2019年5月5日日曜日

フォークナー/フォークナー短編集

同じアメリカの南部を描いた短編作品でも、1902年生まれのスタインベックの「朝めし」とフ1897年生まれのォークナーのこの短編集に収録された作品では雲泥の差がある。(二人共にノーベル文学賞を受賞している。)
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。

コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???

この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)

黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。

アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。

個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。

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