オーストラリアの作家によるSF小説。
原題は「Quarantine」で意味は隔離という事らしい。
西暦2034年突然太陽系が黒い膜によって覆われた。地球は大規模な恐慌状態に陥ったものの膜の正体は判然とせず、また破る事も出来なかった。人類は膜を「バブル」と呼び、次第にバブルに覆われた状況にも慣れていった。
33年後もと警察官の探偵ニックはとある失踪した女性の捜索依頼を受ける。先天的に脳に障害を持つ彼女ローラは精神病院に収容されていたが、セキュリティをくぐり抜け失踪したという。捜査を始めるニックだが、彼女の失踪のは以後には宇宙を揺るがす謎が横たわっていた。
イーガンの小説は昔結構ハマって短編集を(多分)全部読んだ。ただ長編はとにかく難解という話でなんとなく敬遠していたのだが、やっぱりSFは面白い。なにか読みたいな、ということで手に取ってみた。
SFというのはギミックが魅力的ということもあり、まずは小説の説明を。これが楽しい。
バブルの説明はあらすじ参考の事として、まず未来の人間達はモッドと呼ばれるナノマシンを服用する事で脳のシナプスの配線を意図的に組み替えて、半ばコンピュータ的に脳を使っている。脳は人間の色んな感情を司っているから、モッドを使用する事で感情をある程度コントロールする事が出来る。寝たいときにはすっと眠れるし、何かに集中したいときは機械的にその状態にもっていく事が出来る。悲しい状況でもまったく悲しまないという事も出来る。主人公ニックはカルト集団に妻を爆殺されたが、悲しむ前にモッドを使用して悲しい、という感情を抑制した。その後何かしらのモッドで妻の幻覚を見る事を選択している。人間というのは自分の感情や 身体の動きというのは自分のものにしても完全にはコントロールする事は出来ないが、この小説ではそこがテクノロジーによって征服されている。このようなモッドの使用は非人間的であると考える趣もあり、物語の中でニックもたびたびそう問われるが、その度にニックは半ば無意識的に感情的になり、こう返答する、元々人間の感情は不自然なもので、自分はモッドによってその元々の不自然な感情を強化しているにすぎない、自分がそうなりたいと思った状態にモッドを使ってなる事はなんら悪い事ではない、と。 作中ニックは忠誠モッドと呼ばれるモッドを強制的に注入されていて、自分の敵対組織に忠誠を誓う事になる。自分の忠誠はモッドによる人為的なものである事はニックにも分かっているが、それによって惹起された感情(というか脳の働き)自体は自然なものとはいっさい変わらないのだから、その働きに従うというのである。これは中々どうしてな判断である。短編を読んだときもそうだったが、イーガンは人間がどこまで人間なのかというアイデンティティに関わるテーマを好んで書いている。 誰だって悲しいのは嫌だが、自分の意志で人間以上の存在になった人間は果たして人間なのか?人間じゃないならどこから人間じゃなくなったのか?はっきりと言明する訳じゃないが、そんなテーマが見え隠れする。
このテーマだけでも何冊でも本が書けそうだが、イーガンはさらにもう一つとんでもない要素を物語の柱にしている。
それが量子力学である。シュレディンガーの猫というと日本の創作物にはたーくさんでてくるあれがまさにテーマである。
(こっから先は完全な門外漢である私の思うところを書いているので実際の科学、それから作者イーガンの意図と異なる事があるだろうが、ご了承くださいませ。)何かというのは ”観測”されるまで、あり得る可能性すべてを全部保有した状態(作中では”拡散”状態と言い表される。)であって、”観測”されて初めて一つの結果が” 選択”されるのである。常に今ある私というのは”選択”された一人であって、されなかった無数の私は別の宇宙で生きているのか?それとも一つの結果が”選択”された時点で死んでいるのか?それは分からない。この選択は一体どういうロジックで行われているのかは分からないが、とあるモッドによってどれを”選択”するか意識的に選ぶ事が出来たら?人間はそれこそ人間を超えた力を得る事が出来る。例えばさいころを手に取れば何でも好きな目を選択する事が出来る(というか他の目を選んだ無数の自分は死ぬ。)。そんな馬鹿なと思うでしょう。私もそう思いました。しかしどうも基本的な考え方は量子力学に沿っているらしい。考え方通りに無限の可能性に広がっていく宇宙に頭が痛い。私の頭では完全に理解できている気がしないが科学って面白いものです。
広大な宇宙がはらむ量子力学の謎と、個人レベルのアイデンティティのミクロの問題が渾然一体となって一人の女性の失踪事件がニックと読者をとんでもない結末に連れて行く事になる。SFの醍醐味がぎゅっと詰まった本でした。これはオススメ。
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