と言っても別の版元からすでに発売済みなのが改めて岩波文庫から出版されたという形らしい。青い表紙は赤い「伝奇集」と対をなすものだということがわかる。
表題作「アレフ」に関しては別のアンソロジーで読んでことがある。
「知の工匠」、「迷宮の作家」その他も色々な二つ名がついているボルヘス。前も書いたけど学生の頃に買ったらよくわからなくてそのまま本棚の肥やしになったことがある。やたら知的な感じで煽られ押されるボルヘスだが、別に賢い人にしかわからない話では全然ない。(現に私も読んでいる。)ただ自分の経験もあっていわゆるわかりやすい作風ではないことは確かだ。というのも書き方が地味で(昔は物語ではなくてこの人の日記なの?と思った。)、物語も何かしら捉えどころがない。「バベルの図書館」みたいな突飛な発想自体が珍奇で面白い物語もたくさんあるけど、なんだかよくわからないまま終わってしまった、という物語もある。
この本には十七の短編が収められているけど、大半はわかりやすい物語とは言い難い。というのも結局何が言いたいのか?わからないことが多い。はじめに断っておくといい加減に年を食ったせいか最近は何が言いたいかわからない作品もそうでない作品と関係ない感じに楽しめる。つまり中身が面白ければどっちでもよい。(私はもともと作品に込められたメッセージ性というやつをあんまり、ほとんど信用していないのだ。)今回特に思ったのはどうも時間というものに対してボルヘス氏は色々と思うことがあるみたい。世界といってもよいかもしれない。常に生き物に対して影響を与える時間、という視点で書かれているので。(というか生き物がいないと時間が意味がないというか、存在しないかもしれない。)「不死の人」という短編はもろにそうだが、どうも死なないということがその時間の問題の鍵である。死なないとなんでも起こったし、これからなんでも起こるので珍しさというか希少性というものが失せる。死があるから生が輝く、というよくわからないキャッチとは全然違う生命に対する捉え方であると思う。死なないということは全てが存在することなのでそうすると全てが平らになってしまう。ボルヘスを語るときは円環というワードが頻出すると思うが、それは永遠であって閉じている。丸く閉じている。そうするとどこかにいても本質的にはどこにいるかわからない。つまりどこにいても違いがない。それが永遠。どこかにいる、ではなくどこにでもいるになる。不死は孤独になるのでは、と思っていたが(漫画「トライガン」が思い浮かぶ)、実は違ってむしろ誰でもいつもいる、ということになるのかもしれない。
ボルヘスが読みにくいのは文学性が乏しいからだ。ここで文学性というのは正しくは文学の娯楽性であって、ボルヘスは賢いがどこか浮世離れした孤独な男が田舎の昼間の酒場でボソボソいうのを居合わせた旅人(昼食でも取ろうと行き当たりばったりに昼営業の居酒屋に入ったのだろう)がたまたま聞いた、みたいな風情がある。さすがの変人ボルヘスもあまり長い話を聞かせるのは…という配慮があるらしくその壮大な物語は(文学という意味では結果的に不幸な話かもしれないが)だいぶ端折られた簡素な言葉でだから語れられることになる。私の場合は何年か経ってあいつすごいこと言ってたぞ!と気づいたのだろうか。そう言った意味では語り部ボルヘス氏がその物語を書き残してくれたことに感謝するのみだ。
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