「モモ」「はてしない物語」(「ネバーエンディング・ストーリー」として映画化された)など児童文学で有名なミヒャエル・エンデに連作短編小説。
2020年12月27日日曜日
ミヒャエル・エンデ/鏡のなかの鏡-迷宮-
「モモ」「はてしない物語」(「ネバーエンディング・ストーリー」として映画化された)など児童文学で有名なミヒャエル・エンデに連作短編小説。
2020年11月23日月曜日
平井呈一 翻訳/世界怪奇実話集 屍衣の花嫁
怪談が好きでそれこそ学校の怖い話から小泉八雲の怪談、それから死ぬ程洒落にならない怖い話、稲川淳二さんの怪談はもちろんyoutubeの玄人・素人怪談師などなど。
別に蒐集家というわけではないがとにかく怖い話を求めてしまう、人一倍怖がりなのに。
怪談というのは創作怪談と実話怪談がある。
創作怪談は文字通り作者が想像で組み立て作ったもの、一方実話怪談は実際に起ったことの記録である。
ところが怪談を好きな人ならわかるが、怪談というのはたいてい実際に起ったという体で語られることが非常に多い。
話の枕に「これは友人の先輩(兄嫁の友人、義理の兄の親友、職場の先輩のおじさんとか何でも良い)から聞いた話なんだけど~」という枕がつくあれです。
怪談というのはノンフィクションであることが前提なのだ、いくら創作でも実際の伝聞ですよ、とするのはお約束のようなものだ。
前置きが長くなってしまったが、平井呈一がイギリスの実話怪談を集めたアンソロジー。
ここに集められたのは怪談の原型にして本質である。
私いちいち話しにオチを求めてくるやつが一番つまらないと思っているタチであるが、それでも無意識に話に落ち着き、起承転結を求めてしまう傾向があることは否めない。
この本で展開される物語はそういう意味ではきれいに落ちていないものも少なくない。
いかにも因縁の有りそうな幽霊たちの由来は詳らかにされないし、絶対存在するはずの怪しい城塞の隠し部屋はついに発見されない。
また逆に本筋に関係のない情報が多く含まれていたりもする。
要するにあんまり洗練されていないわけで、これは当時に実際に怪異を経験した者たちの伝聞をまとめた記録だからである。
この物語としては大きく欠損のあるエピソードが、しかしそれ故に抜群に怖くて面白い。
要するに、どうにもスッキリしないがゆえにこれは本当にあったんだ、と読み手が思えちゃうのだ。怪談好きとしてはこの体験は何にも代えがたい。
これらの原材料である素材の粗さを自分の想像力で補い、整合性の取れた完成度の高い怪談が後々生まれていくのである。
そこでは幽霊にまつわる悲劇があるだろうし、怪しい館には猟奇的な過去のある秘密の小部屋があるのである。
特に生々しい「ハリファックス卿怪談集」からの抜粋も含むI、それからⅢのベル・ウィッチ事件の詳細な研究は面白かった。
Ⅰは階段の原型、Ⅲは原型を(悪意はないんだろうけど)研究して超自然を解明しようとして結果因果の枠に当てはめようとする、つまり怪談の誕生の場面として面白い。
ネットが行き渡った現代は素人が誰でも発信できるのだから、今は(実話)怪談の時代と言える。
怪談を好む人ならこの本を手にとってもらって間違いない。
後書きによるとこの本が復刊されるのは60年ぶりということだ。
東雅夫さんに感謝。少なくともひとりここにこの本の再発を喜んでいるおばけ好きがいます。
ドミトリー・グルホフスキー/MTRO 2033-メトロ2033-
後にゲーム化もしたロシアのSF。
地球規模の核戦争で世界が概ね滅んだあと、残留放射能とそれにより突然変異化した獰猛な生物から逃れるため、ロシアにわずかに残った人類はその地下鉄で暮らしている、という設定。
オプティミズムと純文学
あとがきで作者が述べているのだがこの小説は核戦争の危険性を声高に訴えるものではない。
核シェルターとしての昨日を実際荷物ロシアのメトロが地下に深く伸びていくように、この小説はアルチョムという一人の主人公がいかに困難な人生に立ち向かっていくか、というところに焦点を当て、それ故に面白くなっている。
主人公アルチョムは危険だが温かい故郷から離れ、メトロの狭いがそれでも彼らにとってそれが限界の世界、それからその境界の向こう側を遍歴する。
自分の足で動く場合もあれば流される場合もある。
若くて無知なアルチョムは概ねカモとしてまたは都合の良い敵(彼にははっきりした信念がないゆえに明確な敵にはなりえない)として騙され、殴られ、殺されかけながらもメトロの自分の地図の空白を埋めていく。
メトロが舞台なのはこれが人間世界の縮図であるから。
つまり暗く、狭く、危険で、そんな中でも人は互いに手を繋ぐでもなく、猜疑心に煽られ、宗教、イデオロギーを言い訳に他人と食べ物を取り合い、殺し合っている。
技術的に大きく退化した状況で、当てにならない伝聞に尾ひれがついてとんでもない噂が飛び交う。
頼りない懐中電灯の光で文字通り暗闇を切り開いていく。
ある意味では主人公アルチョムはこの暗闇が支配する世界で確固たるものを探しに行くわけなんだけど、この形式はロードノベルのそれがあるからSFであると同時に純文学的でもある。
アルチョムの精神的な成長が欠かれている。
この混沌とした世界での自分の役割を意識することだ。
いわば無理やり巻き込まれた旅路を自分の意志で貫徹しようとするその過程であり、傍観者からより良くするために行動する者への意識的な転換である。
ペシミズムとSF
純文学的な成長物語、そして派手などんぱちを経ての大団円という王道的な筋をたどること物語、しかしその背後にはそれらを覆す意地の悪いペシミズムがある。
当初作者がネットで発表していた版では主人公アルチョムは最後命を落としたそうだ。
これはアルチョムが感じた運命(=王道的な成長物語)の否定であるし、このペシミズムは物語の核心(結末)に迫っている。
それは人類という種の今いるステージと限界を指し示したもので、比較的ファンタジー色の強い世界観の中でここは明確にSFだなと感じた。
核戦争で地下に撤退せざるを得なかったのは人間の失敗だが、それを経て人類がどう変わったのか、というのがこの結末に結実している。
前半からの運命論的な物語をあっさり裏切るような趣があるが苦味があって良い。
2020年11月15日日曜日
ナオミ・オルダーマン/パワー
今年面白かったゲームと言えば「Ghost of Tsushima」だろう。
開発元であるサッカーパンチが2009年に発表した「インファマス」というゲームは手から電撃を放つ男が主人公のオープンワールドゲームだった。
また、冨樫義博の漫画「ハンターハンター」でも登場人物の一人キルアは雷を操る。
ハリウッド映画の「アベンジャーズ」に登場するトールももとは雷神で、雷神というのは日本含めて様々な国の神話に登場する。
雷というのは、単に力の象徴にとどまらない。
超自然のちからなら、別に念動力でも炎を操る力でも良い。
雷というのは天から地に落ちるから、これは神性を帯びたもので、それを人が使うということはいわば由緒のある天上の存在から人間に下賜された形になる。
つまり雷を操るということは天意を得た、ということの暗示になる。
この本では雷を手に取るのは女性たちである。
作中でも言われているがこの力を得た状態というのは弾が装填された銃を持っているようなものだ。
世界中で銃で人命が失われているが、悪いのは銃だろうか?
いや、それを使う人間が悪いのだ。銃はどこまで行っても道具だからだ。
つまり、力というのはあればそこに秩序をもたらし、また暴力や死を呼ぶ。
たとえ天から授けられた力であっても使う人間によってその結果は様々でこの本が面白いのは、力を得た女性の変遷を素直に書いているところだ。
つまり女性の男性化である。
端的に言って暴力的になる。
思考が力に立脚しているから、力づくでものを得、力づくで異性をレイプするようになる。
オルダーマンはこの作品で女性らしさは生得のものではなく、環境が形作るものだと定義している。
つまり女性が力を得れば女性らしさが失われ、社会的に弱い場立場になった男性がその代わりに女性らしさを身に着けていく。
当然この世界では、おしとやかで異性に従う性質は男性らしさと呼ばれることになり、女性はこの気質と振る舞いを男性に求め、そうでなければ男性を虐待するだろう。
女性が力を得れば女性らしい世界、優しく生産的な世界が成立するのだろう、というのは幻想であると言っている。
男性は夜一人で歩けない、襲われるからだ。
もし夜道でレイプされ金を取られたとしよう。
警察に行くとそこは女性警官でいっぱいである。
襲われたと訴えると、あなたが犯人を誘惑したのでは?と言われるのだ。
そんなバカな、と男性のあなたは言うかもしれない。
しかし女性は今そういう立場にある。
この男女の逆転を回す力になっているのが女性に与えられた新しい力、雷である。
何を馬鹿な、腕力も武器もあるぞ、と思うかもしれないが、男性が女性に基本的に上から目線で接することができるのは潜在的に力が、つまり腕力が強いという点によっている。
いざとなれば殴っちまえ、というわけだ。
例えば相手が見るからに反社会的勢力のような外見をしていたり、筋骨隆々の男性なら女性には攻勢に出る男性もほぼ100%態度が変わるだろう。
男性が実際に力が強いことを根拠に女性に対して潜在的に自信を持っている。
これが作中では装填した銃に例えられているが、雷を得た女性は雷によってこの自信を獲得したわけだ。
せっかく世界に平らかにする力を天から得たのに、バランスが逆転しただけで結局力によって一報を制御搾取する構造は変わらない、という円環の物語でもある。
砂時計を逆にしたかのごとく、世界の構造は変わらない。
女性優位の世界はディストピアだとすれば、いま男性が女性を力で抑えている状況がすでにディストピアである。
大切なのは、男女いずれかが優れているわけでも劣っているわけでもないということだ。
女性の作者がこれを書くことは大変だったと思う。
なぜなら力の弱い女性が力を持ったら男性に対する積年の恨みを晴らしてスッキリ、という物語になるのが人情ってものだからだ。
天に与えられた力が人間界を変えられないなら人間の力で変えていくしかない、というメッセージを私はこの本から受け取った。
2020年10月25日日曜日
ハーバート・ヴァン・サール編 金井美子訳/終わらない悪夢
イギリスのホラー・アンソロジー。
収録作品は下記の通り。
- 終わらない悪夢 ロマン・ガリ 著
- 皮コレクター M.S.ウォデル 著
- レンズの中の迷宮 ベイジル・コパー 著
- 誕生パーティー ジョン・バーク 著
- 許されざる者 セプチマス・デール 著
- 人形使い アドービ・ジェイムズ 著
- 蠅のいない日 ジョン・レノン 著
- 心臓移植 ロン・ホームズ 著
- 美しい色 ウイリアム・サンソム 著
- 緑の想い ジョン・コリア 著
- 冷たい手を重ねて ジョン・D.キーフォーバー 著
- 私の小さなぼうや エイブラハム・リドリー 著
- うなる鞭 H.A.マンフッド 著
- 入院患者 リチャード・デイヴィス 著
- 悪魔の舌への帰還 ウォルター・ウィンウォード 著
- パッツの死 セプチマス・デール 著
- 暗闇に続く道 アドービ・ジェイムズ 著
- 死の人形 ヴィヴィアン・メイク 著
- 私を愛して M.S.ウォデル 著
- 基地 リチャード・スタップリイ 著
ホラー大国のイギリスのアンソロジーは別段珍しくはないのだろうが、そんな中この本は面白い特色を打ち出している。
それは無名の作家の作品を多く収録していること。
名前と作品リストくらいしかわからない、あとの経歴は不明、という作家の作品がかなり収録されている。
だいたいいくつかアンソロジーを読んでみると、その中のいくつかはかぶってくるものである。「くじ」とか「猿の手」とか。それらを改めてじっくり読む、というのももちろん面白いが、まだ見たことのない作品を読みたいのが人の心。
この本はそんな気持ちに答えてくれる一冊。
つまりこれからホラーを読みたいという初心者にはおすすめできないかもしれないが、有名所は結構読んだという怪談蒐集家には非常におすすめ。
マイナー作品だからメジャーな作品のようなダイナミックさはないが、「無名だからつまらない」という理論はこんなブログを読んでいる方なら全く成立しない、ということはご存知だと思う。
あと面白いところでいうとあのジョン・レノンの作品も収録されているからビートルズ好きな人は買わないか。。。
アンソロジーのいいところは編者の個性やそのジャンルに対する好みが表れてくるところだと思う。
この本の収録作はゴースト、スラッシャー、幻想と比較的ページ数が少ないことと前述の無名な作家でも収録することを抑えつつジャンル的には多岐にわたっている。
ただ明確に多いのがいわゆるいまでいう人怖というジャンルで超自然の要素の有無や、その過多はあれど、人間が狂気に陥って結果的になにか事件が起きる、という形式の作品が多い。
じゃあ何が人を狂わせるか、ということなんだがこの編者のヴァン・サールはこれはもうはっきりと「執着」というビジョンをはっきり持っていたようだ。
金に対する執着、女性に対する執着、愛情に対する執着とその欠如に対しての一方的な復讐、息子娘に対する執着、いろいろな欲望がコレクションされていてさながら奇妙な博物館の様相を呈している。
暴力や黒魔術はあくまでも手段に過ぎない。本当に怖いのは人間だという説教よりは、怪異は外から来るのではなく内側から発生する、という視点が強調されている。
救いのない世界、神も仏もないこの世界で人間が獣性むき出しで殺し合う、そんな薄皮一枚の虚構を取り去ったあとの世界の本質、それがフィクションでもなかなか鬼気迫る編者の気迫が感じられないだろうか。
聖職者が卑劣な悪に見を染める⑤なんかはとくにその神聖への過激な問いかけにも見える。
ただもはや寓話的になっている⑰はどうだろうな、結局天国化地獄に決めるのは人間次第、ということだろうか。これは典型的とも言える物語だが私は結構好きだ。
2020年10月11日日曜日
マーガレット・アトウッド/オリクスとクレイク
ジョン・クロウリーの「エンジン・サマー」に似ているがあそこまでぶっ飛んでいない。
本作で描かれる、表紙のヒエロニムス・ボスの絵画のように奇妙な世界はこの私達のクラス世界の延長線上にあるのだ。
故にこの小説は荒唐無稽な世界を描くSFでありながら、ありうる可能性としての破局を描写することで現社会体制の汚点を鋭く指摘するディストピア小説でもある。
ディストピア小説は扱う題材が社会なのでマクロな視点になりがちだが、この作品は終始ミクロな視点で進行するのが面白い。
ここはオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」に通じるところがある。
ただしハクスリーは主人公の今が最悪な未来を描いていく一方、今作では主人公の過去にフォーカスすることでいかにこの奇妙な終着点に人類が、そして主人公が到達したのかということを描いていく。
つまり謎解きの仕組みがあってこれがエンジンになって読者にページを捲らせていく。
格差社会がさらに加速し、持てるものの天才はかつての神の領域に躊躇なく踏み込んでいく。
ある意味では増長した天才が倫理観の欠如によって世界を崩壊させた。
主人公スノーマンことジミーは壁の中=持てるものの子息として生まれたが、彼には支配者の一員たる才能はなかった。
彼は天才たちがめちゃくちゃにした世界をなんとか彼の才能、演じる才能、人を引きつける才能、言葉を操る才能によってなんとかつなぎとめようとする。
生まれついての根っからの傍観者であった彼は思い上がりで破壊されて生まれたいびつな世界をいわば育てる役目を課された形になる。
ジミーは上級市民だったが社会構造に疑問を持ち下級市民に下った(まだ発展途上にあった少年のジミーを捨てた)母親、そして育児に興味のない父親のもと生まれ、両親の愛情というものを知らない。
それ故他人を常に求め、その演技と言葉の才能と人を見抜く明晰な分析力で愛情には事欠かなかったがどれも長続きしなかった。
そんな彼が天才たちが勝手に作り変えてネグレクトした新人類の教育役を引き受けさせられることになるのも構造的に良くできている。
人類に似ながら全く違う性質をデザインされた新人類は劣悪な環境でも生き抜くことができる能力がありながら精神的には非常に未熟でまた旧人類から見てあまりに異質だ。
スノーマンもそんな彼らとシンからわかり合うことはできないだろう。
オリクスとクレイクというのはスノーマンことジミーが本当に愛した二人だが、しかしジミーは結局二人のことを本当にわかっていたのだろうか。
大切なことはいつもはぐらかすミステリアスなオリクス、そして天才だがずっとジミーの親友だったオリクス。彼の真意は私にとっても他の読者にとっても大きな謎である。
スノーマンの新人類に対する献身もジミー時代の二人への愛情と恩義、そしてクレイクへの罪悪感もあったろう。
決して他者とわかり合うことのできない旧人類と、争いのない新人類を見ていると天才クレイクのやりたかったことが単に冒涜とも思えないのは私だけだろうか。
彼は彼なりにこの状況を憂い、根本的な解決を目指していたのかもしれない。
たとえ人類が異形になりはて、その前に旧人類が全員絶滅しようとも存続させようとしていた人類という種をより大きな視点で愛していたのかも。
この「オリクスとクレイク」は同じ世界観を共有するマッドアダムという三部作の一作目だそうだ。今のところこの次作は翻訳されているのでそれは読む。
非常に面白かった。
2020年9月22日火曜日
ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト/ボーダー 二つの世界
収録作は下記の通り。
- ボーダー 二つの世界
- 坂の上のアパートメント
- Equinox
- 見えない!存在しない!
- 臨時教員
- エターナル/ラブ
- 古い夢は葬って
- 音楽が止むまであなたを抱いて
- マイケン
- 紙の壁
- 最終処理
①は映画の原作。⑦は映画化した作品(「ぼくのエリ 200歳の少女」その後「モールス」として再映画化)の関連作。
私は両方見ていない。
③④⑤はホラー。ただしいずれも登場人物の認知を通して描かれているので、一体異常な事態が進行しているのか、それとも主人公が狂っているのか、読者は判別できない。
柳を幽霊と間違えているのか、それとも世界の真理に気が付き日常がベリベリ音を立ててめくれていくのか。
いわば日常と非日常はつながっていて、そのボーダーは非常に曖昧である。
②⑪は純粋にホラーエンタメとして楽しむことができる。
ここでは日常と非日常が(怪物・ゾンビ)明確に分かれていて、主人公たちはその一線を否応なく飛び越えることになる。
明確なボーダーが提示されている。
面白いのが⑥と⑨。
⑨は社会性がある設定で困窮する世界から異常の世界の存在を知り、自分の決断でそちらの世界に足を踏み入れるはなし。娘の死で精神に異常をきたした夫を貧困の中で介護する彼女は正常な世界の被害者で、異常な世界に加担して自分を足蹴にした世界にささやかな復讐をするという流れ。
⑥は異常な世界を垣間見るのだが、自分の決断でそこに足を踏み入れることを拒否。真理に気が付き力を得た夫とは対象的に普通に生きることを選んだ主人公。
ボーダーを提示され、いずれの側に自分の居場所と定めるか、という問題を提示される。
表題作でもある①は、⑥と⑨の構図をさらに推し進めたもの。
謎をはらむ物語で、進行とともに明確なボーダーが主人公と読者の眼前に浮かび上がってくる。
主人公はこのボーダーを飛び越えるわけだが、そこには自分のルーツを知り、自分の出自の由来を知るという過程があり、ボーダーを飛び越えるというよりは生まれてからずっと異郷の地で生活を捨てて、自分のふるさとに立ち返る話でもある。
つまりこの物語だけ、ボーダーを超える動きが2回ある。
作者の共通した作風なのか、選定がいいのか、作品のバリエーションが豊富な割にはとにかく境界という共通のテーマがあって統一感がある。
全編を通してボーダーのあちらもこちらも楽園ではないと描かれているのがシビアなところか。逃避先としてのあちら側は提示されておらず、むしろ⑦では明確にこちら側での幸福が描かれている。
向こう側は常に魅力的だ。現実に疲れているものたちにとっては特に。正気の逃げ場としての狂気なのか、異形として夜の世界に生きるのか、いずれにしても楽でも楽しそうでもない。このビターさが良い。
2020年9月6日日曜日
フラナリー・オコナー/フラナリー・オコナー全短編
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。
オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。
オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。
■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。
■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。
彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。
■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。
■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。
私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。
■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。
2020年8月2日日曜日
スコット・スミス/シンプル・プラン
2020年7月12日日曜日
日影丈吉 編/フランス怪談集
- 魔法の手 ネルヴァル著 入沢康夫訳.
- 死霊の恋 ゴーチエ著 田辺貞之助訳.
- イールのヴィーナス メリメ著 杉捷夫訳.
- 深紅のカーテン ドールヴィイ著 秋山和夫訳.
- 木乃伊つくる女 シュオップ著 日影丈吉訳.
- 水いろの目 グウルモン著 堀口大学訳.
- 聖母の保証 フランス著 日影丈吉訳.
- 或る精神異常者 ルヴェル著 田中早苗訳.
- 死の鍵 グリーン著 日影丈吉訳.
- 壁をぬける男 エーメ著 山崎庸一郎訳.
- 死の劇場 マンディアルグ著 渋沢竜彦訳.
- 代書人 ゲルドロード著 酒井三喜訳.
2020年6月28日日曜日
マリオ・バルガス=リョサ/楽園への道
2020年6月13日土曜日
種村季弘 編/ドイツ怪談集
- ロカルノの女乞食 ハインリヒ・フォン・クライスト著
- 廃屋 E.T.A.ホフマン著
- 金髪のエックベルト ル-トヴィッヒ・ティ-ク著
- オルラッハの娘 エスティ-ヌス・ケルナ-著
- 幽霊船の話 ヴィルヘルム・ハウフ著
- 奇妙な幽霊物語 ヨ-ハン・ペ-タ-・ヘ-ベル著
- 騎士バッソンピエ-ルの奇妙な冒険 フ-ゴ-・フォン・ホ-フマンスタ-ル著
- こおろぎ遊び グスタフ・マイリンク著
- カディスのカ-ニヴァル ハンス・ハインツ・エ-ヴェルス著
- 死の舞踏 カ-ル・ハンス・シュトロ-ブル著
- ハ-シェルと幽霊 アルブレヒト・シェッファ-著
- 庭男 ハンス・ヘニ-・ヤ-ン著
- 三位一体亭 オスカル・パニッツァ著
- 怪談 マリ-・ルイ-ゼ・カシュニッツ著
- ものいう髑髏 ヘルベルト・マイヤ-著
- (年、または権力の)上にあるものを尊敬し、いうことを聞くこと。
- 悪行をすると必ず報いがあること。
- 善行と勤勉が奨励され、その報いは死後に待っていること。
2020年5月31日日曜日
トム・ジョーンズ/拳闘士の休息
どれもこれも明確に喪失している物語で、そこから取り戻そうとする運動が発生するわけなんだけど、どの主人公も決して同じものは取り戻せない。
孤独というよりは断絶した人間が主人公で、無関心ではなく明確な敵意と戦っている。
先天的、後天的に健康を残っており、それが精神に強い影響を与えている。
観念的だが、肉体的な欠損によってそれらが生じているため、肉体的な物語である。
主人公たちは常に間違った場所にいるが、世界全体が間違った場所なのである。その類型が著者が体の不調のため結局行くことのなかったベトナム戦争だった。
ここでは異常がある人が適応を見せて正常になる。だから戦場から戻ると鏡の世界は終わって異常が異常になって生きられなくなってしまう。
戦場とは地獄であり、しかしここでしか生きられない人もいるというメッセージでもある。
女性が主人公の話は何が面白いのかというと違和感がヒントになっている。
狂気に陥ったらその世界は正常にひっくり返る。
違和感があるということは正気と狂気の狭間にいるのが主人公たちということになる。
彼らを正気に引っ張るのが、この世界のもう一つの側面、主人公たちが望みながらも得られなかった素晴らしい世界だ。
「私は生きたい!」この物語に出てくるのはありふれた不幸で、否応なく人間は緩やかに死んでいっていることを意識している。彼女はとても不幸だが、特別ではない。
死んでいく彼女には世界が美しく見える。この奇跡は紛れもなく著者自身が患っている癲癇に通じる(神の啓示に似ている、と著者は癲癇について述べている。)。
これは死によって世界が輝き出すのではなく、もともと輝く世界に死の床で気づく、ということ。
もともと世界は美しいのに、そこにうまく馴染めない人達がいる。
彼らにとって世界は戦場で、そこに立ち続けるには戦わないといけない。
男性の主人公たちは誰もが破滅的だが、彼らにとって死は自殺ではなく(たとえ旗から自殺的に見えても)、生命は戦いに同じで負けたときが死ぬときなのだ。むしろ負けん気に満ちた彼らはアンバランスな生きたがりでもある。
ここでは狂気はタナトスではなく生きる手段になっていると個人的には思う。
だから生と死の間で揺れる、という表現はちょっと違っていて、彼らの葛藤は生きにくい世の中をいかに戦うか、で実は覚悟はもう完了されている。
もともと世界は美しいのにそこで戦い続けるとは矛盾だが、その矛盾こそが人間を人間足らしめているものなのかもしれない。少なくともトム・ジョーンズにとってはそれが彼の書きたいこと。
2020年5月4日月曜日
G・ガルシア=マルケス/百年の孤独
この物語に出てくる人々は私達が漠然と南米に抱いている先入観というか固定観念をある程度なぞるようである。
つまり南米の人たちというのは、、、
- 猥雑で底抜けに明るい。
- よく飲みよく食べ、色事も多い。
- 気前が良く、親族を大切にするし、また他人であっても身内のように扱う。
- 情熱的で優しい。
- 独特の死生観と宗教を持ち、その明るい生活には流血が伴う。
- 彼らの生活には死が隠しようもなく存在感を持ち、異なる文化圏に属するものからすると不謹慎や唐突という印象を抱くこともある。
要するに孤独とは一番縁遠い人たちに見えるわけで、この蜃気楼の村マコンドが地上に存在するその100年間は概ね熱狂の年月と言っても良い。
彼らは常に誰かといて愛し合い、食べ、そして眠っている。
一人でいるということはほとんどなくて、小さい頃は本の虫であってもそのくらい穴蔵からいずれ出て他人と愛し合うか、もしくは殺し合う。
そうブエンティアの一族の男性はまたよく戦い、よく殺し合ってもいる。
彼らは他人と関わることで生きている。
愛するにしても、殺すにしても他人との関係性があり、つまりここのどこに孤独があるのか?
微笑みの爆弾と孤独
突然だが冨樫義博さんの漫画「幽遊白書」のアニメ版の主題歌、馬渡松子さんの歌う「微笑みの爆弾」という歌をご存知だろうか?
こちらの冒頭の歌詞を読むと、孤独には2種類ある事がわかる。
つまり、誰もいない環境での孤独と人がいる中での孤独の2つが。
前者のほうが希望がある分、後者のほうがより孤独であるだろう。
この百年の孤独というのはこのとき間違いなく後者の孤独である。
マコンドのブエンティアには常に人がいて、そしてたいてい騒がしいのだから。
彼らは大家族で、妻や愛人その子ら孫らに囲まれ、その気前の良さから親族ではなくても慕う人も多く、同時に敵も多く命を狙われることもあるが、それでも孤独なのだ。
なんでだ。
彼らは愛し合っているのでは???
愛の不在=孤独
物語の終盤、百年の中でようやく愛によって生まれた子供がいた。
それまでのブエンティア家には愛によって生まれた子供がいなかったのだ。
彼らの百年の楽しい喧騒の中には実は愛がなかった。
つまり孤独というのは愛の不在ということになる。
じゃあ愛ってなんだ?
この南米の人達は情熱的に愛していたのでは、恋人を、子どもたちを。
彼らがただただ殺し合いをしていたというのではない。
例えば独善的な(つまり変わった考えを頑固に持っている)アマランタやフェルナンダにしても彼女らの恋人や子供を自分なりの方法で愛していた。
愛の正体と成立の困難さ
愛って難しいって話で、愛というのは片方が愛していてもだめだし、またお互いに愛していてもそれが通じ合っていなければだめだというのです。
よくよく読んでみると愛し合っている二人でも本当に通じ合っているケースは本当に少ない、というか作者によると最後の二人以外には誰もいない。
彼らの愛は性欲由来でただ消費するようなものだったり(これは非常に多い、大佐の17人の子どもたちなど)、相手を思った愛でもその対象には届かないというかむしろ害になったり(フェルナンダとメメの親子関係など)、通じ合ってはいなかった。
ウルスラはそういった意味で象徴的な存在。文字通りブエンティア家の地母神的な存在で異常な長命で孫の孫の孫の〜くらいの子孫までその手で育て上げた。ウルスラは子孫たち、その妻たちを限りない愛をもって接したが、誰もそれと同じようにはウルスラを愛さなかった。彼女はそういった意味では孤独を象徴しているキャラクターでもある。
神を必要としない世界の酷薄さと
愛を実現できる可能性としての人間のポジティブさを歌う
いつからかマコンドに置かれたキリスト教会とその牧師もうまく動いているとは言い難い。
彼らは百年にわたって部外者である。
神がいないで完結している世界。
愛に神は必要ない。
本当は人間だけで完成するのだ、この世界は。
流血と嘘、弾丸とナイフ、謀略で汚れたこの地を地獄と呼ぶのは勝手だがこの混沌の中でも人間には可能性があって、でもそれが人間の愚かさで実現できないのは悲劇であり、そして喜劇でもある。
前述の通りようやく完成した人間の愛、しかしそれもまた儚く終わってしまった。
ここにあるのは本来の野蛮な世界である。
直接の引き金が人間の怠慢であっても、自然本来の残酷さが強調されている。
欠点のある他人を愛することは難しいなら愛し合うことは更に困難だ。
しかもそれがきちんとお互いに通じ合うとなるとこれはもう奇跡だ。
「百年の孤独」はその奇跡に至る道、ではない。
読めばわかるがマコンドの、ブエンティア家の百年は繰り返しの百年でもあった。
つまりループだった。
愛し合い、殺し合い、食べ、排泄するループ。
その中でやっと生まれた愛がどうなったか?
ガルシア=マルケスは「百年の孤独」で人間に絶望しているわけではない。
たとえ百年ごしに生まれた愛がすぐに終わったとしても、この神ですら役に立たない、残酷な暗闇の世界で愛の火を灯せるのは人間だけだ、と言っているように私には思えた。
つまりゴールがある(愛が生まれた!よかった!完!という)物語ではなく、この世界、そこに住む人間が持つ可能性をこの長い物語に込めた、(消えた愛がまた生まれる可能性があることを示唆する)終わることのない人間讃歌であった。
2020年3月29日日曜日
リチャード・ブローティガン/アメリカの鱒釣り
2020年3月22日日曜日
ニコ・ウォーカー/チェリー
戦争小説と言うにはあまりにもカタルシスがない、
ドラッグ小説というにはあまりにもおしゃれでなく、
犯罪小説としてはあまりにもしょぼい、これはそんな小説。
この物語はいうまでもなく自伝的フィクションである。
実際の著者ニコことニコラス・ウォーカーは、第4歩兵師団第167装甲連隊の衛生兵として(本人が自分のことをどう思っているかはわからないが)戦場では7つの勲章を授与された優れた兵士であり、PTSDで21日間も一睡もできなかった。
ニコはチェリーの「俺」になり、つまり道化を演じることで本を書き、現実を笑おうとしたのだが、しかしその”変身”はアメリカのギラギラ輝く巨大なドリームの、その色濃い影をくっきりと読者に意識させる。
IED(即席爆発装置)で爆破されて残骸となったハンヴィーのハンドルから垂れ下がる肉片。吹き飛ばされて顔がなくなった死体。
友人の金庫をこじ開けて盗んだクラック。オキシコンチンに溶ける奨学金。禁断症状で始終吐くゲロ。
「俺」にはほとんど自分の意志がない。
流されるようにドラッグに溺れ、流されるように兵士になり、流されるようにイラクに行き、そして帰ってきてまたドラッグに耽溺した。金がなくなったので純粋にドラッグを買う金を稼ぐために銀行強盗を始めた。
彼は別に貧困層の出ではない。ギャングでもない。
人に馬鹿だと思われている「俺」にはたしかに意思がない、向上心がない、信念もない、愛国心もない。
おい、この物語はバカの一生というにはあまりにも陰惨ではないか?
あまりにも軽い命、ここで現実と作品がごっちゃになってしまうが、しかしニコラス・ウォーカーは実際には真の愛国者であり英雄であった。
彼を誰が馬鹿にできるのだろうか?(私は彼が徹頭徹尾聖人だと言いたいわけではない。)
いわばアメリカン・ドリーム、グレートなアメリカの実態を暴くのがこの小説なのだと言いたいのだ。
彼がホワイトトラッシュなら、その馬鹿なカードの裏は戦場の英雄ってわけだ。
ニコラス・ウォーカーはなかなかどうしてクレバーなジョーカーかもしれない。
彼の軽口に騙されてはいけない。
2020年3月14日土曜日
スティーヴン・キング&ベヴ・ヴィンセント編/死んだら飛べる
原題は「FLIGHT OR FRIGHT」Frightは怖がらせるの意味。
飛行機に関するホラー小説を集めた短編集である。
収録作品は下記の通り。
「序文」スティーヴン・キング/白石朗訳
「貨物」E・マイクル・ルイス/中村融訳 ★初訳
「大空の恐怖」アーサー・コナン・ドイル/西崎憲訳
「高度二万フィートの恐怖」リチャード・マシスン/矢野浩三郎訳
「飛行機械」アンブローズ・ビアス/中村融訳 ★新訳
「ルシファー!」E・C・タブ/中村融訳 ★初訳
「第五のカテゴリー」トム・ビッセル/中村融訳 ★初訳
「二分四十五秒」ダン・シモンズ/中村融訳 ★初訳
「仮面の悪魔」コーディ・グッドフェロー/安野玲訳 ★初訳
「誘拐作戦」ジョン・ヴァーリイ/伊藤典夫訳
「解放」ジョー・ヒル/白石朗訳 ★初訳
「戦争鳥(ウォーバード)」デイヴィッド・J・スカウ/白石朗訳 ★初訳
「空飛ぶ機械」レイ・ブラッドベリ/中村融訳 ★新訳
「機上のゾンビ」ベヴ・ヴィンセント/中村融訳 ★初訳
「彼らは歳を取るまい」ロアルド・ダール/田口俊樹訳
「プライベートな殺人」ピーター・トレメイン/安野玲訳 ★新訳
「乱気流エキスパート」スティーヴン・キング/白石朗訳 ★初訳
「落ちてゆく」ジェイムズ・ディッキー/安野玲訳 ★初訳
(版元ドットコムより)
飛行機が怖い人はたくさんいる。
墜落を連想させるからだろう。
でも実際には飛行機事故が発生する可能性はめちゃくちゃ低いと聞く。
自動車事故のほうがよほど頻繁に起こるそうだ。
一節によると0.0009%とか。
キングは序文にてこれに加えて、狭いところに押し込められる恐怖、それから自由意志の剥奪による恐怖を上げている。
例えば自動車を自分で運転しているなら高速道路飲めの前で重大な玉突き事故が発生しても自分の運転技術で回避できる、と人は思うのである。
当然自動機の運転手の技術より飛行機のパイロットのほうが技術は高いと思うけど。
自分の運命が自分の手にある、と思えない(これは当然思い込みであるので)と人間は不安になる。
飛行機にいる間はなにかが起こっても自分でできることはほぼできない。
墜落している長いとも短い間に家族あてに震えた字で遺書を書くことくらいだろうか。
実際アンソロジーに収録されている作品のうち、民間用の旅客機が墜落する作品は4個。
予想より少ない。
純粋に高所からの個人的な墜落を描いているのは詩の形をとっている「落ちてゆく」だけ。
落ちるのは結末であって、普通はそこだけ描いてもホラーにはならない。
(だから「ルシファー!」の墜落の書き方は相当すごい。)
読みては落ちるぞ落ちるぞと思って読んでいるから、むしろ落ちたら安心してしまう。
要するに落ちるぞ落ちるぞと思わせるのがホラーだから、ホラーの本質はオチにはない。
むしろその工程にこそホラーの醍醐味がある。
さすが作家は、飛行機というシチュエーションを生かして墜落やそうでない恐怖をそれぞれ編み出している。
つまり飛行機が舞台で、その上に独自の恐怖を乗っけるというやり方。
ビアスとブラッドベリは単に空を飛ぶという以上の、社会的機能を持つ飛行機の側面を描き、ドイルは技術の革新が新しい(恐怖の)フロンティアを人間の想像力の新しい空白にマッピングしたことを示している。
個人的に面白いのは戦争に関わる物語が6つ収録されていること。
戦争は死に直結しているし、その暴力的な表現でホラーにうってつけである。
イラク戦争の拷問に関連する権謀術数が暴力で動く「第五のカテゴリー」、それからなんといってもジブリの「紅の豚」の”あのシーン”の元ネタ(というかほぼそのままじゃネーカ)の「彼らは歳を取るまい」が最高。著者のロアルド・ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の作者でもある。彼は実際に戦争のエースパイロットで撃墜王だった。
キングの実子ヒルの「開放」も良い。
これは世界の終末を観察する物語で、監視塔としてはそらとぶ飛行機はうってつけの場所に位置している。
こうやって見ると飛行機というのは、神や幽霊に近づく異界であり、着地するまで逃げることができない自分でどうすることもできない牢獄であり、最前線の戦場であり人が死ぬ地獄であり、そしてなによりその濃さが翻弄される人間の運命を端的に表しているのかもしれない。
2020年3月1日日曜日
フォークナー/響きと怒り
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造
文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。
物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。
物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。
フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。
響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。
2020年2月16日日曜日
浅田次郎/あやしうらめしあなかなし
私が対して興味がない日本映画の原作、みたいな。
だからホラーのアンソロジーに短編が収録されている事自体が驚きだったし、読んだらおの物語の面白いことにびっくりした。
怪談の文章は呪文なのである程度の方式が必要な場合がある。(現代怪談なら不要だが、時代がかったものならそれなりの言葉を使ったほうが絶対怖い。)
浅田の分はここを抑えていて、しかもたただ難しい漢字や言葉を普通の分に当て込んだみたいな、知識というよりはPCの変換機能に頼ったような素人くさいものではなく、幅広く深い見識がかけないような美文だったのでそこが良かった。
で、買ったのがこの短編集。
フリークスが襲いかかってくるようなホラーの場合でも、異形の者達というのは明るい場所にいきなり出てくることはそんなにないものである。(つまり相当の筆の技が要求されるってこと。)
廃墟となった教会でも、苔むした墓場でも、忌まわしい儀式が行われた跡の残る隠匿された湿る地下室でも良い。あるいは提灯の明かりに照らされた柳の下でも。
幽霊や怪異に合うにはどこかに行くか、あるいは幽霊がどこかを通り抜けてくる。井戸とか。
浅田の場合は幽霊というのは過去にいる。
だから物語が進む、ということは誰かの過去に踏み入っていく、という深さの構造がある。
物語が真相に向けて潜っていくわけで、まずこの構造が息を止めることを要求してきて行く苦しい。恐怖としては上質である。
基本的な構造としては何も知らないまま生きている。
過去主人公の知らぬところで進行していた何かしらの出来事を知らされる。
その出来事が主人公の人生の気持ちに作用して人生が転回される。
物語の王道を抑えているわけでここらへんは流石にいわゆる”売れる”作品を書き続ける商業作家の面目躍如。
作者の世代的に先の大戦の話が入るのは全然構わないのだが、物語の構造と相まってやや説教臭くなるのは個人的にはちょっとかな、、、。
個人的にはやはり冒頭と最後に配置された神道系ホラーが一番好きなのでその数をもう少し増やしてほしいというのが正直なところ。
文の美しさもここが一番映えているように思う。
2020年2月9日日曜日
ウィリアム・フォークナー/アブサロム、アブサロム!
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。
句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。
ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。
■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。
■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。
②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。
③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。
④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。
■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。
2020年1月18日土曜日
中野美代子 武田雅哉 編/中国怪談集
怪談集ではない。
河出文庫の怪談アンソロジーの復刊はこれで最後。
10年ちょっと前くらいに逃げなく手にとった中国の怪談話集聊斎志異、これがとても面白かった。
なのでこの一連の復刊シリーズ、最後に読むのは中国にしようと思っていた。
ところが怪談じゃなかったのだ、これが。
収録作品は下記の通り。
- 人肉を食う 陶宗儀 著
- 十【キン】楼 季漁 著
- 揚州十日記 王秀楚 著
- 台湾の言語について ジョージ・サルマナザール 著
- 砂漠の風 紀昀 著
- ボール小僧の涙 武田雅哉 訳
- ワニも僕の兄弟だ 中野美代子 訳
- 宇宙山海経 江希張 著
- 薬 魯迅 著
- 阿Q正伝 魯迅 著
- “鉄魚”の鰓 許地山 著
- 死人たちの物語 黄海 著
- 五人の娘と一本の縄 葉蔚林 著
- 北京で発生した反革命暴乱の真相 中国共産党北京市委員会宣伝部 著
なかなか特殊な本になっている。
まず①③④⑤⑥⑦⑭はフィクションではない。これは事実である、というわけではないのだが、いわゆる物語とは違って少なくとも当時はこれが事実として存在したという報告、である。⑧も物語ではないが内容はかなり特殊だ。
この内⑭は明確に新聞「人民日報」からの抜粋。
コンセプトは人を喰った話
人を喰った話とはよく用いられる表現だ。これはもちろん比喩で意味としては小馬鹿にしている、とか尊大であるとか。
ところがこの本は冒頭の①「人肉を食う」から実際に人肉を食事として摂取した人々の話を集めた報告である。
⑨魯迅のこの話も文字通りの人肉を薬として食べる話。これには戦乱が関わっている。
③は戦乱の恐ろしさを巻き込まれた市民が語る話、心底震え上がる。
⑭は中国がなかったことにしている天安門事件の詳細を体制側が説明したもの。私達はある程度起こったことを知っているから、恐ろしいというよりは今度は怒りで体が震える。
⑩もまた魯迅の著名な物語。これはトラスト直前まではむしろコミカルだが、最後まで読み終えれば笑ってはいられないだろう。愚かな阿Qは私達である。これも戦乱に市民が巻き込まれその命を奪われる話である。(これはフィクションだが)
⑪はフィクションだが、これも小市民が戦乱によってその穏やかな生活を破壊され殺される物語。
⑫はフィクションで、独裁的な国家体制が虐殺を行う物語。
②⑤⑥⑦は広大な領土で起こる奇妙な出来事・話を報告したもの。
②⑥は奇形を取り扱っている共通点がある。(あるいは人からワニが生まれるという
⑦も)
④は誤謬や誤解があるものの歴史的なかちがあるそうだ。
⑧は壮大なほら話と言ったらあまりに酷か。これはエンタメ性あふれるフィクションと言っても良い。
⑬は個人的にとても面白かった。5人の仲良しの女の子が集団自殺を企てるもので、若い娘たちの姦しさがキラキラと眩いが、その背後には中国の田舎が抱える男尊女卑と暴力が重たく横たわっている。そういった意味ではこれも反体制の物語である。
作品を大別するとこのような形になる。
編者があとがきで述べている通りこれは人を喰った話である。
怪談集とか陰ながら幽霊が一人も出こないのは小馬鹿にしているし、
また文字通り人肉を食う人間からびっくりするくらいの奇想、椿事が事実であるように語られる。広大な領土に奇人変人奇妙な風習のはびこる中国(これは明確に誤った認識であるが、人の共通認識(例えばイタリア人は皆陽気だのような)に訴えかけるものとして用いています。)ではさもありなんと感じさせる。
そしてその奇妙奇天烈さから、この国家で行われてきた戦乱の無残さを暴き出すものである。(もっともこれは何も中国だけが残酷な国家であるというよりどの国にもある暴政暴力抑圧を批判するものである。)
要するになかなかラディカルかつ意欲的なアンソロジーといえる。
手垢のついた怪談は一遍も入れないという気炎もあとがきで吐かれている。
当初は出版社も難色を示したようである。
アンソロジーとしての中国怪談集
良いアンソロジーとはなにか。
興味があるジャンルを読者に提示しつつ、まだ読みてが出会ったことがない作品を提示するのがその役割、良さとしてあるだろう。
とするとこのアンソロジーは明確に良いアンソロジーとは言えない。
怪談に惹かれて手にとった読者が期待する話を提示していないからだ。
ハグされるのかと思ったらとんでもない、平手打ちを食らったようなものだ。
ただ確かに収録作品は面白い。
面白いというかもう不愉快である。できることならこんな話は読みたくなかった。
⑭は特にそうだ。怒りで、目の前が真っ赤になる。
巨大な力の理不尽さに左右され、殴られ、殺される小市民。
③では本当にただ主人公たちはただ逃げ回るだけである。抵抗はせずお金を払って命乞いする。そして気まぐれで殺されていく。
刃物や徒党に漫画や映画のように立ち向かえるようなものではない。
これは「キャッチ=22」でヨッサリアンが垣間見た地獄の本質、本拠地にほかならない。
人間が悪魔、というのは他ならない。
⑬では悪魔は男性で、そして悪魔は人間でもある。(恋人や四宝を見てほしい)
戦乱が人を狂わせ、人肉を食わせしめるなら悪魔とは状況・状態・属性(性差など)にほかならないのでは。
私はこのアンソロジーに不満がないわけではない。
収録作が面白いのには唸らされるが、やはり怪談ではない。
これは看板と売っている内容が異なる。売っているものは素晴らしいから羊頭狗肉とは言わないが、やはり騙されている感じはする。
あとがきの編集者の強気の気概も私には言い訳の裏返しに見えた。
素直に自信を持ってリリースしてほしかったが。
ただ一方で素直に怪談集と銘打たなかったら私はこの本を買っただろうか?
このアンソロジーは素晴らしい。
ただ怪談好きとしては個人的にはもう一冊、中国の怪談集を出してほしい。
2020年1月13日月曜日
種村季弘編/日本怪談集 取り憑く霊
前回は呪われた場所がテーマだったが今回は霊が取り憑くお話を集めた。
収録作は下記の通り。
■動植物
①猫が物いふ話 / 森銑三 著
②くだんのはは / 小松左京 著
③件 / 内田百間 著
④孤独なカラス / 結城昌治 著
⑤ふたたび猫 / 藤沢周平 著
⑥蟹 / 岡本綺堂 著
⑦お菊 / 三浦哲郎 著
■器怪
⑧鎧櫃の血 / 岡本綺堂 著
⑨蒲団 / 橘外男 著
⑩碁盤 / 森銑三 著
⑪赤い鼻緒の下駄 / 柴田錬三郎 著
■身体
⑫足 / 藤本義一 著
⑬手 / 舟崎克彦 著
⑭人間椅子 / 江戸川乱歩 著
⑮竈の中の顔 / 田中貢太郎 著
■霊
⑯仲間 / 三島由紀夫 著
⑰妙な話 / 芥川龍之介 著
⑱予言 / 久生十蘭 著
⑲幽霊 / 吉田健一 著
⑳幽霊 / 正宗白鳥 著
㉑生き口を問ふ女 / 折口信夫 著
前回幽霊は非日常だから現実に出現するためにはある程度の環境が必要で、そのために暗くて人が耐えて住まなくなった家というのがいわば召喚装置のような機能として存在する、みたいなことを書いた。
舌の根も乾かぬうちに恐縮なのだが、こちらでは場所にとらわれない幽霊が縦横に歩き回る。非日常に怪異が出るのではなく、いわば幽霊が出るところが非日常になる。
こうなると環境が必要とか嘘か、となるのだが実は違ってそれが作品の大カテゴリだ。
動植物、器怪、身体、霊の4つ。いわばこれらを媒介として幽霊が出現するわけだ。
くだんという妖怪はわかりやすい。牛の姿を持って人間界に現れるわけだが、そもそも非日常なので体、もしくは顔だけが人間である。
呪われた場所、というのがわかっているなら人は意思を持ってそこに向かうわけだ。
ところが怪異が歩いているとなると、それに遭遇するとはつまり巻き込まれることである。怪異が向こうから来るわけだから。
こうなると事情がわからないまま障りがあるから人はなぜ?という気持ちで解明に向かって動いていく。こういう流れがあると思う。
こちらのほうがより怪談ぽいなと個人的には思う。
何故か。
怪談というのは創作であるとして、本来の意味はどうだったろう?
妖怪を考えるとわかりやすいのだが、これは言い訳や解釈、こじつけなんじゃないかと。
嘘八百ではなく、なにか変なこと、おかしいこと、良いことがある。どうも普通のことには思われないから、ここで妖怪の仕業ということになる。
座敷わらしがわかりやすくて、この可愛い妖怪は富をもたらすが逆に彼女が出ていくと家は傾く。怪談ではたいてい来た、というよりは座敷わらしが離れた、という筋が多いように思う。
つまり長者が没落した、という事実があって「あそこには座敷わらしがいた」という物語があとからできるのである。
だから謎があってその会社が怪談になる。
幽霊のいない明るい現代に生きている私達からするとゴースト、怪異はエンタメでしかないが、それが暗黙の了解的に使われる時代があったのだ。だから怪談の機能というのは共同体で変遷しつつある。いまはもう読み物に堕してしまった。
ミステリー肌から近代的で大胆にミステリーを持ち込んだ④は近代的な怪談といえる。
昨今では幽霊とは解決されるための謎解してあとから生み出されているから、原初の怪談とはその役割というか登場の所以が逆になっている。
だから通常の人が怪異に出会ってそれの解明に乗り出す、もしくは和衷でその解説がなされるというのは怪談のはじめの形を受け継いでいる。
さて、謎があってもそれは解明できないことがある。というかほとんどそんなものじゃないか。だから妖怪幽霊と言った胡乱なものが登場するのだ。
そういった意味で謎があるていどまでしか解明されないで残る物語というのは抜群に恐ろしい。
私が気に入ったのは⑩と⑮だ。これ読んで起こる現代人もいるだろう。謎が解明されないから、結局なんなんだと。
しかし自然など不可解なものだ、本来(だからせめてフィクションでは整然としたオチを求めるのもわかるが)。
だからこの置いてけぼりにされる感じがたまらなく寂しく、心もとなく、そして面白い。
これが怪談の醍醐味だと思う。
恐怖と日常に対する不信と一緒においていかれるのがだ。
由良君美編/イギリス怪談集
収録作は以下の通り。
- A・N・L・マンビー「霧の中での遭遇」
- A・ブラックウッド「空き家」
- M・R・ジェイムズ 著「若者よ、口笛吹けば、われ行かん」
- H・G・ウェルズ「赤の間」
- A・J・アラン「ノーフォークにて、わが椿事」
- A・クィラ=クーチ「暗礁の点呼」
- A・E・コパード「おーい、若ぇ船乗り!」
- B・ストーカー「判事の家」
- J・S・レファニュ「遺言」
- M・P・シール「ヘンリとロウィーナの物語」
- H・R・ウェイクフィールド「目隠し遊び」
- E・F・ベンソン「チャールズ・リンクワースの告白」
- R・ティンパリー「ハリー」
- R・ミドルトン「逝けるエドワード」
- J・S・レファニュ「ロッホ・ギア物語」
- A・ブラックウッド「僥倖」
- E・ヘロン「ハマースミス「スペイン人館」事件」
- V・リー「悪魔の歌声」
- F・M・クローフォード「上段寝台」
怪談というとまず出てくる日本を脇に置くとやはりイギリスと言うイメージが有る。
英国と日本の怪談は似ているという意見も何度が目にした。
思うに湿った雰囲気がまず似ているのだと思う。
アメリカがフリークス驚かし系だとすると、日英同盟に関しては幽霊祟り系だろうか。
フリークスが何かというとこれは別に何でも良い。
クトゥルーのような高(異)次元の力であったり、昨日まで隣人であったゾンビでも良い。
ところが幽霊となると大抵名無しの幽霊ということはない。
これこれこういった来歴があり、何かしらの悲劇に巻き込まれた末に幽霊になった。
いわば幽霊には来歴、歴史がある。
新大陸アメリカには歴史がないので、必然的に新しい化け物共を想像し創造したのだろうと思う。
イギリスと言うとゴシックのイメージがある。
今ではファッションやメイクとしてのゴスがどうしても頭に浮かぶが、調べてみるとこれはゴート風の建築を指し示した言葉が始まりらしい。
幽霊が出ると言ったら由緒正しい、異常に広く、そして諸般の事情で隅々まで管理が行き届いていない城もしくは館だろう。
そんな私が考えるイギリス怪談の典型というのがあたりか。
面白いのはイギリス怪談というのは意外に
- 幽霊や怪異は素直に受けれられ、受け手側の神経は問題にならない。
- 除霊のようなことはしない。
- 幽霊が非人間的である。
怪談、怖い話というと受けての感覚が疑われることが、比較的多いと思う。
ラテンアメリカの怪談もそうだった。要は怪異の肝心なところを曖昧にする手法でもあって、一体あれは何だったのかという感覚を呼び起こすもので、これは非日常に対する一種の弁解のようにも感じられる。しかし英国では「幽霊です」というと「幽霊ですね」と受け入れられる土壌があるのか、「あなたの頭が心配です」とはならない。これは面白い。
キリスト教というと悪魔祓いは有名だが、果たして除霊となるとあるんだろうか?実はこれないんじゃないかと思う。教会から牧師が来て幽霊を除くのは⑫だけだ。
もう一つ面白いのは、幽霊というのが死んだ時点である程度欠損を生じているところだ。
もちろん⑦のように全く生きている人間と同じように見えたりするケースも有る。
また逆に⑧のように邪悪な悪霊となったことでむしろ強くなっている例もあるのだが、同時に①⑤⑱のように昨日を一部だけ残して人間の残像のように人間界にとどまり続ける幽霊の姿は、チープなゲームのNPCめいて不気味である。
私が気に入ったのは⑬で怪談としてはむしろ淡々としているのだが、語り口が良い。
また低所得者の生活(圏)を入り口に私達の知らないところ、闇の領域を垣間見せるような中盤がとても怖い。死者は地獄にいて生者を引きずり込む。しかし現実は?
愛娘を失った主人公にとっては現実が地獄になってしまった。
地獄は人の数だけある。そういった意味で引きずり込まれたのは娘であり、母親であったわけだ。
途中に出てくる老婆のセリフに背筋が寒くなる。