さきに「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたから、後(1936年)に書かれたそちらより1929年に書かれた本書のほうがだいぶ読みやすかった。
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造
文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。
物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。
物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。
フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。
響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。
2020年3月1日日曜日
2020年2月9日日曜日
ウィリアム・フォークナー/アブサロム、アブサロム!
■文体とアメリカ文学における特異さ
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。
句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。
ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。
■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。
■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。
②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。
③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。
④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。
■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。
句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。
ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。
■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。
■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。
②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。
③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。
④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。
■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。
ラベル:
アメリカ,
ウィリアム・フォークナー,
純文学,
本
2019年5月5日日曜日
フォークナー/フォークナー短編集
同じアメリカの南部を描いた短編作品でも、1902年生まれのスタインベックの「朝めし」とフ1897年生まれのォークナーのこの短編集に収録された作品では雲泥の差がある。(二人共にノーベル文学賞を受賞している。)
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。
コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???
この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)
黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。
アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。
個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。
コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???
この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)
黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。
アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。
個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。
ラベル:
アメリカ,
ウィリアム・フォークナー,
純文学,
短編集,
本
2019年4月14日日曜日
フォークナー/サンクチュアリ
この小説は作者が「自分が想像しうる限り最も恐ろしい」 と評しているが何が恐ろしいかというと、バランスが悪い。(「 八月の光」も正直同様に悪いと思う。)
悪を扱った小説で善悪のバランスが悪く、 著しくいずれかに傾いている。
端的に言って正義が敗北するが、 しかし正義が敗北するフィクションは巷にあふれているわけで、 なぜこの小説だけが恐ろしいのだろう。 なぜ読後感がこうもすっきりしないのだろう。
正義が敗北するのは悲劇だ。やるせない。
しかしこの小説ではそれは一つの象徴に過ぎない。
本当に悲劇なのは正義が常に概ね敗北する、その環境自体である。
「サンクチュアリ」 は一つの事件を軸にその環境を顕にしようという試みである。
だから真犯人ポパイを排除した後もこの居心地の悪さが続いていく 。
それはつまり社会の、この世のいびつさの違和感であり、 私達は否応なくそれにくるまれている。
ポパイは悪人だが彼はアウトサイダーだ。 社会が生み出したモンスターと言うよりは社会に産み落とされた異 端児である。
社会を作っているのは誰かというとそれは民衆になる。
あなたと私である。
前科があり、素行が悪いからという理由で( 少なくとも殺人に関しては)潔白な男を断罪し、 あまつさえ私刑にかける。
確かにこれは言語道断の非道に見えるが、 しかしもし似たような事件が起こった場合、 無論私刑はしないにしてもあなたは同じように彼の無罪を確信でき ただろうか?
私はそうは思わない。 前科がありまた密売しているなら殺人だってやりかねないと思って しまうような気がする。
偽証したテンプルも愚かなら、 死を目前にして頑なに証言を拒んだグッドウィンも愚かである。 実直に真実が無実を証明すると信じていたベンボウも愚かだ。
そして彼らの愚かさは私達みんながもっている愚かさなのだ。
正義の不在を嘆くというよりは、人間の愚かさに絶望している。
そしてその愚かさは治る見込みがないから、 この物語は考えうる限り恐ろしい小説なのである。
現代批判だとして、批判したところで改善の見込みがないから。
ポパイという男の存在に騙されてはいけない。
彼は確かに悪人でトリックスターだが、本当の悪は彼ではない。
彼はいわばこの物語の狂言回しで、彼に対する反応で本当の悪= 衆愚が暴かれていく。
有罪と信じ無実の男に火をつける男たち。
体面と街の秩序を気にし他人の生活にケチをつける信仰心の厚い女 たち。
どいつもこいつも身勝手で主観的、 何よりタチが悪いのは自分たちが正しいと信じて疑わないところ。
この間違った正義感、いわば悪を目指す悪ではなく、 消極的な悪がホレス・ベンボウが持っていた正義感や親切心を破壊していく。
この世が地獄なら地獄の業火は私達自身がこの身に放ったのだ。
私達はいわば失敗しており、自滅している。
誤認逮捕されたポパイが死んでいくというのはそのまま彼の強運の 裏返しであり、
真の悪に対する消極的な悪の完全勝利を表現していて皮肉である。
この世界に対する嫌悪感はベンボウの独白に現れている。
たぶんこういう状況のときに、人は、この世が悪でできていると認めるわけなんだ、結局人間は死ぬものだと認めるんだー頭のなかでは、かつて見たことのある死んだ子供の瞳を思い出し、また他の死人たちのことを考えたーそこでは憤怒も冷えていき、激しい絶望の表情も薄れていき、あとには二個のうつろな眼球が残って、そのなかでは極小の姿となった世界が深いところでじっと漂っているばかりなのだ。
この文から、ここからコーマック・ マッカーシーにつながっていくのだと個人的には感じたのだ。
いわば呪われた土地としてのアメリカの物語だ。
ラベル:
アメリカ,
ウィリアム・フォークナー,
純文学,
本
2019年1月20日日曜日
フォークナー/八月の光
アメリカの南部は泥濘のようにどろりとしている、知識としては知っている。時には知ったかぶって「南部はやべえよ」とか言ったりする。一度も行ったことがないのに。
小学生の頃、同級生にアメリカ人と日本人のハーフの男の子がいた。お母さんがアフリカ系のアメリカ人。彼は陽気でそして運動がものすごくうまかった。ある時放課後野球をすることになり、運動が苦手な私も何故か参加したのだった。その男の子はホームランを打った。相手チームには軽薄な(子供だし別に嫌な奴ではない)男の子がいて悔しかったのだろう、こういった。「黒人は大リーグに帰れ」。ハーフの子は泣いた。彼は明るい男だったから泣くだなんて私も含めて誰も思わなかったろう。
「八月の光」、嫌なタイトルである。私は夏が嫌いなのだ。この本が取り扱っている問題の一つに差別がある。(いろいろな要素から私が取り出したのはこの要素だ。つまり一番衝撃的だった。)
差別とは言い訳、大義名分であり、思考停止である。
主人公の一人クリスマスは白人と黒人の混血児だと噂される。見た目は完全に白人なのだが。でも彼が混血児だとすると、それはまあ密造酒も売るのも、白人女をレイプして殺すのも、そんなに愚かなのも説明がつくのだ。なぜなら彼は黒人だから。黒人の血が流れており、それは汚らしく、人を悪事に駆り立て、そして遺伝性だから。黒人なら殺しても仕方がない。彼らは悪いので。どうしようもなく悪いのだ。全員生まれつき犯罪者なのだ。彼らは無知で愚かなのだ。だから殺しても良い。
黒人である、ということがいいわけになり、大義名分になり、思考停止の白人たちは彼ら、つまり黒人に加えて彼らが黒人と判断した者たちを迫害していく。そしてその白人流の正しさは神が保証している。黒人といえば悪人であり、聖書といえば正しいのである。God Bless America。ここは白人の天国。
クリスマスは白人でもなかったし、黒人でもなかった。だからアメリカの土地はどこにいってもヨソで、彼は本当にもう行くところがなかった。God Bless America。ここは白人の天国。
アメリカでは差別が日常茶飯事だ。日本人はたまに言うことがある。「アメリカの白人はとんでもない差別主義者だ」と。言外に日本人は差別しない、という認識がありそうだ。
たしかにネイティブ・アメリカンを虐殺し、奴隷として使役するために海の向こうから黒人を拉致、こき使った挙げ句にその弱みがあるので彼らを弾圧(して殺害)するとはずいぶんな奴らだなと呆れ半分に思うことはある。しかし本当に彼らだけが差別だけなのだろうか。日本は島国だから割と外国人の流入が少ないのでは。アメリカは(原住民はほぼ皆殺しにされた)移民の国なので人種のるつぼだ。つまり人種のメッカであり、異なる人種が同じ土地に住んでいる。私は思うのがアメリカが一番異種交配と差別に関しては先進的だ。だって歴史が長いから。そのアメリカでさえ未だに差別がなくならないのだ。もし日本にたくさんの移民が暮せば、現状のアメリカよりひどい差別が横行するような気がする。日本人は差別を知らない。と思っているが、差別は知るものではなくてそこにあるものだ。この本を読んでアメリカの白人は無知で差別的だ、宗教は害悪だと思う人がいたら、残念ながら私は彼とは友だちになれない。
この本には嫌な奴しか出てこないが、それらは全部私達なのです。
小学生の頃、同級生にアメリカ人と日本人のハーフの男の子がいた。お母さんがアフリカ系のアメリカ人。彼は陽気でそして運動がものすごくうまかった。ある時放課後野球をすることになり、運動が苦手な私も何故か参加したのだった。その男の子はホームランを打った。相手チームには軽薄な(子供だし別に嫌な奴ではない)男の子がいて悔しかったのだろう、こういった。「黒人は大リーグに帰れ」。ハーフの子は泣いた。彼は明るい男だったから泣くだなんて私も含めて誰も思わなかったろう。
「八月の光」、嫌なタイトルである。私は夏が嫌いなのだ。この本が取り扱っている問題の一つに差別がある。(いろいろな要素から私が取り出したのはこの要素だ。つまり一番衝撃的だった。)
差別とは言い訳、大義名分であり、思考停止である。
主人公の一人クリスマスは白人と黒人の混血児だと噂される。見た目は完全に白人なのだが。でも彼が混血児だとすると、それはまあ密造酒も売るのも、白人女をレイプして殺すのも、そんなに愚かなのも説明がつくのだ。なぜなら彼は黒人だから。黒人の血が流れており、それは汚らしく、人を悪事に駆り立て、そして遺伝性だから。黒人なら殺しても仕方がない。彼らは悪いので。どうしようもなく悪いのだ。全員生まれつき犯罪者なのだ。彼らは無知で愚かなのだ。だから殺しても良い。
黒人である、ということがいいわけになり、大義名分になり、思考停止の白人たちは彼ら、つまり黒人に加えて彼らが黒人と判断した者たちを迫害していく。そしてその白人流の正しさは神が保証している。黒人といえば悪人であり、聖書といえば正しいのである。God Bless America。ここは白人の天国。
クリスマスは白人でもなかったし、黒人でもなかった。だからアメリカの土地はどこにいってもヨソで、彼は本当にもう行くところがなかった。God Bless America。ここは白人の天国。
アメリカでは差別が日常茶飯事だ。日本人はたまに言うことがある。「アメリカの白人はとんでもない差別主義者だ」と。言外に日本人は差別しない、という認識がありそうだ。
たしかにネイティブ・アメリカンを虐殺し、奴隷として使役するために海の向こうから黒人を拉致、こき使った挙げ句にその弱みがあるので彼らを弾圧(して殺害)するとはずいぶんな奴らだなと呆れ半分に思うことはある。しかし本当に彼らだけが差別だけなのだろうか。日本は島国だから割と外国人の流入が少ないのでは。アメリカは(原住民はほぼ皆殺しにされた)移民の国なので人種のるつぼだ。つまり人種のメッカであり、異なる人種が同じ土地に住んでいる。私は思うのがアメリカが一番異種交配と差別に関しては先進的だ。だって歴史が長いから。そのアメリカでさえ未だに差別がなくならないのだ。もし日本にたくさんの移民が暮せば、現状のアメリカよりひどい差別が横行するような気がする。日本人は差別を知らない。と思っているが、差別は知るものではなくてそこにあるものだ。この本を読んでアメリカの白人は無知で差別的だ、宗教は害悪だと思う人がいたら、残念ながら私は彼とは友だちになれない。
この本には嫌な奴しか出てこないが、それらは全部私達なのです。
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