私はSFマガジン自体読んだ事が無いし、この一連のシリーズも前の2冊をスルーしている様な不信心ものである。サイバーパンクや!とばかりにこの本を取ったのだった。オールドスクールなSFファンの人たちには申し訳ない。
さてサイバーパンクと書いてしまったが、この本は編集した山岸真さんが最後の後書きで書いているがサイバーパンク的な小説やその範疇に入る小説が名を連ねているのは確かだが、厳密に言うとサイバーパンクアンソロジーではない。理由は明確で70年代に勃興したサイバーパンクムーブメント以前の作品を含むからである。日本で大人気のグレッグ・イーガンの短編も含むからSFのあらゆる時代を網羅しながらも”人間を超える”というテーマに沿った小説が編まれた真摯なアンソロジーになっている。
人間を超えるというと神を超越的な意味合いでそれこそ不遜な響きが幾らか含まれるのだろうが、科学技術という人間の英知を結集してあっさりその感情的な壁を越えるところにも面白さの一つがある。つまりブレイクスルーはあれど自然な(科学を自然というのは面白いな)進歩の果てに超人間があるので、別に人間を超えるといっても薄型テレビみたいなものじゃない?という無邪気な動機がある様な気がする。(それはやはり奢りや無知や無配慮が含まれるようには個人的に思う。)
もう一つ面白いのは肉体の軛を逃れるところに個人的な興味がすごくある。人間のご立派な精神は肉体に超左右されるのは皆様ご存知の通り。体調が悪ければ気分が悪い。血が沢山出たら正気でいられない。よくも悪くも異性への興味によって行動が酷く影響される。挙げればきりがないが私たちの精神は肉体という牢獄にとらわれているとかなんとか。デジタル人間というのは如何にもサイバーパンク的でもはや目新しくはないが、その先にあるだろう超人間の生活とその変容ぶりが気になるのだ。私は夢みがちな人間なので常に未来が気になっている。技術の革新が人を幸福にするのではという半ば宗教じみた願いみたいなのがあり、それがSF小説に対する動機になっていたりする。(ただ大抵未来はディストピアになっているんだよなー。天国は物語にならないのかもしれない。)いわば超人間たちは人間の苦しみから解放された文字通りの新人類なのだ。
アンソロジーという形態を採る以上短編〜中編という制約がある事もあるのだろうが、おそらく山岸真さんの意図もあってこの本に収められている物語はどれも未来の人たちの生活に根付いている。例えば前に紹介した「オルタード・カーボン」のような未来で繰り広げられるハードかつエンターテインメントな世界観とは明確に一線を画している。大きく姿を変えた未来人と旧大全とした人類が対立するかのように出て来たり、酷く人間的な悩みである家族の喪失に科学技術でもって決着をつけようとする人が出てくる。やはり「そこにある未来」というのは隠れたテーマでこんな未来はどうですか?という問いかけが根底に横たわっている様な気がした。
このアンソロジーに出てくるポストヒューマン、つまり超人間たちは多かれ少なかれ現在の私たちからはギャップがあるから、ざっくばらんにいって違和感やもっと言えばグロテスクさも感じ取れてしまう。しかしこれは現状との差異に戸惑っているだけなのか(つまり時がくれば私たちでも受け入れられる自分の姿なのか)、それとも超えてはならない禁忌の壁(酷く反SF的な表現である。)を超えた呪われたものどもの姿を見て本能的に嫌悪感を感じているのか、はっきりと判じきれない。そしてそこに酷く面白さを感じるのある。
という訳で面白かった。サイバーパンク好きな人はどうぞ。
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