2016年11月27日日曜日

V.A./TILL YOUR DEATH Vol.3

日本のレーベルTILL YOUR DEATH Recordsから2016年にリリースされたコンピレーション。
「お前が死ぬまで」というタイトル(レーベル名)はToday is the Dayのライブ盤「Live Till You Die」をなんとなく彷彿とさせる。このレーベルは年末恒例となっているイベント総武線バイオレンスも主催。去年足を運んだがデスメタル系のバンドがベテラン、若手まで名を連ねて非常に楽しいイベントだった。

今回このオムニバスはそんなレーベルが持つもう一つの側面、ハードコアにフォーカスし、国内で活躍するバンドを集めたもの。11バンドが1曲ずつ持ち寄りアルバムを構成している。収録バンドと曲目は以下の通り。
1.ANCHOR「物語」
2.CYBERNE「Thrash -独裁-」
3.Dead Pudding「Untended」
4.kallaqri「水仙」
5.NoLA「You're Useless」
6.REDSHEER「Reality To Disappear In The Letter Of Unnatural Fog/DistortionsContortions」
7.URBAN PREDATOR「THE NORMAL」
8.weepray「カルマ」
9.wombscape「枯れた蔦の這う頃に」
10.明日の叙景「花装束」
11.冬蟲夏草「催奇性と道化」
※レーベルのブログより拝借しました。
新潟で長いこと活動するANCHOR、大阪のCYBERNE、青森のkallaqriなどハードコアを演奏しているなら首都、地方関係なく全国からバンドが参加している。さすがにどのバンドもオリジナリティあふれる曲を演奏しており、ハードコアという軸はあるもののそれぞれにかなり印象の異なる趣がある。また一方で共通する軸は確かにあり、それがなんなのかというのを考えるのは非常に楽しい。

まず歴史的にというよりは個人的に激情ハードコアというとenvyのイメージがある(一番初めに触れてハマったのがenvyだったため)んだけど、そこからの流れを感じさせるぎゅっと詰まったカオティック(ハードコアの勢いを残しつつ曲の展開がある程度複雑である)で音の数が多い曲に文学的で批判するというよりは内面に切り込んでいき、また他者を肯定し励ます様な歌詞をちりばめ、それらを生かすために激しさに対してアンビエントなパートを入れるバンド達。前述のANCHORやkallaqriなどは比較的忠実にその潮流に乗ってさらにそれを自分たちなりに深化させている様に感じる。いわゆるEbulltion Records(3枚この間聞いたばかりであまり偉そうにできないのだが)との共通点もありつつも、より内省的なのは非常に日本的だなと思う。特に静かなパートには国内の方が力を割いているイメージ。
それからCYBERNEやNoLAの様なハードコアの激烈な推進力にパラメータを全振りしたかの様な突進力のあるエモバイオレンス系。EbulltionならOrchidなのかもしれないが、さすがに時代を経てこちらの方がメタルなどのジャンルも経由し咀嚼したブルータルなサウンドでエモさも大分非情になった。青臭さをはるか通り越しむしろバイオレンス。個人的にはNoLAの曲はこのコンピの中でも指折りのかっこよさだが、ハードコア感溢れるイントロと金切り声で「役立たず!」とリフレインする終盤が恐ろしいほどに感情的だ。
それからREDSHEER、weeprayの様に激情の流れを確かに感じさせながらも独自の道を深く切り込んでいくバンド。簡単にいうと迷いあぐねた結果明らかにどうかしてしまった様な捻くれた音楽を鳴らしている。REDSHEERのいきなりのアンビエントパートは美しも(それ故)不穏で、後半怒涛の展開になだれ込む様は相変わらず凄まじい。うねりのあるハードコア的な演奏は確かに伝統的だが、乗るボーカルが激情の流れからすると邪悪すぎる。別に人生はクソだ!と言い切るわけではないが、良し悪しを経て割り切れない人生に唾を吐きつつ未だに執着を捨てられない様な力を感じる。突き放した様な演奏とよく合う。REDSHEERが個人的には目当てだったのだが期待を上回るよさ。それからボーカルという意味では音源では初めて聴くweeprayも悩みすぎて現実社会とずれだした様な高音のボーカルと撤回の様な重たく叩きつけるギターリフが混じり合った曲で踏み外した感のあるハードコアを演奏している。爪弾かれるアルペジオもそうだがあえて外している様な不安定さがあって黒いハードコアという印象。
激情をモダンな音像でアップデートしたかの様なwobmscape、ポストブラックを感じさせる爽やかな叙情的なアルペジオが魅力の明日の叙景(もっとブラッケンドかなと思ったら予想よりハードコア色強くてむしろ大変かっこいい。)、オルタナ〜ニューメタル世代の怪しいごった煮さをスピーディに混ぜ込んだ忙しない冬蟲夏草の最後の三曲はこれからの日本の激情ハードコアを華々しく提示する様なメッセージ性を感じた。

現行の日本の激情ハードコア界隈を手っ取り早く知りたいのなら間違いない音源ではなかろうか。単純にこの手の音が好きなら買って絶対間違いない。非常に楽しめるアルバムなのでとてもオススメ。

2016年11月26日土曜日

Car Bomb/Meta

アメリカはニューヨーク州ロングアイランドのマスコアバンドの3rdアルバム。
2016年に自主制作にてリリースされた。
Car Bombは2000年に結成されたバンドで割とメンバーが流動的なアングラ界隈では珍しく結成当初から不動の4人体制のようだ。以前は激音レーベルRelapse Recordsと契約していたが今回はどことも契約していない状態でのリリースとのこと。私は前作リリース時に「車爆弾」とは剣呑な名前だなというのとアートワークが独特だなと思っただけど手は出さなかった。今回は本当になんとなくBandcampでかってみた。今回もそこはかとなく理系な匂いのするアートワークが印象的。

マスコアってことでなんとなく技巧的で高音でギターをピロピロしているハードコアなのだろうなと思っていたのだが、豈図らんや聴いてみると結構そんな先入観とは異なった音楽を演奏している。Meshuggahにすごい似ている。ガツンガツンと細切れにした低音リフをパーカッシブに演奏する。技巧的と言っても正統メタルなピロピロ感はほぼなく、デロデロデロとした垂れ流すようなリフの積み重ねや、来るか?って時にあえて外してきたりととにかくリズム、リズム、リズム。音のバリエーションはテローンと伸ばしたり、ハーモニクスなどの高音を飛び道具的に入れてきたりする。ドラムもテクニカルかつ正確でギターと合わせたり、意図的にタイミングをずらしたりする、こちらもドカドカ、休止、ドカドカ、休止と言ったように休符と言うか細かいストップアンドゴーを繰り返すフレーズが多用されている。ここで言うストップアンドゴーは速度は一定だが休止が多いと言う意味。速度は早くも遅くもない中速でどっしり系。非常にマシン的であり、知的な音楽になっている。私はDjentというジャンルをほとんど全く聴いたことがないのでなんとも言えないのだが、少なくとも昨今のMeshuggahには多大な影響を受けているのだろうと思う。デス声までいかない、高音スクリームを織り交ぜたドスの効いたボーカルもJens Kidmanを彷彿とさせる。
こうなるとじゃあMeshuggahとどこか異なるのかというのがこのバンドの持ち味になって来るわけだけど、このバンドは結構テクニカルかつ無機質なパートに有機的かつメロディアスなパートを織り交ぜて来る。この時ばかりはボーカルもクリーントーンでわかりやすいメロディ(キャッチーとまではいかない位)の歌を歌う。ここら辺はMeshuggahにはない部分かと思う。メタルコアっぽいというよりは個人的には往年のニューメタルっぽさを感じた。クリーントーンにエフェクトをかけたりするところとかは特に。演奏が複雑という意味では明確にニューメタルとは違うのだが、曲作りにはそこを通過したような残り香がある。明確にマシンパートとニューメタルパートを分けた楽曲も良いけど、4曲め「Gratitude」の様にその両者の要素を溶け込ませたハイブリッドなつくりの曲に独自性と面白さを感じた。そのあとの5曲め「Constant Sleep」も騒がしい前半と不穏な後半が楽しい。

というわけでMeshuggah好きで三十路くらいの人は聞いてみるとおやと思うかもしれない。冷徹な音楽なのに頭でっかちになりすぎないところが良いバランス。

アーヴィン・ウェルシュ/トレインスポッティング

イギリスの作家による青春小説。
どちらかというとダニー・ボイル監督、ユアン・マクレガー主演の映画の方が有名かもしれない。かくいう私も高校生くらいの時に夜中にやっているのを見たことがある。内容は綺麗に忘れてしまっているが。そういうこともあって手にとってみた。ハヤカワ文庫補完計画全七十冊のうちの一冊。

大英帝国スコットランドに住む20代の青年マーク・レントンは重度のヘロイン中毒者だ。定職にはつかず複数の地域から生活保護を受けるシンジケートに所属し、違法に手に入れた金で麻薬に溺れている。親友のスパッドは優しい性格だがやはりジャンキー、シック・ボーイは理屈っぽく上から目線でセックス中毒、気分にムラがある横暴なベグビーは暴力中毒だ。レントンには夢も希望もない。ただヘロインをやっているときは生きていく上で発生するあまたある悩みがたった一つに減る。つまり次のヘロインをいかに手に入れるか、だけだ。ただ、ヘロインがあれば良い。

この小説には物語を突き通している背骨の様な大筋がない。レントンを始めその周辺の若者たちの毎日の些細な出来事を短いスパンで次々にかさねていく。概ね彼らは何かに酔っていて、それに支配されている状態だ。物語に筋がない理由は簡単で、ジャンキーは依存しているブツがあればそれで事足りているからに他ならない。
「トレインスポッティング」には何かおしゃれな感じがある。悪いことというのは(未熟な)人間を惹きつける側面があることはどうしても否定できないのではなかろうか。ハイ・セレブリティたちの優雅な嗜み、ドラッグはそんな悪いことのある意味では頂点だ。退屈な非日常から抜け出してくれる、他人を(表向きは)傷つけない、適度に自傷的な退廃を含んだ刺激物。なるほど飄々と真面目に会社に行くためにバス亭に並ぶレントンらは、ムカつくという理由だけで他人に喧嘩をふっかける彼らは、法律をはじめとする私たちを縛るルールから外れて自由に見える。しかし意図的なのか、それともジャンキーたちの実態を克明に描いているのかわからないが、読んでみるとレントンたちの日常は悲惨である。当時(1980年代末)の英国、スコットランドの不景気をはじめとする悲惨な状況にもその一端はあるのだろうが、作者は意外にもそこには主人公たちの軽口くらいでしか触れない。レントンたちの毎日は様々な麻薬と中毒に彩られて毎日大差ないない様に見えるが、実はそうでない。幼馴染との関係は悪くなり、家族からは白い目で見られ対立する様になる。使いまわした注射針でHIVに感染し、若いのに老人の様にふけこみ、死ぬ。神経質になり暴力的になる。暴力の矛先は弱いもの、他人と違うものに向かう。女性は泣く、子供は殺される。ハッピーなドラッグライフは後半になるにつれてそのメッキが剥がれてくる。孤立しているはずのジャンキーたちだが、むしろ社会的な生物である人間の側面が強調されて行く様に思える。ヘロインがあれば悩みがなくなる、と嘯くレントンもその例外ではない。
麻薬を打つからクズなのか、それともクズだから麻薬を打つのか知らないが、アーヴィン・ウェルシュが言いたいのは麻薬が人間性の何かを(良い方向に)変えるということは全くなく、ただ世の中がクソだってことなのではと思った。別に周りがクソなのでジャンキーになるのは仕方ないという言い訳ではないし、麻薬をやる人間が麻薬をやらない人間を不幸にするという事実を、この物語に「軽妙さ」を求めるなら異質ですらあるキャリアのジャンキーにレイプされた彼女からHIVに感染した男のエピソードにそれなりのページ数を割いて読者に叩きつけている。それからレントンの親友スパッドのおばあちゃんのエピソードにある人種差別の身近な現状。麻薬をやらなくても現状はクソで、さらに麻薬を打っても実はその状況から抜け出すことは叶わず、そして確実にそのクソの中でもさらにクソににおちこんでいく。
「基本的に人間てのはさ、短くて無意味な人生を送って死ぬだけなんだ。だから人生にクソを盛る。仕事だの、人間関係だの、クソみたいなものを盛るおかげで、人生もまんざら無駄じゃないかもしれねえって勘違いするわけだ。」
こう嘯くレントン、彼が最終的にどのように麻薬と縁を切るのか、というエピソードを考えると享楽的の裏側にあるのはある種厭世観を飛び越した究極的なニヒリズムだ。

映画を楽しく見たという人にこそ読んでいただきたい一冊。非常に面白かった。

Oppression Freedom Vol.14 Monarch!/Birushanah Japan Tour 2016@新大久保アースダム

フランスから地獄ドゥームMonarch!が2年ぶりに来日。でもってまた日本は大阪の和製トライバルスラッジBirushanahとツアーをするという。東京はCoffinsの企画。2年前もBirushanah帯同でしかも東京公演はCoffins企画。腰の重い私もちゃっかり見にいったのでした。あれから早いものでもう2年経つのか〜。
しかし今回東京公演は11月25日(金)という平日だったが、前回が楽しかったのと何と言っても現行オルタナティブSunday Bloody Sundayが参加するというのでどうしても見たかった。そんな訳で仕事場のトイレの窓から脱出した私は一路新大久保に向かった。
18時オープンの30分開始で私がついたの45分くらい。もう始まっているかなと思ったら幸い押している様だった。流石に定時ダッシュかまさないとな平日の早い時間帯なので人は少なめ。(最終的には大分入ってました。)

CARAMBA
30分押しで一番手はCARMBA。
日本の3人組のスラッジバンドでフィードバックノイズ垂れ流し系に厭世観たっぷりの喚き声ボーカルが乗っかるタイプ。かっこいい。開始10分ぐらいで思ったのが「こりゃGriefや」、道理でかっこいいはずだ。音は馬鹿でかいが完全低音志向ではなく、ざらっとひりついた高音も混ぜてくる音作り、リフの境界が融解した様な圧倒的ドゥーム感はまさにGrief。ただGriefに比べるとリフがさらに溶けている。そして微妙にゆったりとしたストーナーなリズム(特にベースかな??)がある。Griefにあるビンテージロック感やグローヴィサはあまり感じられなくてかなりの地獄。完全に人嫌い、世界嫌いな世界観で一切MC無しの潔さ。音源買っとけばよかったな。

Sunday Bloody Sunday
続いて日本のオルタナティブロックバンドのSunday Bloody Sunday!前述の通り今回のお目当。とにかくこの間リリースされた1stアルバムがかっこいい。いわゆるあの頃の「オルタナ」を2016年の今に演奏しているバンドで郷愁を感じさせつつも独自性を打ち出したその音楽性は音楽付きの三十路あたりを魅了してやまないとか。
ライブで聴くとものすげ〜〜〜カッコよかった。帰り道音源聞いたのだけど、結構かっちりまとまった音源に比べるとライブは当たり前だけど音がでかくて荒々しい。迫力満点で私の頭に思い浮かんだのはアメ車だ。でっかいハマーみたいなのではなく、ムスタングみたいなちょっと昔のかっこいい奴。ぎらりと光る金属の塊めいた乱暴さと粋を凝らした職人芸の技術がある感じ。とにかくギター/ボーカルの方のダボっとした佇まいがオルタナ感満載なのだが、出す音も中音が分厚く、刻みまくる小節の終わりに伸びるギターの音が艶やかで痺れる。エフェクターも多めで音作りにも気を使っているのだと思う。曲に対してボーカルの頻度がものすごく多くないのは、こうやって演奏を楽しむためなのではと。ドラムとベースは正確に土台を作っていってギターが歌いまくる。幼さを感じさせる甘めのボーカルも良い。この声が良いんだな〜と思う。例えばこれが強いとかっこいいけどHelmetには敵わないかもしれない。Coaltar of the Deepersみたく重めの演奏と甘めのボーカルの対比がオリジナリティ。

Birushanah
三番手はツアー主催日本は大阪のありがたい仏様(びるしゃなは毘盧遮那といって仏様のお名前なんだそうです。)スラッジメタルのBirushanah。個人的には本当好きなバンド。ドラムのメンバーが変わったんだと思う。アフロの人になってました。この手のバンドは珍しくステージのライト全点灯状態(多分)でメタルパーカッション(ドラム缶やタイヤのホイールなどを金属のスティックでぶっ叩く)の佐野さんの味のある口上でスタート。Birushanhはだいたい音源を持っているのだけど最初の曲はわからなかった。ひょっとしたら誰かのカバーだったのだろうか。「炎の中に投げ込む」みたいな歌詞が印象的。SBSと違ってエフェクター2個しかないギター/ボーカルのIsoさんは歌いまくりでその風貌もあってインディアンの歌姫みたい。「窖」(好きすぎるのでテンション上がりまくり)の変形から最新作魔境の「瞼色の旅人」へ。間に佐野さんのしゃべりを挟みつつ「鏡」で最後は佐野さんの銅鑼乱打でしめ。この曲は本当私歌えるからね。
「鏡」のイントロもそうだけどメタルパーカッションとドラムという打楽器二つが執拗に反復していく催眠性のある呪術的なスラッジでフロアを魔境に連れていくスタイル。後述のMonarch!と違って陰陽溶け込んだ異界っぷりはお祭感すらある。無二のバンドではなかろうか。CavoのCDとツアー初日の朝までかかって作ったというパッチが付いた魔境のカセットを購入。前回に引き続きおまけにポスターをもらいました。

Coffins
続いて企画の主催者、東京オールドスクールデスメタルCoffins。何気にCoffinsは何回かライブで見ている。いろんな企画に引っ張りだこということなんだろうな〜。
ドゥームの要素色濃いパワフルなデスメタル。今回改めて思ったのはドラムの力強さ。結構涼しい顔してアタックが相当強い。速度のコントロールには並々ならぬこだわりを感じさせせており、ドゥーミィなパートの重たさは勿論、ツタツタ刻むパンキッシュなドラミングも非常にカッコよかった。一見非常にとっつきにくい雰囲気なのだが実はかなりキャッチーでファンは勿論、初見でも盛り上がりやすい曲構成とそしてやはり熱い体温でフロアも盛り上がること。私はCoffinsスプリット音源しか持っていないのだけど、最後の曲は本当楽しかったな〜。ボーカルの人は最後フロアに降りてもみくちゃに。あれなんていっているのだろう?絶対100%違うだろうけど「B-boy Nation」に聞こえるな…とか思っていました。

Monarch!
最後はフランスの地獄ドゥーム。このバンドボーカルは紅一点女性なのだろうけど体調不良で今回のツアーはおやすみ。代わりにベーシストがボーカルを兼任することに。これはこれでレアだぞ、とみなさん思ったはず。ボーカリストEmilieはボーカルの他にエレクトロニクス(机に楽器置いて蝋燭を立てる)も担当しているからそこがなくなるとどうなるんだろう?という期待もあり。
完全に圧殺系ドゥームメタル。フィードバックも含めて全て低音にフォーカスされているので例えば一番手のCARAMBAとはかなり音のイメージは異なる。ドローンの要素が強いといっても良い。ただドラムが強烈で長身から腕をまっすぐ伸び切るくらいまで伸ばして(スティックをクロスさせる)から渾身の力で振り下ろす。全ての音がでかい。ボーカルは空間系のエフェクトをかけた歌詞のない絶叫スタイルで、地獄の谷にこだまする悪霊か、もしくは突風が立てる音のようで恐怖感を煽る。呪術的であるがBirushanahのお祭り感は皆無でひたすら重苦しくすりつぶす。ライトを落としたステージは長方形に切り取られさながら水槽のようだが、すぐに間違いに気づく。フロアが水槽でメンバーが音で私たちを溺死させようとしているのだ。控えめにいっても地獄だ。そしてそれが好きな奇特(危篤)な人たちもいるのである。音楽の性質から言ってインプロの要素が強いのかと思ったが実はかなり決めるところは決めるスタイルで、特にギターの二人はユニゾン(同じフレーズをフレットというか音域をずらして演奏する、ユニゾンじゃないかも)で弾いたりしてかなり実は凝ったことをしている。ライブ後に知ったのだが、ギターの人はポストメタル/スラッジバンドYear of No Lightでも弾いているそうだ。なるほど。
散々っぱら牛歩ドゥームを披露した後2年前と同様最後は爆走ハードコアナンバーで締め。フロアはむしろ呆然とした様子で面白かった。

というわけで2年前に勝るとも劣らず今回も楽しかった。結構アプローチが違うMonarch!とBirushanahが仲良しというのは面白いな〜。今度はEmilieも体調治してまた2年ごという話になっているので早くも楽しみ。

2016年11月20日日曜日

ネヴィル・シュート/渚にて

「世界の終わり」という言葉には何かしら人を惹きつけるものがある。
この言葉を聞いてまず私の頭におもいうかぶのはThee Michelle Gun Elephantの楽曲である。

この歌の歌詞はストレートだ。「世界の終わりを待つ君」というテーマについて静寂をつんざくように切り裂く激しいギターに合わせて歌われている。
世界の終わりはロマンティックだ。既存の煩わしいルール、人物、約束、物事に対する胸のすくような大破壊とそしてそこから何か私たちが全くみたことのない新しい何かが始まる予感がするからだ。
世界の終わりを考えるとき人は無意識に世界の終わりとそのあとの自分を思い浮かべるのではないだろうか。
そんな「世界の終わり」に対して容赦のない虚構を叩きつけるのがこの作品である。

ソ連と中国の間に端を発した争いは第三次世界大戦に発展。コバルト爆弾が飛び交いあっという間に世界は週末を迎えた。核兵器が撒き散らした放射能で世界のほとんどの地で生物は絶滅した。南半球の一部を除いて。アメリカ海軍に所属する原子力潜水艦「スコーピオン」は辛くも難を逃れ、オーストラリアの汚染されていない都市「」に寄港する。艦長タワーズは現地の人と触れ合いながらも今はなき故国に想いを馳せる。そんな中すでに住むものがいないはずのアメリカからモールス信号がはるかオーストラリアまで届く。信号は意味不明のものだったが、信号を飛ばすには電気が必要だ。タワーズらは万に一つの可能性を確かめるために「スコーピオン」でアメリカに向かう。

世界の終わりをテーマにした作品にしてはタイトルの「渚にて」はおとなしすぎるだろうと思う。
この物語は非常に抑えた筆致でときにのんびりとしているほど、そして意識的に温かい雰囲気で描かれている。心温まる、感動するといういっても良い。だが扱っているテーマはまぎれもない、世界の終わりについてである。
オーストラリアは戦火を逃れたが、放射能は北半球から地球全域に拡散し続け、およそ半年後にはオーストラリア全土ですら生物の住めない土地になってしまう。いわばもう人類と生物は余命宣告をされた状態である。電気は通じているがガソリンが貴重品で車の数は劇的に減っている。
そんな状況下で原子力潜水艦「スコーピオン」の関係者である、艦長タワーズ、オーストラリア海軍の 夫妻、同じくオーストラリア軍属科学者 、夫妻の友人でタワーズと接近するモイラを中心に物語は進んでいく。
この物語はとても不思議だ。世界の終わりの前の穏やかな生活を描いている。カタストロフィーを前にこの静けさ、穏やかさはちょっと違和感がある。世界がもし終わるなら、ルールになんて従う必要はないはずだからだ。思うにこれに理由は二つある。
一つ、世界の終わりにはある程度長い期間があるため、暴徒化するには暇がありすぎる。当たり前だが狂騒には莫大なエネルギーが必要である。半年間以上暴徒と化すのは難しい。
一つ、作者のネヴィル・シュートが意識的にそういった部分を書いていない。実は地の文で暴徒化している人々と荒廃した町に対しては言及がある。ただ登場人物たちは郊外か、軍の建物に入ることがほとんどなので争いに巻き込まれることが少ない。
個人的には後者の作者がそういったものを書きたくなかったからだと思う。そういうのを受け付けないというのではない。シュートは人間というもののその尊厳を描きたかったのである。それが明日終わる世界でも消えることのない火のようなその誇り高さ、そして暖かさを描きたかったのではなかろうか。良い歳になってくるとわかるものだがかっこい死に様とはイコールかっこいい生き様に他ならない。おそらく「渚にて」の世界でも大半の人はカッコ悪く生き、カッコ悪く死んだのだろう。その中でも人間らしくいきそして死んでいく人を書いたのがこの作品に他ならない。作中の暖かさ、それは終わっていく世界でとても稀有で難しい。そしてその希望もやがて潰えていく。私たちは自分を死なないと思っているが、登場人物たちも放射能の南下はひょっとしたら止まるのでは、自分たちは世界の破滅を生き残れるのではと思っている。しかし無情にも放射能の拡散は止まるということがなさそうである。戦争を始めたのは私たちではないのに、なぜ私たちは死なないといけないのか?大きすぎる力に伴うリスクがこの言葉に集約されている。
人間は自己保存の原則に従って生きている。子供をなすのは第一にしても、その他何かしら自分の生きた証を残したいのが人間である。しかし誰も残らないことが確定している世界で一体何かを残すことに意味はあるのだろうか。または「人生はクソで全く意味がない」というのはよく聞くフレーズだが、それではなぜそう言うあなた(または私)は自殺しないのだろうか?
世界の終わりは人類を含む全生物の絶滅だ。それは美しいかもしれないが、実際には美にはなり得ないだろう。なぜなら人類が絶滅した時点で完全な世界の終わりを観測できることができなくなるからだ。世界の終わりがそこに近づいているのにおままごとをするかの様に振る舞う人々、その姿を指差して滑稽だと笑えるだろうか。そこには諸行無常の残酷さがある。私たちは最低限、もしくは最大限生きることしかできない。ある意味最強の極限状態で一体私たちの生がなんなのか?と問いかけるのがこの小説では。

Thee Michelle Gun Elephantには「Girl Friend」と言う曲がある。活動の終わり頃にリリースされた曲で、チバ語とも評される比較的その指すところが判然としない歌詞が多いこのバンドでは珍しくメッセージ性が強く、そして真っ当なラブソングである。争いと暴力に満ちた世界をくだらないとこき下ろす一方で天国すらも唾棄する、ただ君といたいと言うその歌詞はある種前述の「世界の終わり」と対をなす曲なのだが、なんとなくこの小説にはこちらの曲の方があっている様な気がする。ちなみに私はどちらの曲も大好きである。

核という巨大な力と愚かな人類という最悪の組み合わせの恐怖を描くという意味でも広く読んでほしい小説だと思うが(つまりネヴィル・シュートの怒りに満ちた、そして静かな警告でもあるわけだ)、もっと普遍的にあなたのその生はどんなものなのか?と問いかけてくる、そこがいちばんの魅力だと思った。ぜひ、ぜひ読んでいただきたい一冊。

2016年11月19日土曜日

Grief/Come to Grief

アメリカはマサチューセッツ州ボストンのスラッジコアバンドの2ndアルバム。
オリジナルは1994年にCentury Media Recordsからリリースされた。私が買ったのはWillowtip Recordsから2010年に再販されたものでボーナストラックが1曲追加されている。1991年に結成され5枚のオリジナルアルバムと何枚かのスプリット音源をリリースしたのち2001年に解散。その後再結成されたもののやはり解散している。スラッジ界隈では有名なバンドなのだろうが、音源がことごとく廃盤なので私はSouthern Lord Recordingsからリリースされた編集版「Turbulent Times」しか持っていない。確実にKhanateに影響を与えてであろう凄まじいトーチャー・スラッジが展開されており、全編通して聴くにはかなりしんどいのだが大変癖になる。「Depression」の長いイントロが終わったと思ったらさらに地獄でしたみたいな展開が大好き。Amazonでなんとなく検索したら普通に売っていたので購入した次第。

「Turbulent Times」がおしゃれな装丁なのに対してこちらは「ぼくのかんがえたさいきょうのじごく」的な世界観が表現されており、Iron Monkeyのアートワークを思わせるいやらしさ。嫌な予感しかしないが、果たして再生ボタンを押した瞬間、ノイズにまみれたスラッジーなイントロが撒き散らされる。叩きのめされた様に不自然に伸びたリフと引きずる様なフィードバックノイズが不快だ。たまらん。歪んだソロが展開されて悲鳴の様だ。やっとイントロが終わったかと思うとJeff Haywardの苦痛に満ちたボーカルが入る。ここでこのアルバムには救いがないとわかる。この人の様に歌うボーカルはちょっと思いつかない。フレーズごとに力が入りすぎて心配になってくる。ひどい二日酔いの時吐きまくっても楽にならず、便器を握りしめて無理やりげえげえ唸っている様な、そんな類の必死さと辛さがある。「Earthworm」は自尊心ゼロのボーカルが「俺はミミズにとってもよく似ている 俺をたち割ってくれ 俺は生まれ変わる」(ミミズを切断すると両方動いているところから来ているのだろう)と歌い上げる。Griefは悲嘆という意味だ。ここには失望と厭世観とそしてその中で育まれる憎悪がある。おおよそ嫉妬にまみれた見当違いのものであるかもしれない。光り輝く健康な世界で生きている人たちからしたらいわれのない、理解のできない感情だとしてもある特定の人たちにとっては共感できるのではなかろうか。喧嘩に負けたとか、麻薬にどっぷりとか、半分はあっているが本質的には自己嫌悪だったり自分の不甲斐なさに対する苛立ち、生来劣った自分という不公平に対する怒り、転じて他者への攻撃性と厭世観になっている様な気がする。だからこの文脈でいう攻撃的というのは、他者と自分に対しての二面性があって、トーチャーなのに気持ち良いというのは実はそこにその理由があるのかもしれない。
こうやって書くともう聞くのも苦痛でマニアックな音楽という印象を持たれてしまうかもしれないし、実際そんな一面もあるのだが(はじめの2曲はかなり酷い、私は2曲めの「Hate Grows Stronger」が好きすぎる)、実はこのアルバム後半にいくにつれて結構聴きやすくなる。ある程度早いパートが導入されているからだ。ドゥームのヴィンテージロックからの影響を割とストレートにスラッジなりに解釈したグルーヴィなリフも飛び出して来てかなり乗れる。

Eyehategodに代表される様にスラッジというとやっぱりこうダーティなイメージがある。私は酒もあまり飲めないのでそういった危険性とは無縁だが(Eyehategodはもちろん好きだけど)、Griefはもっと懐が広くてダメ人間の普遍的な感情を歌っていると思う。そういった意味では過激な音楽性に耐性があれば(ここがまああんまりいないんだろうけど)結構聴きやすいのではなかろうか。何かしらこの切実さがきっと胸に突き刺さるはずだと思う。やっぱりかっこいい。「明日は良い日だ」という歌に励まされない人はぜひどうぞ。非常にかっこいい。おすすめ。

Neurosis/Fires Within Fires

アメリカはカリフォルニア州オークランドのポストメタルバンドの11thアルバム。
2016年に自分たちのレーベルNeurot Recorddingsからリリースされた。
1985年に結成された当初は速いハードコアを演奏していたが3枚目のアルバムあたりからその音楽性をスローかつヘヴィなものに変容させ、ハードコアを基調としながらドゥームメタルとは異なったアプローチでスローな音楽を構築し、ヘヴィなバンドアンサンブルに民族的な要素を持ち込み、さらに激しさだけでなくアンビエントなパートを大胆に取り入れたその音楽は後続のバンドに多大な影響を与えた。いわばメジャーストリームに対するアンダーグラウンドな音楽におけるカリスマ的存在で、結成から30年以上たった今でもコンスタントに音源をリリースし続けている。私はTVKのかの名作テレビ番組「ビデオ星人」でNeurosisのライブ映像を見たのが初めての出会いで、当時中学生だった自分の範疇の外にあるその音楽性にやや気持ちが悪くすらなった。Neurosisはなんか知らんがヤバい…そんなトラウマ的なわだかまりを抱え続け、それから初めてNurosis音源を買ったのは大学生の頃だったろうか。熱心なファンというわけではないが、いくつかの音源を聴いたことがある。

前作「Honor Found In Decay」は2012年発表だったから4年ぶりの新作ということになる。個人的には前作は正直なところ悪い!とは言わないがやっぱり買ってから何周か聴いたっきりあまり聞き返さない音源であった。良さを発見するまで聴き込めていないというのも大いにあるだろうが、聞き返そうかなと思う前に「Times of Grace」や「The Sun That Never Sets」の方を聞いてしまうのだ。
今作もだから「どうかな〜」という好きなバンドだけに何かしら怖い様な、そんな気持ちで購入した。
全5曲で40分だから彼らの音源の中では割とコンパクトにまとまっている方ではなかろうか。プロデューサーはSteve Albiniでこれは最近の作品からの続投。
やや分離が悪くモコっとした音質は「Times of Grace」にちょっと似ているかなと思った。おっかなびっくり聞いていると、あれこれは正直悪くない(上から目線で嫌な言い方なんだけど)、むしろかなり良いのでは…と思っている。前作と比べてどこが違うのかというのをだら〜っと書いていくと…
前作は長い尺の中で淡々と進む感じでやや抑揚にかけていたが、一方今作では静と動のパートのメリハリがくっきりついている。持ち味復活という感じ。
さらにそのメリハリの中の動のパートの攻撃性が増している。Neurosisといえば見るからにおっかない面体のおじさん3人がそれぞれに怒号を張り上げるトリプルボーカルスタイルが魅力の一つだが、今作ではオラオラオラ〜とばかりに良く叫んでいる。複数人がボーカルをとるので声質にも差異があって良い。演奏は正直前述の超名作アルバムに比べるとあのアグレッションは経年でやや枯れたものになっているが、前作に比べると音の数は増えているのではないだろうか。メリハリを活かしたドゥーミィなリフを巧みな技術で綺麗に伸ばしてくる様なスタイルとハードコア的にグルグル弾きまくるスタイルを良い配分で混ぜてきている。個人的にはやはり後者の演奏に魅力を感じるし、盛り上がっているところにさらにワウをかけてきて混沌が増してくると、いよいよ楽しくなってくる。このごった煮感が良い。
それからNeurosisの静のパートは結構好きだ。激しさの爆発の前の待機時間以上に魅力がある。それはこれからの激動の予兆を孕む緊張した時間であることも魅力の一つだと思う。今作ではここで結構メロディアスに歌ってきて、さらにハーモニー、コーラスを入れてきて結構力を入れている。もともと激しいけどただがなるだけでなく歌心があるバンドだと思うので、ここに力を入れてくれるのは嬉しい。最終曲「Reach」は結構それが顕著で「Stones From Sky」を思わせる。

期待と不安でおっかなびっくり再生すると冒頭の「Bending Light」でおおおおお?と引っ張られてあとは巨大な乾燥機で放り込まれた様に轟音にもみくちゃにされる。終盤は激しい中にも物悲しさを出してきて、ただならぬ経験からくる風格を感じさせる。自らの魅力と原点を再認識したかの様などっしりとした佇まいで大御所らしからぬ攻撃性も出してきた。とてもかっこいいと思う。正直昨今のはどうかな…と思っている人がどれくらいいるのか知らないが(みんな全然良いよ、と思っているかもしれないな)、今作は往年のNeurosisを彷彿とさせる内容なので是非効いてみてほしい。もちろんおすすめ。

シャーリイ・ジャクスン/くじ

アメリカの女性作家の短編小説集。
この間紹介したフレドリック・ブラウンの「さあ、気ちがいになりなさい」と同じく異色作家短編集として刊行されたものの文庫版。
シャーリイ・ジャクスンと言ったら長編「ずっとお城で暮らしてる」も有名だが、何と言っても「くじ」という短編だろうと思う。ホラーが好きな人なら多分ほとんどが読んだことあるのではなかろうか。そのくらい色んなホラーアンソロジーに収録されている。私もはっきり覚えているわけではないが、多分少なくとも手持ちの別のアンソロジー二冊にはこの短編が収録されていると思う。
ホラーといっても色んなサブジャンルがあるし、結果的には多様な物語があるが、シャーリイ・ジャクスンのこの短編集ではフリクースが出てくるスラッシャーでも、幽霊が出てくるしっとりしたゴーストストーリーでもない。ただし全く超自然的でないというとそうではなくて、あとがきを読むまで気がつかなかったのだが主人公たちを現実の裏側に連れていくという役目で共通した悪魔の役割を振られた男が出てくる。ただし彼も牙が生えているわけでも、蹄があるわけでも、もちろん角があるわけでもない。
ジャクスンは日常を描く。日常に起こる些細な出来事を書く(表題作の「くじ」のように設定から非日常のものもあるが、それでも日常が描かれている)。主人公である女性たちはそこで嫌な目にあい、また時にははたから見ると嫌なことは起こっていない様でもあるが、それでも結果的には嫌な気分を味わう。作品によってはこれがそれでも「嫌な1日」で終わることもある、しかし作品によっては主人公たちの感情は致命的に害され、その後以前と同じ様に日常が送れなくなっているであろうことが示唆される。端的言えば狂気に陥ったといっても良いかもしれない。日常が、正気がグラデーションの様にいろをかえて毒に侵されていく。その色調の変容のどこをとって分岐点とするかというのは面白い問題だと思う。また狂気に陥った後も続く、主人公を除いた世界の日常の白々しさがまた恐ろしいのである。そういった意味では都市生活の中にある孤立を象徴的に描いている、と考えることもできるのではあるまいか。

シャーリイ・ジャクスンの好きなところの一つに感情をテーマとしている、というか感情を書くことが目的とすら思わせるのに、その筆致は客観的で登場人物のむしろ肉体的な動きにフォーカスされていくこと。こうやってしっとりというよりはねっとり陰湿な雰囲気なのに突き放した冷徹さがあって、それがむしろ読み手を感情的にさせる。つまり主人公たちの感情がそのままイコール読み手の感情になったかの様に錯覚させる。つまり物語自体が呪文であって、それが主人公たちの味わう不快な感情を読み手に与える、そんな効果を持っている。小説の醍醐味とも言える人間の感情が最終的に読者の手に委ねられている。だから同じ物語を読んでも読み手が受ける不快な感情は実は千差万別ではなかろうか。私たちが過去経験した嫌なことをまざまざと思い出し、当然それらは人によって違うので私たちはそれぞれ嫌な思いを個別に味わことになるのだ。

人によってはなぜ金を払ってこの様な後味の悪い本で嫌な気分にならないといけないのかと怒るだろうが、確実にそういった毒に当てられることに気持ち良さを見出す人間がいるものである。無神経でなくて後味が悪いのがご馳走なのだ。というわけで特定の趣味を持った悪食の皆様は必携の一冊であると思う。是非書店に走ってどうぞ。大変面白く、そして嫌な気持ちになれること請け合いです。非常にオススメ!!

Planes Mistaken For Stars/Prey

アメリカはイリノイ州ピオリアのポストハードコアバンドの4thアルバム。
2016年にDeathwish Inc.よりリリースされた。
1997年に結成され3枚のオリジナルアルバム他いくつかの音源をリリースしたが、2008年に活動を休止。その2年後に再結成を行い、さらに6年という年月を経てリリースされたのがこの音源。私この音源で初めて聞く。レーベルからのメールで興味を持ち購入。「星に間違えられる飛行機」ということで要するに「夜に飛ぶ飛行機」というバンド名はある種のセンチメンタリズムを温度のない名詞で表現するスタイルでとてもかっこいい。生と死が渾然となったアートワークも結構異色なのでは。

Googleで検索してみると日本語のページがあまりヒットしないのでややマイナーなのかもしれない。Diskunionでははっきり「激情」というワードで紹介されている。
激情というと言葉通りにほとばしる感情を攻撃的で(時に複雑な)演奏と叫び(時に会えてのつぶやき)に乗せて打ち出す温度と湿度の高い音楽というイメージがあるし、実際この間激情とは?という動機で聞いたEbullition Recordsの3枚のアルバムは確かに前述のような言葉である程度起き萎える音楽性だったが、このバンドはちょっとその定義と違ってきている。いわば激情ハードコアのオルタナティブ(もう一つの)可能性なのかもしれない。まずボーカルが叫ばない。別に叫べば激情でハードコアというわけではないが、この手のジャンルにしては一見あまり熱量がない。気取ったり、声を過剰に作っているわけでも、すかしているわけではない。ただこういうスタイルだというのだと思う。歌声自体はHigh On FireのMatt Pikeに似ている。掠れて、しゃがれている。経年と外的要因(酒やタバコ)によるダメージがむしろ独特の味を出しているタイプ。この声で歌われるとちょっとずるいくらいに説得力が出てくるわけだ。渋みがあるのでなるほど、叫ばない方が良いな〜という気にさせるし、また一方で平時がフラットだから強弱(呟いたり、叫んだり)が曲の中で目立ちやすくなるという特性もある。
演奏自体は明確にハードコアを経由したロックサウンドを鳴らしており、必ずしも技術を前面に押し出さないやり方で曲もシンプルかつ短い。アコースティックギターとピアノを効果的に用いた曲もあるが、基本的にはバンドアンサンブルのみで余計な音は追加しない。素材自体の音が程よく残されたジャギジャギしたギターがコード感溢れるリフを引っ張っていくのだが、たまに入るハードコア的だったり、ソロだったりがメロウなフレーズに富んでいて、一見さっぱりした外見の中には濃厚な旨味がぎっしり的な魅力が詰まっている。演奏とボーカル(が歌うメロディ)が程よいメロディアスで聞けば聞くほど耳に馴染んでくるのも良い。
ある種のタガが外れたような狂騒を含む1曲め「Dimentia Americana」から幕をあけるのだが、実は全編にわたってグルーミィな雰囲気が底流となって作品を貫いている。リリース前に公開された4曲め「Fucking Tenderness」は彼らの魅力がぎゅっと詰まった曲だが、キラキラした演奏とメロディアスさの中に垣間見える後ろを振り返るような切なさは隠しきれない。

無駄を削ぎ落としたコンパクトな楽曲ながらまぎれもない激情を感じ取れる良いアルバム。かっこいい、そして少し切ない、そんなロックが好きな人も是非どうぞ。

2016年11月17日木曜日

VMO/Catastrophic Anonymous

日本は大阪を中心に活動するブラックメタルバンドの1stアルバム。
2016年に日本のVirgin Babylon Recordsからリリースされた。
私はオフィシャルでカセットとCDがバンドルされたセットを購入。
VMOとはViolent Magic Orchestraの略。大阪の音楽集団Vampilliaのメンバーを中心に、
エレクトロニクス担当としてPete Swanson、MIX、シンセ、ビート担当としてExtreme Precautionsを迎え、さらにライブヴィジュアル担当のkezzardrixで構成されたバンド。
もともとVampilliaのリーダーであるStartracks for Streetdreamsさん(ちなみに楽器は全然弾けないんだそうだ、本当面白いしすごい)はブラックメタルに強い思い入れがあってそれがVampilliaの音にも色濃く現れていた。Vampilliaはブラックメタルプラスポストロックトいうコンセプトだが、VMOはブラックメタルは同じでもそこにテクノ・インダストリアルの要素を加えているそうだ。アートもコンセプトの一つであってそれゆえライブでのビジュアル担当や3台のストロボライトを用いているのだと思う。

なんとなくブラックメタル成分が濃いVampilliaかと思っていたのだが、実際の音を聞いてみると結構印象が違う。本当にVampilliaからポスト感を引いて、代わりにインダストリアル成分を足したというのがうまい説明だと思う。ポスト感にも色々あると思うが例えばブラックメタルだったらAlcest、激情ハードコアならenvyみたいにある種の(芸術的な)美しさみたいなのが自分のイメージ。確かにおふざけもするVampilliaだが「Endless Summer」に代表されるように激しさと切ない美しさが同居する曲をいくつも作っている。VMOではある種の余裕すら感じさせる贅沢なポスト感はなりを潜めている。全10曲で34分、コンパクトにまとめられた曲はどれも割れるような轟音で埋め尽くされている。嵐のようなトレモロリフはまさしくブラックメタルからの影響色濃いがプリミティブな儚さを感じさせるそれではなく、強靭で硬質な金属を生成したような主張の強い重たい存在感を放っている。そもそも空隙など見当たらないところに重たいドラムがさらに隙間なく並べられ、モコモコしたベースがみっちりと空間を黒く埋めていく。そこに金属質な高温のパーカッションが加わる。エレクトロニックと言わずに、テクノもしくはインダストリアルというのも、またなるほどと思わせる。力技である。
結果的に出来上がった音はAlcestなどに代表されるポストブラックメタル達に比べるとあからさまに主張が強すぎるしうるさすぎるし、かといってブルータルかつモダンなブラックメタルに比べると今度はやはりキラキラしている。バランス感覚が絶妙というのもあるだろうが、ありそうでなかったこの音の秘密はやはり”アート”なのかもしれない。というのも結構音を聴いていると面白いことに気づく。まず2曲目「Acts of Charity」に代表されるように轟音インダストリアルに半ば塗りつぶされているが、それでもやはりトレモロリフの言いようもないメロディアスさは隠しきれない。このメロディセンスはVampilliaで培った経験が活かされていると思う。そういった意味ではピアノの使用頻度もそれなりにあり、またそれらが硬質で容赦のない轟音に程よくセンチメンタリズムを持ちむことに一役買っている。またボーカルの登場頻度が実はあまり多くない。ボーカルはThe BodyのChip KingやMayhemのAttilaという強烈なゲストに加え、Vampilliaの面々が強烈な叫び声を披露している。クリーンはほぼ皆無でのどの枯れるような絶叫のオンパレードだが、実は終始それらが登場しているわけではない。むしろ結構演奏に力を入れていて、それを効果的に披露することを念頭に置いているような印象がある。ピアノだったり、演奏を前面に押し出すのはポスト感なんじゃねえの?という意見もあるだろうが、やはり個人的にはポスト感というにはそれらに特有の美しさが顧みられていない。美しさを凶暴さに無理やり覆い被せたような趣があって、所々不器用なアンドロイドのようになっているのだが、はっきり言えばそれが魅力なのだ。その言いようのない不恰好さがVMOの”アート”ではなかろうか。まだ名前のつかない不恰好さ、私はこの音源がかなり気に入っている。ひょっとして広く受け入れられたこのスタイルに名前をつけられ、新しいかっこよさになったらとても面白いなと思う。

コンパクトだが非常に挑戦的な音楽だと思う。軸になるブラックメタルに期待しているところがぶれていないからだろうと思うが、凶暴かつメロディアスでVampilliaが好きな人ならこのプロジェクトも楽しく聴けると思う。おすすめ。

2016年11月6日日曜日

The Dillinger Escape Plan/Dissociation

アメリカ合衆国ニュージャージー州モリスのマスコアバンドの6thアルバム。
2016年に自身のレーベルParty Smasherからリリースされた。
TDEPは1997年に結成されメンバーチェンジを繰り返しつつも、今までに5枚のアルバムを発表。6枚目のこのアルバムをリリースするタイミングでバンド側はアルバムの発売に伴うツアーの終了とともにバンドは解散することを明言しておりこのアルバムが最終作になる見込み。

一昔前にネット上で「私を構成する9枚」が流行り、私もチャレンジと思ったが思いの外絞るのがむずくしくて頓挫した。4枚は確実でそのうちの一枚がTDEPの2nd「Miss Maschine」。
ニューメタル小僧だった私が「カオティック・ハードコア」という言葉のかっこよさをきっかけに出会ったのがこのアルバムだった。今では大好きだが当時は声がニガテでConvergeを敬遠したため、TDEPが新しい音楽への扉になった。明らかにハードコアであるConvergeに対して、TDEPはカオティックのもう一つの可能性であり、メロディアスなパートを包括することで入門編としては最適だったのだろう。

TDEPは技巧によって自由を獲得したバンドだ。
ギターソロ、トレモロ、テクニカルなリフワーク、異常な速度で叩かれるドラム、人間外にはみ出すがごとくのスクリーム、ことエクストリームな音楽では超絶技巧を始めテクを極めることで先鋭化していくが、
このバンドはむしろ技巧で持って早くて強いハードコアの枠から逸脱、もしくはジャンルの幅自体を広げている。(フォロワーを生み出すほどの影響力があることを考えると個人的には後者を推したい。)
曲の速度が早くなくても良い(今作は中速くらいの曲が多い)、弦楽は低音に偏光し、重たいリフを引かなくても良い、クリーンボイスでメロディを歌っても良い、多様な表現力はむしろハードコアの可能性を広げていった。
終わりよければではないが、最終的にハードコアでまとめあげればよしなのだ。なるほどTDEPにジャズの要素があってもTDEPをジャズバンドだという人は少ないだろう。
マスコア、またはカオティック・ハードコアという文脈で「とっ散らかった」と表現される音源はこの最新作で最終作と言われる「Dissociation」でその要素を色濃く取り戻した。
前作、全前作では良くも悪くもまとまりが良い印象の楽曲がおおく並んだが、今作では曲中でのカオス度が上がっている。
曲間での展開が複雑であること、その展開がスムーズである一方頻度は増加し、混乱の度合いを強めている。
nine inch nailsに影響を受け、非常にエレクトロニックかつメロディアスなサイドプロジェクトThe Black QueenをスタートさせたGregはやはり良いボーカリストだ。
メンバーは変わっているもののテクノモーツアルトの異名を取るAphex Twinの人力カバーを披露しているくらい正確に複雑なバンドアンサンブルはともすると非人間的だが、
Gregのボーカリゼーションは吐き出す声の種類がクリーン/スクリームという二択以上に表現力が豊かだ。一つの曲の中で病的にその声色を変えていくGregは非常に人間的で感情的なカオスを作り出している。
前任ボーカリストのDimitriもハードコア的では非常に力強かったが、全方向的に混沌を広げていくバンドの方向性的にはGregに軍配が上がるのではなかろうか。
有機的なカオスと無機的なカオスがぶつかりあった火花が、爆発がTDEPというバンドなのだ。
異常なテンションで破裂する豊かな音色はさながら打ち上げ花火の乱発であって、黒いハードコアの夜空に打ち上がる花火に私たちは魅せられた。
最終曲「Dissociation」は全編非常にメロディアスでまさに終焉に相応しい落下しながら消え行く花火の残り火に感じられる。
幕が閉じた後、四囲に立ち込める火薬の匂いを嗅ぎながら私達の視線は地上に降りてくる。残るのは切なさだ。祭りは終わった。私たちは日常に帰っていくが、その胸には花火の残影が焼き付いている。私は密かに拍手するだろう。ありがとうTDEP。

Various Artists/GHz Junglism

日本のレコードショップ/レーベルのGHz監修のジャングルのコンピレーション。
2016年にGHzからリリースされた。
GHz/MHz界隈はもともとブレイクコア色強目ということで注目していたのだが、漫画「ドロヘドロ」のサントラをリリースしたり(内容も大変よろしかった)と色々面白いことをやっている。そんなレーベルのコンピレーションなら絶対良いはずだろう、という気持ちで購入。まずは何と言ってもインパクトのあるジャケットに目がいってしまう。

収録曲は以下の通り。(レーベルより)
1. FFF / Junglist (2015 Rework)
2. Stazma The Junglechrist / Metalworker
3. Bizzy B / CALLING ALL THE AMEN (Bizzy B REVAMP FEAT MULTIPLEX MC)
4. madmaid / hollow in the jungle
5. FFF / Torturing Soundbwoy (Bizzy B Remix)
6. Amenbrother(DJ DON&Kekke) / Champ Road
7. Dave Skywalker / Saxon Street
知っているアーティストは辛うじてFFFのみ。
私はAphex Twinからドラムンベース/ブレイクコアに入門。学生時代は日本のRomzあたりをほんのちょっと聴いていた。ブレイクコアというのはラガに接近しているところがあって、たとえば前述のAphexなんかはあまりない(多作だから私が知らないだけという可能性は大)んだけど、Kid606とか、Bong-Raなんかは結構曲中にラガの要素をぶち込んでくるし、ブレイクコアのコンピレーション買うと必ずそのうちの何曲かはラガの要素が入っていた。私は当時この手の要素が苦手でラガいレゲエ特有の歌声が聞こえてくると「う〜む」なんて思っていたものだ。私は徹底的なマシーンの非常性と攻撃性をブレイクコアに求めていたのかもしれない。
そんなわけでジャングル再入門となるのがこのCDといってもいいかも。
どうもビートを倍速に、ベースを半分の速度にといった変則的な速度(どうも再生速度の間違いから生まれたジャンルだとか)で鳴らすというのがルールのようだが、恐らくここから実際多様な音色で発展していったジャンルなのだろう。

聴いてみるとまずはやはりそのビートの手数の多さ、速度の早さに驚く。ほぼブレイクコアで曲名にも入っている通り特にAmen Breakの登場頻度が異常に高い。あの有名なフレーズはきっと誰もが聴いたことがあると思うが、やはりテンションが上がる。分解され再構築された、または譜面に敬意を払いつつ再入力されたそれらは元のフレーズを残しつつどれも思い思いに強烈にブーストされている。めまぐるしいブレイクビートと対照的にベースは確かにピッチを落としたかように(実際にサンプリングしたものを落として使っているのかも)間延びした低音が低音部を重たい垂れ幕のように覆っている。またはアシッドのビヨビヨ分をいくらか漂白したようなブワンブワンしたもので、これがうねるようなリズム感を演出している。昔買ったサイケアウツを思い出した。
そこに軽快でプリミティブ、時にチープですらあるギター、ピアノが裏打ちのリズムも印象的にサンプリングされ、チョップされて乗ってくる。鳥の鳴き声のような高音や、モダンなダンスホールレゲエを彷彿とさせるピュンピュンした音も飛び出してくる。ここら辺がジャングル、まさに密林といった感じで、鬱蒼とした緑色のビートの森の中にけばけばしい色をした鳥類や珍獣のような異音が飛び出してくる。この唐突さと、そしてそれらの異物を違和感なく包み込む懐の深い放埓さがジャングルの面白みなのかもしれない。
そしてラガいレゲエボーカル。独特のしゃがれ声、力が入っているようで抜けているテンションはしかし確実にこちらのテンションを上げてくるから不思議である。こちらも程よくピッチが変えられていてマシーンメイドさが垣間見得る。さながら電子化されたサイボーグ・グルといった感じで怪しいことこの上ない。

テクノの面白さの一つに機械的なのに感情的という逆説的な楽しさがあると思うけど、このジャングルという音楽は高速ブレイクビートという非人間的な要素を使いつつも、血の通ったレゲエの要素を大胆に取り込むことでさらにさらに感情的で有機的だ。
気づくと暗い音楽ばかり増えがちな自分としては非常にこういった音源は稀有で楽しい。会社で聴くとテンション上がって個人的にはとても好きだ。
インパクトありすぎなジャケットに驚くが、中身は紛れもなく素晴らしいです。非常にオススメなので普段は暗い音楽ばっか聴いているメタラーの方も是非どうぞ。

フレドリック・ブラウン/さあ、気ちがいになりなさい

アメリカの作家の短編小説。
もともと単行本で同じ早川から出版されている異色作家短編集というシリーズの一冊でなんとなく気になっていたものを今回文庫本になったタイミングで買ってみた。
翻訳しているのはショート・ショートSFの分野で活躍した星新一さん。本は読まないけど星新一さんだけなら、という人は結構いるらしいと聞いたが本当だろうか?私は一冊しか読んだことがない。多分NHKで映像化された「おーい」のやつが一番印象に残っている。
さて黒とピンクの想定が大変おしゃれかっこいいこの本、何と言ってもタイトルが良い。原題は「Come and go mad」で、それを「さあ、気ちがいになりなさい」と訳すセンスよ。高圧的な「さあ、気ちがいになれ」でも、怪しい同調圧力のある「さあ、気ちがいになろう」でもなく「さあ、気ちがいになりなさい」なのだ。優しさと、そして無言の圧力がある。思わず頼もしいその一言に身を委ねて気ちがいになりたくなるではないか。そうだこんな世の中自体が気ちがいなのだ。そこでは気ちがいになるのが気持ちよく暮らせる唯一の方法なのだ。俺も気ちがい、お前も気ちがいなんだア、アハハハハ、とそんな安逸とした危険な雰囲気を醸し出している。

収録されている12個の短編はどれも”ひねくれて”いるという形容詞が合うのではなかろうか。例えば同じ作家が同じテーマと設定で書いてもこうはなるまい、という一風変わった作品に仕上がっており、そこにこのフレデリック・ブラウンという作家の色を見ることができる。それはつまりあえて人が興ざめすることをニヤリとした笑みを浮かべ、訥々としかしはっきりと述べるようなそんなニヒルとまでは言わないが天邪鬼めいた毒がある。
表題作にもなった狂気というのは全編通じて、つまり作家のテーマなのかもしれないが、ではフレデリック・ブラウンの書く狂気とは一体何か、というとこれはを単なるドロップアウトとして捉えていないことにそのヒントがあるように思う。ざっくりいうと正気の危うさと環境適応としての狂気である。一番わかりやすいのは冒頭の「みどりの星へ」だろうか。主人公の(無意識の)選択はそれをやらないと一人取り残された異星で生きることができなかったことに他ならない。続く「ぶっそうなやつら」は幾ら何でも小心かつそれゆえ暴力ではなかろうか?と思う人もいるかもしれないが、やはりあの孤立した待合室、という環境に放り込まれれば特別臆病な私は同じような思考に陥ることは間違いない。私の場合は臆病ゆえに待合室から逃げ出しただろうが。少し趣向が変わって「電獣ヴァヴェリ」は正気を疑う物語。これはとある理由から電気が使えなくなった世界で文明が退化してしまうのだが、意外にも人間たちはそんな原始的な環境にあっという間に適応してしまう。物語の後半の主人公たちは電気が動かす社会にいた頃よりはるかにゆとりがあり、そして幸せそうである。文明批判であることは間違いないが、やはり普通を疑ってかかるというブラウンの怜悧な視点があるように思う。そしてやはりあるものでなんとかする、という人間のたくましさも(=人間賛歌)も書いている。文明批判といえば「町を求む」で野心的なギャングが手中に収めやすい町について一席ぶっているがそれは誰もが投票に行かない町である。まさにいまの日本ではないか。ひょっとしたいまの日本もならず者につけこまれているのかもしれない。これが発表されたのは1940年だということが驚きだ。人はいつの時代も変わらないのか、それともブラウンが非常に明晰な頭を持っていたのか。
「帽子の手品」では明らかに異常な状況を見たのにそれを許容できずに黙殺する人の心理が書かれている。これは狂気に対応できない正気を描いている物語と捉えることもできる。そして一番ボリュームがある表題作「さあ、気ちがいになりなさい」では自分の正気に疑いのある主人公が狂気に陥っていく。彼は自分で疑うように統合失調症患者なのか、それとも謎の「明るく輝けるもの」によって真理を知らされた故に狂気に陥ったのか。

あくまでも平明な文体で描かれる狂気、その筆致と視点は常に冷静なので観察するように狂気を楽しめるだろう。タイトルはぶっそうだが、楽しめること請け合いの黒い本。是非どうぞ。