2014年6月22日日曜日

Dead Fader/Blood Forest

イギリス生まれドイツ在住のインダストリアル/ノイズアーティストの2ndもしくは3rdアルバムのもう片方。
こちらの方はRobot Elephant Recordsから2014年にリリースされた。
この間紹介した「Scorched」は1stアルバムからさらに装飾を削ぎ落とした、ぶっといビートにノイズの塊を乗っけるというシンプルかつ破壊力抜群の焼け野原のようなアルバムだったが、同時にリリースされたこちらのアルバムはかなり様相が異なる。

土台となるビートは音が分厚く太いものだが、それほど歪められていない。音の数がまし、より細かく刻んでくる様なスタイル。シンバル、ハイハットの音も多くはないが入ってくるようになった。ブリブリしたDubい悪夢めいたベースラインもその鳴りを潜めている。
過剰な装飾性は皆無だが、やや分かりやすさの増したビートに空間的に広がりのあるシンセ音が乗っかる。音の境界が曖昧で反復性があり、聴いていると妙に夢見心地になってくる。まるで霧のの用に空間を埋め尽くす様なドローンめいた持続音も異界めいた雰囲気を曲に付与するのに一役買っている。
一見インダストリアル/ノイズというよりはかなり硬質なエレクトロニカと言ったところか。とはいえ過剰なドラムンベースな訳でもない、やはり持ち味であるシンプルさでもって、当たり前のように美麗なメロディは皆無。
しかしたまに入る怪獣の雄叫びのような歪んだベース。手数が多く軽快ながらもノイジーなビートは確かにDead Fader由来。
聴いているとこう思う。なるほどこれは確かに「Blood Forest」だ。「Blood Forest」って何だ?それは分からないが「Scorched」は悪夢のトンネルのようだった。Dead Faderはその音楽でもって聴いている人をどこかに連れて行こうとしている。つまり別の世界を作ってそこに没入させようとするのが彼の試みである。いわばもう一つの悪夢である「Blood Forest」はもう一つの世界に比べれば硬質ではない。暖かみすらある。ジャングルのように湿気がある。常にピンク色の霧に覆われている。見たことも無い植物が独特のリズムに合わせて踊っているように見える。視界が利かない。一人っきりの酔うなきもするし、たまに何か他の何かが霧の向こう側にいる気配がする。居心地が良いのか悪いのかは意見が分かれるところだろうが、私はとても楽しい。そう、楽しい。一見不穏で感情の振れ幅が狭いように思えるが、よくよく聴いてみるとこれは結構なダンスミュージックのように思えてくる。妙にずれた陽気さというのがあって、それは奇形的だが見た目で判断してはいけない。ぶっきらぼうな中の優しさみたいのがあって良い。

どうなるんだ?という期待と不安で聴いたもののこれはすごい良いじゃん。
大衆性といったらこっちの方に軍配あがるんじゃないかなと思う。
変名ではなくDead Fader名義で出すあたりに、彼のメッセージが込められているように思う。つまり結果があって筋道が沢山あるのがDead Faderなの、かもしれない。
面白いテクノ聴きたい人はどうぞ。

ジム・トンプスン/おれの中の殺し屋

アメリカの作家によるノワール小説。
前回紹介したエルロイより時代は古く1952年の本。原題は「The Killer Inside Me」だからほぼ直訳の邦題。ノワール小説界では有名な存在らしく、(とはいえ本当に評価されたのは作者が亡くなった後だそうだが、)解説はかのスティーブン・キングがかなり熱のこもった文章を書いている。
それにしてもとにかく表紙がお洒落だと思う。真っ黒い背景に黄色い文字、それもちょっとレトロな字体でもってタイトル。そして英語は赤い文字で書かれている。お洒落。

テキサス州セントラルシティという田舎町で保安官助手を勤めるルー・フォードは格言を人に語ってはうんざりさせるという欠点はあるものの、概ね優しく開けっぴろげでそんなに賢くないまさに田舎の保安官助手だと思われ慕われている人物。しかし彼には人には決して見せない残酷な一面があった。幼い頃から強烈な暴力的な衝動を内に秘めている。ある日ルーは町外れに流れ着いた娼婦を追い出しにいくが、逆に関係を持ってしまう。そのことを契機に平和だったルーの毎日が少しずつずれていく。次第に加速度を増していく事態はそして…

読み終わって思ったのが、これは本当に50年前に書かれた小説なのか?ということだった。50年前にかかれた小説は古典とは言わないが、しかし一昔前であることは否めない。実際舞台を見ると煙たいアメリカの田舎町ということでなるほど現代からは隔たりがある。しかし小説の内容、文体、会話どれをとっても古くさい感じが全くしない。こりゃすごい。キングの解説によると実際発表された当初はほぼ世間に無視されたようだ。要するに、先を行き過ぎていたんじゃないかと思う。
さて、この小説は主人公ルー・フォードの語り口で終始書かれている。このルーはかなりのくせ者なのだが、ある意味いかれた男の一人称小説というのは結構珍しくないか?そういうスタイルで書かれているから読書はとにもかくにも最後まで読み進めるにあたり、このルーという男と仲良くならなければならない。彼が気に入らないんだったら最後まで読むのは不可能だろう。うんざりしてしまう。このルーという男周りには愚か者に思われているが本人は全くそのことを気にかけていないばかりか、むしろ愚か者を演じている。おまけに犯罪者であり、実際にはその身に破滅的な暴力的な衝動を抱えている。無抵抗の女性を難なく殺し、その死体を目にした恋人を見て大笑いするのである。狂人というよりはキングも書いているが所謂社会病質者、ソシオパスなのだ。彼には人の感情と言ったものが本質的に理解できない。推測はできるから日常的には全く問題なく他人にとけ込んで生きていける。彼は異常者なのだろうが、彼の軽妙な軽口に煙を巻かれてしまって彼の野蛮な暴力性、(私たちから見ると)狂気じみたその異端性が霞んでしまうのだ。もっと言うとなんだか彼を好きになってしまう。彼を応援したくなる。彼が無辜の民にその暴力性を発揮するのが何となく愉快に思えてしまう。
この本はその作りもあって因果応報勧善懲悪の話に見えなくもないが、実際は違うと思う。この本が何故のワールの金字塔と呼ばれるのか。それは他のノワールにも通じるけど、その芯にあるどうしようもない空虚さが、一見軽妙な軽口をもってしてもごまかせないくらい物語を覆っているからに他ならない。恐ろしさという意味では暗い戸口の陰に潜む「何か」を書いた現代の恐怖小説とも言えると思うが、さらに恐ろしいのはこの恐ろしさには足がはえ、実体があることだ。作中ルーが引用するクレペリンの文に思い当たるところがある読者も多いのでは?

ルーの語り口によって物語はなにかすこしおかしいところがある。なんなら何か寓話っぽくも見えてしまう。しかしそれがこの物語の恐ろしいところでもある。もしこれがいわゆる神の視点、つまり三人称で書かれた小説だったら、どうだろう。これはかなり陰惨なことになるだろうと思う。そこがこの小説がものすごく面白く、特異な点の一つだ。つまりどんな邪悪なことでも見方や語り口を変えてみただけで、その様相は恐ろしいほどに変わってしまうのである。これは結構冒涜的なことじゃないか。

というわけで本当面白かった。この先酷いことになるのが分かっているのに、気になって読むのがやめられないんだもん。これはすごい。超オススメ。
調べてみたら2度も映画化されているようだ。見てみたい!

2014年6月21日土曜日

ジェイムズ・エルロイ/血まみれの月

元々警察小説が好きでよく読んでいたが、一口に警察小説と言っても色々あるもので、最近で言うとややハードボイルドテイストが強いものが多かったと思うのだが、そこら辺をあさっているうちに出会ったのがジェイムズ・エルロイだった。
ハードボイルドというよりはノワールという言葉でもって説明されることが多いようだ。
ノワールというのは確か「黒」という意味の単語で、調べてみると暴力や犯罪、悪意などについて表現した創作物がそう呼ばれるらしい。
この本の原題は「Bood on the Moon」で1984年に出版されている。日本での出版は1990年。

ロス市警部長刑事のロイド・ホプキンズは身長2メートル、がっしりとした体つきの男だが、周りには「ブレーン」というあだ名で呼ばれる頭脳派の刑事で、類いまれな鋭い洞察力と直感で数々の難事件を解決、実質的に署内で独自の捜査権を黙認されている。
そんなロイドはある時、一見自殺に見える方法で死んだ女性達、残酷な方法で殺された女性達の中に共通項を見いだし、これは同一の犯人による連続殺人だと確信。独自の捜査を開始するが、警察上層部の不興を買ってしまう。
一方連続殺人犯「詩人」は独自のロジックに基づき長年にわたり女性に対して殺人を繰り返していたが、本人の中にも変化が生じてくる。
重大なストレス下にある2人の対決はどんな結末を迎えるのか。

あらすじを読むと警察小説風である。また昨今はサイコキラーによる連続殺人鬼VS捜査陣という構図も珍しくない。でもこの本を読めばすぐ分かっていただけるだが、それらとは明確にテイストが違う。この違いを説明できたらと思うのだが、なぜならそれが本質的にノワール、つまり暗黒小説がどういったものであるか、と説明できるからだ。
まずこの物語は連続殺人鬼詩人とそれを追う刑事ロイドに異常にフォーカスされている。ほぼ2人に密着している視点で書かれていて、他のすべての人物は露骨に脇役である。一見事件に関係ない2人の私生活についても細かい描写がなされ、ほとんど日記のようですらある。しかしロイド犯人を追っている訳で当然終盤に差し掛かるにあたって、2人の毎日が接近して来て最終的には交差するのである。
詩人は明白におかしくなっているが、読み進めていくと追う者であるロイドの方も相当おかしなことになっている。彼は結婚して子供がいる。家族を愛しているが、不倫を繰り返し、娘に自分が関わっている犯罪の恐ろしさをかなり生々しく語る。また大きい音や音楽を極端に嫌う。終盤ロイドの少年期の出来事が彼の口から語られ、彼が娘に犯罪を詳細に語るのは世に確実に悪意は存在し、それを無視しようとするのは無意味どころか害悪であり、明白に存在するもしもに対して世人はすべからく悪意と暴力に備えるべしと考えているからだということがわかる。
いわばいかれた2人の対決とも言えるが、単に幼年期のトラウマが原因でおかしくなったという分かりやすい構図ではない。あくまでも原因の一つではあるのだろうが、この小説が書きたいのはいわばそのもう一つ上のレイヤーであるように思う。前に紹介した「八百万の死にざま」もそうだったのだが、(現代)社会の何ともいない暗い部分を書いていて明白には言及しないものの、詩人やロイドが社会の被害者というよりは社会から産み落とされた象徴的な存在のように書かれていると思う。だから事件が解決したね、殺人鬼は死んだ、やったね!という爽快感が無いのである。彼らはどこにでもいるんだ、毎日は続いていくんだ、という何とも言えないやるせなさに覆われているのだ。

序盤で詩人が女性を斧で惨殺するシーンがあるのだが、そこでぐっと掴まれ、最後まで読んでしまった。何であんなに心がざわざわするのか。多分私がもてないからだと思うが、(この話は連続殺人鬼詩人の恋愛物語でもある。)この描写というのはちょっとすごい。小説の醍醐味じゃないかと思う。

よんですっきりすることは無いだろうと断言できるくらい、暗いねっとりとした暴力、それを生むに至る悪意、そして悪意を生じさせる孤独やさらに別の悪意や暴力、うんざりするような厭世観に満ちている。そんな嫌〜な感じが大好きな人は是非手に取っていただきたい一冊。私は大変面白く最後まで読めました。

因に刑事ロイド・ホプキンズシリーズは三部作で本書はその一冊目である。後の二冊は絶版になっているようだ。ジェイムズ・エルロイの本自体が、結構絶版であるようだ。一体どうして私が好きな、読みたい本というのはこうも絶版になるのか。私はなるほどマイナー好きかもしれないが、本質的にはマイナーというそのものに価値を見いだす様な軽薄なミーハーである。そこまでマニアックという訳ではないと思うのだが、それほど本が売れてないのかと思うと悲しくなる。と、蛇足なのは明白だがご勘弁を。もし万一なんかの偶然で出版社の偉い人がこのブログを見ていたら是非重版をご検討いただきたい。少なくとも一冊は売れることは間違いないですよ。

2014年6月15日日曜日

Anathema/Distant Satellites

イギリスはイングランド、リバプールのプログレッシブロックバンドの10thアルバム。
2014年にKscopeからリリースされた。私がもっているのはWard Recordsからリリースされた日本版。
Anathemaは1990年に結成されたバンドで、初期はゴシックなドゥームメタルをプレイしていたが、その音楽性の幅を大きく広げ、曲はよりプログレッシブになり、透明感のある男女のクリーンなボーカルで歌い上げる歌唱スタイル、ストリングスを大胆に取り入れた劇的かつ聴きやすい楽曲をプレイするようになり、日本でも知名度を上げつつ前作「Weather System」はネットの色々なメディアでかなり好意的に評価された様な印象がある。経済評論家の池田信夫さんが2012年のベストアルバム4位に入れててビックリしたり。そんな背景もあって新作にあわせて13年ぶりに日本版も発売されたのがこのアルバムだそうな。
と、まあ偉そうに語っている訳なんだけど、私は過去の楽曲を今のメンバーと音楽性で再構築した編集版「Falling Deeper」をジャケ買いして気に入り、その後リリースされた9thアルバム前述の名盤「Weather Systems」を買った様なにわか中のにわかファンである。

さて今作は基本的に前作からの流れを踏襲したスタイルで、勿論初期のメタル性は皆無。音はどっしりとしたものだが、ギターの音からしてメタルではない。伸びやかで煌めいている感じ。ドラムは堅実に叩き勿論ブラストビートなんかも皆無。ベースも伸びやかなで自由な印象。曲によっては静かなパートでその存在感を目立ち好きズアピールしている。ピアノも結構大胆に取り入れられていて4曲目なんかは前半はピアノ主体で曲が進む。
全体的にあくまでも楽曲のクオリティ焦点が当てられている。執拗な雰囲気作りとでも言おうか。とにかく楽曲のイメージがあってそれを最大限の方法で再現しようという試みがなされているようで、どれか特定の楽器が必要以上に前に出てくることが無い。プログレッシブと言っても技術自慢な部分は皆無なのでそんなに構えて聴くことは無い。とても自然な作りでリラックスして聴ける。しかしこのバンドのすごいのすごいところは何と言ってもその熱い展開ではなかろうか。
男女のボーカルがいて二人とも透明感のあるクリーンに歌い上げるスタイルだが、ややクールな女性ボーカルに対して男性ボーカルは非常に伸びやかで透明感があるものの、何とも言えない力強さがあって、ただ優しいと言ったレベルから楽曲の沸点を一気に上げていく。ボーカルのテンションにあわせて楽曲が大きく立ち上がっていくように盛り上がってくる様はまさにこのバンドの醍醐味で思わず熱い何かがこみ上げてくるという寸法である。オーケストラのストリングスも始終出ずっぱりではなく、ここぞと言うときに投入される訳でこれも中々どうして上手い使い方である。この徐々に盛り上げてくるAnathema節はあざといとは言わないがなかなかずるいと思いつつ、のせられてしまう楽しみがある。特に6曲目自身のバンド名を冠した「Anathema」なんかは比較的静かなバックの演奏陣に熱いボーカルスタイルをのせて、お?と思わせつつそのスタイルでひっぱり後半にかけて爆発させるというスタイルでこのバンドにしては珍しい悲鳴の様なギターソロも格好いい。一転してまろやかなピアノで締めてくるあたりもグッド。

このブログでは珍しく万人にお勧めできるアルバム。
ファンの方ならすでに買っているとは思うので、良質のロックを聴きたい貴方にオススメ。何となく元気になれるアルバム。

ジョー・ヒル/NOS4A2 -ノスフェラトゥ-


アメリカ人作家によるホラー小説。
2013年に発表され、翌2014年本邦でも翻訳の上発売された。
妙なタイトル「NOS4A2」はノスフェラトゥと読む。よく日本の創作物でも出てくる単語だから知っている人も多かろうと思うが、ノスフェラトゥは吸血鬼という意味である。
言葉遊びかーなるほどねー、というタイトルだがこの文字列を車のナンバーにしてしまうセンスがなんと行っても面白い。そう、この話は現代の吸血鬼が高級車を駆り子供を攫う話なのだ。

1980年代マサチューセッツ州、8歳の少女ヴィクトリア・マックイーンは自転車に乗って想像上の”橋”を渡ることで現実的な距離を無視し、自分の”探しているもの”がある場所に一直線でたどり着くことの出来る能力に気づく。その能力を使いたわいのない失せ物探しを続けていたヴィクは17歳のとき、鬱蒼とした森の中の一軒家にたどり着く、ガレージには古いロールスロイス「レイス」、ナンバーは「NOS4A2」。持ち主はチャリー・マンクス。百年以上生き続け、愛車で子供を攫っては理想郷”クリスマス・ランド”に連れ去る吸血鬼だった。その後長く続くヴィクとマンクスの因縁の発端ととなる運命的な邂逅だった。

作者ジョー・ヒルはこのブログでも紹介したリチャード・マシスンのトリビュートでも親子で書いた1編が収録されていたし、ブログでは紹介していないが元は別の長編「ホーンズ 角」という物語を読んでいたく感動したことがある。今回はそんな彼の新作ということで、あらすじを見るとこれは面白そう!と買ったのだった。
なんといっても吸血鬼ものである。そして吸血鬼はクラシックカーであるロールスロイスのレイスに乗っている。Wraithは「幽霊」の意味である。これは洒落が利いている。
いわばもう一人の主人公であるチャーリー・マンクスはしかし吸血鬼でありながらも、古い系譜に縛られない新しい存在であり、それが楽しい。彼はルーマニア出身ではないし、直接美女の生き血を吸う訳ではない。日中でも活動できるし、棺桶で眠りもしない。いわば新しい吸血鬼である。自分で車を運転するし、甘いものが大好きで、ネットも使える。
さすがに現代で黒いマントを翻し、夜ごと人の生き血をすするというのはちょっと難しい。ジョー・ヒルは現代でも難なく活動できる吸血鬼を生み出したのである。だいたい私の持論としてはとにかく敵役が憎らしい作品ほど面白い。そういった意味ではこのチャリー・マンクスというのは見事なキャラクターであるといえる。
そしてもう一人の主人公は人間(「ヘルシング」の吸血鬼アーカードも言っているが化け物を倒すのはいつだって人間なのである。)、ヴィクトリア・マックイーン。8歳のときに不思議な能力を開花し、17歳のときに吸血鬼と邂逅。その後の人生は大きく崩壊し、息子が生まれ家庭をもったものの(正式に結婚はしていないが夫もいる。)トラウマなのか能力の反動か精神に変調をきたし、30代にして人生の半分は精神病院に入っていた。両手両足にはタトゥーがびっしり入り、架空の電話におびえている。この女性が子供の頃は自転車、大人になってからはバイク「トライアンフ ボンネヴィル」を駆り吸血鬼と対決する。
そう対決である、この小説の主題は。いかれた吸血鬼といかれた女の。ロールスロイスとトライアンフの。両者がまさに正面からぶつかり合うのがこの小説なのだ。面白くない訳が無い。

またこの小説のもう一つの面白さが正気の扱い方である。この称せ右派間違いなくホラー小説だが、吸血鬼や一瞬で空間を歪めて望んだ地点にアクセスできる特殊能力など、ファンタジーの要素を強く含む。フィクションでのファンタジーはなんだかんだ世界によくなじみ、すっと受け入れられている(少なくとも執拗に言及はされない。)印象がある。ところがこの物語の中では主人公ヴィクの能力はずっと世界と調和がとれることが無い。ヴィクは精神病院にはいってからは特に自分の能力は自分のが生み出した妄想だと信じ込んでいるし、ヴィクの夫でさえ長い間病気のなせる技だと思っていた。当然警察(後半は警察が関わってくる。)もそんなことは信じない訳で、ヴィクを助けるどころか邪魔してくる始末。これは結構新鮮。主人公再度の特殊能力は結構自然に受け入れられるものであると思っていたけど、「もし、特殊能力を持った人間が現実に存在したら?」という面白い考えの一種のシュミレーションになっている。いわばコンクリートとネットで覆われた世界の、想像を許さないその過酷さ、という大きな障壁と、そこに無理矢理展開する創造性の反発というのか。

伏線を張りまくる上巻は正直ちょっと説明不足なところもあったが(ちょっとマンクスが強すぎるなと思った。)、下巻に入ってからの面白さが半端無さ過ぎ。いわばギアがばこんとあがった状態というのか、ラストまで息もつかせぬ大疾走である。
既に周知の事実であるし、知っている人も多かろうが作者ジョー・ヒルはあのスティーブン・キングのご子息である。比較して云々というのはもう無いな、と思った。この小説を読めばジョー・ヒルという一個の作家がどれほど優れた才能を持っているか、分かっていただけるだろう。
この話はジョー・ヒルが生んだ歪んだおとぎ話なのだ。クリスマスを吹っ飛ばしにいくいかれた少女の物語なのだ。超面白い。小説が好きな人は是非手に取ってほしい。

2014年6月8日日曜日

Dead Fader/Scorched

ドイツのベルリンを拠点に活動するインダストリアル/ノイズアーティストDead Faderの2ndもしくは3rdアルバム。(理由は後述。)
2014年にSmall But Hard Recordsからリリースされた。
Dead Faderのことははっきりと分かっている訳ではない。Discogsを見るとメンバーは2人でクレジットされているが、FBやインタビューをちょっと見る限り、最近はJohn Cohenという人が単独で活動しているようにも思う。(テクノアーティストはバンドに比べるとクリエイターが前に出てこない印象がある。)実はほぼ同時期に別のレーベルからもアルバム「Blood Forest」というアルバム(まだ聴いていないが近々レビューする予定。)を出しているため、どちらが2ndでどちらが3rdなのか分からないのだ。私に分かっているのはDead Faderの作り出す音楽はベラボウに格好いいということだけだ。私はなんで知ったのかはもう分からないが、1stアルバムとライブアルバム、それからシングルをもっている。全部の音源をもっている訳ではないが、結構好きなアーティストだ。ちなみにこのアルバムともう一つの新しいアルバムはレコードの形とデジタルでリリースされている。私は2つのアルバムプラスシングルのバンドルセットみたいのをオーダーしたが、まだ手元に届いていない。購入と同時にデジタル音源もダウンロードできるようになっており、その音源を聴いている。

Dead Faderはどんなアーティストなのかというと、クソ喧しいとしか言いようが無い。
極端に歪められた太いビートの上に、さらに歪んだベースがのり、その上にノイズとしかいえない様な硬質な音が乗るのだ。それだけだ、基本。ヒップホップよりは音の数は多いだろうが、結構いさぎの良いスタイルでそのかわり一音一音の主張がもの凄い激しい。勿論メロディなど皆無。インダストリアルと称されるのはその音質で、はっきり言ってノイズにしか聴こえない。金属音でひどく耳に痛い。巨大なアナログ機械が悲鳴を上げているか、ラジオの空電をブーストさせたか、あるいは工事現場の音をサンプリングしたのか、要するにそういった類いの音楽である。この間紹介したBen Frostもそうだが、最終的には面白いのはハーシュノイズではないということだ。ハーシュノイズはカオスであるが、Dead Faderはカオスに抑制を持ち込んでいる。それがドラムとベースである。簡単にいうと極太のビートである。つまり混沌状態にパターンを作ってある程度をコントロールしようという企みである。だが巨大な竜巻にもう一つ巨大な竜巻をぶつける様なこの試みは果たして成功しているのかどうか怪しい。喧しさはとにかく少なく見積もって2倍になった。ビートがあれば音楽かといわれれば怒る人もいるだろうが、要するにこういうことかもしれない。つまり音が鳴っていれば音楽なのだ。
1stアルバムはまだテクノ感があった。音の数も多かったように思える。お洒落とは全然いえない音楽性であったが、少なくともこのアルバムに比べればまだピカピカしていたと思う。一体前回のアルバムからどんな心境の変化があったのか。(ひょっとしたらメンバーが抜けた所為もあるかもしれないが、それも定かではない。)より無骨になった。より喧しく、そして気持ちが悪くなった。呵責がなくなった。音はゆがみ、殺気が満ちている。ノイズはその力を増した。ビートは整合性をもたらすどころかむしろ神経症的に鳴り響く、猛暑の二日酔いのような気持ちの悪さがある。音が分厚く偏頭痛のトンネルに放り込まれた様な感覚である。真夏の工事現場の五月蝿さである。ノイズの洪水で、この反復性は壊れたビデオを見ている様な不安感をあおる。さらに面白いのが、冷徹なビートでそのような音を構築してしまうそのセンスである。かねがねテクノというのは完全に機械で作るくせに、聴いてみると感情がこもっているのが面白いともっていたけど、Dead Faderの音楽もまさにそういった音楽である。未来の巨大な建設機械が発狂したうなり声にも聴こえる、この音楽性。とにかく格好いいのだ。

デカい音で聴くのが良い。みんな聴いた方が良い。きっと気に入るだろう、と思う。
因にもう一つのアルバムは音楽性が全く違うようだ。そちらも楽しみだ。

Young and In The Way/When Life Comes To Death

アメリカはノースカロライナ州シャーロットのブラッケンドクラストパンクバンドの2ndアルバム。
2014年にDeathwish Inc.からリリースされた。
所謂ブラックメタルの要素をハードコアに持ち込んだブラッケンドなスタイルである。初期プリミティブブラックメタルの音質の悪さだったり、過激な思想だったりでもともと共通するところがあったのか、大御所Darkthroneだったり(最新作はまたメタルらしいけど)、若手のバンドの活躍を見ると結構最近は盛り上がっているジャンルなのかも。
こちらのバンドは2009年結成ということで結構若手のバンド。1stアルバムはA389からリリースしてたり、何となくその音楽性が想像できるのではないでしょうか。
真っ黒い背景にタトゥーまみれの手がナイフを握っているジャケットからも不穏さが漂ってくるが、曲名にしても「Betrayed by Light」から始まり「Fuck This Life」とくるもんだから何かしらこうこみ上げてくるものがある。全くもって人生が最低でそれはお前の所為だ!といわんばかりのアティチュードがヒシヒシと感じられるではないか。聞き手としてはそうだそうだやれやれ!と当然こうなる訳だ。

演奏スタイルとしては非常に荒々しい訳だが、音質は結構クリアで聴きやすい。
砂礫の様な厚みのあるザラザラした音質のギターが特徴で、由来はハードコアな荒々しいもの。ブラックメタルというには確かに荒々しすぎるかもしれない。鈍器のように重く喧しいといった形容詞がぴったりの爆走スタイルを基調とし、深いな虫の羽音の様なフィードバックノイズも多め。しかし演奏スタイルは結構ブラックメタルしている。疾走する寒々しいトレモロリフは確かにブラックメタルリスペクトなもの。リバーブをかけた虚脱した様なスローパートは不穏な雰囲気満載である。いわばハードコアの要素でブーストしまくったブラックメタルともいうべきスタイルか。
ドラムがまた格好よい。これでもかというくらいドカドカ叩きまくる。愚直に叩きまくる隙間にシンバルの破裂する様な連打を入れて来て、これが暗闇で光る雷光のようにギラギラしてて真っ黒な曲に良いメリハリを与えている。
ボーカルはこれは悲鳴のように叫ぶしゃがれたブラックメタルスタイルだが、吐き出し方はハードコアとしか言いようが無いやけっぱちさ。演奏陣に負けないスタイルでまさにバンドの顔ともいうべき主張の強いもので、「Fuck This Life」を体現する様なその歌い方に思わず胸が熱くなること間違いなし。
これらが一体となって迫ってくるわけで、聴いている方はまさにグラインダーでもってガリガリ削られる様な気持ちである。非常に気持ちよい。アルバム中盤の一つ速度を落とした様な遅い曲も音の分厚さでもって様になっていて格好よい。

ブラックメタルの色々な可能性が形になって来て楽しい時期。お洒落なブラックメタルも良いけど、やっぱりたまにはこういう音楽も聴かないとね!と思わせる一品。
とても良し!

ローレンス・ブロック/八百万の死にざま

アメリカはニューヨーク州の作家によるハードボイルド/探偵小説。
1982年に出版され、1988年に本邦にて翻訳の上発売された。
酔いどれ探偵マット・スカダーが活躍するシリーズの第5弾。PWA(アメリカ私立探偵作家クラブ)最優秀長編小説賞(シェイマス賞)を受賞した作品。私はローレンス・ブロックは初めて読むが、まずはということで名作と誉れ高い本書を手に取ってみた。

ニューヨーク州で無許可の探偵業を営むマットことマシュウ・スカダー。元は警察官であったがある事件で犯人を狙って撃った弾丸が、無関係の少女にあたり少女は死亡。犯人を逮捕したマットは表彰されたが、職を辞し探偵を始めた。酒に溺れたマットは今は禁酒中でAA(アルコホーリクス・アノニマス=断酒自助会)の集会に日参する日々。
そんなマットの元に知り合いの紹介でキムという美しい女性から依頼を受ける。彼女は娼婦で足を洗いたいので、ヒモを説得してほしいというのだ。ヒモにあいにいくと意外にもチャンスと呼ばれるその男はキムの件を快諾。事件は一件落着したかと思われた。しかし数日後キムはホテルの一室で滅多刺しにされ殺された。当然疑われたチャンスはマットに依頼する。真犯人を見つけてくれ、と。

実際に作者の紹介の欄に酔いどれ探偵と書いてあるのだが、全然そんな気楽なものではなかった。マットはアル中である。この本はアル中の苦しみがこれでもかというくらい書かれている。マットはぶっきらぼうな男でそつなくバーに行くものの、コーヒーを飲んでやり過ごしている。AAの集会に行ってコーヒーを飲みながら他のアル中の悲惨な話を聞く。なんだ、禁酒って結構簡単じゃないか?そう思いさえするのだが、毎日が続くのである。マットは身体的にはそれほど苦しんでいないようで、酒を断つのは純粋に彼の意思によるところが大きいように見える。飲まねえと思えば飲まないですむじゃんよ、と私なんかは思う訳である。しかしローレンス・ブロックの書く一日はなんと長いことか、なんと無味乾燥なことか。マットが禁酒を破る下りは圧巻であった。既に1週間(1週間である!)禁酒できているから大丈夫、一日2杯までというルールにするわ、守れているし明日の分をちょっと前借り、そしてマットは病院で目を覚ます。丸一日以上の記憶をなくして。大学生の頃中島らもさんの小説やエッセイでアル中の恐ろしさをちょっとだけ知ったことがあるけど、やはりこれは恐ろしい。アル中というのは終わりの無い戦いであって、それが死ぬまで続くのである。
ハードボイルドの主人公は誰でも問題を抱えている。同じ探偵のパトリック・ケンジーもそうだったし、一見ぐうたらなエロ親父のフロスト警部もそうだった。私は「心の闇」という言葉を聞くといつでも何ともいえない侮蔑的な感情がこみ上げてくる。しかしローレンス・ブロックはアル中を通してマット・スカダーの抱える孤独を書いているように思ってそれが恐ろしかった。マットは事件の捜査の過程でヒモ男チャンスが抱える他の娼婦達に話を聞きにいくのが、それぞれの娼婦がどちらかというと自分のことを饒舌にマットに語るのであった。彼女達もマット同様孤独を抱えていて、それをある種彼女達の人生の埒外からやって来た部外者であるマットという男だけに打ち明けるのだった。
本書は徹底的に暗い小説である。マットや娼婦達を通して、はっきりと言葉にはしないものの作者は現代の大都会に巣食う巨大な負の部分を書いているようだ。私が中学生くらいの頃は「セカイ系」が丁度大流行りだった。それらは世界を一旦破滅させることで絶望を書こうとしたが、この小説は同じ世界が続くこと自体が絶望のように書かれている。コンクリートで出来た摩天楼はその象徴のようで、崩れること無く立ち続けるようであった。そしてそこにマットの様な男達、娼婦の様な女達が入れ替わりながら同じように生き続けるのであった。ハードボイルド小説でそんな大げさなといわれるかもしれないが、この小説は毎日の連続が書かれている。そして生きることというのは毎日をこなしていくことに他ならない訳で、私はこの本をよんでそんな大仰なことを思ったのであった。

という訳で評価が高いのも頷ける一作。派手なアクションやニヒルなキャラクターを期待すると肩すかしを食らうだろうが、都会に巣食う闇をかいま見たいのでしたら是非どうぞ。しかしバーに深淵が待ち構えているなんて思っていなかったが。

2014年6月1日日曜日

Ben Frost/A U R O R A

オーストラリア出身アイスランドはレイキャビク在住のアーティスト/プロデューサーの4thアルバム。
2014年に自身が参加するレーベルBedroom CommunityとMute Recordsからリリースされた。私がもっているのはボーナストラックが1曲追加された日本語版でこちらはTrafficというレーベルから発売された。
私がBen Frostの作品を買うのはこれが初めて。このCDを買ったのは先に紹介したVampilliaの1stアルバム「my beautiful twisted nightmares in aurora rainbow darkness」をプロデュースしたのがBen Frostだったからである。付属の解説を読むと実はこちらも以前紹介したTim Heckerの「Virgins」にピアノとそれからエンジニアとして参加していたらしい。他にもブライアン・イーノとコラボしたり、Swansのリミックスをしたりと結構売れっ子のプロデューサーのようだ。

曲の方はというと北欧に拠点を置くということも頷ける冷たい電子音が主体となったアンビエントミュージックなのだが、アンビエントというには少しノイジーかもしれない。インダストリアルとも紹介されているが、結構ビートがはっきりしていて、重ーい金属的なビートがどしゃ・どしゃと鳴り、ノイジーな高音がひゅんひゅん飛び交ったりもする。ドローン要素も多分に含むが、前述の通りビートが結構太いのでそこまで難解ではない印象。ただしビートがあるといっても踊れる様な音楽では勿論無い。不吉な機械が唸り上げる様な音、妙に震えて千切れたノイズ、チリチリしたほのかなノイズ、柔らかな鐘の音など音の使い方が幅広く、ミニマルな楽曲が1周するたびに少しずつその様相を変えていく。まるでこだまのような、奥行きのある空間的な音が放射状に展開されていくようだ。ノイズも相まって急に崩れる様なビートも不安な印象を倍加されていく。時に暴力的と評されるその音楽性も何となく納得がいく。暴力的といっても明確な攻撃性というよりは、ブリザードの向こうに霞む悪意をもった黒いタワーをかいま見る様な、そんな感じ。
個人的にはなんといってもしゃーーと堰を切って溢れ出し、空間を埋めていく様なホワイトノイズが格好よい。流れ出して来た水が静かに溜まっていく様なそんな清澄さとなにかしらの圧迫感をはらんだ焦燥感が相まってなんともいえない気持ちになってくる。

異常に研ぎすまされた冷たさだが、不思議と感情に富んでいる。それが安心を与えてくれはしないのだが。デカい音で聴くと気持ちよいことこの上なし!
とても良いアルバム。これはオススメ。

Killer Be Killed/Killer Be Killed

アメリカのグルーブメタル・スラッシュメタルバンドによるデビュー作。
2014年にNuclear Blastからリリースされた。
デビュー作と行っても新人ではない、ギターボーカルがSoulflyのMax、同じくギターボーカルがThe Dillinger Escape PlanのGreg(写真だとPortsiheadのシャツ着ていてちょっと嬉しい。)、ベースボーカルがMastodonのTroy、ドラムがMars VoltaのDaveというそうそうたる面子。いわばスーパーバンドの類いである。
元々はMaxとGregがDeftonesのChi Chengの治療費を集めるためのライブ(Chiは2013年に亡くなった。Deftonesは私が高校生のときから大好きなバンド。ご冥福をお祈りいたします。)で出会って意気投合、Maxのバンドで共演をへて、ジャムセッションを行いイケル!と確信を得、DaveそれからTroyに声をかけたそうな。

基本は重たくグルーヴィなリフがこれでもかというくらい繰り出され、3人のボーカルが次々に乗ってくる。ドラムは良く鳴る中音スタイルで激しいギターを引っ張るようにテクニカルに叩きまくるスタイル。あくまでも聴きやすさを意識して尖りつつも聴きやすさと格好よさが同居している印象。
バンドの曲はほとんど(9割)Maxが作っているとのこと。なるほど確かに形としては様々なジャンルを盛り込みつつ、根底には正統メタルの系譜を受け継ぐ様なカッチリとした曲はMax由来だな、と頷ける。(どうでもいいが私はMaxというとSoulflyですね、ニューメタル世代だからなんですけど。)この人本当すごいなと思ったのは、自分のスタイル確立させつつ結構どん欲に新しい要素を取り込んでいくね。ズーンズーン響いてくる低音パートだったり、ビートダウンめいた暴力的なフレーズだったりが結構ぽんぽん飛び出してくるのだからすげー。ミュートでガリガリ削るように刻みまくるリフはMax節というか、聴いているともう嬉しくなってきますね。
曲が良いのは勿論なのだが、このバンド何と言っても目玉はボーカル。スターが集まってアルバムを作ればそれはファンは嬉しいのだが、このバンドはコンセプト的に多彩なボーカリゼーションでヘヴィかつメロディアスな曲を演奏する、とはっきり方向性が決まっているようだ。Maxの野太く粗い低音ボーカル、Gregのブチ切れ金切り声からメロディアスに歌い上げる振り幅の広いボーカル、そしてTroyのちょっとけれん味のある独特のまったりと聴かせる中音ボーカル、これらが時に矢継ぎ早に、時に複数組み合わさって繰り出されてくる。それぞれが一人で何万人も湧かせる様なキャリアの持ち主なわけだから、これが1曲のうちに3人聴けてしまうこのバンドは相当贅沢である。前述の通り土台になる曲が非常にしっかりとしている訳だからこのボーカル3人体制も非常に活きてくるのだろう。変にエクストリームな方向に舵を取らず、激しくも聴かせる様な曲を作るというコンセプトが非常に功を奏したのではないかな。メンバーのファンならそれぞれの持ち味が存分に発揮されている出来に嬉しくなること請け合い。

文句なしに良いアルバムじゃないでしょうか。スーパーバンドのスーパーな作品。メンバーの名前を1人でも知っていたら買っちゃって問題ないと思います。聴いてて楽しいアルバム。
記事内の情報はインタビューを元にしています。ここここで読めます。


Retox/YPLL

アメリカはカリフォルニア州サンディエゴのハードコアパンクバンドの2ndアルバム。
2013年に名門EpitaphとThree One G Recordsからリリースされた。
The LocustやSome Girlsなどのラウドかつ奇天烈なバンドのフロントマンJustin Pearsonが中心になって2010年に結成された4人組のハードコアパンクバンド、それがRetoxである。
私は2011年にリリースされた彼らの1stアルバム「Ugly Animals」をもっていて、久しぶりに聴いたら偉い格好よかったため昨年リリースされた本作に手を伸ばしたのであった。

Justin Pearsonといったら一番有名なのはやはりThe Locustであろうか。バンド名通りイナゴの衣装に身を包み、目まぐるしいハードコアをプレイする独特なバンドで、これもやはり当時の日本ではカオティックハードコアの文脈でよく登場し、私もご多分に漏れずタワーレコードで彼らのCDを買ったりしたのであった。ふざけているのか本気なのか(多分両方)わからないようなセンスでもって、訳の分からない長ーいタイトルのショートカットチューンが並び、なんといっても妙にピコピコしたシンセサイザーを取り入れているのが持ち味の面白いバンドである。
そんなJustin Pearsonが組んだ比較的新しいバンドがRetoxであるが、これがThe Locustから比べると真っ当なハードコアをプレイする。(けどやっぱり相当かわっている。)ボーカル、ギター、ベース、ドラムのオーソドックスな4人編成でパンクといっても初期衝動をそのまま音楽にしたみたいなとにかく五月蝿く、速く、あまりメロディアスではないパンクである。

Justinのボーカルはこのジャンルでは珍しくしゃがれてもいない、ドスが利いている訳でもない少年の様なちょっと甘くすらある幼い印象のあるスタイル。といっても終始これが叫んでいる訳で、つまりすでにとてもやかましいのだ。彼がボーカルが取るバンドは彼の声故に聴いてすぐにそれと分かる混乱性をもっている。これは一つに魅力である。
ベースは硬質でベキベキしている。ドラムと相まって打楽器のように刻んでくるその様はすごく格好よい。また疾走する際は一点水面に潜るようにその音質を変え、中音でもこもこした音でもってグルルルルルと迫ってくる。これは中々技巧派である。
ギターが独特で低音、中音、そして突き刺す様な高音を使い分ける。中でもノイジーな高音パートが曲にカオティックな印象を与えている。一秒後に何をやっているのか分からないスタイルで、低音が聴いたグルーヴィなリフを弾いていたかと思えば、スクラッチを織り交ぜ、あっという間に高音パートに移行する。ブラックメタルとはいわないが、嵐のように弾きまくるトレモロリフが格好いい。断絶した様なハーモニクスも多用して、主にリスナーに混乱をもたらしている。面白い。パンクって演奏が単調でツマラン(今更そんな奴いるのか?)という貴方、是非聴いてみて欲しい。
そしてドラムである。私は楽器は全く弾けないんだけど、このバンドとにかくドラムがすごくない?めちゃ叩きまくる。べつにメタルみたいに露骨に戦車みたいなセットをブラブラ(このスタイルも大好きだ!)弾く訳ではない。多分そんな大仰なドラムセットではないと思う。でもすごい。叩きまくる。そして変幻自在である。妙にキャッチーなリズムから、疾走パートでも変なオカズ我は行っているような複雑なパートまでさらっと裏ですごいのを叩いている。これが超気持ちいい。多分ギターが好き勝手出来るのは、ドラムとベースがしっかりしているからじゃないかと思う。
こいつら4人がアンサンブルになって責め立て来る楽曲と行ったらぱ、パンク?っていうほどのカオスで最早これはノイズである。なんていうか混乱していき急ぎすぎている奴がすごい向こうから何かわめきながら走って来て途方に暮れている周りをぴょんぴょん飛び回って、あっという間にまた向こうに走り去っていく様な感じ。一言でいうと超楽しい。自分も走ってそいつの後を追いたくなる様な感じ。この気持ちって何だろう。彼らが伝えたいことって何だろう。って気になる。特別恐ろしい訳でも、悲しい訳でもない。でもなんだか感情にあふれているってことは分かる。

ある種のハードコアパンク特有のマッチョさは皆無である。それのカウンターである妙にインテリ文学青年めいた恨みがましさも無い。訳の分からないブチ切れた感情をパンクの枠に当て込んだやっけぱちな感じで、たとえるなら唯我独尊か。ただし孤高ってほど気取っている訳ではない。自然体の潔よさ。

というわけで本作もめちゃ格好よい。
もうちょっとみんな聴いてもいいんじゃないかと思うんだ。
超オススメっすよ。

デニス・レヘイン/ムーンライト・マイル

デニス・ルヘインによるパトリックとアンジーシリーズ第6弾にして最終作。

結婚して子供が出来たパトリックとアンジーは将来のため探偵事務所を閉め、愛車を売り勤め人として日々を送っていた。パトリックは老舗の調査警備会社デュアメル=スタンディフォードで契約社員から正社員となるべく面白くもない仕事をこなす日々。アンジーは資格を取るべく再度大学に通っている。生活は困窮し、保険の支払いさえままならない。
そんなある日パトリックは地下鉄の駅でビアトリスに出会う。12年前の彼女の姪のアマンダの失踪事件の依頼人で、事件の終末パトリックの苦渋の決断が彼女の人生に深い傷跡を残したのだった。アマンダがまた行方をくらませたという。探してほしい、貴方にも責任があると迫るビアトリス。一旦は断るパトリックだが、その後チンピラに襲撃され、アマンダの件に首を突っ込むなと警告される。やる気は無かったが殴られ襲われれば事情は違う。負けん気の強いひねくれ者パトリックとアンジーはアマンダの捜査を開始するが…

前にも書いたがⅠ年にⅠ巻ずつ発表されて来たこのシリーズだが、5作目の「雨に祈りを」発表後作者のルヘインが一時シリーズの休止を宣言。それから11年の歳月を経て発表されたのが最終作でもあるこの「ムーンライト・マイル」である。タイトルは遥か遠くの意らしい。物語の中でも時間が進み、30代だったパトリック達は42歳になっている。遂に目出たく結婚して娘が産まれたのは良かったが、生活のために2人の生活はがらりと変わってしまった。生き方そのものであった個人探偵事務所は廃業、手塩にかけてリストアしたポルシェも手放した。それでも生活は苦しく、パトリックは金持ちの尻拭いのようなクソ仕事にその身をやつし糊口を凌いでいる。無敵で自由だった時代は終わってしまった。他人に比べると長かった青春の時代が終わって、生活と将来というのが2人の方に重くのしかかって来た。ハードボイルドの申し子が契約社員である。地下鉄でご出勤である。正社員になりたいです。おまけにパソコンは私物である。そのパソコンもチンピラに奪われてしまうパトリック先生。次のなんてとても買えないと嘆くパトリック選手。なんという悲しさ。ここに来て今までの物語は全部作り事だよ、とネタバラしされたようだ。途方に暮れるのはパトリックだけではない。読者もであるよ。夢は終わったんだ。生活が続くんだ。保険料を支払い、請求書におびえる生活が。すばらしい家庭はむしろ人から輝きを奪ってしまうのか。年を取ることは敗北なのか。打ちのめされているパトリックとアンジーはしこりのようにわだかまるアマンダの失踪事件の本当の解決のため、再度のアマンダの失踪事件に挑む。
デニス・レヘインは真面目な作家である。調べてみるとこの物語は賛否両論であるようだ。物語は好きなことをかける。読者にずっと夢を見させることが出来る。でもルヘインはあえてこのある意味舞台裏の様な強烈なパンチの様なその後の物語を書いた。パトリックとアンジーの人生のその後を書いた。それは苛烈なものだった。銃で撃たれるからではない。拳で殴られるからではない。ただ生きて年を取るということの、その悲しさと苛烈さを書いたのだ。こんなの読みたくなかったという人もいるだろう。でも若かったころのパトリックがはいた台詞がまた違う意味を持って再度浮かび上がってくる様な、そんな感慨深さがあると思った。若さ故の過ちではない。2人は昔を少しも後悔していない。ただ選択しただけだ。それが間違いとも思っていない。2人が何故困窮した生活の中でビアトリスの依頼を引き受けたのか。なぐれられ腹が立った、然り。現状の生活に鬱憤が溜まっていた、然り。しかしこれは生き方の問題であった。状況に合わせて選択して来たけど、俺たち変わった訳じゃないよな、そんなひたむきさが垣間見える。といっても昔のようには行かない。何より娘が巻き込まれることは絶対にさけなければならない。動きも鈍くなる。でも捜査はやめない。探偵(ヒーロー)になるために必要なのは不屈の精神であった。頑強な肉体も明晰な頭脳も二の次だった。ただ食らいついて離さない、殴られても立ち上がるその精神こそが2人をヒーローにしたのだった。
本当に終盤、パトリックの心に久しぶりに暴力的だった父親が浮かび上がってくる。パトリックはけりを付けたのだった。父親のその向こう側にすとんと着地したのだった。悩みが亡くなる訳ではなく、現実的に消耗させてくる毎日が続くのだろう。でもパトリックとアンジーはけりを付けたのだった。物語は終わった。

すばらしい読書体験というものがあるものだ。ほんの何の気なしに手に取った「スコッチに涙を託して」が私をここまで連れて来た。6冊夢中で読んだ時間は何事にも替えがたいすばらしいものであった。この体験を作者に感謝したい。これは探偵パトリックとアンジーの物語であった。そしてそれは完結したのだった。彼らは去っていった。私は彼らに拍手を送りたい気分である。
いまでもパトリックとアンジーは誰かを待っているのだと思う。是非このシリーズを、多くの人に読んでいただきたいと思う限りです。

Atmosphere/Southsiders

アメリカはミネソタ州ミネアポリスのヒップホップデュオの8thアルバム。
2014年にRhymesayers Entertainmentからリリースされた。
グループ名とアルバムタイトルが印刷された透明のビニールにCDとブックレットと歌詞が入っている変形ジャケット。

私は偶々ネットで彼らの曲を聴いて気に入りこのアルバムを買った訳だけど、彼らのことは全然知らなかった。
Atmosphereは1989年に結成されたヒップホップグループで現在のメンバーはラップ担当のSlugとDJ/トラックメイカーのAntの2人。写真を見るに2人とも白人であるようだ。結構ベテラン選手だから知っている人は知っているのだと思う。

(以下私の主観によるヒップホップ観を書くけど、はなはだ間違っている可能性をはらんだ一個人の意見であることご留意されたく。)
さてヒップホップ(はカルチャー主体のことをさすらしいから厳密に言えばヒップホップ音楽か。)というとご存知の通りサンプリング主体で作ったトラックに人の声からなるラップをのせたものからスタートした音楽のジャンルです。そのシンプルな音楽性格上なかなかドラスティックに変化してく(例えばロックがメタルになったりみたいな)余地がなさそうですが、それでも昨今のヒットチャートを見ると大分その黎明期からは音楽性が広がって来たようだ。サンプリングマストではなくなったのだろうし、他ジャンルとの融合だって頻繁に行われている訳だ。
そんな流れの中でAtmosphereのやっている音楽を聴くとこれは結構オールドスクールなヒップホップになるのではなかろうか。彼らの曲作りがどうやってなされているのかは分からないところだけど、結果的に形になった曲を聴くと、あくまでも基本の形を踏襲したヒップホップであるようだ。
シンプルなビートにいくつか音をのせ雰囲気を作る、その上にラップが乗る。
ヒップホップ好きの友人のいうところには、優れたヒップホップのトラックというのはラップ抜きで聴いても抜群に格好よいのだ。デザインとは引き算だから、限界まで削ぎ落とされたトラックというのは完璧なもので、それはそれでめちゃ格好よいのだ。冷徹なビート、その上に本当にいくつか音をのせるだけで曲の雰囲気ががらりと変わる。基本ビートが太いから乗りやすいしね。
太いビートにベースをのせて土台を作って、その上にピアノやアコギの音をのせたりしている。曲によっては歪んだ電子音も使っているが、あくまでもトラックという感じで前にしゃしゃり出てくる感じは皆無。女性の声のサンプリングを入れたりして結構凝っている。またたまに入るスクラッチがすごく格好よい。やたら頻発する様な下品な感じじゃない。飛び道具の様な独特の音なのにバックトラックと相まって不思議と落ち着きがあるから不思議だ。
ラップの方はというとまろやかな感じで、いわれないと白人と分からないかも。でも黒人に比べるとちょっとあっさりしているかもしれない。高すぎず低すぎずちょうど良く耳に入ってくる声質で、画像検索するとやっぱり恐そうだけど、ラップを聴いた限りギャングスタな悪自慢という感じではなさそうだ。もっと落ち着いた大人なイメージ。曲によってはトラックもあって暖かく、ゆったりしたラップを見せる。スキル自慢というよりは完全に曲の完成度重視なタイプで語りかけてくる様なゆったりしたものから、緊張感があるちょっと硬質な感じのものまで結構幅があるラップで面白い。

タイトルになっているSouthsidersというのは彼らの故郷ミネアポリスの南側のことを指すらしい。各曲の頭には電車のアナウンスを模したトラックの紹介が入っている。きっとここも故郷由来のネタなんじゃないかなと思う。

格好よい。派手さは無いし落ち着いているけど、日和っている訳ではない。
虚栄心が削ぎ落とされた自然体かつストイックなアルバムだと思う。
ギラギラしたのじゃなくて、しっかりしたヒップホップが好きな人は是非どうぞ。

この曲聴いてアルバム買いましたよ。
しかし曲名が「カニエ・ウェスト」ってのも結構すごい。

デニス・レヘイン/雨に祈りを

デニス・ルヘインのパトリックとアンジーシリーズ第5弾。
1999年に発表された。作者はここまで毎年1作のペースでパトリックとアンジーシリーズを書いている。

前回の事件終結後、パトリックとアンジーは破局。アンジーは探偵事務所を出て行った。
ある日パトリックはブッバとともにストーカーに悩まされていたカレン・ニコルズの依頼を引き受け、ストーカーを”説得”し撃退することで依頼は解決する。6ヶ月後パトリックはカレンがビルの屋上から飛び降り死んだことを知る。すこし世間知らずだがにこやかだった彼女が何故自殺したのか?飛び降りる前にかかって来たカレンの電話に出られなかったことに罪悪感を感じるパトリックは独自に捜査を開始する。

このシリーズは勿論優れた探偵小説であり、優れたハードボイルド小説であった。しかし一般的なハードボイルドとはちょっと趣が異なる。軽妙な会話に代表されるシンプルかつ洒脱な文体も得意なポイントの一つだろうが、主人公が男女2人組というところも大きいように思う。私立探偵というのは一般人とも警察官とも違ういわば一種のアウトサイダーだが、このシリーズの主人公は完全なアウトサイダーになりきらず、警察小説のバディもののような趣がある。2人いる分ちょっと救われている部分がある。ハードボイルドじゃないというのではない、そんなことは1作目を読めばわかるだろう。完全にハードボイルドだ。2人いるからこそのものの見方の違いをまざまざと見せた前作のラストはそれは凄まじいものだった。ここら辺はちょっとなかなか他のハードボイルドには何じゃなかろうか。
とはいえアンジーがいることでパトリックは世界との折り合いのつけ方が普通の私立探偵とはちょっと違うのだ。
それが今作ではアンジーが去りパトリックは一人きりになってしまう。ブッバがいるものの彼は一般の人間の埒外にいるため、厳密にいうとパトリックと同じ会話が出来る訳ではない。お互い友人であることは間違いないが、世界を共有している訳ではない。
だから、今作は今までのシリーズに比べるとより正統ハードボイルドの雰囲気がある。謎の女もでてくる。ただし謎の女といったら大抵はミステリアスで妖艶な女だが、今作では世間知らずのお嬢様だ。パトリックは幸せそうだった彼女が何故自殺を選んだのかという謎を調べていく中で、一人の女性が本当は何者だったのかという問題に肉薄していく。
カレン・ニコルズの人生はどんなものだったのだろうか。作者は丁寧に詳らかにしていく。物語の脇役にあたる人物にスポットを当てたような書き方である。単なる被害者と行っても良い彼女が一体どういう人生を送って来たのか。さらにいうならばどういった悪意が彼女の人生を台無しにしたのかという問題である。
今回も第二作目を彷彿とさせる様な歪んだ悪役が出てくるのだが、これはまた現代社会のゆがみの体現者みたいな奴でどちらかというと象徴的な意味合いで妖怪みたいな立ち位置なのかもしれない。(クソ知能犯で身体能力抜群の割に、しかし嫌がらせの一環としてアダルトビデオの音声を電話で聞かせてくる、というのその小物っぷりにちょっと笑ってしまうところもあったけど。(実際にやられたらかなり気味が悪いんだろうけど。))それよりは巨大に悪意へのささやかな毎日の抵抗という意味でのパトリックの立ち位置が良かった。

ブッバが今までのシリーズ以上に活躍するのが良かった。第2作目の活躍はどちらかというと闇の世界に生きる彼の恐ろしさが端的に現れていたが、今作ではひたすら頼もしい助っ人という感じで素直に楽しめる。パトリックをとても大切に思っていることが分かる中盤のエピソードも良い。

パトリックとアンジーシリーズは今作発表後一時沈黙することになる。
区切りの物語。今までの作品を読んだ人は是非どうぞ。まだの人はやはり1作目から。