1940年代、19歳になったジョン・グレイディ・コールはメキシコとのテキサス州のメキシコとの国境近くにあるもうじき軍に接収されてしまうマック・マクカヴァン牧場で、ビリー・パーハムらとともにカウボーイとして働いていた。ある日カウボーイ仲間とともに訪れたメキシコの娼館でひとりの少女の娼婦に目を引かれたジョン・グレイディは、後日彼女を探すが店から姿を消していた。夜の町で奔走して彼女・マグレダーナの居所を突き止めて逢瀬を重ねるジョン・グレイディは彼女を身請けする事に決める。ビリーらは彼をいさめようとするが次第に彼の情熱に打ち負け、ジョン・グレイディの道ならぬ恋を応援する事にする。
今回は「馬」の主人公ジョン・グレイディ・コールの物語、脇にいるのが「越境」のビリーというファンには鉄壁の布陣はまさに三部作の最後にふさわしい。
「越境」はずーーんと重たい小説だったからまず今作の瑞々しさにはビックリ。ひたすら苦難の道を馬に乗って歩んだ哲学的な前作に比べると、失われ行く最後のカウボーイのフロンティアの荒々しくも美しい景色の中で、まだ若いジョン・グレイディの恋に焦点があたられている今作は読み口も軽やかですらすら行ける。
マッカーシーが何故今とはちょっと違った世界を書くのかというとそれは既に失われてしまった世界自体を書くのが目的な様な気もするのだが、個人的には荒々しい世界の本質が現代だと少し見えにくくなっているからではなかろうかと思ったりした。ごく簡単に言うと自然が多くて、視界が開けているのがちょっと昔。楽園かというと次第に文明に取って代わられる予兆が既に見えていて暗い雰囲気もちょっとある。だからこれから無くなってしまう自然と世界の本質みたいなのの哀切ってのがあるのでは。兎に角マッカーシーのこの三部作では親善の描写が美しい。文体の向こう側に見える景色の壮大さに目を見張るような描写があってそれがわたしに取ってはもの凄い魅力なのだ。しかし美しいだけでなくいかにその世界が残酷で血と骨(と豊無しと同じ暗い豊かな死)によって成立しているのかというのをあくまでも、直接的な言葉ではなくて生き生きとした動物の生き様を描写する事で描こうとしている。良いとか悪いとかではなくて、暖かくて(熱いくらいかも)そして残酷なのが世界なのだ、と言わんとしているように感じられる。
そんな世界で特異な存在が人間であって、おおよそ悲劇というのも人間がいるから起こるんですよ、というように悲劇を書くのがマッカーシーで、今作も娼館の経営者エドゥアルドという悪漢を登場させていて、こいつがジョン・グレイディの輝かんばかりの恋愛に暗い影を落とす事になる。このエドゥアルドというのはおよそビジネスマンらしくない不可解な執着があって(恋愛というのが不可解な執着なのだから、ジョン・グレイディと同じくマグダレーナに恋をしているとしたら仕方の無い事ではあるのだろうけれど。)、若くて前途のある若者2人の前に立ちはだかる訳である。カウボーイだろうが娼婦だろうがそんな事は関係なくて、悪意という奴がたとえ幻であっても(周りの人はジョン・グレイディに恋愛や結婚なんて幻だぞと忠告するのだ。)幸せというのを害してしまうのだ。
だからマッカーシーの小説には二重の残酷さみたいなのがあって、結果とても悲しい物語になるのかもしれない。因に「平原の町」の由来は聖書のソドムとゴモラのことだそうだ。
巻末に書評家の豊崎さんがキャラ萌え小説としても読める!と書いていて彼女は主人公ジョン・グレイディのかっこよさについて語っている。なるほど〜と思ったが、自分は圧倒的にビリーが良かった。(男性目線だとビリーがいいのかも。)なんせあの前作、長く思い旅路をビリーと一緒に旅をした様な気持ちになっているから応援せずにはいられない。16歳だったビリーも28歳になっていて、あんなに辛い思いをしたのに後輩思いの優しい男になっている。直情径行のジョン・グレイディのなかに生き別れ、亡くしてしまった弟ボイドを見ていて本当に肉親のように可愛がる。特にジョン・グレイディのために2回も娼館を訪れエドゥアルドと対峙するシーン(特に後半の娼館〜警察署の流れがヤバい。)は熱すぎて涙が込み上げてくるようだった。
相変わらずの文体だが、さすがにもう慣れたのか全然気にならず最後まですーっと読めた。黒原敏行さんの翻訳も簡素ながら読みやすくばっちり。
「馬」と「越境」はどっちから読んでも良いと思うけど、これを読む前には絶対その2作は読んでおかないと駄目だと思う。もしこの本が気になった人は長い旅になると思うが、前の2作のいずれかから是非どうぞ読んでみてください。とっても素晴らしい体験ができる事は保証します。
文庫になったのは全部読んだから次は「ブラッド・メリディアン」かな〜。