2019年4月14日日曜日

フォークナー/サンクチュアリ

この小説は作者が「自分が想像しうる限り最も恐ろしい」と評しているが何が恐ろしいかというと、バランスが悪い。(「八月の光」も正直同様に悪いと思う。)
悪を扱った小説で善悪のバランスが悪く、著しくいずれかに傾いている。
端的に言って正義が敗北するが、しかし正義が敗北するフィクションは巷にあふれているわけで、なぜこの小説だけが恐ろしいのだろう。なぜ読後感がこうもすっきりしないのだろう。

正義が敗北するのは悲劇だ。やるせない。
しかしこの小説ではそれは一つの象徴に過ぎない。
本当に悲劇なのは正義が常に概ね敗北する、その環境自体である。
「サンクチュアリ」は一つの事件を軸にその環境を顕にしようという試みである。

だから真犯人ポパイを排除した後もこの居心地の悪さが続いていく
それはつまり社会の、この世のいびつさの違和感であり、私達は否応なくそれにくるまれている。
ポパイは悪人だが彼はアウトサイダーだ。社会が生み出したモンスターと言うよりは社会に産み落とされた異端児である。
社会を作っているのは誰かというとそれは民衆になる。
あなたと私である。
前科があり、素行が悪いからという理由で(少なくとも殺人に関しては)潔白な男を断罪し、あまつさえ私刑にかける。
確かにこれは言語道断の非道に見えるが、しかしもし似たような事件が起こった場合、無論私刑はしないにしてもあなたは同じように彼の無罪を確信できただろうか?
私はそうは思わない。前科がありまた密売しているなら殺人だってやりかねないと思ってしまうような気がする。
偽証したテンプルも愚かなら、死を目前にして頑なに証言を拒んだグッドウィンも愚かである。実直に真実が無実を証明すると信じていたベンボウも愚かだ。
そして彼らの愚かさは私達みんながもっている愚かさなのだ。

正義の不在を嘆くというよりは、人間の愚かさに絶望している。
そしてその愚かさは治る見込みがないから、この物語は考えうる限り恐ろしい小説なのである。
現代批判だとして、批判したところで改善の見込みがないから。

ポパイという男の存在に騙されてはいけない。
彼は確かに悪人でトリックスターだが、本当の悪は彼ではない。
彼はいわばこの物語の狂言回しで、彼に対する反応で本当の悪=衆愚が暴かれていく。

有罪と信じ無実の男に火をつける男たち。
体面と街の秩序を気にし他人の生活にケチをつける信仰心の厚い女たち。
どいつもこいつも身勝手で主観的、何よりタチが悪いのは自分たちが正しいと信じて疑わないところ。
この間違った正義感、いわば悪を目指す悪ではなく、消極的な悪がホレス・ベンボウが持っていた正義感や親切心を破壊していく。
この世が地獄なら地獄の業火は私達自身がこの身に放ったのだ。
私達はいわば失敗しており、自滅している。

誤認逮捕されたポパイが死んでいくというのはそのまま彼の強運の裏返しであり、
真の悪に対する消極的な悪の完全勝利を表現していて皮肉である。

この世界に対する嫌悪感はベンボウの独白に現れている。

たぶんこういう状況のときに、人は、この世が悪でできていると認めるわけなんだ、結局人間は死ぬものだと認めるんだー頭のなかでは、かつて見たことのある死んだ子供の瞳を思い出し、また他の死人たちのことを考えたーそこでは憤怒も冷えていき、激しい絶望の表情も薄れていき、あとには二個のうつろな眼球が残って、そのなかでは極小の姿となった世界が深いところでじっと漂っているばかりなのだ。

この文から、ここからコーマック・マッカーシーにつながっていくのだと個人的には感じたのだ。
いわば呪われた土地としてのアメリカの物語だ。

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