第一条 ファイト・クラブについて口にしてはならない。
自動車会社のリコール業務担当の僕は物質的には恵まれた生活を送っているものの酷い不眠症に悩まされていた。不治の病に冒された人の互助グループに身分を偽って参加する事で生を実感しなんとか心の平穏を保っていた。ある日自宅が爆破された僕は偶然知り合ったミステリアスな男タイラー・ダーデンの家に転がり込む。「俺を力一杯殴ってくれ」バーの駐車場で力一杯殴り合った僕とタイラーはファイト・クラブを始める。メンバーはバーの地下室で殴り合うのだ。僕の非日常が加速していく。
「ファイト・クラブ」は有名だ。どっちかというとデヴィッド・フィンチャー監督ブラッド・ピット主演の映画の方が有名ではなかろうか。カルトというには有名になりすぎているが所謂メインストリームから外れている作品であるのではなかろうか。私ももう何年前になるのか主出せないほど遠い昔に映画を見た記憶がある。
その原作は小説だった。有名作品の原作だというのにどうも長らく絶版状態になっていたらしいのだが、このたび早川70周年復刊フェアの一環として著者の後書きを追加して新版として再販された。ギブスンの「クローム襲撃」を買いそびれた私はこちらに飛びついた。
映画を見たのは学生の頃だからもう忘却の彼方だ。初めて読むくらいの気持ちで楽しめたが、この小説なかなか一筋縄ではいかない。途中までは翻弄される主人公同様にかなり戸惑い気持ち悪い思いをしたものだが、読み終えてまず言いたいのは(当たり前だが)これはアナーキストの教科書ではない。これは何にもなれなかった惨めな男の奇跡の物語なのだ。いわば危険でミステリアスな男タイラーが「僕」の天使だった。ただあまりに変わっていたから彼が天使だと「僕」は思わなかった。これは象徴的且つ比喩的だが、こう思うのだ。だれでも天使にあって彼に導かれても彼が天使だと分からないのだ。戸惑って流されるが、自分が行き着くところが予想できたら天使を拒絶するだろう。それこそが「僕」も含めて冴えない男たち(=私たち)が冴えない理由でもあるのだが。
冴えない私たちはいつもこう思っている「変わりたい」と。だが本当に何かかえた事があるだろうか?「僕」は不眠症に悩むくらいだったら仕事を辞めたって良かった。「僕」はマーラに自分の気持ちを伝えたって良かった。「僕」はファイト・クラブが制御不能になったときさっさと離脱して良かった。でも実際にはどうした?どうもしなかった。そんな「僕」の日常をタイラーは荒々しく壊した。でも「僕」はそれを歓迎できたのだろうか?タイラーは荒々しい天使で、文字通り冴えない「僕」を殺そうと、変えてやろうとしたのだ。「僕」が冴えなかったのは幾らか外的な影響(仕事、家庭、そして支配的かつ適当な父親)も勿論だが、最終的には自分の所為だった。自分を変えるにはそんな自分を壊すしか無い。ファイト・クラブは殴るクラブではない。ファイト・クラブは他人に暴力をふるうクラブではない。ファイト・クラブに所属する人間は社会転覆を目的にするアナーキストではない。彼らは壁に落書きをし、ものを盗み、爆弾を作るが決してアナーキストではない。ファイト・クラブは確かに殴る場だが、殴られる場でもある。武器の使用は認められない。お互いに正々堂々殴り殴られ合わなければならない。私たちは自己を破壊しなければならない。駄目で冴えない自分を、私たちは殴って壊さなければならない。「僕」そして私たちは頑迷で固陋だった。私たちは不満に満足してしまった。私たちは決して天啓を得られず、そして「僕」のように奇跡が起きてもそれを受け入れる事は難しい。そういった意味で大変無慈悲で無常な小説であるといえる。
一言で言えば最高の小説じゃん。
名前は知っている、映画は見たけど…という人は多いだろう。沢山の人に愛されている作品なのだから読むのに躊躇する理由はないだろう。すぐに買って読んだら良いと思いますよ。
映画のトレーラー、バックの音楽がえらいカッコいいと思ったらPixiesの「Where is My Mind?」という曲らしい。Pixies聴いた事無かったけど買ってみた。良い!
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