2016年11月26日土曜日

アーヴィン・ウェルシュ/トレインスポッティング

イギリスの作家による青春小説。
どちらかというとダニー・ボイル監督、ユアン・マクレガー主演の映画の方が有名かもしれない。かくいう私も高校生くらいの時に夜中にやっているのを見たことがある。内容は綺麗に忘れてしまっているが。そういうこともあって手にとってみた。ハヤカワ文庫補完計画全七十冊のうちの一冊。

大英帝国スコットランドに住む20代の青年マーク・レントンは重度のヘロイン中毒者だ。定職にはつかず複数の地域から生活保護を受けるシンジケートに所属し、違法に手に入れた金で麻薬に溺れている。親友のスパッドは優しい性格だがやはりジャンキー、シック・ボーイは理屈っぽく上から目線でセックス中毒、気分にムラがある横暴なベグビーは暴力中毒だ。レントンには夢も希望もない。ただヘロインをやっているときは生きていく上で発生するあまたある悩みがたった一つに減る。つまり次のヘロインをいかに手に入れるか、だけだ。ただ、ヘロインがあれば良い。

この小説には物語を突き通している背骨の様な大筋がない。レントンを始めその周辺の若者たちの毎日の些細な出来事を短いスパンで次々にかさねていく。概ね彼らは何かに酔っていて、それに支配されている状態だ。物語に筋がない理由は簡単で、ジャンキーは依存しているブツがあればそれで事足りているからに他ならない。
「トレインスポッティング」には何かおしゃれな感じがある。悪いことというのは(未熟な)人間を惹きつける側面があることはどうしても否定できないのではなかろうか。ハイ・セレブリティたちの優雅な嗜み、ドラッグはそんな悪いことのある意味では頂点だ。退屈な非日常から抜け出してくれる、他人を(表向きは)傷つけない、適度に自傷的な退廃を含んだ刺激物。なるほど飄々と真面目に会社に行くためにバス亭に並ぶレントンらは、ムカつくという理由だけで他人に喧嘩をふっかける彼らは、法律をはじめとする私たちを縛るルールから外れて自由に見える。しかし意図的なのか、それともジャンキーたちの実態を克明に描いているのかわからないが、読んでみるとレントンたちの日常は悲惨である。当時(1980年代末)の英国、スコットランドの不景気をはじめとする悲惨な状況にもその一端はあるのだろうが、作者は意外にもそこには主人公たちの軽口くらいでしか触れない。レントンたちの毎日は様々な麻薬と中毒に彩られて毎日大差ないない様に見えるが、実はそうでない。幼馴染との関係は悪くなり、家族からは白い目で見られ対立する様になる。使いまわした注射針でHIVに感染し、若いのに老人の様にふけこみ、死ぬ。神経質になり暴力的になる。暴力の矛先は弱いもの、他人と違うものに向かう。女性は泣く、子供は殺される。ハッピーなドラッグライフは後半になるにつれてそのメッキが剥がれてくる。孤立しているはずのジャンキーたちだが、むしろ社会的な生物である人間の側面が強調されて行く様に思える。ヘロインがあれば悩みがなくなる、と嘯くレントンもその例外ではない。
麻薬を打つからクズなのか、それともクズだから麻薬を打つのか知らないが、アーヴィン・ウェルシュが言いたいのは麻薬が人間性の何かを(良い方向に)変えるということは全くなく、ただ世の中がクソだってことなのではと思った。別に周りがクソなのでジャンキーになるのは仕方ないという言い訳ではないし、麻薬をやる人間が麻薬をやらない人間を不幸にするという事実を、この物語に「軽妙さ」を求めるなら異質ですらあるキャリアのジャンキーにレイプされた彼女からHIVに感染した男のエピソードにそれなりのページ数を割いて読者に叩きつけている。それからレントンの親友スパッドのおばあちゃんのエピソードにある人種差別の身近な現状。麻薬をやらなくても現状はクソで、さらに麻薬を打っても実はその状況から抜け出すことは叶わず、そして確実にそのクソの中でもさらにクソににおちこんでいく。
「基本的に人間てのはさ、短くて無意味な人生を送って死ぬだけなんだ。だから人生にクソを盛る。仕事だの、人間関係だの、クソみたいなものを盛るおかげで、人生もまんざら無駄じゃないかもしれねえって勘違いするわけだ。」
こう嘯くレントン、彼が最終的にどのように麻薬と縁を切るのか、というエピソードを考えると享楽的の裏側にあるのはある種厭世観を飛び越した究極的なニヒリズムだ。

映画を楽しく見たという人にこそ読んでいただきたい一冊。非常に面白かった。

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