京極堂シリーズで有名なミステリー作家京極夏彦さんの短編集。
京極夏彦さんといったら妖怪の人!というイメージがあってそれはもちろん正しいのですが、妖怪幽霊そのままがひょっこり登場する作品というのは意外に少ないのではないだろうか。(読んだことはないのだけど、豆腐小僧のシリーズは妖怪そのものが主人公っぽいですね。)京極堂シリーズでは恐怖そのものや人間の持つドロドロとした部分を例えば妖怪や幽霊になぞらえて表現していますよね。また、ミステリー作家ですので、もやもやっとしたところはきちんとすっきりさせてくれる作風です。要するに中心に謎があって、その謎の解決の筋道自体が物語です。ただ論理的に解明したからといって不思議な感じだったりなんだかいやあな感じというのまで雲散霧消するか問われるとそうでもない。ここら辺は書くのが難しいですが、京極夏彦さんの小説を読んだことのある人ならわかっていただけるかと。つまり謎が解けたからと言ってじゃあ怖い話でなくなるか?というとそんなことはないんです。
さて前置きが長くなってしまいましたが、この短編も怖い話の連作です。ただしタイトルの幽談は幽霊のお話、というのではなく幽(かす)かなおはなし、ということだそうです。
まずこの短編のお話は基本的にほとんどが主人公の一人称視点で書かれています。また主人公含めて登場人物にははっきりとした記号性が希薄です。ちょっとわかりにくいのですが、名前などの固有名詞はあまり出てこないですし、どういった職業で、どういった性格でというのはあまり描かれていないのです。じゃあ個性がないのかというとそうでもないのです。強すぎるほどに個性があってかなり特徴的な人たちばかり出てくるのですが、彼らがどこのだれかといわれるとそれはわからないのです。
彼らが自分の体験を吐露していく形で物語が進行します。ただし全編はっきりと幽霊や妖怪などのいわゆるお化けが出てくるわけではありません。ただ、どのお話も怖いんですよ。いやあさっぱりわからんぞ、ぼんやりしていないか?と思われた方、そうなんです。一連のお話は結構ぼんやりしているのです。怪異が出てきますが、正体ははっきりしない場合が多いですし。怪異と現実の境界がはっきりしないのです。日常譚として始まった世界に少しずつ怪異が侵入してきて、物語が終わった時にはどこまでが日常で、どこからが怪異なのかわからないのです。そして始めの日常すら、本当に日常だったか怪しくなっているのです。
お話をこうまで不気味足らしめているのは、やはり一人称の視点で書かれている点が大きいかと思いました。普通の小説だと複数の視点が入り混じったり、神様のような第三の視点で書かれていることで物語に客観性が生まれるわけです。その人の視点プラス他人の視点を総合して、その人がどんなひととなりか判断できるのです。物語の世界も同じ。
この話はそこが希薄なのです。つまり主人公の独白しかないので、それが正しいのか間違っているのか、現実なのか妄想なのか判断がつかないわけです。こいつらが物語の案内人のわけで読者は結果的にどこだかわからないようなあいまいな場所に連れてこられてしまうという、そういう形になっているのです。
テーマの一つには認識の不確かさというのがあるなと思いました。
みんな一緒の世界に食わしているのだけれど、本当に同じ世界を見ているのかな?ということです。
お話の中でもありましたが、例えば自分にとっての赤色はほかの人には(自分にとっての)青色にみえているんじゃないか?その青色をほかの人は赤色と思っているのでは?
この問題は少なくとも個人レベルで解決できるものではないのですが、もしそうなると日常そのものが、つまり私たちの世界そのものが共同幻想になってしまう。もっというとはっきりとした現実そのものが、ふとした考えで幽かで頼りないものになってしまう。そこに怖さがある。この短編集はその怖さを集めたアンソロジーともいえるなと思いました。
わかりやすい怖さはないですが、視界の端をちらっと横切る影のような不安な本です。おすすめ。
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