2013年4月28日日曜日

ユッシ・エーズラ・オールスン/特捜部Qー檻の中の女ー

デンマークのミステリー・警察小説。
組織のつまはじきものの男性刑事と謎の移民男性という珍しい組み合わせバディものの第1作。第3作目は北欧の最も優れた推理小説に贈られるという文学賞、銀の鍵賞を受賞した。

コペンハーゲンの刑事カール・マークはある事件の捜査で犯人に襲われ、同僚一人を亡くし、もう一人の同僚は半身不随に。カール自身の怪我は軽く、罪の意識に苛まれる彼は警察の職務にいっさいの情熱が持てなくなってしまう。
同時期現在の政権は新たな警察組織の結成を公約。”世間を騒がせたが未解決に終わった知名度のある事件”の再捜査をその新組織で行うというもの。かつては敏腕だったものの、今ではすっかり情熱を失ったカールを持て余した上司は、彼の厄介払いと新組織に伴う使い予算を目当てにコペンハーゲン警察下に新たな組織を結成。担当メンバーはカール一人。
組織の名は、特捜部Q。
警察署の地下に追いやられ、(警察官ではない)雑用係としてシリア系の移民アサドが割り当てられる。あかさらまな厄介払いに腐るカールに、変人アサドは無邪気に捜査を促す。形だけでもと、当時世間を騒がせた美人女性議員失踪事件の捜査に乗り出す2人だが、事態は思わぬ方向にむかい、真相が次々に明らかになる。

流行に乗って北欧の警察小説を読みあさっているけれど、(元々はクルト・ヴァランダーシリーズを読んでからどっぷりです。)これもその中の一冊。
クールだけど素っ気ない表紙、そして何より傷を抱えたシニカルなはみ出し刑事。
そして作者の御尊影がこちら。
苦みばしり、世間の表も裏も知り尽くしたお顔ではないか。記者かひょっとしたら傭兵かという強面である。
これはなかなかハードボイルドそうな小説だぜ、ゴクリとばかりに妙に居住まいを正してページをめくり始めたのだが、なんとこの小説かなり面白い。おもしろいのはもちろんお話としてもすごく、面白い。また同時に結構コミカルでもある。かなり悲惨な内容を扱っているので、正直読み進めるのがつらいところもある。特に犯人たちの執念とそのレールの外れ方といったら、本を壁に投げたくなるくらい自分勝手でおぞましいものなのだ。しかし、同時にコミカルでもある。このコミカルさがこの小説の優れたところの一つだと思う。おそらく作者はテーマ的に、また一連の警察小説のようにどうしても物語が陰惨さ一辺倒でひたすら暗くなってしまうことに憂慮して、意図的に喜劇的な要素を強めに入れたのだと思う。この話のコミカルさは会話の妙もあるけれど、一番は謎の移民男性アサドというキャラクターのよるところが大きい。アサドは警察官ではなくただの雑用係として雇われている。部屋の片付け掃除をし、資料の片付けをしてカールにお茶を出す。アサドは無邪気だ。むくれるカールに「速く速く捜査しましょう」とせっつく。謎のお茶を出してカールを閉口させる。女好きで署内の女性とすぐ仲良くなれる。車の運転が超荒い。そしてデンマークに来る前の経歴は謎に包まれている。このアサドがま〜縦横無尽に動き回るのである。ぺちゃくちゃおしゃべりするのである。署内のピリピリした緊張感なんて吹き飛んでしまうのである。過去の事件に悩むカールもウジウジしてられない訳である。堅物とエキセントリックな変人という組み合わせ自体は珍しいものではないかもしれないけれど、ここまであっけらかんとしたシリア系移民というのはなかなかないのではないだろうか。ある意味でアイディアの勝利である。

さてまたもう一人の主人公カールのキャラクターもアサドに負けないくらいよい。こらまたエキセントリックな別居している妻がいて、妻とその愛人のためにやたら金をせびられたり、同居している血のつながらない思春期のヘヴィメタル好きの息子との関係性に悩み、こらまた同居しているモーデンは料理の腕は抜群なのにこれまた変人。半身不随になってしまった同僚を根気よく見舞うも「殺してくれ」と頼まれる。女性関係では失敗ばかり。自分の体調もわるく捜査の途中に倒れてしまう。いわばまあとんでもなく絶不調で浮き世の憂き目ばかりみている訳なのだけれど、カールときたらへこたれないのである。スロースターターで始めは地下で居眠りばかりしていた彼だが、アサドに尻を叩かれ嫌々ながらも捜査に乗り出すとかつての敏腕刑事が目覚め、エンジンがかかったとみるや難解な(何せ一回は迷宮入りした事件な訳である。)捜査に全力で立ち向かう。

この物語上記変わり者2人の凸凹コンビが活躍する話に間違いはないのであるが、個人的にはもう一人主人公がいると思っている。それがサブタイトルになっている檻の中の女である。この本はいわば全編にわたって彼女の戦いの物語なのだ。ひたすら虐げられる彼女はそれでも自分と愛する弟のために戦い続けることをやめない。
いったい彼女は誰で、彼女の戦いがどういった結末を迎えるのか、すべてが明らかになったとき、とてつもない感動が待っている。強さとはただ力でもって打ち勝つことではない。ぼろぼろになって最後力つきてしまっても残る毅然とした精神、いわば誰にも認められない魂の気高さについて力強い文体で描写されている。
繰り返しになるが、これは絶体絶命の窮地に追いやられても戦い続ける一人の女性の戦いの物語なのだ。女性の武器といったら愛と勇気なのだ。こっぱずかしいですか。確かにそうだ。でもそう思った人こそこの話を読んでください。

スティーヴン・キング/ビッグ・ドライバー

キングがひたすら暗く、容赦のない方向に舵を取った中編集「Full Dark,No Stars」の日本版、前半の「1922」に続く第2弾。
前回は主力されている2編には罪の意識というテーマが共通していると書いたけど、今回収録されている2編にも、主人公が女性という共通テーマがある。それはテーマというよりは単に共通点では、と思われるかもしれないけど、虐げられた(片方はちょっと語弊があるかもしれないが)、どちらかというと弱い立場にあった女性が攻勢に転じるという根幹的な話の流れも同じものがあるので、単に主人公が女性であるということ以上に2つのお話には共通しているものがあると思った。

ビッグ・ドライバー
30代の女性テスはアメリカの作家。作家といっても売れっ子にはほど遠いが、それでもコンスタントに作品を発表し続け、講演をこなすことで生計を立てていた。年取った猫と最新鋭のカーナビを搭載した車が彼女にとって大切なもの。
ある日講演に招かれたテスは自宅に帰る途中、桁外れに巨漢の男に暴行され、殺されかける。なんとか一命を取り留めたテスは、通報せずに復讐する道を選ぶが…
すばらしき結婚生活
ダーシー・アンダーソンは夫との結婚生活が27年続き、娘と息子はそれぞれ独立し、夫婦で趣味の延長から始めたコイン売買事業も軌道に乗り、比較的余裕のある生活を送っていた。会計士の夫は結婚当時に比べればおなかも出てきてしまったが、まだ優しく、またお互いに悪いところには目をつぶり妥協することで幸せな夫婦生活を送っていた。
ある日ダーシーは夫の留守中にガレージで発見したあるものをきっかけに、長年連れ添った夫が世間を騒がせている連続殺人犯だと気づいてしまう。証拠を前にそれでも信じられないダーシーはなんとか眠りにつくが、真夜中不意に起こされる、まだ出張から帰らないはずの夫に。

前の「1922」では弱い立場にあった男性2人がそれぞれの方法で悪事に手を染める話でした。今回でも主人公である女性2人は衝撃的な出来事によって、のっぴきならない事態、絶体絶命の立場に追い込まれてしまいます。男性が悪事に手を染めた一方こちらの女性陣は果敢にも、逃走せずに、無謀ともいえる戦いを挑むことになります。2人の敵はともに男性で暴力的で、また双方ともに力で女性を暴行したあげく殺害するというまさに直接男性的な悪の象徴でもあります。
圧倒的に力が弱く、また未だ男尊女卑の根強く残るこの社会では、(全く信じられないことですが)被害者である2人がむしろ糾弾すらされる立場にあるのです。「おまえが誘ったんだろう」「長年連れ添った夫が殺人鬼だったと気づかないはずがない」と。窮地に陥った主人公が知恵と勇気でもって化け物(もはやそういっても差し支えありますまい)に立ち向かうというという構図は、モダンスリラーというよりもむしろ中世以前のおとぎ話に近しいものがあるのかもしれません。とはいえそこはキング、ばしーと悪者を倒してめでたし、めでたしとはいきません。特にこの2つのお話では女性の苦しみと決断への逡巡が、読むのが嫌になるくらい生々しく描写されます。スーパーナチュラルな要素はともに皆無ですので、彼女たちには逃げ場がないのです。またテスは比較的孤独な女性で、ダーシーは事情的に他人に助けを求めることができません。その瞬間に家庭が崩壊し、何より大切な子供たちに累が及ぶからです。
テスは自分と自分の生活を守るため、ダーシーは家族を守るため立ち向かうことを逡巡の末決断します。そしてその代償を払うことになるのです。悪を倒す、この特にフィクションの世界で賛美される出来事が、日常生活を普通に送る一個人にとってどれほど困難と苦しみをもたらすことか。それは正気を失う恐ろしい行為なのでした。殺人を犯した瞬間に自分が殺した相手と同じになってしまうというありがち(かつ妙に陶酔的で言い訳めいている(と私はいつも思ってしまう))なロジックとは少し異なります。殺人を正当化する訳はなく、もっと現実的な苦しみです。

原題通り、真っ暗で星すら見えない、2つのお話。ぜひ読んでください。おすすめです。

アンドレアス・グルーバー/夏を殺す少女


オーストリアの作家によるミステリ、警察小説。

2013年東京創元社から発売されました。
原題は「Rachesommer」でこれを英語に訳すと「Revengesummer」、さらに邦訳すると「復讐の夏」でしょうか。

オーストリアはウィーンの若手弁護士エヴェリーンは2件の死亡事故と同僚の死について調査を進めるうちに、3つの事件が実は殺人であることを確信、独自の捜査を開始する。一方ライプツィヒの刑事ヴァルターはある精神病院で当初自殺したと思われた少女が実は殺されたことを突き止める。一見関係のない2つの事件、しかし捜査が進むにつれてある少女が浮かび上がってくる。その先には過去に起きた”ある出来事”にまつわるおぞましい真相が…

なんといっても刑事のヴァルターのキャラクターがよかった。
ヴァルターは機動警察官というあまりなじみのない役職に就いていて、要するに(さして重要ではないと思われる)事件の初動捜査にあたる役割。閑職ではないが花形ではもちろんない。いわば警察組織のちょっとしたアウトサイダーな訳である。ただしヴァルターは不祥事を起こして左遷されたのではない。むしろ優秀な刑事だったのだが、妻と死別し、幼い娘を一人で育てるために自ら進んで機動警察官になったのである。ヴァルターは中年の男性で孤独でシニカルではある。また妻との関係が壊れていて、さらに子育てに悩んでいる、というのは最近多くの警察小説を読んでわかったのだけれど、実は結構目にする設定ではある。たとえばクルト・ヴァランダーなんかはまさにそうだ。ただしこの小説のヴァルターは事情が事情なだけに、優秀な上にかんしゃく持ちではないし、そこまで厭世的になっているわけでもない。くたびれていて、タバコのすい過ぎで肺を悪くしているけど、心の底には犯罪を憎む気持ちが熾火の用に燃えているのだ。要するに正義感がとても強い。またこの事件には子供が絡んでくるのだけれど、ヴァルター自身も若い娘がいるので、他人事ではいられないのである。犯罪も多様化していく中で、警察小説における警察官というのも実に多様になってきていると思う。しかし、根本的に悪を憎み、弱きものを助けようとするひたむきな、一種時代錯誤的なヒーロー像を体現するようなこの警察官のなんとかっこいいことか。年下の刑事には邪険に扱われ、無能扱いされる。上司は自分の味方になってくれない、そもそも仲間がいない、一人っきりで捜査にあたらなければいけない。そんな四面楚歌の状況でも執念深く、自分の手足を使ってわずかな手がかりに食らいついていく訳である。これはかっこよかった。

このお話いわゆるバディものなんだけど、2つの事件が進んで2人の主人公が出会うのが結構終盤になってから。それまでは2人の話が交互に続いていくんだけど、一方を読み進めていくとちょうどいいところで、もう一方の視点に切り替わる。ええいもどかしい、とそちらを読み進めていくと、こちらはこちらで捜査に進展がありのめりこんでしまう。そこでまた一方に転換するのである。焦らされるようでページをめくる手が止まらなかった。読書好きとしては至福のときですね。心臓の鼓動が加速していくように、終盤になるにつれて場面の転換のペースが速くなっていくのもよかった。
2人が出会ってからは事件はジェットコースターのようにさらに加速して一気にクライマックスへ。日本人は昔から復讐譚が好きだと聞いたことがある。タイトル通り最後まで日本人の好みにマッチするないようだったと思う。
文句なしに万人におすすめの小説です。酒寄進一さんの翻訳もとても読みやすいです。
あとがきによるとなんと、著者はクトゥルーものも書いているんだそうな。ぜひほかのお話も翻訳してほしいところ。

ちなみについこの間著者のアドンドレアスさんが来日して、いくつかイベントもあったそうな。もうちょっと読むのが速ければ足を運んだのになあ、とちょっと悔しい。

2013年4月23日火曜日

Chelsea Wolfe/Prayer for the Unborn


カリフォルニア出身のゴシックなシンガーソングライターChelsea Wolfeさんの2013年発表EP。
イギリスのSouthern Recordsから。(Southern RecordsのLatitudesというシリーズものの一品。)
amazonがなかなか発送してくれないので、 レーベルから買いました。レコードとCD一緒に買ったんだけど、前者が700枚中566番(赤盤)、後者が500中457番でした。ジャケットのデザインはSunn o)))のスティーブンさんだそうな。
Chelsea Wolfeさんは2ndアルバム「Apokalypsis」を聴いてどハマりし、昨年開催された轟音イベントLeave them all behindも実は一番みたかったのが彼女なのでした。ライブもそれはそれは心に染み入る素晴らしいものなのでした。
彼女の音楽は変わっていてなかなか一言で表現するのが難しいのですが、なんといってもあの独特の歌唱方法が個人的にはたまらない。おどろおどろしい反面とても優しい、基本的にさびしげなのにちょっとだけあったかいような不思議な感情の相克を感じさせるような魅力的なものです。

この音源はまたちょっと変わっていて、全5曲すべてがRudimentary Peniというバンドのカバーです。 Rudimentary Peniは1980年から活動しているイギリスのパンクバンドらしいのですが、私はこの音源を手に取るまでそのバンド名すら知りませんでした。
ちなみに妙な味わいのあるアートワークはRudimentary Peniのメンバー Nick Blinkoさんが描いたそうです。(NickさんはRudimentary Peniのアートワークも書いているそうです。調べてみるとかなーり不気味です。)
音源を聴いてみる限りはハードコアパンクといってもかなりアバンギャルドな作風なようで、一筋縄でいかないところにChelsea Wolfeさんに通じるものがあるかもしれません。

さてこの音源の話ですが、今作もChelsea Wolfe節全開です。バックはバンドアンサンブルなのですが、なんともゴシックな感じです。適度にフォークっぽくあまりごてごて装飾されてはいないです。乾いていてじゃぎじゃぎしたストレートな音なのですが、なぜか全体的に怖い感じに仕上がっているのがさすがという感じ。そして作品を作品足らしめているのがやはりChelseaさんのボーカルで全体的にリバーブのかかった妖しい感じに仕上がっているのですが、今回はより呪詛っぽくて恐ろしいです。この人は「うえ~~」とか「ふあ~~~」とか「ぅあ~~」といった独特の伸びのある叫び声(叫びってほど叫んではいないんですけど、語彙がなくてなんて表現が正しいのかわからんです。)が得意だと思っているのですが、これがこえーことこの上ない。ささやかくように歌うパートもなんだか不吉な予言を聴いているようでちっとも落ち着かない。そこに荒い息継ぎや、幽かな息遣いが入っていて全体的になんかのテープに意図せず入った気持ち悪い幽霊の声を聴いているようです。もはや稲川淳二さんの怪談の世界です。
5曲で12分くらいしかないのですが、とてつもなく濃い12分間ですね。前作「Unknown Rooms」が結構柔らかい感じに仕上がっていたので完全に不意を突かれた感じで、やはりChelsea Wolfeさんは黒かっこいいなあ、と再確認した次第でした。
おすすめです。限定盤なので好きものは速く手に入れるように。

2013年4月14日日曜日

ネレ・ノイハウス/深い疵


ドイツの女性作家による、ミステリ・警察小説、東京創元社より。

あとがきによると作者のネレ・ノイハウスさんは本国ではドイツミステリの女王と呼ばれているらしい。とはいっても今までに出版された本は4冊だから、その人気のほどがうかがえる。
面白いのは初めの2作は自費出版で発表したそうだ。その後人気に火がついて大手の出版社から再販、さらに3作目、4作目と書き続けていて、この本はその3作目。
4冊はいずれも同じ主人公によるドイツを舞台にしたシリーズもので、日本では次に4作目が翻訳・出版されるとのこと。

ドイツのケルクハイムで92歳の老人が射殺された。犯行現場には「16145」という謎の数字が残されていた。彼はナチスのホロコーストを生き残ったユダヤ人でアメリカ大統領の顧問を務めたことのある人物だった。しかし捜査が進んだ結果、彼がナチスの親衛隊であったことが判明する。
主席警部のオリヴァーと警部ピアは捜査にあたるが、そのうちに第2第3の殺人事件がおこる。双方ともにユダヤ人の老人で射殺され、現場には「16145」の文字。片方はやはり元親衛隊員であった。捜査を進めるうちに2人はある名家にかかわる陰惨な過去に直面することになる。

この話かなり複雑で、上記の殺人以外にもかなりのっぴきならない事態や事件が常に同時進行するため、かなりめまぐるしい。老人たちの殺人、犯人と思われる男周辺での殺人。若い建築家の抱える秘密。謎の解決がさらに新しい謎を呼び、疑惑や仮説だけが増えていく。
事件はある企業体を運営するセレブ一家に集約していくのだが、どいつもこいつも一筋縄ではいかない個性的な面々で面白くはあるのだけれど、結局はこの一家の内部のごたごた、つまり遺産を巡る醜い内輪もめなのかと思って少し冷めてしまったのだが、読み進めていくうちにもっと深ーい深淵がぽっかり事件と一家の背後に口をあけていることが示唆され、そこからは一気呵成に読んでしまった。被害者はナチの関係者だった。ナチは悪だ、悪だったし今になって殺されることもあるかもしれない。しかし彼らが実際何をしたのか。彼らはなぜユダヤ人として暮らしていたのか。
すべての謎が一つの真相に集約される様は見事としか言いようがない。読み終えたときはとんでもない話を読んでしまったと感動に震えたものである。
また、殺人事件に加えて警察内部での政治的な面倒事も描かれており、主人公2人の捜査は常に邪魔が入る。このイライラ感といったらない。要するに超一流のエンタメ小説なのだ。謎や焦燥感が強まるほど謎が解けた時のカタルシスも大きい。

また、警察小説というと主人公は大抵冴えないおじさんだったり、変り者だったり、組織のつまはじきものだったりするのだが、この本の主人公のオリヴァーはなんと貴族の生まれでかなり泰然としていてまずそこが新鮮だった。捜査を主導する立場なのだけれど、組織がうまく動くように気を配り、常に冷静沈着。もちろん犯罪を憎み、冷静な表情の下には熱い情熱を持っているのだけれど、駆け引きもするし、上司との政治的な立ち回りもこなす。ようするにどこからしら優雅なのだ。これはほかの警察小説にはあまりないな、と思った。相棒のピアは熱血漢で感情的な女性なのでコンビとしてもとても良い。またオリヴァーは結婚しているので、ピアとの関係にも面白味がある。(たとえば恋愛関係にあるとそれはそれで面白いが、少しありきたりすぎる感もあると思う。)

文句なしに面白い。超お勧め。

2013年4月13日土曜日

Black Boned Angel/The End


ニュージーランドのドゥーム/ドローンメタルバンドの最終作。
2013年Handmade Birds Recordsから。
Black Boned AngelはノイズバンドBirchville Cat Motelなど様々プロジェクトをやっているCampbell Knealeさんを中心に結成されたバンド。バンド名はあのジャスティンさんのバンド、Godfleshの曲名からとったのだそうだ。写真を見るとローブを被ってライブをやったりしているようです。ローブといえばSunn o)))だけどBlack Boned Angelの音楽性も結構前者に近いものがある。
ようするに、でかい音でギターやベースをぶわーっと鳴らす。これがだいたい20分前後続く。買った私が言うのもなんだが、こういった音楽が結構市民権を得ているのが不思議だな。いや、市民権なんて得てないのかな…
調べてみると結構リリースしているようですが、私が持っているのはNadjaとのコラボアルバムと、第一次世界大戦で泥沼の戦場と化した地名を冠したアルバム「Verdun」のみ。特に後者は聴いているだけで体力値がガリガリ削られるような凄まじいアルバムでござった。

さてこのアルバムはそのタイトル通りバンドの最終作で、かなり特殊なパッケージングがされている。
2重の包装をあけるときれいな夕暮れの写真が出てくる。(上の写真です。)美しい黄昏で、なるほど最終作か、と思わずうならされる憎い演出。
全3曲でどれもだいたい20分くらいですな。基本的には鈍器のようなギターベースがのっけから最後までぶおーーーーとうなり、絞り出すようなうめき声が乗っかるという、まあかなり(聴き手にとって)残酷な作風なのだが、個人的にはSunn o)))ほど孤高な感じはしない。もっというと結構聞きやすい。ギターはスロー極まりないのだが、良く聴くとリフがとてもメロディアスだし、Nadjaを思わせる(ただしライブの写真を見る限りはマシーンではないような)重々しいドラムが、ドスン、ドスンと入っていて、結構乗りやすい。(すごい遅いけど。)また、ノイズ出身のCampbellさんだからかフィードバックノイズがなんといいっても良いね!じゅああああああと余韻を残すそれはマニアにはたまらないのではないでしょうか。
特に面白いなと思ったのは3曲目で、この曲は女の人のボーカルが入っていてオペラっぽいというかなんとうか非常に美しくのびやかなボーカルが何とも殺伐とした演奏と見事にはまって、前述の美しい夕焼けのような、独特のなんともいえない寂寞とした雰囲気を醸し出しております。ゆっくりゆっくり太陽が沈んで行ってしまって、ずっと見ていたいのにきっともうすぐ沈んでしまって真っ暗になってしまうんだろうな。でもじゃあ真っ暗になるまではここで夕暮れを見ていようか。そういった情景が浮かぶような、まさにバンド最後の曲にふさわしい静かで(すごいうるさいんですけど)、荘厳な曲になっております。
私は楽器もできないし、音楽家でもないのですが、 とてもいい最後だなと思いました。
Black Boned Angelは好きな人はマストでしょう。またこの類の音楽が好きな人も決して損はしないと思います。おすすめ。

このアルバムの曲ではないですが…

京極夏彦/幽談

京極堂シリーズで有名なミステリー作家京極夏彦さんの短編集。
京極夏彦さんといったら妖怪の人!というイメージがあってそれはもちろん正しいのですが、妖怪幽霊そのままがひょっこり登場する作品というのは意外に少ないのではないだろうか。(読んだことはないのだけど、豆腐小僧のシリーズは妖怪そのものが主人公っぽいですね。)京極堂シリーズでは恐怖そのものや人間の持つドロドロとした部分を例えば妖怪や幽霊になぞらえて表現していますよね。また、ミステリー作家ですので、もやもやっとしたところはきちんとすっきりさせてくれる作風です。要するに中心に謎があって、その謎の解決の筋道自体が物語です。ただ論理的に解明したからといって不思議な感じだったりなんだかいやあな感じというのまで雲散霧消するか問われるとそうでもない。ここら辺は書くのが難しいですが、京極夏彦さんの小説を読んだことのある人ならわかっていただけるかと。つまり謎が解けたからと言ってじゃあ怖い話でなくなるか?というとそんなことはないんです。

さて前置きが長くなってしまいましたが、この短編も怖い話の連作です。ただしタイトルの幽談は幽霊のお話、というのではなく幽(かす)かなおはなし、ということだそうです。
まずこの短編のお話は基本的にほとんどが主人公の一人称視点で書かれています。また主人公含めて登場人物にははっきりとした記号性が希薄です。ちょっとわかりにくいのですが、名前などの固有名詞はあまり出てこないですし、どういった職業で、どういった性格でというのはあまり描かれていないのです。じゃあ個性がないのかというとそうでもないのです。強すぎるほどに個性があってかなり特徴的な人たちばかり出てくるのですが、彼らがどこのだれかといわれるとそれはわからないのです。
彼らが自分の体験を吐露していく形で物語が進行します。ただし全編はっきりと幽霊や妖怪などのいわゆるお化けが出てくるわけではありません。ただ、どのお話も怖いんですよ。いやあさっぱりわからんぞ、ぼんやりしていないか?と思われた方、そうなんです。一連のお話は結構ぼんやりしているのです。怪異が出てきますが、正体ははっきりしない場合が多いですし。怪異と現実の境界がはっきりしないのです。日常譚として始まった世界に少しずつ怪異が侵入してきて、物語が終わった時にはどこまでが日常で、どこからが怪異なのかわからないのです。そして始めの日常すら、本当に日常だったか怪しくなっているのです。

お話をこうまで不気味足らしめているのは、やはり一人称の視点で書かれている点が大きいかと思いました。普通の小説だと複数の視点が入り混じったり、神様のような第三の視点で書かれていることで物語に客観性が生まれるわけです。その人の視点プラス他人の視点を総合して、その人がどんなひととなりか判断できるのです。物語の世界も同じ。
この話はそこが希薄なのです。つまり主人公の独白しかないので、それが正しいのか間違っているのか、現実なのか妄想なのか判断がつかないわけです。こいつらが物語の案内人のわけで読者は結果的にどこだかわからないようなあいまいな場所に連れてこられてしまうという、そういう形になっているのです。

テーマの一つには認識の不確かさというのがあるなと思いました。
みんな一緒の世界に食わしているのだけれど、本当に同じ世界を見ているのかな?ということです。
お話の中でもありましたが、例えば自分にとっての赤色はほかの人には(自分にとっての)青色にみえているんじゃないか?その青色をほかの人は赤色と思っているのでは?
この問題は少なくとも個人レベルで解決できるものではないのですが、もしそうなると日常そのものが、つまり私たちの世界そのものが共同幻想になってしまう。もっというとはっきりとした現実そのものが、ふとした考えで幽かで頼りないものになってしまう。そこに怖さがある。この短編集はその怖さを集めたアンソロジーともいえるなと思いました。
わかりやすい怖さはないですが、視界の端をちらっと横切る影のような不安な本です。おすすめ。

2013年4月7日日曜日

Locrian & Christoph Heemann/Locrian & Christoph Heemann


メタリックな地獄絵巻ドローン/ノイズバンドLocrianとドイツの音楽家Christoph Heemannさんのコラボ作品。2012年Handmade Birds Recordsから。
Locrianは何枚かCD持っていて好きなんだけど、Christoph Heemannさんは知らなかった。
どうやらH.N.A.Sというバンドをやっている実験音楽家でジムオルークさんをはじめとするアーティストたちと積極的に共作しているという方らしい。
Locrianはアメリカのドローンバンドで最近は元ISISのアーロン夫妻のMamifferとコラボして日本版が出ているので知っている人も多いのではなかろうか。

そんな2組のコラボなので音の方もまあろくでもないことになっている。
全4曲で曲の長さが11分から15分くらい。全体的に濃い煙のヴェールに包まれたようなどんよりとしたドローン作品に仕上がっている。
Locrianの特徴的な冷たく滑るようなスペーシーなキーボードに音の輪郭が溶解したようなギター?が反復され、不穏な細かいピアノ音(これがまた不気味だ)が重なる、じりじりと焦らされるように聴いているとこらまたLocrianお得意の妙に引き延ばされたような気味の悪い絶叫が落ちてくる。
私はこのLocrianが得意とする絶叫が大好きだ。これには高低差があって、例えるならば上から下にすごいスピードで落ちていく男が発している断末魔がスローモーションで無理やり引き伸ばされたようだ。音が落ちているように聴こえるということは、こちらは宙に浮いているわけだ。どっちつかずの状態で、どっちが上か下かもわからないような状態でほっとかれている。ぼんやりとしている。ロックやメタルのような指向性がなくて、全体的にぼんやりとしている。だから怖い。これから絶対嫌なことが起こりますよ、と何となく含められて、その破綻をただただ待っているような不安さがある。この種の音楽を聴くときはシークバーを後ろに倒してその破綻を探してはいけない。恐怖映画と同じで怖いところだけ見ても全然面白くないし、また曲によっては最後までついにその破綻が提示されないことがままあるからだ。宙ぶらりんの怖さである、不定の恐ろしさである。

聞き手を選ぶ音楽には間違いないが、好きな人にはたまらないだろう。
Locrianファンは勝手損はないと思います。

youtubeになかった…
↓ここで一曲視聴できますので、ぜひ。
http://stereogum.com/1157091/locrian-christoph-heemann-hecatomb-stereogum-premiere/mp3s/

京極夏彦/西巷説百物語


京極夏彦さんによる、巷説百物語シリーズの最新刊。
このシリーズは昔から大好きで文庫化されるタイミングで買って読んでおります。
何気に結構息の長いシリーズでアニメやドラマにもなっていて、ちょこちょこ見てたりしてました。
小説は巷説百物語から始まって、「続」「後」「前」ときて今回の「西」で5作目ですね。

江戸時代上方で文具を扱う帳屋を営む林蔵は、表向きは大坂随一の版元を商う一方裏稼業の元締めを務める一文字屋仁蔵裏のもとで「どうにもならない」依頼を引き受ける仕事を請け負っていた。その口先、手練手管で目標を幻惑し依頼を解決する手腕から靄船(もやぶね)の林蔵と呼ばれた彼は同じく小悪党のお龍、柳次、文作らとともに、意趣返しや殺人事件の真相の究明などなど通常どこにも持ち込めないような因縁を解決する。手を変え品を変え、事件によって職業人柄を偽りながら、周到な罠のような仕掛けを作って受けた依頼は必ず果たす。そして仕掛けに欠かせない要素が妖怪である。

タイトル通り今回の舞台は上方で、主人公は御行の又市一味から靄舟の林蔵一味に変更。とはえい同じ江戸時代で同じ世界観を共有しています。
登場人物は変わったものの引き続き、「どうにもならない」依頼を裏稼業を生業とする小悪党たちが妖怪・幽霊・化け物をうまく使った「仕掛け」によって解決するという流れです。独立した7つのお話からなっているけど、全体的に大きな物語として連続しております。
京極さんのお話ということでこのシリーズにも妖怪、幽霊、化け物などのあやかしが重要なファクターとして登場します。もっとも実際にあやかしが登場するのではなく、彼らを林蔵一味がそれらを”演出”するのですね。
いうのは簡単ですが、林蔵をはじめとしていくら江戸時代の人たちだからと言って心底あやかしの存在を信じているわけではありません。ほとんどの人は懐疑的で、 もっとはっきりいうとあやかしなどいないとおもっているわけです。そこにさもいるかのようにあやかしを演出するのは結構な大仕事で、林蔵たちはそこに事件にもよりますが結構な仕掛けを作って臨むわけです。
このあやかしというのがなかなか面白くて、もちろん虚構の存在で林蔵たちも依頼の解決のために使う方便のようなものなんですけど、個々に性質や性格のようなものがあって、物語全体を象徴している存在になっています。いわば物語の中心に妖怪がいるのですが、基本的に謎があってそれを解決するスタイル、要するにミステリー形式の物語なので、中心というとやはり真犯人(もしくはと真相といってもいいかも)ということになります。妖怪は真犯人のそばにいるわけで時に真犯人こそが妖怪だったりするわけです。もちろん本当の妖怪ではないのですけど、妖怪の性質や要素を持っているわけです。といっても「誰の心にも妖怪の要素はあるんだ!気を付けようね!」といったありがちなロジックではなくて、つかみどころのないもやもやとした謎をはらんだ事件に妖怪の名前を付けることでわかりやすくして解決するわけです。


全体的に重くて暗い事件を扱っているにもかかわらず、からっとした明るい感じになっているのはキャラクター造詣によるのかと思いました。非常にしっかりとたったキャラクター達が、上方が舞台ということでこてこての関西弁をこれでもかこれでもかとしゃべりまくりまして、これがやはりリズムと勢いがあって読んでいると思わず口に出したくなるくらい気持ちがいいです。
また京極節というのか、独特の言葉づかいが結構難しかったりするのですが、文章それ自体にこだわりのある(たしかページをまたぐような文は一個もないはず。)京極さんなのでとても読みやすいのもいいですね。

前述のとおりそれぞれの物語は別個のものを扱っているのですが、全体に流れがあって特に最後の話は今までの巷説百物語のファンも歓喜するかと。個人的には最後の最後の終わり方がとっても恰好よくかつ爽やかで、おもわず「さすが」と唸ってしまったほどでした。
巷説百物語を読んだことがある人はここで書くまでもなく買っていると思いますが、とてもおすすめ。

2013年4月6日土曜日

Panopticon/Kentucky


アメリカのアトモスフェリックブラックメタルの2012年発表4thアルバム。
Handmade Birds Recordsから。
実はこのアルバム同じレーベルから出たLP盤を持っていたのだけど、あまりにも内容がいいもんでCD版も買ってしまった次第。


PanopticonはA.Lunnなる人物によるブラックメタルバンドで、アーティスト写真などにも長髪の男性の後ろ姿が写っていたりするのでてっきり一人プロジェクトだと思っていたのだが、Encyclopaedia Metallumによるとなんと2人のAustin Lunnからなるバンドとのこと。
参考:http://www.metal-archives.com/bands/Panopticon

さてPanopticonは一個前の3rdアルバム「Social Disservices」と同時期に発売されたWheels within Wheelsとのスプリットを持っているのだけど、今回のこのアルバムを聴いたときは驚いた。明るいとは言わないけどかなりアトモスフェリックになっていて、Wolves in the Throne Roomまでとはいわないけれど、いわゆるカスカディアンな雰囲気に通じるものがある。
何より特徴的なのが楽曲に使われている楽器群で、通常のメタルバンドで使用される、ギターやベースドラム、キーボードなどに加えて、バンジョー、マンドリンなどのこの分野ではあまり使用されない楽器が使われている。結果的にフォーキーな温かさが楽曲に付与されている。
 アルバムの構成も変わっていて、全8曲のうちいくつかは伝統的な民謡とでもいうのか、のどかでかつ力強いフォークソングで、さらにそのなかのいくつかは作曲者はA.Lunnではない。ブックレットによると20年代や30年代に作られたものだそうだ。
でその他の曲は紛うことなきブラックメタル然とした比較的長い尺の曲群なのだが、 こちらにも前述のバンジョーなどが使われている。その使われ方が絶妙でまったく自然に楽曲に一体化しており、こんなのありか!と叫びたいくらい違和感なし。
曲自体の構成が凝っていて、どれも一筋縄ではいかない。怒りに満ちたブラックメタルとは全く異なる。もちろんボーカルは叫び声だし、ギターは重々しい、疾走するするパートはたびたびあるけど、同じ曲でもまったく様相が違うパートに展開が変わる。そのうつろい様ったらまったく自然で一曲がまるでめぐる四季のようです。激しいパート、優しいパート、陽気(!)なパートが混然一体に合わせってドラマティックな楽曲にまとめられている。この感動はどうしたことだ。通常の楽曲というのは喜怒哀楽のどれかにフィーチャーされていて、わかりやすく乗りやすい。ところがこのアルバムの楽曲は1曲に喜怒哀楽のすべてがぶち込まれているようだ。一言で言い表すことのできない色々な感情が音に乗って波のように押し寄せてくるのだ。なんだか泣きそうだ。なぜなら人生がそうだからです。思うに喜怒哀楽それぞれ一つは人生のとても細かい一部分だけど、人生というスパンで日々をとらえるともっと全部が混ざったなんだか簡単には表現できないものにはならないだろうか。たまにその何とも言えない感情の塊をうまーく曲にしてくれるバンドがある。(音楽性は全然違うけどあぶらだことか。)これもその類のアルバムだと思う。

さてその不思議さも、ブックレットやアートワークをみるとちょっとその一端がうかがえるようです。アートワークは木々生い茂ったもりでそこに重なるようにぼんやりとヘルメットをかぶった男とその息子らしき映像が見える。恐らく彼らはケンタッキー州(炭鉱あるそうです)の炭鉱で働く労働者とその息子でしょう。楽曲にも「Come All Y Coal Miners」 というものがある。かれらの生活のつらさや楽しさについての思いが楽曲の源泉にあるのかもしれない。
またブックレットにはこのアルバムが生まれたいきさつが書いてあって、私のつたない翻訳力によると、どうもケンタッキー州の美しい森をハイキングした際に多大なインスピレーションを得たA.Lunnは自宅に帰ってすぐに作曲を始めたそうです。
その名の通り真っ黒いブラックメタルというジャンルで森や自然の美しさが、その原動力になっている(前述のWolves in the Throne Roomもそういったアティチュードがありますね。)のは結構特異なことで、 それがこのかなり一風変わったブラックメタルができた要因の一つになっているような気がする。
とにかくこれは凄まじいアルバムであることに間違いありませんので、この記事を見てしまった皆様はとりあえず聞いてみることをお勧めするよ、私は。