がっている。
トンプスン節を期待してしまうとちょっと方向性が違うので驚いてしまうのだが、警察小説が好きな人は読んでみて損は無いのではと。
アンドレアス・グルーバー/月の夜は暗く
オーストリアの作家による警察小説。
「夏を殺す少女」を読んで以来のファンなので期待大で購入。
大聖堂で異常な殺され方をした女性。彼女はドイツはミュンヘンの市刑事警察機動捜査課の捜査官ザビーネの母親だった。離婚した父親は嫌疑を疑われ警察に拘留されている。父の無実を信じるザビーネはドイツ連邦刑事本部局の事件分析官マールテン・S・スナイデルと無理矢理タッグを組み事件に挑むことに。ところがこのスナイデルは頭脳は一日市場秀でているものの口と素行が最悪という変わり者だった。
ドイツ/オーストリアを舞台にした刑事物。主人公たちがおうのはいわゆるシリアルキラーである。物語的には結構派手。
男女のバディもので、男性の方は変わり者。警察小説にでてくる警官というのは一般人のカテゴリに属しながらも大抵悩みや問題を抱えていたものだが、(犯罪心理捜査官セバスチャンもそうだったが)最近は天才+人格自体に大きな欠陥があるというのが流行なのかもしれない。この物語のスナイデルはいわゆる天才なのだろうが、極度の口の悪さと人嫌いはよいにしても、群発性頭痛持ちでマリファナと針治療を好む超高圧的な変人である。日本のありきたりな表現ではドS上司とか、適当でありがちな形容詞でもってくくられてしまいそうなキャラクターの立ち具合だが、作者グルーバーは非常に上手く彼を掘り出している。たとえば辛い過去があってどうこうというような湿っぽさは皆無であって、最後の最後までスナイデルというキャラクターの真意はザビーネも読者も掴みきれないのである。ここは良いなと思った。
シリアルキラーを追っかけるバディという話のぶっとい筋はそのままなのだが、作者自身も言及している通り物語の軸として心理療法(カウンセリング)が非常に重要なファクターになっている。スナイデルは謎の多いキャラクターであるが、もう一つの大きな謎である犯人に関しては心理療法を通して一体彼が何者で、なぜこのような連続殺人に手を染めたのかというのが、非常に上手いじらされ具合で捜査の進展とともに少しずつ詳らかにされていく。ザビーネの他にも事件に巻き込まれその核心に迫っていく探偵役がいて、別の視点から事件の全容を暴いていく。同様に見立てられた連続殺人とシリアルキラーという異常性と男女関係もっというと浮気の問題が盛り込まれていたりしてかなりの盛りだくさん。500ページ超のボリュームにぎっしりと詰まっているのだが、酒寄進一さんの読みやすい翻訳もあって物語にのめり込んであっという間に読める。
アンドレアス・グルーバーという人は恐らく持ち前の明るさというか前向きさという様な持ち味があって、残酷描写は目も当てられないくらい陰惨だが、物語全体としては非常に上手くからっとまとめる。母親を殺されたザビーネ、警察や夫に酷く裏切られたカウンセラーとなかなかな難物ぞろいなのだが、彼らの心理描写は非常に端的かつ簡明で物語の勢いはちっとも弱るところが無い。テンポよく最後まで一気呵成になだれ込むまさに得んため小説のお手本の様な構成になっている。一定の上品さというのが意識されていて、描写が下品になりすぎないのも良い。
後書きを読むとザビーネとスナイデルの物語はこの本いこうも継続的に書かれているようだ。続刊の翻訳に期待。血が流れる面白い小説を読みたい人は是非どうぞ。
「夏を殺す少女」を読んで以来のファンなので期待大で購入。
大聖堂で異常な殺され方をした女性。彼女はドイツはミュンヘンの市刑事警察機動捜査課の捜査官ザビーネの母親だった。離婚した父親は嫌疑を疑われ警察に拘留されている。父の無実を信じるザビーネはドイツ連邦刑事本部局の事件分析官マールテン・S・スナイデルと無理矢理タッグを組み事件に挑むことに。ところがこのスナイデルは頭脳は一日市場秀でているものの口と素行が最悪という変わり者だった。
ドイツ/オーストリアを舞台にした刑事物。主人公たちがおうのはいわゆるシリアルキラーである。物語的には結構派手。
男女のバディもので、男性の方は変わり者。警察小説にでてくる警官というのは一般人のカテゴリに属しながらも大抵悩みや問題を抱えていたものだが、(犯罪心理捜査官セバスチャンもそうだったが)最近は天才+人格自体に大きな欠陥があるというのが流行なのかもしれない。この物語のスナイデルはいわゆる天才なのだろうが、極度の口の悪さと人嫌いはよいにしても、群発性頭痛持ちでマリファナと針治療を好む超高圧的な変人である。日本のありきたりな表現ではドS上司とか、適当でありがちな形容詞でもってくくられてしまいそうなキャラクターの立ち具合だが、作者グルーバーは非常に上手く彼を掘り出している。たとえば辛い過去があってどうこうというような湿っぽさは皆無であって、最後の最後までスナイデルというキャラクターの真意はザビーネも読者も掴みきれないのである。ここは良いなと思った。
シリアルキラーを追っかけるバディという話のぶっとい筋はそのままなのだが、作者自身も言及している通り物語の軸として心理療法(カウンセリング)が非常に重要なファクターになっている。スナイデルは謎の多いキャラクターであるが、もう一つの大きな謎である犯人に関しては心理療法を通して一体彼が何者で、なぜこのような連続殺人に手を染めたのかというのが、非常に上手いじらされ具合で捜査の進展とともに少しずつ詳らかにされていく。ザビーネの他にも事件に巻き込まれその核心に迫っていく探偵役がいて、別の視点から事件の全容を暴いていく。同様に見立てられた連続殺人とシリアルキラーという異常性と男女関係もっというと浮気の問題が盛り込まれていたりしてかなりの盛りだくさん。500ページ超のボリュームにぎっしりと詰まっているのだが、酒寄進一さんの読みやすい翻訳もあって物語にのめり込んであっという間に読める。
アンドレアス・グルーバーという人は恐らく持ち前の明るさというか前向きさという様な持ち味があって、残酷描写は目も当てられないくらい陰惨だが、物語全体としては非常に上手くからっとまとめる。母親を殺されたザビーネ、警察や夫に酷く裏切られたカウンセラーとなかなかな難物ぞろいなのだが、彼らの心理描写は非常に端的かつ簡明で物語の勢いはちっとも弱るところが無い。テンポよく最後まで一気呵成になだれ込むまさに得んため小説のお手本の様な構成になっている。一定の上品さというのが意識されていて、描写が下品になりすぎないのも良い。
後書きを読むとザビーネとスナイデルの物語はこの本いこうも継続的に書かれているようだ。続刊の翻訳に期待。血が流れる面白い小説を読みたい人は是非どうぞ。
ラベル:
アンドレアス・グルーバー,
オーストリア,
ミステリー,
警察小説,
本
アンナ・カヴァン/氷
イギリスの作家によるSF/幻想小説。
その筋では有名なのかもしれない。序文によるとスリップストリームという文学ジャンルにおいては最重要作品らしい。1967年に発表され、日本では1985年にサンリオ文庫から、その後2008年にバジリコから出版されまた絶版状態に、私が買ったのは筑摩書房から2015年に出版されたもの。超有名作というわけではないにしても長く愛されている小説なのだろう。
すべてを凍らせてしまう氷に浸食されつつ世界で私は、かつて付き合いのあった女性を探している。思いが通じ合っていたと思っていたのに彼女は別の男と結婚してしまったのだった。再会できたと思ったらまた逃げてしまう彼女を私は終わりかけている世界で探し続ける。
あらすじはシンプルなんだが色々な意味で変わっている。変わっているというよりは捻くれているという印象で、実は色々なものが多重構造のようになっている。
文体は主人公である「私」の一人称の語りなのだろうが、この人はどうも妄想癖があって目の前にある現実から間断なく彼の頭の中に入り込んでしまう。それで外界のちょっとした何かでふと目が覚める。基本的に友好的なヤツではないので何事も無かったかのように現実に戻る。読者としてはむむ?と思って、今のはお前の妄想ね、と把握するといった感じで始めはちょっと戸惑う。でもこれはすぐなれるから大丈夫。また「私」ときたら状況をきちんと説明する訳ではないし、思った事を何でも書いちゃうたちだから、終わりつつある世界が実際にはどのような状態なのか、というのは彼の断片的な情報を元に読者がそれぞれ組み立てて想像するしか無い。言うまでもなくこういう作業は(少なくとも私を含めた一部の読者には)非常な楽しみにになり得る。
あらすじだけ見ると一人の男が運命の女性を求めて世界を旅する話で、実際のところそうなのだ。ところで「私」というのは情熱的な男性であるのだが、同時に非常にサディスティックな人物で彼の想い人を常に酷い目に合わせたがっている。有り体にいってストーカーでDV働くクソ野郎なわけでそりゃ彼女も逃げるよな、という趣である。
一見恋愛小説、実は…と思うけど、実際のところ骨子は
当初の印象通りきちんとした恋愛小説である。終わりつつある(しかも核の炎に包まれる訳でもなく、ゆっくり氷に侵されていくという状況)世界、病的な愛とくればある種の捻くれた人間にとっては逆に非常にロマンティックな小説という事になるのだ。
主人公が求める女性は、子供のようにガリガリで抱きしめたら壊れそうな脆弱な体に銀髪という非常にキャラクター的なか弱い”女性”であるし、彼女を巡る恋のライバル「長官」というのはたくましく恵まれた体躯に金髪碧眼のハンサム、地位も名誉もあるといった理想化された”男性”である。そんなかで彼女を求めて右往左往する「私」はいかにも主人公的であると言える。きっちり物語のツボを押さえている。(はっきりとした例がある訳ではないが日本製のアニメにもそのまま転用できそうだなと思ってしまった。)しかも説明不足の美学で構築された世界は筆者の力量で持って非常に寓話的だ。彼らが誰なのか、世界はどのように終わろうとしているのか、を考えるだけでも楽しい。
ただ正直この一冊ではまだスリップストリーム文学が何かというのは掴めなかったかな。既存の型にはまらない、SFと純文学の境界みたいなものなのかな?という感じだが、この小説だけが型破りに特異だとは思わなかった。前述の通り捻くれているものの結構物語の筋は堂々としたものだと思う。
一つ残念な事はこの版からは削除されているブライアン・W・オールディスの書いた序文が読みたかったな。版権の問題でしようがないのかもしれないが。
相当捻くれているものの思ったより優しい物語だと思う。気になっている人は読んでしまうが吉。
その筋では有名なのかもしれない。序文によるとスリップストリームという文学ジャンルにおいては最重要作品らしい。1967年に発表され、日本では1985年にサンリオ文庫から、その後2008年にバジリコから出版されまた絶版状態に、私が買ったのは筑摩書房から2015年に出版されたもの。超有名作というわけではないにしても長く愛されている小説なのだろう。
すべてを凍らせてしまう氷に浸食されつつ世界で私は、かつて付き合いのあった女性を探している。思いが通じ合っていたと思っていたのに彼女は別の男と結婚してしまったのだった。再会できたと思ったらまた逃げてしまう彼女を私は終わりかけている世界で探し続ける。
あらすじはシンプルなんだが色々な意味で変わっている。変わっているというよりは捻くれているという印象で、実は色々なものが多重構造のようになっている。
文体は主人公である「私」の一人称の語りなのだろうが、この人はどうも妄想癖があって目の前にある現実から間断なく彼の頭の中に入り込んでしまう。それで外界のちょっとした何かでふと目が覚める。基本的に友好的なヤツではないので何事も無かったかのように現実に戻る。読者としてはむむ?と思って、今のはお前の妄想ね、と把握するといった感じで始めはちょっと戸惑う。でもこれはすぐなれるから大丈夫。また「私」ときたら状況をきちんと説明する訳ではないし、思った事を何でも書いちゃうたちだから、終わりつつある世界が実際にはどのような状態なのか、というのは彼の断片的な情報を元に読者がそれぞれ組み立てて想像するしか無い。言うまでもなくこういう作業は(少なくとも私を含めた一部の読者には)非常な楽しみにになり得る。
あらすじだけ見ると一人の男が運命の女性を求めて世界を旅する話で、実際のところそうなのだ。ところで「私」というのは情熱的な男性であるのだが、同時に非常にサディスティックな人物で彼の想い人を常に酷い目に合わせたがっている。有り体にいってストーカーでDV働くクソ野郎なわけでそりゃ彼女も逃げるよな、という趣である。
一見恋愛小説、実は…と思うけど、実際のところ骨子は
当初の印象通りきちんとした恋愛小説である。終わりつつある(しかも核の炎に包まれる訳でもなく、ゆっくり氷に侵されていくという状況)世界、病的な愛とくればある種の捻くれた人間にとっては逆に非常にロマンティックな小説という事になるのだ。
主人公が求める女性は、子供のようにガリガリで抱きしめたら壊れそうな脆弱な体に銀髪という非常にキャラクター的なか弱い”女性”であるし、彼女を巡る恋のライバル「長官」というのはたくましく恵まれた体躯に金髪碧眼のハンサム、地位も名誉もあるといった理想化された”男性”である。そんなかで彼女を求めて右往左往する「私」はいかにも主人公的であると言える。きっちり物語のツボを押さえている。(はっきりとした例がある訳ではないが日本製のアニメにもそのまま転用できそうだなと思ってしまった。)しかも説明不足の美学で構築された世界は筆者の力量で持って非常に寓話的だ。彼らが誰なのか、世界はどのように終わろうとしているのか、を考えるだけでも楽しい。
ただ正直この一冊ではまだスリップストリーム文学が何かというのは掴めなかったかな。既存の型にはまらない、SFと純文学の境界みたいなものなのかな?という感じだが、この小説だけが型破りに特異だとは思わなかった。前述の通り捻くれているものの結構物語の筋は堂々としたものだと思う。
一つ残念な事はこの版からは削除されているブライアン・W・オールディスの書いた序文が読みたかったな。版権の問題でしようがないのかもしれないが。
相当捻くれているものの思ったより優しい物語だと思う。気になっている人は読んでしまうが吉。
2016年3月13日日曜日
MASAMI AKITA & EIKO ISHIBASHI/KOUEN KYOUDAI 公園兄弟
日本人2人組によるノイズユニットの1stアルバム。
2016年にEditions Megoよりリリースされた。私が買ったのはデジタル版。
秋田昌美さんは言わずもがなのノイズ界の巨匠Merzbowであるし、石橋英子さんは様々なアーティストと共演するマルチプレイヤー(七尾旅とサンと共演したりして気になっていたものの)。と偉そうに紹介したのだが実はお二人の音源は持っていない(Merzbowは単独音源持っていなくて他のアーティストとのコラボ音源のみ持っている)のでこれを良い機会に買ってみた。結局単独音源は買ってない事になるのだが。
レーベルのクレジットを見ると秋田さんがノイズ、エレクトロニクス、コンピューター(?)、ドラム担当。石橋さんがピアノ、ドラム、シンセサイザーを担当しているとのこと。Jim O'Rourkeがレコーディングとミックスを担当しているとの事。
Merzbowというとハーシュノイズな印象があって、私が持っているBorisやFull of Hellとのコラボでも容赦のない凶音ぶりを発揮しているので、おっかなびっくり聴いてみるとこれが中々どうして期待を裏切られる出来。ノイズというのは絵の具の黒色みたいなもので、個性が強い分他の音と混ぜてもノイズの音色にしかならない、というのは結構な誤解で、この音源を聴くとハーシュなノイズでも色々な表現があるのだと分かる。
「Slide」(アートワークにもなっている滑り台の事であろう)と「Junglegym」という2曲のみで構成されていて両方とも18分台である。ほぼインストゥルメンタル。多分溶けた様な声がたまに出てくる程度。
ノイズがその背骨を貫いているのは間違いないのだが、全体的には予想よりもっと複雑かつ繊細な音が鳴らされている。まずは音の数が非常に豊富だ。ノイズは刻一刻とその形と色と音を変えていくもの。このアルバムでは一口にノイズと言っても色々な表情を見る事が出来る。シャーシャーなるホワイトノイズ、暴力的なブラックノイズ、空電の様な高音、地鳴りの様な低音などなど、枚挙にいとまがない。それからノイズ以外の楽器も顔を出す。ドラムが全方位的に広がっていく混沌とした世界に秩序をもたらす事もある。ただし全編に出てくる訳ではないのがニクいところだ。例えばバスドラムの乱打はむしろ混沌の度合いを強めている様な気がする。霧の様に曲を覆うシンセサイザーの音は幻想的。透徹なピアノは暴力的なノイズと極めて対照的だが、両者の差異が明確になりつつも、曲自体ではきちんと調和がとれているから、単にボリューム以上の繊細なコントロールが徹底されているのだと思う。
一体どういう風に曲作りがされているのかは分からないが、曲がゆったりだがしかし確実にとその展開を変えていく様は不自然でないもののかなり先が読めないので、ひょっとしたらインプロゼーションなのかもしれない。
混沌としているが多分に感情的で、多様な色が渦を巻いているようで面白い。冷たい印象は皆無でノイズ以外の楽器が暖かみ(というか聴きやすさという要素なのか)を演出しているのでこの手の音の中ではかなり聴きやすい部類だと思う。
個人的にはバッキバキのハーシュなノイズよりもこういったメロウだったりメロディアスな要素の片鱗が感じ取れる音が大好物なので非常に気に入っております。非常にオススメ。
2016年にEditions Megoよりリリースされた。私が買ったのはデジタル版。
秋田昌美さんは言わずもがなのノイズ界の巨匠Merzbowであるし、石橋英子さんは様々なアーティストと共演するマルチプレイヤー(七尾旅とサンと共演したりして気になっていたものの)。と偉そうに紹介したのだが実はお二人の音源は持っていない(Merzbowは単独音源持っていなくて他のアーティストとのコラボ音源のみ持っている)のでこれを良い機会に買ってみた。結局単独音源は買ってない事になるのだが。
レーベルのクレジットを見ると秋田さんがノイズ、エレクトロニクス、コンピューター(?)、ドラム担当。石橋さんがピアノ、ドラム、シンセサイザーを担当しているとのこと。Jim O'Rourkeがレコーディングとミックスを担当しているとの事。
Merzbowというとハーシュノイズな印象があって、私が持っているBorisやFull of Hellとのコラボでも容赦のない凶音ぶりを発揮しているので、おっかなびっくり聴いてみるとこれが中々どうして期待を裏切られる出来。ノイズというのは絵の具の黒色みたいなもので、個性が強い分他の音と混ぜてもノイズの音色にしかならない、というのは結構な誤解で、この音源を聴くとハーシュなノイズでも色々な表現があるのだと分かる。
「Slide」(アートワークにもなっている滑り台の事であろう)と「Junglegym」という2曲のみで構成されていて両方とも18分台である。ほぼインストゥルメンタル。多分溶けた様な声がたまに出てくる程度。
ノイズがその背骨を貫いているのは間違いないのだが、全体的には予想よりもっと複雑かつ繊細な音が鳴らされている。まずは音の数が非常に豊富だ。ノイズは刻一刻とその形と色と音を変えていくもの。このアルバムでは一口にノイズと言っても色々な表情を見る事が出来る。シャーシャーなるホワイトノイズ、暴力的なブラックノイズ、空電の様な高音、地鳴りの様な低音などなど、枚挙にいとまがない。それからノイズ以外の楽器も顔を出す。ドラムが全方位的に広がっていく混沌とした世界に秩序をもたらす事もある。ただし全編に出てくる訳ではないのがニクいところだ。例えばバスドラムの乱打はむしろ混沌の度合いを強めている様な気がする。霧の様に曲を覆うシンセサイザーの音は幻想的。透徹なピアノは暴力的なノイズと極めて対照的だが、両者の差異が明確になりつつも、曲自体ではきちんと調和がとれているから、単にボリューム以上の繊細なコントロールが徹底されているのだと思う。
一体どういう風に曲作りがされているのかは分からないが、曲がゆったりだがしかし確実にとその展開を変えていく様は不自然でないもののかなり先が読めないので、ひょっとしたらインプロゼーションなのかもしれない。
混沌としているが多分に感情的で、多様な色が渦を巻いているようで面白い。冷たい印象は皆無でノイズ以外の楽器が暖かみ(というか聴きやすさという要素なのか)を演出しているのでこの手の音の中ではかなり聴きやすい部類だと思う。
個人的にはバッキバキのハーシュなノイズよりもこういったメロウだったりメロディアスな要素の片鱗が感じ取れる音が大好物なので非常に気に入っております。非常にオススメ。
2016年3月12日土曜日
The Black Queen/Fever Daydream
アメリカはカリフォルニア州ロサンゼルスのエレクトロ/オルタナティブバンドの1stアルバム。
2016年に恐らく自主リリースされた。
The Black Queenはマスコア/カオティックハードコアバンドThe Dillinger Escape PlanのボーカリストGreg Puciatoを中心に結成されたバンド。オフィシャルのバイオを見ると2011年に同バンドやNine Inch Nailsのテクニカル担当を勤めるSteven Alexanderと曲を作り始めたとの事。その後Telefon Tel AvivのメンバーでNine Inch NailsやPuciferと働いた事もあるJoshua Eustisが参加し、バンドの活動が加速。今回目出たくアルバム発表の運びとなったそうな。ゴリマッチョなGreg(TDEP加入直後はほっそかったと思うんだけど)は前からNine Inch Nailsのファンということをいっていたと思うし(加入後のアルバムで歌い方がTrentっぽいなーとNINファンの私は嬉しかった思い出が)、PortisheadのTシャツをMax CavarleraらとのスーパーバンドKiller Be Killedのアーティスト写真で着ていた様な気がするから、今回このような音のプロジェクトと行っても実はそんなに意外でもないでした。という事で購入。
ギターの音も入っているし完全にという訳でもないのだろうが、それでもほぼエレクトロに舵を切ったサウンド。レビューでも書かれているが全体的に懐古的というかノスタルジックな電子音で構成されているように感じる。私はそちら方面全く詳しくないので、例えば何年代のディスコサウンド!のように具体的に指摘できないのだが…例えば意図的なレトロ/チープさとも明らかに一線を画すわけで、例えるならば昔一世風靡をしたサウンドがその後あたらな流行に押され消えてしまった、ところがそのサウンドが今もそのまま進化したとしたら…そんな音である。つまり原題で通じるほどに重厚だし、往時そのままの音でももちろん無い。ただ所謂流行とは結構無縁の独自の道を突き進む音である。
シャウトからメロディアスなクリーンパートまでこなす万能ボーカリストGregもこのバンドではシャウトを完全に封印、息づかいまで伝わっているしっとりとした艶のあるボーカルでウィスパーから伸びやかでねっとりとした全く違った局面でもその才能を遺憾なく発揮している。歌うまいと思うけど私はそこら辺の判断がちゃんと出来る訳ではないのだが、やっぱり魅力的な声だなーと思います。
単にGregのサイドプロジェクトに収まらないこのバンドはバックをガッチリ固める。ダンサブルかつムーディで妖しい魅力にあふれている。レトロなシンセ音も、例えば飛び道具的に使う流行のバンドとは全く異なる。曲の細部まですべてコントロールされているので、一見時代とかけ離れたその独特な音もごくごく自然に聴こえるからさすがの一言。全体的には暗い雰囲気だが、例えばトリップホップのような模糊とした要素はほぼ皆無で全編かなりソリッドに作られている。分かりやすいリズムは確かにノスタルジック。脇を固める細かい音は、例えばNINを思わせるちょっとしたインダストリアル性、それから忍び寄る様なシンセ音や単音の奇抜なおとはウィッチハウスを通過し、飲み込んだ様な変遷を感じさせる。
正直どんなもんかな?という気持ちも無くはなかったのだけど、聴いてみたらこの作り込みに嬉しい驚き。これはカッコいいですよ。Greg(TDEP)のファンは勿論、インダストリアル野郎も結構自然に受け入れられるのではないでしょうか。オススメ。
ラベル:
The Black Queen,
アメリカ,
インダストリアル,
テクノ,
音楽
ピーター・ディキンスン/生ける屍
イギリスの作家によるSF/冒険?小説。なんともカテゴライズするのが難しい。
原題はそのまま「WALKING DEAD」で1977年に発表された。日本ではかのサンリオSF文庫から出版されたものの長らく絶版状態。一時は相当な高値が付けられたそうなのだが、2013年に筑摩書房から復刊されたのがこの一冊。
作者の事もそんな幻の一冊的な逸話の事も知らなかったのだが、表紙の絵(アルノルト・ベックリンという人の絵らしい。)がすごく良くて目に止まりあらすじを読むと面白そうだったので購入。俳優の佐野史郎さんが解説を寄せている。(帯にもばーんと出ている。)私は何となく佐野史郎さんが結構好きだ。
製薬会社の研究員デビッド・フォックスはカリブ海に浮かぶ島国ホッグ島に実験のため派遣される事になった。その島では密かに魔術が息づき戸惑うフォックスだったが、ある日研究所で起きた殺人の嫌疑をかけられ半ば強制的に為政者一族から人体実験を強要される。
生ける屍といえばすっかりゾンビの代名詞になってしまったが、この小説ではもっと複雑である。カテゴライズするのが難しいと書いたが、なかなか一筋縄ではいかない。主人公フォックスは善良かつ真面目な男だがやや主体性・能動性に欠ける人物で、彼がのっぴきならない状況(だからまあ流されてしまうのも仕様がないのだが)にぐわーっと飲み込まれる様を淡々と書いている。ハイチを思わせる太陽が燦々と照りつける島で人体実験、呪い、陰謀、派手なドンパチと色々な要素が詰まっている。そういった意味では極めて派手な物語なのだが、読んでみるとかなり内省的で観点的だった。というのも色んな物事が激しく動いていく中でもこのフォックスという主人公はひたすらマイペースで、いちいち考え込んでしまう。その心の動きがかなり丁寧に書かれている。悪い一面で言うと自体が動いている割にはそこが小説全体の動きを幾らか阻害しているし、しかしその独特のリズムがこの作品を唯一無二足らしめているのも事実だ。
寓話というにははっきりしすぎているがそれでもこの作品が内包しているものは多岐にわたる。呪いが存在する中で科学の徒であるフォックスは始めは一笑に付したそれにどっぷりはまり込んでいく。呪いってなんだ?と考えさせられる。魔術が作用するには場が必要だということと(魔術師だけでなくかけられる方が魔術の成立には大切)、仕組みが理解できないという意味では実は高等な科学も一般人から見ると魔術的なものであるということ、両方とも常に権力の道具とされる事は面白い。
淡々としているが明らかにこのホッグ島という半分未開めいた場所では差別が横行され、一部の人たちは明白に迫害されている。具体的には追われ、捕まれば拷問されて殺されている。この状況は縮図といった感じで、未開人だから野蛮だというのとは少し違う。それが発揮されやすい特殊な状況を設定して(つまりデフォルメして)書いているのだが、実際には普遍的な権力の横行と、その残酷さ、そして気まぐれに自分の人生を左右されてしまう一般人たちの悲哀を書いていると思う。文明批判というよりは人間性の批判であって、だから未開の地でもその論理が成立しているようだ。あくまでも流され型のフォックスを通して冷静な視点で書かれているから、なおさら流される血の色とにおいが鮮明でもある。
色々な点で一風変わっている小説だが、思った以上にその内容と主張は強い。幻の一冊、気になった人は是非どうぞ。
原題はそのまま「WALKING DEAD」で1977年に発表された。日本ではかのサンリオSF文庫から出版されたものの長らく絶版状態。一時は相当な高値が付けられたそうなのだが、2013年に筑摩書房から復刊されたのがこの一冊。
作者の事もそんな幻の一冊的な逸話の事も知らなかったのだが、表紙の絵(アルノルト・ベックリンという人の絵らしい。)がすごく良くて目に止まりあらすじを読むと面白そうだったので購入。俳優の佐野史郎さんが解説を寄せている。(帯にもばーんと出ている。)私は何となく佐野史郎さんが結構好きだ。
製薬会社の研究員デビッド・フォックスはカリブ海に浮かぶ島国ホッグ島に実験のため派遣される事になった。その島では密かに魔術が息づき戸惑うフォックスだったが、ある日研究所で起きた殺人の嫌疑をかけられ半ば強制的に為政者一族から人体実験を強要される。
生ける屍といえばすっかりゾンビの代名詞になってしまったが、この小説ではもっと複雑である。カテゴライズするのが難しいと書いたが、なかなか一筋縄ではいかない。主人公フォックスは善良かつ真面目な男だがやや主体性・能動性に欠ける人物で、彼がのっぴきならない状況(だからまあ流されてしまうのも仕様がないのだが)にぐわーっと飲み込まれる様を淡々と書いている。ハイチを思わせる太陽が燦々と照りつける島で人体実験、呪い、陰謀、派手なドンパチと色々な要素が詰まっている。そういった意味では極めて派手な物語なのだが、読んでみるとかなり内省的で観点的だった。というのも色んな物事が激しく動いていく中でもこのフォックスという主人公はひたすらマイペースで、いちいち考え込んでしまう。その心の動きがかなり丁寧に書かれている。悪い一面で言うと自体が動いている割にはそこが小説全体の動きを幾らか阻害しているし、しかしその独特のリズムがこの作品を唯一無二足らしめているのも事実だ。
寓話というにははっきりしすぎているがそれでもこの作品が内包しているものは多岐にわたる。呪いが存在する中で科学の徒であるフォックスは始めは一笑に付したそれにどっぷりはまり込んでいく。呪いってなんだ?と考えさせられる。魔術が作用するには場が必要だということと(魔術師だけでなくかけられる方が魔術の成立には大切)、仕組みが理解できないという意味では実は高等な科学も一般人から見ると魔術的なものであるということ、両方とも常に権力の道具とされる事は面白い。
淡々としているが明らかにこのホッグ島という半分未開めいた場所では差別が横行され、一部の人たちは明白に迫害されている。具体的には追われ、捕まれば拷問されて殺されている。この状況は縮図といった感じで、未開人だから野蛮だというのとは少し違う。それが発揮されやすい特殊な状況を設定して(つまりデフォルメして)書いているのだが、実際には普遍的な権力の横行と、その残酷さ、そして気まぐれに自分の人生を左右されてしまう一般人たちの悲哀を書いていると思う。文明批判というよりは人間性の批判であって、だから未開の地でもその論理が成立しているようだ。あくまでも流され型のフォックスを通して冷静な視点で書かれているから、なおさら流される血の色とにおいが鮮明でもある。
色々な点で一風変わっている小説だが、思った以上にその内容と主張は強い。幻の一冊、気になった人は是非どうぞ。
ラベル:
SF,
イギリス,
ピーター・ディキンスン,
本
2016年3月6日日曜日
Seven Sisters of Sleep/Ezekiel's Hags
アメリカはカリフォルニア州ロサンジェルスのスラッジメタルバンドの3rdアルバム。
2016年にRelapse Recordsからリリースされた。
タイトルの「Ezekiel's Hags」は恐らく旧約聖書のエゼキエル書のことではなかろうか。そもそも眠りの七姉妹というバンド名もカッコよくて好きなんだが、これも何か由来があるのだろうか。七姉妹というとプレイアデスがでてくるのだがひょっとしたらこれが元ネタなのかもしれぬ。
2ndアルバム「Opium Morals」が日本でもかなり評判だったので購入して好きになり、その流れで購入。私が買ったのはデジタル版。
方向性としては2ndの時とは変わらず、荒々しい極悪スラッジメタルをプレイしている。うざい言い方で申し訳ないのだが、1曲目「Jones」を聴いた時にこれはとんでもないかも、と思ってしまった。どこがというのが難しいのだが基本的に前作からすべてがパワーアップしている印象。記事を読む暇があったら今すぐ買ってほしいのだが、まあ自分なりにここがすごいんだよ、というところを書いていきたいと思います。
音質はクリアで楽器の分離も気持ちよい、ややこもった感じがするけどひたすらアングラ臭ただようスラッジなのでむしろ丁度良いくらい。
この手のジャンルにしては曲は長くなく(短いという訳ではないはず)3分から4分。思ったのだけどこのバンドのすごさは徹頭徹尾仮借ないはずなのに非常に聴きやすい。別にポップでも何でもないのだが。ひとつは曲の尺も沿うだろうし、たとえば曲の展開がそこまで複雑ではないのもあるかもしれない。さらに曲のフレーズやギターのリフが非常に明快にキャッチーである。スラッジ特有のタメのあるグルーヴィさ、そして引きずりたおしたような唸りのあるリズムは非常に頭を振るのに適している。
曲の速度は中速程度なのだが、曲によってはドラムの手数がぐわっと増す疾走パート(それでも速くはないのだが体感的には大分違う)を導入していてこれが鬱屈した雰囲気の中でも不思議な清涼感が、いや清涼感は無いですね。でもカタルシスになって気持ちよい。
ボーカルがすさまじく、明らかに迫力が増している。べつに歌が上手くなったとか(そもそもわかりやすいメロディーなんて無いので)、色々なオクターブで声が出せるようになったとか、全くそんな事はなく。相変わらず噛みつくように歌っている。このしゃがれたのどをしぼる様な歌い方はなるほどスラッジ特有のものだが、誰かに似ているかというとかなりオリジナリティがある。ちょっとつぶれた様な危うさがあって(後ろに伸びるシャウトはいかにもささくれ立っていて滅茶カッコいい。)、それが自暴自棄な歌い方にぴったりハマっている。ギャーギャー叫ぶのと、低音でごろごろ唸るような歌い方があってそれぞれドスが利いている。
濃厚な煙の向こうで繰り広げられる地獄絵巻めいていて完全にどうかしている。殺気に満ち満ちているのだが、スラッジ特有の放心した様な悪意のある停滞があってそれが殺伐とした雰囲気の中で不思議な気持ちよさを生み出している。低速でビリビリしたフィードバックに脳みそがしびれる。完全に悪い振動。
2ndもヤバかったけど余裕でその上を行くスラッジ地獄。まさに大胆不敵でもはや笑みしか出ない。とにかく荒涼としてもはや手遅れですという感じなので、現実が辛い人の手にそっと渡してあげたい1枚。優れた特効薬、さあいますぐ買うのです。
2016年にRelapse Recordsからリリースされた。
タイトルの「Ezekiel's Hags」は恐らく旧約聖書のエゼキエル書のことではなかろうか。そもそも眠りの七姉妹というバンド名もカッコよくて好きなんだが、これも何か由来があるのだろうか。七姉妹というとプレイアデスがでてくるのだがひょっとしたらこれが元ネタなのかもしれぬ。
2ndアルバム「Opium Morals」が日本でもかなり評判だったので購入して好きになり、その流れで購入。私が買ったのはデジタル版。
方向性としては2ndの時とは変わらず、荒々しい極悪スラッジメタルをプレイしている。うざい言い方で申し訳ないのだが、1曲目「Jones」を聴いた時にこれはとんでもないかも、と思ってしまった。どこがというのが難しいのだが基本的に前作からすべてがパワーアップしている印象。記事を読む暇があったら今すぐ買ってほしいのだが、まあ自分なりにここがすごいんだよ、というところを書いていきたいと思います。
音質はクリアで楽器の分離も気持ちよい、ややこもった感じがするけどひたすらアングラ臭ただようスラッジなのでむしろ丁度良いくらい。
この手のジャンルにしては曲は長くなく(短いという訳ではないはず)3分から4分。思ったのだけどこのバンドのすごさは徹頭徹尾仮借ないはずなのに非常に聴きやすい。別にポップでも何でもないのだが。ひとつは曲の尺も沿うだろうし、たとえば曲の展開がそこまで複雑ではないのもあるかもしれない。さらに曲のフレーズやギターのリフが非常に明快にキャッチーである。スラッジ特有のタメのあるグルーヴィさ、そして引きずりたおしたような唸りのあるリズムは非常に頭を振るのに適している。
曲の速度は中速程度なのだが、曲によってはドラムの手数がぐわっと増す疾走パート(それでも速くはないのだが体感的には大分違う)を導入していてこれが鬱屈した雰囲気の中でも不思議な清涼感が、いや清涼感は無いですね。でもカタルシスになって気持ちよい。
ボーカルがすさまじく、明らかに迫力が増している。べつに歌が上手くなったとか(そもそもわかりやすいメロディーなんて無いので)、色々なオクターブで声が出せるようになったとか、全くそんな事はなく。相変わらず噛みつくように歌っている。このしゃがれたのどをしぼる様な歌い方はなるほどスラッジ特有のものだが、誰かに似ているかというとかなりオリジナリティがある。ちょっとつぶれた様な危うさがあって(後ろに伸びるシャウトはいかにもささくれ立っていて滅茶カッコいい。)、それが自暴自棄な歌い方にぴったりハマっている。ギャーギャー叫ぶのと、低音でごろごろ唸るような歌い方があってそれぞれドスが利いている。
濃厚な煙の向こうで繰り広げられる地獄絵巻めいていて完全にどうかしている。殺気に満ち満ちているのだが、スラッジ特有の放心した様な悪意のある停滞があってそれが殺伐とした雰囲気の中で不思議な気持ちよさを生み出している。低速でビリビリしたフィードバックに脳みそがしびれる。完全に悪い振動。
2ndもヤバかったけど余裕でその上を行くスラッジ地獄。まさに大胆不敵でもはや笑みしか出ない。とにかく荒涼としてもはや手遅れですという感じなので、現実が辛い人の手にそっと渡してあげたい1枚。優れた特効薬、さあいますぐ買うのです。
Subheim/Foray
ドイツはベルリン在住のアーティストの3rdアルバム。
2015年にDenovali Recordsからリリースされた。
Kostas Kなる人物によるユニットで私は1stアルバム「Approach」を持っていて結構よく聴いている。ジャンル的にはアンビエントになるのだろう。基本的に電子音を主体とした曲作りなのだろうけど、アコースティックな生音をのせてくるのが特徴で静謐ながらも感情的な曲を作るアーティストだと思う。私はiTunesでデジタル版を購入。
間の2ndアルバム「No Land Called Home」を聴いていないので何とも言えないのだが全体的な方針は変わっておらず。ただ今回はドローン的なアプローチが増している分1stとは少し違うかなと思う。かっちりさが抜けてより模糊としたイメージで、全体的には拡散しているというか漏れだしているというか。
割とカッチリしたビードを土台にしいて、そこに低音気味のドローンがゆったり侵入してくる。そのうえに生音をかぶせてくる、というのが基本的なスタイル。相変わらず生音の使い方は堂に入ったもので、作る楽曲は暗くて音の数も少ないものの、血の通った有機的なもの。曲によってはビートが規則性を発生させている事もあり、思ったほど敷居は高くないが、メロディ性は希薄。うわものにしてもでてくるのはフレーズくらいなので何ともとらえどころがないのだが、冷たくも暗い中に独特の暖かみがあって癖になるタイプ。(多分)フィールドレコーディングで録音した環境音を導入していたりして、スナップに音をのせた様な趣があるかもしれない。冗舌ではないが音像は豊か。全体的にしっとりとしていて雨の様なイメージ。今回は結構人の声をサンプリングした様な使い方が特徴的で、特に3曲目の表題作は加工の仕方で何となく歌っているようにすら聴こえる。
ピアノの使い方が個人的にはとても上手く、なので4曲目や9曲目は個人的にはとても良い。また8曲目は中音〜低音のしっとり湿った霧の様なドローンの上にホーンが入るという、Kilimanjaro Darkjazz Enesembleに共通点を見いだして一人でテンションあがってしまう。
たまには静かなのが聴きたい人は是非どうぞ。難解というのではなくただひっそりとしているという意味で思ったよりフレンドリーなヤツだなという感じでオススメです。
2016年3月5日土曜日
ジェイムズ・トンプソン/血の極点
アメリカ出身フィンランド在住の作家による警察小説第4弾にしてシリーズ最終作。
カリ・ヴァーラシリーズも気がつくと4冊目。毎回楽しく読ませていただいております。
全開の事件の後妻と別居しているフィンランド、ヘルシンキの非合法警察組織に所属しているカリ・ヴァーラは身も心もボロボロの状態。自宅が執拗な暴力行為にさらされる事になり、家族と仲間の安全を守るため、カリは自分たちの組織の上司も含めた権力と徹底的に交戦する事を決意する。
さてこのシリーズよそでも書かれている事だけどシリーズ中にその方向性を大きく転換している。始めはフィンランドの田舎町の警察署長を主人公に据えた比較的真っ当な警察小説だったのだが、何を思ったのか3作目から警察の枠を大きく越え、血と銃弾飛び交うノワール小説へと変貌。読書を驚かせたもの。
個人的にはこの変化は大歓迎で、元々1作目2作目も面白かったのだけど、全体的に男の美学的なマッチョさがあってそれが警察官という辛くしんどくも尊敬される仕事を描く警察小説という形に微妙にマッチしていないなという感じが正直あった。(ただこれは多分に私の感覚という過去のみだと言うのは自覚しています。)なんというか主人公のキャラクターと書き方が警察小説という枠で書くにはちょっと要領が足りてないかなという感じ。それが3作目から凄惨な暴力を主眼において国家権力中の権謀術数、ナチと北欧の忌まわしい結託など、いってしまえば求心力があり、かついい感じにうさん臭くきな臭い要素をぶち込み、そのバランスをとるため主人公カリを警察官から非合法の暴力組織の頭に据えた事で、濃すぎるカリの個性と生きるか死ぬか、血の美学的なマッチョさがばっちり物語の筋にハマる事になり、まさにジェットコースターのように破滅に突き進むノワール小説に変貌したのだった。
組織と足並みそろえる事無く独自に捜査が展開するから圧倒的にスピード感が増したし、尋問なんかも極めて即物的暴力的に成り下がった(褒めてますよ!)。大口径の銃弾が雨のように飛び交い、悪役は酷い死に方をするし、主人公たちの体もどんどんぼろぼろになっていく。
主人公カリはそんな劣悪な環境で輝いて見える。彼の強みはぶれない事で、最早作品全体の雰囲気に比較すると嘘くさくもあるが(そうして考えると真っ当な警察小説だった始めの2作もちゃんと機能しているのだが)、人の役に立ちたい、特に苦しんでいる女子供を助けたいという気持ちで立っている様なものだし、愛する妻は絶対に裏切らない。このぶれなさはひょっとするとそんな人いね〜という批判になりがちなんだけど、あえて人間くささを演出!みたいにカリが脇道にそれない事が、いわば暗黒の寓話とも言える男の美学的なノワール世界というフィクションをぎゅっと引き締めているように感じるのだ。
十分すぎる銃器やテクノロジーの説明も男の子の心を刺激して良い感じ。
非常に残念な事ながら作者のジェイムズ・トンプソンはこの物語を書き上げた後、2014年に亡くなってしまった。大きく転換したこの物語がさらに広がっていく様を是非読みたかった。非常に残念。楽しい読書体験をさせていただきました。ご冥福を御祈りいたします。
気になった人は1作目、もしくは3作目でもよいかも?から是非どうぞ。真っ白い雪上に熱い鮮血が飛び散る警察ノワールです。オススメ。
カリ・ヴァーラシリーズも気がつくと4冊目。毎回楽しく読ませていただいております。
全開の事件の後妻と別居しているフィンランド、ヘルシンキの非合法警察組織に所属しているカリ・ヴァーラは身も心もボロボロの状態。自宅が執拗な暴力行為にさらされる事になり、家族と仲間の安全を守るため、カリは自分たちの組織の上司も含めた権力と徹底的に交戦する事を決意する。
さてこのシリーズよそでも書かれている事だけどシリーズ中にその方向性を大きく転換している。始めはフィンランドの田舎町の警察署長を主人公に据えた比較的真っ当な警察小説だったのだが、何を思ったのか3作目から警察の枠を大きく越え、血と銃弾飛び交うノワール小説へと変貌。読書を驚かせたもの。
個人的にはこの変化は大歓迎で、元々1作目2作目も面白かったのだけど、全体的に男の美学的なマッチョさがあってそれが警察官という辛くしんどくも尊敬される仕事を描く警察小説という形に微妙にマッチしていないなという感じが正直あった。(ただこれは多分に私の感覚という過去のみだと言うのは自覚しています。)なんというか主人公のキャラクターと書き方が警察小説という枠で書くにはちょっと要領が足りてないかなという感じ。それが3作目から凄惨な暴力を主眼において国家権力中の権謀術数、ナチと北欧の忌まわしい結託など、いってしまえば求心力があり、かついい感じにうさん臭くきな臭い要素をぶち込み、そのバランスをとるため主人公カリを警察官から非合法の暴力組織の頭に据えた事で、濃すぎるカリの個性と生きるか死ぬか、血の美学的なマッチョさがばっちり物語の筋にハマる事になり、まさにジェットコースターのように破滅に突き進むノワール小説に変貌したのだった。
組織と足並みそろえる事無く独自に捜査が展開するから圧倒的にスピード感が増したし、尋問なんかも極めて即物的暴力的に成り下がった(褒めてますよ!)。大口径の銃弾が雨のように飛び交い、悪役は酷い死に方をするし、主人公たちの体もどんどんぼろぼろになっていく。
主人公カリはそんな劣悪な環境で輝いて見える。彼の強みはぶれない事で、最早作品全体の雰囲気に比較すると嘘くさくもあるが(そうして考えると真っ当な警察小説だった始めの2作もちゃんと機能しているのだが)、人の役に立ちたい、特に苦しんでいる女子供を助けたいという気持ちで立っている様なものだし、愛する妻は絶対に裏切らない。このぶれなさはひょっとするとそんな人いね〜という批判になりがちなんだけど、あえて人間くささを演出!みたいにカリが脇道にそれない事が、いわば暗黒の寓話とも言える男の美学的なノワール世界というフィクションをぎゅっと引き締めているように感じるのだ。
十分すぎる銃器やテクノロジーの説明も男の子の心を刺激して良い感じ。
非常に残念な事ながら作者のジェイムズ・トンプソンはこの物語を書き上げた後、2014年に亡くなってしまった。大きく転換したこの物語がさらに広がっていく様を是非読みたかった。非常に残念。楽しい読書体験をさせていただきました。ご冥福を御祈りいたします。
気になった人は1作目、もしくは3作目でもよいかも?から是非どうぞ。真っ白い雪上に熱い鮮血が飛び散る警察ノワールです。オススメ。
ラベル:
ジェイムズ・トンプソン,
ノワール,
フィンランド,
警察小説,
本
ロバート・E・ハワード/深紅の城砦 新訂版コナン全集5
ロバート・E・ハワードの手によるヒロイックファンタジー第5弾。
今回は「黒い異邦人」「不死鳥の剣」「深紅の城砦」の3編が収録されている。どれも結構なボリューム。
今回蛮族のコナンは「不死鳥の剣」よりついにハイボリア世界の一国アキロニアの王となっている。まさに英雄王、蛮族の出自ながらその肉体と剣のみで一国の王となったのだ。王権神授説を唾棄すべきものと考えている野蛮人は刃によって王権を簒奪した。ただ根っからの脳筋野郎のコナンは良い年して、がんばってなってみたもののやっぱり王様は退屈だわ…と悩んでいるご様子なのだが。
さて何と言っても白眉は表題作「深紅の城砦」だろう。
王となったコナンは悪名高い黒魔術師の奸計におちいり、王ながら敵国の城砦の囚われ人になってしまう。反逆者たちは王のいぬ間に挙兵し、王都へ彼らを薦める。王都では反逆者と結託した旧王家に連なるものがクーデターを起こす。城砦の地下深く、地獄と繋がる地下牢に捕われたコナン。今までは自分のみ一つの心配をしていれば良かったが、今回では自分の民たちが肥え太った反逆者どもの餌食にされてしまう。ハワードは物語の中盤で主人公の立場を一兵卒から王に転換させる事で物語に新鮮みを追加することに成功している。クライマックスは、抑圧された群衆が反乱軍を虐殺しているその真上城壁の上で、とある力によって王都に舞い戻り反乱者を血祭りに上げたコナン王が哄笑するシーンだろう。彼の笑いは勝利によってもたらされたものではないのだ。それはこの血で作り上げられた世界とその中心に座る自分を含めた権力者たちの虚構、行ってみれば自分を取り巻くこの世界のくだらなさ、変わらない残酷さに笑わざるを得なかったのだ。最早笑うしかない。それでもコナンは世界を世界に対してなにか希求した事は無い。今回も反逆者どもを鏖殺したあと、やはり元の玉座に坐る事になった。
今までは立ちふさがるものはただただ切り伏せて来、そんな力強い姿に読者も歓喜したものだが、この中編ではその世界の裏側をむせ返る様な残虐描写によってハワードは書ききったと言える。これが皆様の読みたかった世界の真実だとばかりに、埃の嵐が巻き立つ荒野に真っ赤な血が吸い込まれていく。こうして書かれるのが30歳にして自らの命を絶ったハワードのペシミスティックさの発露なのだろうか。それともエンタメ以上に人の生死を書ききってやろうという、真面目な精神によるものなのか、なんとも判別がつかなかったのだが、血で書かれた叙事詩に一読者としてただただ圧倒されたものである。
いやあ今回も血湧き肉踊るわ。野蛮な世界である。たまらない。あと3冊、何としても読みたいものだ。
今回は「黒い異邦人」「不死鳥の剣」「深紅の城砦」の3編が収録されている。どれも結構なボリューム。
今回蛮族のコナンは「不死鳥の剣」よりついにハイボリア世界の一国アキロニアの王となっている。まさに英雄王、蛮族の出自ながらその肉体と剣のみで一国の王となったのだ。王権神授説を唾棄すべきものと考えている野蛮人は刃によって王権を簒奪した。ただ根っからの脳筋野郎のコナンは良い年して、がんばってなってみたもののやっぱり王様は退屈だわ…と悩んでいるご様子なのだが。
さて何と言っても白眉は表題作「深紅の城砦」だろう。
王となったコナンは悪名高い黒魔術師の奸計におちいり、王ながら敵国の城砦の囚われ人になってしまう。反逆者たちは王のいぬ間に挙兵し、王都へ彼らを薦める。王都では反逆者と結託した旧王家に連なるものがクーデターを起こす。城砦の地下深く、地獄と繋がる地下牢に捕われたコナン。今までは自分のみ一つの心配をしていれば良かったが、今回では自分の民たちが肥え太った反逆者どもの餌食にされてしまう。ハワードは物語の中盤で主人公の立場を一兵卒から王に転換させる事で物語に新鮮みを追加することに成功している。クライマックスは、抑圧された群衆が反乱軍を虐殺しているその真上城壁の上で、とある力によって王都に舞い戻り反乱者を血祭りに上げたコナン王が哄笑するシーンだろう。彼の笑いは勝利によってもたらされたものではないのだ。それはこの血で作り上げられた世界とその中心に座る自分を含めた権力者たちの虚構、行ってみれば自分を取り巻くこの世界のくだらなさ、変わらない残酷さに笑わざるを得なかったのだ。最早笑うしかない。それでもコナンは世界を世界に対してなにか希求した事は無い。今回も反逆者どもを鏖殺したあと、やはり元の玉座に坐る事になった。
今までは立ちふさがるものはただただ切り伏せて来、そんな力強い姿に読者も歓喜したものだが、この中編ではその世界の裏側をむせ返る様な残虐描写によってハワードは書ききったと言える。これが皆様の読みたかった世界の真実だとばかりに、埃の嵐が巻き立つ荒野に真っ赤な血が吸い込まれていく。こうして書かれるのが30歳にして自らの命を絶ったハワードのペシミスティックさの発露なのだろうか。それともエンタメ以上に人の生死を書ききってやろうという、真面目な精神によるものなのか、なんとも判別がつかなかったのだが、血で書かれた叙事詩に一読者としてただただ圧倒されたものである。
いやあ今回も血湧き肉踊るわ。野蛮な世界である。たまらない。あと3冊、何としても読みたいものだ。
ラベル:
アメリカ,
ファンタジー,
ロバート・E・ハワード,
本
ロバート・エイクマン/奥の部屋 ロバート・エイクマン短篇集
イギリスの作家による短編集。
元は1997年に国書刊行会から出版されていたものに新たに2編追加して筑摩書房から再販されたもの。
何となくアンニュイな雰囲気の女性が目を引く表紙が気になって購入。多分作者の短篇は他のアンソロジーで読んだ事があると思う。
「モダン・ホラーの極北」という帯に踊る文字が中々煽ってくるが、モダン・ホラーといっても例えばスティーブン・キングなどに代表されるモダンなホラーとは明らかに一線を画す内容というか話の作り。まあ収録されている作品はどれも1960年代に発表されているからモダンといっても統制とはちょっと隔たりがある印象。帯には「幽霊不在の時代に新しい恐怖を書く〜」と書かれている。なるほど。
一通り読んでみるとこれは古典的な英国怪談の衣鉢を継ぐもので、そういった意味だとゴースト・ストーリーの列の後ろに並ぶものであり、クリーチャー的、あるいは刺客に特化した様な恐怖ではない。不穏、不安という言葉がしっくりくる灰色の恐怖譚である。
幽霊(と思わしき何かしら超自然的な存在)が出てくる物語があれば、行きている人間しか出てこない作品もある。幽霊というとその背景にこそ面白さがあるもので、それ自体幽霊の弱点になったりするものなのだけれど、エイクマンの書く怪奇には原因がはっきりと提示されない場合が多い。読み終わっても結局あれは何だったのかは分からずじまいで放置されてしまう。まさに霧の中。人間分からないものが怖い訳で、恐怖を原因不明のままにしておくのはなるほどそういった意味では理にかなっているし、実際そういった効果を狙った構成なのだろうが、エイクマンの短篇はもっと怪異のための怪異という印象。つまり怪異そのものを書くのが目的でそれはその性格上大変不条理なのだ。怖がらせる装置というよりは図鑑に近く、その奇妙な生体?を読者はおっかなびっくり眺める事になる。
個人的には婚約者の郊外にある実家に行った女性が怪異に巻き込まれる「髪を束ねて」が良かった。というのもこれは一番この短編集では分かりやすいのではなかろうか。主人公がイギリスの郊外の村の中から段々と人気の無い山中まで散歩していく過程が、そのまま異界に繋がっている道筋なっていて、現実に悪夢が混ざり込んでいく過程に非常にゾクゾクさせられた。この悪夢がちょっとおとぎ話の様な色彩豊かさがあってそれが異様さを引き立てている。エイクマンはとにかくその描写は細かく、視覚だけでなく触覚、それから嗅覚と五感のすべてを通じて得た空気、異様な風景の描写の事細かさ。それらがあって異様な風景を眼前に出現せしめている。
じっとり怖い恐怖譚に目がない人は是非どうぞ。
元は1997年に国書刊行会から出版されていたものに新たに2編追加して筑摩書房から再販されたもの。
何となくアンニュイな雰囲気の女性が目を引く表紙が気になって購入。多分作者の短篇は他のアンソロジーで読んだ事があると思う。
「モダン・ホラーの極北」という帯に踊る文字が中々煽ってくるが、モダン・ホラーといっても例えばスティーブン・キングなどに代表されるモダンなホラーとは明らかに一線を画す内容というか話の作り。まあ収録されている作品はどれも1960年代に発表されているからモダンといっても統制とはちょっと隔たりがある印象。帯には「幽霊不在の時代に新しい恐怖を書く〜」と書かれている。なるほど。
一通り読んでみるとこれは古典的な英国怪談の衣鉢を継ぐもので、そういった意味だとゴースト・ストーリーの列の後ろに並ぶものであり、クリーチャー的、あるいは刺客に特化した様な恐怖ではない。不穏、不安という言葉がしっくりくる灰色の恐怖譚である。
幽霊(と思わしき何かしら超自然的な存在)が出てくる物語があれば、行きている人間しか出てこない作品もある。幽霊というとその背景にこそ面白さがあるもので、それ自体幽霊の弱点になったりするものなのだけれど、エイクマンの書く怪奇には原因がはっきりと提示されない場合が多い。読み終わっても結局あれは何だったのかは分からずじまいで放置されてしまう。まさに霧の中。人間分からないものが怖い訳で、恐怖を原因不明のままにしておくのはなるほどそういった意味では理にかなっているし、実際そういった効果を狙った構成なのだろうが、エイクマンの短篇はもっと怪異のための怪異という印象。つまり怪異そのものを書くのが目的でそれはその性格上大変不条理なのだ。怖がらせる装置というよりは図鑑に近く、その奇妙な生体?を読者はおっかなびっくり眺める事になる。
個人的には婚約者の郊外にある実家に行った女性が怪異に巻き込まれる「髪を束ねて」が良かった。というのもこれは一番この短編集では分かりやすいのではなかろうか。主人公がイギリスの郊外の村の中から段々と人気の無い山中まで散歩していく過程が、そのまま異界に繋がっている道筋なっていて、現実に悪夢が混ざり込んでいく過程に非常にゾクゾクさせられた。この悪夢がちょっとおとぎ話の様な色彩豊かさがあってそれが異様さを引き立てている。エイクマンはとにかくその描写は細かく、視覚だけでなく触覚、それから嗅覚と五感のすべてを通じて得た空気、異様な風景の描写の事細かさ。それらがあって異様な風景を眼前に出現せしめている。
じっとり怖い恐怖譚に目がない人は是非どうぞ。
ラベル:
イギリス,
ホラー,
ロバート・エイクマン,
短編集,
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