2014年5月31日土曜日

Kayo Dot/Hubardo

アメリカはマサチューセッツ州ボストンの、うーん、アヴァンギャルドメタルバンドの6thアルバム。
いわゆるクラウドファウンディング形式で有志からの投資を募って制作された。2013年にIce Level Records(フロントマンToby Driverのレーベルとのこと)から3枚組レコードとダウンロード形式でリリースされた。私がもっているのは御馴染みDaymare RecordingsからリリースされたCD2枚組の日本語版。

Kayo Dotを知ったのはいつになるだろうか。熱心なファンという訳ではないが、何枚か音源をもっている。確か始めはカオティックハードコアの文脈でバンド名を目にした様な記憶がある。単純な音楽性からするとあまりカオティックハードコアな感じはしないが、なんとなくこのカテゴリーに入れたくなる様な気持ちは分かる。彼らの音楽はなんとも形容しがたいものだからだ。基本はギター、ベース、ドラムのロックバンド体制なのだが、ジャズ風味が結構大胆に入っている。また弦楽器も導入しているからチェンバーロック的な雰囲気もある。多分に実験的で曲によってはドローンっぽいこともやっているようだ。私は今までの音源を聴いてなんとカテゴライズしていいのかちょっと判断がつかなかった。
で、今作は昨年のリリースからやたらと評判が高かった。如何にも私なのだが、リリース自体に気づかなかったから、すでにレコードは完売状態。遅れてリリースされた日本版をゲットしたのだが、これが中々評判通りの出来だった。

全11曲だがアルバムを通して聴くと100分を超える。だいたいどの曲も10分くらいになる計算だ。曲はかなりプログレッシブでとにかくいろんな楽器が使われている。ギター、ベース、ドラム、鍵盤、弦楽器、シンセサイザー。どれも現代ロックではさんざん使われているものたちだ。
また、曲調もロック、メタル、ブラックメタル、ジャズ、フォーク、チェンバーロックと幅広いが、こちらもやはり現代のロックでは異ジャンルとの混交は珍しいことではない。
しかし、このKayo Dotの手にかかるとどうだろう。ごった煮という表現がこんなに似合うバンドも無いかもしれない。曲によって雰囲気が変わる。曲の中でも雰囲気が変わる。イーヴィルなボーカルを中心に添えたブラックメタル然とした疾走パートが飛び出して来たかと思うと、ピアノが突然前に出てくる。ホーンが唸りだす。ギターが轟音で走り出す。地獄の様なギタードローン。ノイズ。これはパレードではないか。めくるめく走馬灯のようだ。全部一緒にやっちゃいました。まるでキメラの様な音楽だが、その接合部のなんと巧みなことか。鵺がそれぞれの要素を保ちつつ、一個の異形として成り立っている様な整合性がある。パート毎はいびつだが、全体で見ればしなやかな体が形成されている。
音楽体験としてみれば不思議な旅みたいなもので、次はどこに連れて行かれるか分からない様な楽しさがあって良い。ロックってここまで出来るぜ!という里程標のような、しかし誰も行けない場所にある、そんな恐ろしいアルバムじゃないの、実は。私はただののんきなリスナーで良かったなあ。

ぱっと聴いてみたところ、結構ブラックメタルの成分が強めに出ていることに驚いたが、何回も聴いているうちに他の要素に気づいてくる。そして各々の要素が抜群に面白い。聴けば聴くほど面白いアルバム。
一番面白かったのはこのアルバムを聴いてもやっぱりKayo Dotの音楽性をなんて呼べば良いのか分からないことだ。それはとても面白いことだ。実験的という言葉はちょっと言い訳めいたずるさを持つに至ったが、このアルバムは実験的の根源的な意味を体現しているように思える。

どうもWikiをみるにJason Byronなる人物の「The Sword of Satan」という物語に則ったコンセプトアルバムらしく、詩の部分は前述のJasonとTobyが共作しているようだ。LPには40ページに及ぶ物語についてのブックレットがついているらしい。そこらへんも読めたら面白いだろうな。

というわけで各所で良い評判だから既に聴いている人は多いだろうが、まだの人は買って聴いてみると良い。何がなんだか分からんが良い、すごいものだと気づくだろう。
非常にオススメです。買おう!

どれも良いがこの曲は良いね!

デニス・レヘイン/愛しき者はすべて去り行く

アメリカ人作家によるアメリカはボストンを舞台とした探偵小説の4作目。
順調に読み進めて4冊目です。

ボストンの教会の鐘楼で2人きりの探偵事務所を開くパトリックとアンジー。
ある日失踪した4歳の少女アマンダの捜索をアマンダの叔父と叔母に依頼される。事件は地元で大々的に報道され、警察の手によって大規模かつ組織的な捜索が実施されていた。市民の関心も高く、いまさら私立探偵に出来ることは少ないと渋る2人だったが、特にアマンダの叔母ビアトリスの強い願いもあって依頼を引き受けることに。果たして誘拐なのか、失踪なのか。2人の捜査は予想もつかない真実にたどり着くことになる。

原題は「Gone,Baby,Gone」(個人的には原題の方が格好よくて好きだ。)で1998年に発表、本邦では2001年に発売されている。2007年には俳優のベン・アフレックがメガホンを取り映画化されたそうな。調べてみるとモーガン・フリーマンやエド・ハリスが出演しているみたい。観てみたいね。クリントンさんが大統領時代に休暇にもっていったという逸話もあるらしい。調べてみるとパトリックとアンジーシリーズではこれが1番!と推す人も多いようだ。

途方も無いなぞの様な事件が、地道な捜査によって少しずつ明らかになっていく様はすばらしい。なんといっても失踪した少女アマンダの母親ヘリーンのキャラクターが良かった。彼女は無知と愚かさを体現したような女性で、アル中でヤク中、無学で自堕落。要するに頭空っぽの女性で自分の娘アマンダにも当然所有物以上の愛情が無い。しかし失踪事件が大々的に取り上げられた者だから、みんなに注目されるのが嬉しくてたまらない。報道番組での自分の写り様を気にしている様な、そんな女なのだ。いわばこの事件はこの女ヘリーンに振り回される話と行っても良いかもしれない。
主人公の2人はヘリーンを見てすぐに帰ってしまおうとする。しかしアマンダの叔母ビアトリスと叔父(ヘリーンの兄)ライオネル、そしてアマンダ自身に深く同情して捜査を始める訳で、いわば初っ端からちょっと違和感があって、それが捜査が進んでいてもしこりのように残り続ける。そしてラストである。もやもやしていた違和感が明確な形を取って主人公達に問いかけてくる。それは一体何が正しいのか、という疑問であった。
以前何かの感想で警察小説が面白いのは主人公達が正義の側に属している人間で、犯罪という悪とのせめぎ合いで一体正義が何なのか、正しいってなんだ、という根本的な問いかけが浮き上がって来て、いわばその答えの無さとそれ故に産まれる選択の残酷さが面白い〜という様なことを書いた。パトリックとアンジーは私立探偵だから警察官では無い訳だ。もう少し自由に動けるアウトサイダーな訳だけど、そんな2人でもついにこの問題に直面したか、という面白さがあってとにかくそこら編が巧みだ。
正義と悪は概念だから、どうしたってその2つですべてが割り切れる者ではない。じゃあ正義も悪も無いのかというと、それが社会規範によるものなのか、人間が根源的に持っている者なのかは分からないけど、おぼろげながらあるのだろうと思う。それが人によって少しずつ違うから物語が面白くなるのだろう。割り切れないところを割るとそこには納得のできなさ、やるせなさ、怒り、そんな感情が出てくる。それこそ私が物語に求めるものの一つな気がする。選択肢の一つ一つの善し悪し(いうまでもなく読み手によって判断が変わるところ)というよりは、人間のよるべのなさだったり、世界の呵責の無さであったり、そういったものに圧倒される醍醐味である。

という訳で抜群に面白かった。
面白い話ってのはするっと読めないものだとつくづく思う。(時間的には本当するっと読めるんだけど、面白いから。)読んだ後に余韻があってそれが良い。ただ後味が悪いとか、そういうのとは少し違う。

2014年5月18日日曜日

デニス・レヘイン/穢れしものに祝福を

アメリカ人作家によるボストンを舞台にした探偵小説の第三弾。
スコッチに涙を託して」「闇よ、我が手を取りたまえ」と立て続けに読んでいます。楽しいったらありゃしない。
原題は「Sacred」で本国では前作の翌年に出版されている。

ボストンのとある教会の鐘楼で従業員2人だけの小さな探偵事務所を営むパトリックとアンジー。とある事件の後遺症により虚脱状態に陥った2人は事務所を閉じ無為な日々を過ごしていた。ある日自分たちが尾行されていることに気づいた2人は、攻勢に出たつもりが逆に誘拐されてしまう。目覚めるとそこはトレヴァー・ストーンの屋敷だった。大富豪トレヴァーは妻を亡くし、一人娘が失踪。余命幾ばくも無い彼は娘の捜索を依頼すべく、強引な方法で探偵を攫ったのだった。さらにパトリックの師匠であるジェイがトレヴァーから同じ依頼を引き受けた後謎の失踪を遂げていることが告げられる。誘拐されたことにいきり立つ2人だったが提示された破格の報酬と、師匠ジェイの行方、そして死を目の前にしたトレヴァーの態度に感化され依頼を引き受けることに。しかし大富豪の娘の失踪には想像を絶する真実が潜んでいた…

警察小説と探偵小説は似ている部分も多いけど、違うところは沢山ある。
探偵は巨大な公的機関に所属している訳ではないから好き勝手動ける。しかし組織的な後ろ盾が無いから巨大な敵に立ち向かうには手数が足りない。ほかにもいろいろあると思うけど、探偵の特権といったらそのひとつに失せものを探すことがあるのではなかろうか。警察では勿論ペットの失踪は捜査の対象外だし、人がいなくなっても事件性が無ければ大掛かりな捜査は望めない。しかし失踪した人の関係者に取っては大問題である。そこで登場するのが我らが探偵ということになる。探偵と行ったら人探しなのだ。

さて、今作は全2作と比べるとちょっと趣が違う。作者お得意の暴力描写は相変わらず目を背けたくなる様な陰惨さに満ちているし、皮肉を利かせた会話もふんだんに盛り込まれている。しかしいわゆるサイコスリラーやギャングの抗争といった派手なテーマから一歩引いているように思う。また今までの物語を読んだ人なら分かってくれると思うが、全2作では共通して主人公パトリックとその亡くなった父親との確執が大きなテーマの一つだった。暴力的な父親を憎むパトリックだが、自分の中にもある凶暴な衝動が暴力となって発露することに一種複雑な思いを抱えている。(そしてその気持ちを軽妙な会話と軽薄な態度に隠そうとする。)事件がそのまま自身の問題に直結し、ひどく内省的な雰囲気であったが、今作は自分のいる世界(ボストンの貧困と暴力がはびこる地区)とは全く異なった上層のレイヤーに所属する大金持ちの娘の捜索という、全く違う世界の依頼を引き受けることになる。相変わらず当初の想定が二転三転裏切られ、到底信じられない様な真実は明るみになっていくが、それでも物語は外部に向かって広がっていく。パトリックとアンジーは今回も本当死ぬ様な目に遭う訳だけど、どこかしら能天気といったらあれだけどあっけらかんとした感じがある。なんといっても敵役が心底魅力的な嫌な奴だと物語が俄然面白くなるというのが持論なのだが、今作は超悪い奴を懲らしめてやるぜ的な面白さもあってこれはこれで面白い。
また強力なお助けキャラであった幼なじみのブッバ・ロゴウスキーが収監されるという形で物語から一時退場したのも、物語に緊張感をもたらしている要因の一つかも。ヤバいことはブッバに任せれば良いや、ということではないけど、汚れ仕事も全部パトリックとアンジーの2人でやらなければ行けなくなった訳でこれは中々良いと思う。

正直なところ、前の2作にあったどうして人間がこんなことを出来るのだろう?と思わせる
やるせないほどの暴力性の原動力をかいま見る様などろどろとした暗さが希薄な分少し物足りない気持ちもあるけど、一冊の読み物としたらすばらしい出来だと思う。
一見軽薄だが実は真面目な探偵と謎めいた女というのはまさにハードボイルドの王道を行く作りなんじゃないかな。

デニス・レヘイン/闇よ、我が手を取りたまえ

アメリカの小説家によるボストンを舞台にした探偵小説パトリックとアンジーものの前に紹介した「スコッチに涙を託して」に続く第二弾。
1996年にアメリカで発表された後、2000年に邦訳されて日本で出版された。
原題は「Darkness,Take My Hand」だから今回はほぼそのまま翻訳した感じ。

ボストンで私立探偵を営むパトリックとアンジー。アンジーは暴力亭主と別れたものの2人の関係に進展は無く、パトリックは女医のグレイスとその娘メイと幸せな日々を送っていた。ある日旧友のエリックから彼の友人である精神科医のディアンドラの依頼を受けるよう依頼された2人。話を聞くとディアンドラの息子ジェイソンの身がアイリッシュ・マフィアに狙われているという。マフィアの恐ろしさを知っているパトリックは躊躇するが、アンジーの提案で引き受けることになる。調査を始めた2人だが、事態は全く予測のつかなかった方向に向かい、2人の生命を脅かす危険をはらんでいく。

前作があんまり面白かったもので、立て続けに続編を購入した訳だが、まず厚さがぐっと増えボリューム満点。中身の方もより派手になって凄まじい読み応え。
前作はマフィアを軸にした物語だったが、今作はなんと主人公の地元であるボストンの比較的貧しい地域に20年にわたって密かに行われて来た連続殺人が軸になっている。被害者はどれも酷く猟奇的な拷問の上殺されており、事件は未解決、おぞましい死体の山がその高さを増していくというハリウッドお得意のサイコパスを相手に迎えたスリラーの様な展開である。面白いのは形は派手なスリラーだが、あくまでも前作から引き継いだハードボイルドな私立探偵のやり方で物語が書かれて進められるところだ。皮肉とウィットに富んだ、しかしどちらかというと平明で簡潔な文体。機関銃の様に繰り出される軽口。そしてそれらが隠しきれていない何ともいえない暗さをはらんだ物語。
派手なサイコスリラーが捜査の進展とともに外に進んでいくとしたら、この物語は捜査を進めるに従ってどんどん内側に沈み込んでいく様な趣があって、主人公は災いの中心に巣食う闇に相対することによってむしろ追いつめられていくように見える。
読んでて思ったのはこれちょっとスティーブン・キングの「IT」に似ている。道化の衣装に身を包んだ怪しい男達が主人公の幼少期のトラウマの一つになっていること。それからそのトラウマに大人になった主人公パトリックとアンジー、アンジーの元夫フィル、ブッパ、それからケヴィン(こいつは立ち位置がちょっと違うけど。)という昔の友人と立ち向かうという構成がすこし通じるものがある。ただしこちらの方が苦い。悪の象徴ペニーワイズではなくて、こちらは自分の過去と家族にまつわる、いわばそこにある悪に立ち向かうことになる。

デニス・レヘインはどの小説でも暴力を書いている。人殺しやマフィアが出てくる。嫌になるくらいの丁寧な暴力描写。ただ他の暴力が出てくる小説と何が違うのかというと、作者は暴力を振るう人と同じ位、暴力をふるわれる人も精緻に描く。一瞬すれ違うだけの様な被害者もその生きている様な描写といったら結構他に比類の無い位ではなかろうか。殺される人たちはというのはこういった物語では完全脇役であるから、どのくらい死んだってただの数の上の一人ではない様な、要するに顔の無い血の通っていないマネキンの様なものなのだが、デニス・レヘインというのはこういう人たちにこそ血を通わせ、丁寧に描く。それが一体なにのために?といったら私はこう思う。私たちを嫌な気分にさせるためである。作者が性格が悪くて、読者の気分を害してやろうと思っているということではない。思うにデニス・レヘインという人は暴力、いわれのない暴力を酷く憎み、そしてそれが日常に潜んでいて誰もがその被害者になりうるということを私たちに伝えたいのでは。
厭世的な無常観とは少し違うのは、主人公達の存在では無かろうか。彼らが傷つきながらその闇を白日にさらしていくというのは、そんな暴力が蔓延する世界に対しての、作者なりの抵抗というか希望の暗示なのかもしれないと思った。

という訳で下品な物言いで悪いのだが、本当クソ面白い小説で、500ページがあっという間であった。寝る間を惜しむ読書のなんと楽しいことか。
気になった人は前作から読んでいただきたい。

2014年5月11日日曜日

デニス・レヘイン/スコッチに涙を託して

アメリカの作家による探偵小説。
1994年にアメリカで発表されてその後邦訳。
作家名は「デニス・レヘイン」とクレジットされているが、日本では「デニス・ルヘイン」とも。ここら辺は発音だから正直どちらでも良いが。映画化された「ミスティック・リバー」の原作者で、このブログでもレオナルド・ディカプリオ主演で映画化された「シャッターアイランド」、ボストンを舞台にしたコグリン家サーガ「運命の日」と「夜に生きる」を既に紹介したが、時系列でいえば著者のもっと前の作品が今作。さらにいうならば遊びで書いたつもりがデビュー作になってしまったという作品。私立探偵パトリックとアンジーシリーズの第1作目である。

ボストンで私立探偵を営むパトリック・ケンジーと共同経営者アンジェラ・ジェナーロ。事務所は教会の鐘楼を借りた小さなものだが、腕は確か。ある日既に亡くなっているパトリックの父親と面識のあった上院議員から彼の掃除婦だった黒人の女性を捜してほしいと頼まれた。彼女の住所に行くと既にもぬけの殻で部屋は何者かに荒らされていた。その晩なぞの追跡者に襲われたパトリックは、この事件が簡単な失踪事件ではないと気づく。

始めにいってしまうとかなりハードボイルド物語である。ハードボイルドというとスーツに帽子を被った無口な伊達男が夜霧に煙る町を歩き、強い酒を飲み、派手な女といい感じになり、デカい銃で解決というイメージが勝手にあるのだが、一見この話はそんなことは全然ない。
主人公の男女2人はとにかく軽口を叩きまくる。アメリカンジョークというのだろうか、皮肉に満ちた時にかなり辛辣なやり取りが主人公達の周りでまるでドミノ倒しのようにぱたぱたと展開される。実際軽口とともに物語が進んでいくと行っても過言ではないくらい。この作りはこのブログでも紹介したけどジョー・R・ランズデールのゲイの黒人ハップとその相棒で白人のレナードの物語にすごく似ている。マシンガンの様な軽口は勿論、作者は2人とも(恐らく)差別に対して嫌悪とそして考察をもっている。
ただ結果的に話の趣が結構異なっているのは面白い。ランズデールが陰惨な状況を笑い飛ばす明るい外向性をもっているとしたら、ルヘインは軽口を叩いている癖にその物語はきわめて内向的で息苦しい。事件は世相の反映で世相が変わらないこの世の中では悪がつきることは無い、そんな無力感が強く物語を覆っているように思う。

この物語は一癖も二癖もある登場人物が沢山出て来て、その関係性はどれも複雑である。(まず主人公2人の関係性からして面白い。)しかしあえて一言に集約してしまうと、この話は徹頭徹尾父親と息子の関係を描いている。もう少し噛み砕くと父親的権力と、それに虐げられる息子という構図である。
パトリックと亡父の関係は酷いもので特に最期のシーンは鳥肌がたつほどもの凄いものだが、権力を笠に着て暴力を振るうもの、人を人と思わないその残虐性、嗜虐性、高級スーツに身を包んでも隠すことが出来ない獣の様な低俗性。彼らが弱きものを痛めつけるのだった。そんな世界で一体何が出来るのか?ただの事件に取り組むパトリックのはずが、とんでもない解決不能の問題のただ中で奮闘することになる。
物語全体で入れ子構造のようにそこかしこにこの醜悪な関係性が見て取れる。嫌になる位の反復性で、読んでいるこちらは一見軽いその語り口に一旦は騙されるのだが、読み進めてふと気づくと滅茶苦茶重苦しいその雰囲気に首まで使っている。これはひとえに作者の凄まじい手腕によるもので、言葉を綴るのが小説なのに、デニス・ルヘインという人はその言葉の外にも影響をもっていて読者の頭の中で完成する物語全体を完全にコントールしているようだ。著者が人種差別を憎んでいるのは間違いないと思う、けどそれは単に黒人白人かという問題に収まらない。作者は理不尽な暴力を何よりに組んでいてそこが一番分かりやすく現れたのが、この本の書かれていた時代のアメリカが抱える黒人と白人の問題だったのかもしれない。物語の中盤で白人の主人公パトリックと彼の友人で黒人の敏腕記者リッチーが繰り広げる舌戦が作者の思いを直接的に表現している様な気がする。
その中からリッチーの一文を拝借。
「頭にくるぜ。異性愛者は同性愛者を憎み、今や同性愛者は一発やり返そうとしているんだ、それがどういう意味であれな。レズビアンは男を憎み、男は女を憎み、黒人は白人を憎み、白人は黒人を憎み、そして…誰もが責めるべき相手を捜しているんだ。つまりだ、自分の方がそいつらよりましだとわかっている連中が大勢外にいるのに、自分を鏡に映して見るやつはいないってことだ。」
この物語はとても面白い。会話は軽妙だし、銃撃戦も派手だ。登場人物は魅力的で格好よい。しかし根底になにかしらこちらの人間性に訴えかけてくる何かがあると思う。
探偵小説というには暗すぎるかもしれないが、読み物としての面白さは群を抜いている。
すぐにでも読んだ方が良い一冊だと思う。私は大好きだ。

2014年5月10日土曜日

Floor/Oblation

アメリカはフロリダ州マイアミ(行ってみたいね、マイアミ。)のドゥーム/ストーナーロックバンドの3rdアルバム。
2014年にSeason of Mistから。私が買ったのはボーナストラックが追加された御馴染みDaymare Recordingsからリリースされた日本版。

Floorといえば重たい演奏にポップなメロディをのせるストーナーロックバンドTorcheのギターボーカルSteve Brooksが組んでいたバンドとして結構有名なのかな?2004年に解散していているのだが、2010年にはなんと8枚組の編集版がリリースされたりして結構(狭い)世間をにぎわせていた印象。そんな彼らだから2013年に再結成、そして翌年ニューアルバムリリースというのは待望という感じなのかも。

私は前述の編集版「Below&Beyond」しか聴いていないのだけど、クッソ重い演奏、かなり実験的と行っていいほど孤高な音楽性、そして曲によってはたまにきらりと光るメロディアスさという印象で、Torcheに比べると取っ付きにくいのだが、その後の片鱗が垣間見える様な作風でとても気に入りました。中でも「Tales of Lolita」という曲は何ともいえない切ないメロディラインがたまらなくてかなりお気に入り。

今回の新作ではオリジナルアルバムとしては10年ぶりとなるわけだけど、少なくとも音楽性にそこまでのぶれは無いと思う。
3人組だがドラムにギターが2人でベースレスというやや特殊な布陣。やはりTorcheに比べると音楽的にはもう少しハードという感じで、重いギターリフがまるで鈍器のようだ。重い低音がぐーんと伸び、そしてズブっと停滞する様な独特乗りリズム感がたまらない。余韻を残して残る音がとにかく格好いい。ドラムはバスドラが重々しい反面、乾いたタムとシンバルが曲にすごい緊張感を与えているように思う。たまに疾走するパートは速さ自体はそこまでではないけど、ずっしりかつ開放感があって良いブレイクになっている。
Steve Brooksの声は相変わらずクリーンというか澄んだ独特の声質で非常に伸びやかに歌う。この演奏に容赦のないデス声を乗っけたらそれはそれで格好いいのだが、なんといってもFloorの魅力はこの声とメロディラインではなかろうか。解説で山崎さんも書いているが、Torcheでの経験を生かして曲によってはかなりポップだ。壮快といっても良いくらい。逆にこんな重い演奏にこの歌声をのせる訳だから相当捻くれているとも思える。曲が比較的短めなのも良い。音の作りはまさに鋼鉄だが、演奏がハードコア由来思わせる開放感のあるもので密室的なメタルの雰囲気がそこまで無いのも聴きやすさの一因かもしれない。

劇的に重たく実験的な楽曲にポップなメロディをのせるという、この両極端を綱渡りのように優れたバランス感覚でスイスイと歩き回る様はなかなかどうして簡単なようで唯一無二ではなかろうか。
かゆいところに手が届くというか、これこれこういうの欲しかったんだよね、という要望にきっちりハマる良いアルバム。

2014年5月6日火曜日

タテタカコ/そら

日本の女性シンガーソングライターによるミニアルバム。
2004年に日本のVapからリリースされた。
ジャケットは是枝裕和監督の「誰も知らない」のワンシーンの画像。全7曲収録でその中の1曲「宝石」が前述の映画の挿入歌になっており、タテタカコ自身も出演しているらしいが、私は映画は見ていない。
なんで買ったかというと、私の大好きなバンドで日本は大阪を拠点に活動するBirushanahというバンドがあるのだが、彼らがちょうど昨日(2014年5月5日)大阪で汁ソニックなるイベントを開催。関東に住む私は行きたいな〜とぼんやり出演者などを眺めていると「タテタカコ」の名前があった訳である。汁ソニックは前述の和風スラッジBirushanahを始め、ラディカルな青春パンクの下山だったり、超ダークいフォーク歌手友川カズキだったり、ジャンルは違えど中々濃いい面子であるから、なんだか女性のシンガーというとそれだけで異彩を放っている訳で何となく気になったので前述の「宝石」をyoutubeで視聴したら、これがまあ格好よくて今回このCDを買ったという訳だ。

タテタカコはピアノを弾いて歌う弾き語りスタイルで、このミニアルバムに収められている7曲に関してもほぼほぼ全編ピアノと歌がメインに据えられている。他の楽器も登場するがあくまでもメインを引き立てるくらいの役割くらいだ。
ピアノにしても技巧自慢で弾きまくる訳ではないから、曲の中心には歌があるってことになる。
伸びやかな歌声でとにかく良く歌う。女性らしく透明感もあるのだが、お腹から歌う様な力強さがあって、一見儚さとは無縁だ。息継ぎの音も生々しく、録音状態がいいのか耳元で歌っている様な迫力があって、なるほどノイズやエフェクトにまみれた音楽ばっかりきいているからか、たまにこういう音楽を聴くと妙に新鮮でよい。
この人は声量もきっとあるだろうから、歌い方もあってエネルギーに見ているのだが、好みにアルバムに収められているのはほぼほぼバラードといってもよい曲調だと思う。歌声は力強いのに、どうしてこんなに切ないのかはさっぱり分からない。こればっかりは謎であって、一見儚くはないのに、声はでかいのに今にもどこかに溶けてしまう様な物悲しさがあって、これは訳が分からない。無駄話をしていて振り返ったらもういなくなっているんじゃないか、という妙に恐い感じもして、そこがたまらない。
思うに感情というのは色々な込め方があって、それは形式にこだわらず結構人の心に刺さるものなのかもしれない。そもそも感情に喜怒哀楽を始めとして名前を付けるのが間違っているのかもしれない。あまりにそれは対象を限定してしまう。私たちの思ったことは、もうちょっともやもやと訳が分からない何かなのかもしれない。
とにかくそういったものがストレートに伝えるには、でかい音や沢山の楽器が必ずしも必要ではなく、時にはちょっと邪魔にすらなるのかもしれない。このCDに収められている楽曲の中のピアノの何と饒舌なことか。

というわけでとても良かった。バンドサウンドが虚飾にまみれた戯れ言だとは勿論いわないが、だからといって対極にある様な楽曲が悪いはずが無い。
まあちょっと聴いてみてくださいよ。

S・J・ボルトン/緋の収穫祭

イギリスの作家によるミステリー小説。
2014年に東京創元社から出版された。
計らずともミネット・ウォルターズからイギリスミステリーが続く結果に。

フレッチャー一家はイギリスのとある田舎の町ヘプトンクラフに引っ越して来た。
その町には血の収穫祭と呼ばれる伝統的な儀式が未だ行われている閉鎖的な場所で一家は中々とけ込めないでいる。そんな中長男で10歳のトムは不思議な声と不気味な姿をもつ少女を見かけるが、周りの大人はそれを信じようとしない。
一方町に赴任して来た若い司祭ハリーは、閉じられていた教会を再開するが、様々な嫌がらせを受ける。
そんな中嵐の夜に教会の兵が崩壊、巻き込まれて壊れた墓の中から埋葬された子供の骨のかに2人の子供の死体が見つかる。

Amazonからお勧めされて作者の名前は知っていて気になっていたので新作が出たタイミングで買ってみた。今までの2冊は上下分冊だったけど今作は1冊にまとめられている。とはいえほぼ600ページというかなりのボリューム。
イニシャルしか書かれていない作者名からは分からないのだけど実は女性の方。私はてっきり男性だと思って読んでいたのだけど、途中で主人公の男女が出会うシーンを読んで、あれこれ女性じゃね?と思って調べたら女性でした。たまにこういうことあるよね。特に女性の作家が男性の描写を丁寧にしたりすると女性っぽいなと感じることがある。同じように男性作家が恋愛のことや女性の魅力的なポイントについて描写するところで、女性の読者は男っぽいな!となるのだろうね。

肝心な中身の方はというと…
禍々しい因習が残る排他的かつ閉鎖的な村社会。そこに紛れ込んだ都会人。威圧的な村長(実際には町の実力者だけど)。陰惨な過去の惨劇。見られている気配。不気味な声。不気味なフリークスの陰。町の伝統儀式が近づくにつれて高まる緊張感。
とミステリーというよりはB級ホラーのテンプレートを地でいく様な設定に驚かされる。これは恐い訳は無い。ただし描写が丁寧で派手さが無いので、下世話なスプラッター感は皆無である。誰かが殺された!犯人は誰だ!という雰囲気ではなくて、なんだか良く分からないけど何か良くないことが進行している、というその渦中に放り込まれた様な頼りなさが何と言ってもたまらない。中盤物語は走り出し、ミステリー的な決着を見せる作者の手腕は中々のもので、見事な話の作り方だと思う。一見人目を引く派手な設定に対しても丁寧に理由というか納得できる真相を用意しているところが非常にミステリー的でニクい。一見どう見ても化け物なんだが、それに向けて銃をぶっ放して解決するという非常に男性的な作りではなく、一歩引いてライトを当てて、これは〜〜ですね、と説明する様なイメージ。この観察、推論、説明というプロセスは実は一番真っ当な化け物退治何じゃないかと思った。恐れは人の目を見えにくくするとなれば、闇雲に打ち倒すよりはよほど勇気があるだろうと思う。

この記事の前で紹介したミネット・ウォルターズでもそうだったが、どんよりと曇った英国の空の下でなんともいえない緊張感をはらんだ人間関係がねっとりと書かれる様は、モダンなミステリーというよりは、日本の風土を反映した横溝正史の一連の金田一シリーズに通じるおどろおどろしさがあって、これは意外に日本人の読者にはすっと受け入れられるのではなかろうかと思った。
また物語の中心にある犯罪というか、謎の作り方がとても女性らしくなんともやるせないものになっている。読んだ方は分かると思うのだが、これは女性と子供達の話で男性は常に中心のその周辺部にたたされている。傍観者というのではなく、彼らなり日本そうしているのだが、意図的だかどうだかは分からないが、確信には到達できない。なぜかというと女性は人に向いているが、男性陣はそうではないだろうか。ここら辺はもっと読み込んでみると面白いかもしれない。そうえいばかの有名な「フランケンシュタイン」を書いたメアリ・シェリーは女性であった。

という訳で長いけど面白かった。
日本の因習因果系ミステリーが好きな人にはガッチリハマると思います。

2014年5月4日日曜日

ミネット・ウォルターズ/養鶏場の殺人・火口箱

英国犯罪小説界の女王ミネット・ウォルターズの中編を2つ収録した本。
2014年に東京創元社から発売されている。
以前読んだ彼女の「遮断地区」がとても面白かったので購入。
遮断地区はジェットコースターの様な作風で本当に短期間で矢継ぎ早に進行する緊急事態を長さを全く感じさせない筆致で書いたミステリーというよりは緊迫したスリラーのような作風だけど、今回は2編とももっとスピードを落とし、より本格ミステリー性を前面に打ち出した作品となっている。
面白いのは2つの中編とも普段本を読まない人に読書の楽しさを知ってもらう、というコンセプトによって書かれていることだ。養鶏場の殺人の方はあまり文学に馴染みのない大人を対象に分かりやすく平易な言葉で書かれている(クイック・リード計画というらしい。)し、火口箱の方は間口を広げる意味合いで無料で配布されたそうだ。従ってどちらの本も読みやすく分かりやすい文体で書かれている。昨今の翻訳物は訳者の方々も相当に気を使ってとても分かりやすく訳してくれるものだから、よっぽどでない限り翻訳物は読みにくいということは無いだろうと個人的には思っているが、そこら編が気になる人でもこの本だったいけるのではなかろうか。

養鶏場の殺人
1924年イギリス北ロンドンで第一次世界大戦の若い復員兵ノーマンはエルシーと出会う。エルシーは当時ノーマンの4つ上の22歳。気難しい性格で周囲から辟易される変わった女性で、いき遅れになることに焦りを感じる彼女はノーマンとつきあうことになる。
仕事を解雇されたノーマンは父親の援助で養鶏場を始めるが、経営は上手くいかず、極端に自己中心的な性格のエルシーに嫌気がさしてくる。ある日ノーマンのもとを訪れたエルシーが行方不明になり、ノーマンに嫌疑がかかるが…

実際にイギリスで発生した殺人事件をもとに、作者がかなり丁寧に物語として再構築した作品。当時のイギリスで相当物議を醸し出したらしく、あのコナン・ドイルも殺人犯と目された男性の判決に対して異議を唱えたということだ。
作者も自分の意見をはっきりと作品に反映している。つまり男性は無実だという立場である。無実の男性が絞首刑に処されたというのは悲劇で、確かにこの話自体は大きな悲劇であるといえる。登場する男女は2人ともそれぞれに非があるが、ご存知の通り日常生活でどちらが悪いからと決めつけて事態が収まるものではない。2人とも真実幸福になりたいはずなのに、一緒にいてどんどん不幸になり、終いには最悪の破局を迎えるという、この構成事態が悲劇的なものだと思う。


火口箱
世紀末のイギリスの田舎町で老婦人と住み込みの看護婦が殺された。老婦人の家に出入りしていたアイルランド系の前科者が老婦人の貴金属を隠し持っていたことから、容疑者として逮捕される。小さな田舎町では容疑者の家族に対して執拗な嫌がらせが始まり、同じアイルランド系の女性シヴォーンは容疑者の無実を進じ田舎町にはびこる偏見と闘うが…

イギリスの田舎町の嫌らしさをこれでもかとばかりに書いた作品で、読んでて憤ること間違いなしの優れた一品。とにかく登場人物がみんな腹に一物あり、年古りた狸や狐の化かし合いめいたおどろおどろしさがあって、読んでてイギリス行きたくねえ〜、と思うこと請け合いである。面白いのは中盤以降でここからある種ここまではひたすら煙に巻かれる正義感の強い主人公の女性が「よくわからなくなってまいりました」状態になって停滞しているところ、あっ!!というラストに向かって一気呵成に動いていく。これは遮断地区でもあったけど作者の醍醐味では無かろうか。

中編と侮る事なかれ、どちらの物語もむちゃくちゃ濃厚で、しかもどちらも何ともいえない負の感情がそこの方にどろりとたまっていて中々の不快指数である。
基本は真相はどこあるのか?というミステリーの形を取りつつ、実は人間関係を密に描くことで人間の持つどうしようもないダメさや陰険さをたっぷりと書き、こちらがメインで真相という餌で読者を誘いつつ、この嫌〜らしい過程を魅せることが作者の狙いじゃないのかな…と勘ぐりたくなる様な作風がすばらしいじゃないか。
というわけで風光明媚なイギリス小説が読みたいという夢みがちなあなたにお勧めの一冊。