2014年11月16日日曜日

ボストン・テラン/神は銃弾

アメリカのイタリア系アメリカ人作家による暴力小説。
1999年に発表された作者初めての小説とのこと。原題は「God is a Bullet」。

カリフォルニア州クレイで保安官を勤めるボブ・ハイタワーは約束していた娘からの連絡がこないので、再婚した元妻の家を義父と訪問した。そこで見たのは拷問の上殺された元妻とその夫。彼の娘ギャビの姿は見えなかった。遅々として進まない捜査にいら立ちを隠せないボブは独自に捜査を始める。捜査線上に現れたのは元麻薬中毒者で元カルト集団の一員だったケイスという女だった。彼女が言うには彼女がかつて身を置いたカルト集団が虐殺融解に関わっているらしい。ボブは藁にもすがる重いで、周囲の反対を押し切りケイスと娘を取り返す旅に出る。

というなんとも映画向けのようなストーリー。著者はイタリア系アメリカ人でかのブロンクス出身だそうで自身と彼の一族が手に染めている色々な”経験”が反映された生々しい暴力小説である。題材は日本人も大好きな復讐。ボブは娘を取り返し悪人をぶっ飛ばすため。ケイスは自分をとらえ続けるカルト集団との因縁を断ち切るため。砂漠の荒野をかっ飛ばすロードムーヴィ的な側面がある。また立場の違いすぎて相容れなかったボブとケイスがだんだんと心を通わせていく、そんな繊細さも丁寧に書き込まれていて、硬派であると同時にエンターテインメント性に富んだ小説。面白いのは如何にも銃弾が飛び交いそうなタイトルとお膳立てされた状況だが、実際にドンパチが始まるのが550ページくらいある超ど真ん中あたりなのだ。恐らく合えての構成なのだろうが、この本には単にドンパチ以上に文学的な要素がある。それは荒野の、アウトロー達の哲学ともいうべきもので登場人物達はとにかく癖のある詩的な言葉を吐くのである。とくにアウトロー側にいる登場人物達が。これがこの小説をかなり独特なものにしている。
粗さはあるものの物語としてはしっかりしていて、特にアメリカの闇を内包した乾いた砂漠の描写、そこに飛び散る赤黒い血、そして暴力の描写は凄まじい。退屈する事なく読めた。しかし私そこまで物語に入り込めなかったというのが正直なところ。理由は2つあって、一方は前述の詩的な台詞が合わなかった。気の利いた罵倒の応酬なんかは洋画を見ているようで下品で格好いいのだが、さらに一歩進んだ哲学めいた格言はたしかに言葉のチョイスは格好いいのだが、そこが意味するところが浮かんでこなかったのだ。簡単にいうと一見かっこ良さげだが実は何を言っているのか分からなかった。詩情というのは難しいもんで、波長が合えば何となく徴収的な言葉の向こうに風景や意図が見えてくるものだが、合わなければ曖昧模糊とした言葉の羅列にすぎない。どうも私は作者と波長が合わなかったようで、ページをめくる手を止めて大分考えてみたものだが、こういったものは考えれば分かるものでもない。
もう一つは敵役サイラスである。コイツは元男娼で元麻薬中毒者で元警察のカモだったがある時啓示を受けたんだが、悟ったんだがで麻薬を立ちジャンキーら犯罪者集めたカルトを結成し、今は麻薬の密売で利ざやを稼ぐ、人殺しもいとわない悪党である。ケイス評してカオスということでとにかく気の赴くまま何をするか分からないという、いわば危険が服を着て歩いている様な奴なのだが、なんとなくコイツが魅力的に写らなかった。恐くないというのではなくて、現実的に考えれば無軌道な暴力的人間でしかも武器を持っているとなればこの世で最も恐ろしい類いの人間である事は間違いない。しかし物語の敵役として魅力的かどうかはそれと別問題。どうもケイスを始めサイラスをしる登場人物が彼のことをヤバいヤバいというわけなんだが、あまりにヤバいっていうもんでなんかハードルがあがったのかこちらとしては逆に妙にさめてしまった。結果は麻薬密売業者じゃん?という感じ。彼は左手の小道(元の英語Left Hand Pathは左道という意味。)というカルトの教祖をやっているんだけど、申し訳程度に五芒星を用いるくらいで、あとは銃を片手に気に入らない奴は打ち殺し、攫って来た若い男女にセックスやレイプを強要。まあ確かに残虐非道なんだが、人間の基本的な欲求をブーストさせただけで逆に言えば結果極めて人間的なのだ。いわばたがは外れているんだろうが、私からするとただのいじめっ子の行動原理で、特にサタニストとしての哲学や教示や信仰はなくてただお洒落でヤバそうなんで五芒星を用いてます、って感じにしか写らなかった。もうちょっと人間を超越する様なぶっ飛び加減を期待したいところ。

私はちょっと合わなかったけど、読ませる良い小説ではあると思う。
いかれたジャンキーどもが殺し合う、そんな小説が好きな人は、ちょっと癖があるので本屋でパラぱらっとめくって波長が合いそうでしたら是非どうぞ。

2014年11月9日日曜日

Pallbearer/Fountains of Burden

アメリカはアーカンソー州リトルロックのドゥームメタルバンドの2ndアルバム。
2014年に一風変わった一癖も二癖もあるメタルバンドの音源ばっかりリリースしているProfound Lore Recordsからリリースされた。私がもっているのは2010年のデモ音源CDがついた日本盤で、こちらは御馴染みDaymare Recordingsから。

Pallbearerは2012年にリリーされた1stアルバム「Sorrow and Extinction」がPitchforkなどのメディアでベストに選出されたりと話題を呼んだもので、日本でも色んなブログでほめられていた記憶も新しい。私は何となく乗り遅れたというだけで聴いてなかったんだけど、今回新アルバムリリースという事で手に取ってみた次第。
バンド名のPallbearerというのはお葬式の際に棺を担ぐ人のことを言うらしい。業者というよりはやはり親しい人が担ぐのかな?まあそんなバンド名もあって非常に哀切とした雰囲気のあるドゥームメタルを演奏するバンド。
ドゥームメタルも当初となっては色々なバンドが色々な音楽をならしている昨今。激しくなる一辺倒とは言わないけど、この手のジャンルに置いてはやはりブルータリティというのはひとつの大事な指標でもって、多くのメタルバンドマン達も目には見えないけどそのゴール(明確に序列や地点がある訳ではないので勿論これというゴールはないですが。)にむかって切磋琢磨しているわけなんだけど、そんな中では結構異質な音楽をやっているという印象。暖かみのある演奏にクリーンボーカルがかなり伸びやかに歌い上げるというそのエピカルなスタイルが逆に昨今の音楽業界では目立つのかも。
私は軽薄な音楽好きなのでドゥームの歴史をひもといて考察する事ができないのだが、音楽は勿論、ちょっと不気味だが落ち着いたそのアートワーク(特にインナーとかはそうなんだが)も含めて意識的にある種のレトロ感を演出しようとしているのは間違いないと思う。
ぐしゃっと押しつぶしたように重みのあるドラムは破裂する様なタムとキンキンしたシンバルが良いアクセント。
ベースはぐーんと迫るように良く伸びる。アタックが格別強い訳ではないが、しっとり艶やかかつ厚みのある低音でドラムと合わせてドゥームの土台作りはばっちり。
ギターは2本で、両方ともにヴィンテージな暖かみのある音で、ジャリジャリしすぎない粒の粗さで詰まった音。ドゥームという事もあってアタック後の伸びが命。厚みのある良いんの気持ちよさがこのバンドの魅力の一つだと思った。2本でも微妙に音に差があって片方が職人芸って感じでひたすらドゥームリフを奏で、もう一方が広がりのある悲しい単音リフを担当というバランス。長めのギターソロも五月蝿くなくそれまでの演奏に良く馴染んだ形で良いアクセントになっている。
ボーカルは結構高めの音で、とにかくコイツが歌いまくるもんでこのバンドの一番の特徴かな。メロディアスに歌いまくる。
無骨な演奏かと思っていたけど、実はギターが結構饒舌でつま弾かれる様なフレーズは結構メロディアスだ。メタルには違いないけどミュートはあまり多用せず、あくまでもためる様な曲のアクセントで全体的には結構伸びやかに進む。ゆっくり流れる川みたいなイメージ。だから曲の尺は長いんだけど、ぶつぶつしている印象はなくて自然に最後まで聴ける。間の取り方は贅沢でこれも激しい音楽性だと中々できない曲作りかもだ。全体的には物悲しさが支配した様な曲調なのだが、その暖かみのある演奏とメロディアスなボーカルによって残虐性は皆無で、もっと奇妙に荒廃した風景を眺めている様な、そんな雰囲気。孤独感はありつつも閉塞感はないので、音的にもすっと耳に入ってくる。

始めは正直悪くないんだけどちょっと地味すぎるかな…と思っていたけど、そもそも激しさを期待するのが畑違いだった訳で、このバンドの特異なところに注目してみると中々よいアルバムだと思う。視聴して好みだったらどうぞ〜。

2014年11月3日月曜日

Greenmachine/The Earth Beater+3

日本は金沢のハードコアロックバンドの2ndアルバム。
オリジナルは1999年にMan's Ruin Recordsから発売されたものだがレーベルの消滅に伴い廃盤。私が買ったのはタイトル通り3曲ボーナストラックを追加した再発版。2003年にDiwphalanx Recordsからリリース。
前に紹介した「D.A.M.N」がとても格好よかったので割とすぐに買ったのだが、なにかと色々CDを買ってしまって封を開けるのが遅れてしまった。

基本的な音楽性は1stアルバムから変化無し。3人編成とは思えない音圧のスラッジ/ドゥームメタル。前作もドゥームというほどのゆっくり感は感じられないスタイルだったが、今作はそんな前作に比べるとさらに(体感)速度はあがっている。爆走感というか。これは速度は勿論、よりロックンロールっぽさが増した事もあると思う。

前作でもそうだったが、よくよく聴くとドラムが滅茶格好いい。重量級のバスドラの一撃と対照的に手数の多いスネアの連打。うーん、たまらん。
ベースは音が割れまくる直前の様な録音のされ方(もしくはリマスターの結果か)で、腹に響く低音。ぐろぐろ主張が激しい。ギターが結構暴れまくるのだが、ドラムと一体となってリズムをキープしつつ結構えぐい事をやっている印象。
ギターはこのバンドの華でとにかく弾くわ弾くわでお祭り騒ぎのようだ。すりつぶす様な中央〜低音を強調した音質で右に左に弾きまくる。フレーズのお尻にくっついたロックなオカズがとても格好いい。低音主体のリフとよく対を成している。またギターソロもロックでいつつもどこかしらヤバい雰囲気、妙な凄みがあって良い。独特のためのあるリフと疾走感のあるリフ、そしてノイズ満載のフィードバック。3つの使い分け(本当はそんな単純なものじゃないんだろうけど。)で曲を豊かなものにしている。
別に沢山メンバーがいれば一人当たりの負担が軽く分けではないけど、3人ということで演奏の緊張感が半端無い。スラッジ/ドゥーム特有の尻上がりで伸びる様な演奏が、フレーズ毎に演奏陣がかみ合ってこれが醍醐味。それでいて勢いを殺さないところはやっぱりロックンロールだ。
ボーカルは感情をそのまま吐き出すような激情系で、やけっぱち感でいうとEyehategodに通じる感じがある。鬼気迫るところは似ているが、あちらほどの世捨て人感はない感じ。伸びるシャウトが少し掠れているところが男っぽくて格好いい。

さてこうなると3rdアルバムが欲しいところだが、Amazonだと品切れだ…レーベルが同じなのにこれだけ再発していないのだろうか。困ったものだー。
というわけで個人的には1stよりこちらの方が好み。轟音ってこういうことをいうんじゃなかろうか。憂鬱を吹っ飛ばす様なロックンロールが聴きたい人は是非どうぞ、オススメです。

Arca/Xen

ベネズエラ出身イギリスはロンドン在住の弱冠24歳のアーティストによる1stアルバム。
2014年にMute Recordsからリリースされた。私が買ったのはボーナストラックが1曲追加された日本盤。
1stアルバムだが、どうもそれ以前のミックステープやKanye WestやFKA Twigs(両方とも気になっているけどまだ聴いてない。)の(共同)プロデューサーとして名を馳せているひとらしいからどうも「待望の」という感じのフルアルバムらしい。日本盤のリリースもそんな状況を反映しているだろう。
幼なじみの映像作家Jesse Kanda(日系人の神田さんなのかは不明。)とガッチリタッグを組んで音楽+映像というフィールドで近代アートの分野でも活躍する中々どうして話題の人らしい。
実際を見てもらえればわかるだろうが、エレクトロい音楽に乗せて像が融解した様な気持ち悪い映像を流すという手法で、テクノ巨人Aphex TwinとChris Cunninghamのコンビの再来かと言われたりもしているようだ。
今作もPVもそうだが、インナーの画像もやたらと光沢のあってつるっとした”生き物”たちがその一部を大きく歪められていたり、極度に強調されたりといわば奇形的なアプローチで表現されたアートワークで埋められている。

さて音の方はというと電子音で構成されたテクノということで間違いないのだろうが、なかなかどのジャンルというのは(私が詳しくないのもあるだろうが)きっちり判別しにくい。ダブ、ノイズ、アンビエントそこら辺のジャンルのハイブリッドという感じ。流行ものを良いとこ取りしたというとあんまりだが、聴いた印象はとにかく良くまとめられているし、アルバム全体での統一感もある。音の印象も最近流行の「ぶーぶーぴょろぴょろ」(本当ウンザリ)なんて軽薄きわまりない音からは明確に隔たりがある。
空間的な広がりを意識した音の使い方はアンビエントを彷彿とさせるが、ビートは太い。そのビートもちょっと楽しく踊れるような類いの音とは一線を画している。ベース音はぶわぶわしているもののアシッドというよりはウィッチハウス以降な感じの湿り気のある艶やかかつ若干の意図的なチープさを感じさせるもの。効果音的な音の使い方が巧みで、良く聴いていると1回しか出てこない様なエフェクト音も含めてすごい豊富だ。波の音や人の声と思わしき音のサンプリング等々。うわものの音も生音なのかはわからないが、ストリングスや乾いた古風な弦楽器など多岐にわたる。音の種類は結構豊富なのにとにかく間の取り方が贅沢で最終的にはやっぱりどことなく空白を意識した曲作りをしている。言葉にするとかなり難しいような印象だが、1曲1曲は比較的短く長くて3分台でわりとさっさと進む。なんというか曲後とのテーマは明確(それがなにかはわからないのだが)で、それが百面相みたいな感じで色んな曲が詰まっている感じ。1曲が難解という訳ではないので意外に聴きやすい。

Xenというタイトルも「セン」と読むのかと思ったら「ゼン」だそうな。日本盤の解説でも指摘されていた「禅」との関わりがあるのかどうかは分からないが、なにしろ一筋縄では行かない音楽である事は確かだ。個人的にはとらえどころがないけど、かといってはったりにも感じられない音楽性は結構気に入りました。視聴してみて気に入ったらどぞ。

2014年11月2日日曜日

Panopticon/Roads to the North

アメリカはケンタッキー州ルイビルのブラックメタルバンドの5thアルバム。
2014年にBindrune Recordingsからリリースされた。
私は3rdアルバムから聞き出したにわかのファンだが、元々大作指向だったが4thアルバム「Kentucky」でバンジョーなどの楽器とカントリー/フォークの要素を大胆に取り入れるとともに土臭い自然要素を取り入れたいわゆるカスカディアンな方向に舵を取って、結果個人的にはそれがとても気に入ったりした。

今作でもフォーキーな要素もあり基本的には前作の延長線上にあるものの、音の嗜好がちょっと変化している。簡単に言うと音色が大分派手になっている。リフ一つにとっても所謂ブラックメタル然としたコールドかつ無愛想なトレモロ一辺倒ではなく、よりメタリックな作りになっており、低音だけではなく高音を採れ入れたリフは否応無しに目立つ。また曲を盛り上げる様なメロディアスな中音〜高音のリフも台頭してきた。ブラストパートは勿論健在だが、内にこもる様な雰囲気は(それは前作からもなんだけど)なく、開放的な雰囲気は増した。ピロピロとまでは言わないが結構そういう印象。ほんちょっとだけビートダウンを思わせる様なフレーズもあったり。あとはベースが良く動く。ギターが遊びだしたからかもしれないが、ベースは結構ストレートかつ疾走感のあるリフを弾いていて、こもった音ながらその躍動感でもって存在感がある。曲全体で見れば明るいというのではなく、より音の構成と数が豊かになった。さすがにボーカルパートは叫び倒す様なものだが、その分楽器陣の饒舌さは大幅に増した所為でこれは結構取っ付きやすくなったのではなかろうか。3rdより4thアルバムが好きな私としては好意的に受け取れた。曲の長さはやはり結構あって、展開も変わるが一つ一つのパートは贅沢に時間が使われているため目まぐるしくて何が何やらという事にはならない。2曲目のタイトルは「山が天を突き刺すところ」(格好いいタイトル。)となっているが、変わりやすい山の天気みたいなもので急展開であってもよく見ればつなぎが自然で違和感は感じられない。

7曲目のイントロは結構攻撃的でビックリ。良い意味で興味のあるものは取り入れる人なのかもしれないが、色んな要素を取り入れつつもぎゅっとブラックメタル風にまとめているから、バリエーションがあっても締まりがあって長いアルバムでも全体を通して聞きやすいというのは流石。メタルのもつ攻撃性を保ちつつ全体的に陰惨にならないのはその思想故だろうか。カスカディアンというのは音のジャンルであるとともにやはり思想的な一つのくくりなのだろうかと思った。
という訳で非常に楽しめて聞けました。この手の音楽が好きな人は買っていただいて全く問題ないかと。私はAmazonでCD買いましたが、Bandcampなら7ドルで買えるみたいっすよ。


A・E・コッパード/天来の美酒/消えちゃった

イギリスの作家による恐らく本邦オリジナルの短編集。
訳して編んだのは南条竹則さん。
この間紹介した同じ作者の「郵便局と蛇」が面白かったもんで、すぐにこの本を買った次第。
生涯を通じて2編(自伝と子供向け)しか長編を書かなかったという生粋の短編小説作家であったコッパード。この本には11編の珠玉の物語が編まれている。
相変わらずちょっと不思議な様な、牧歌的な雰囲気があったかい様な、それでいて背筋が凍る様な、そんな要素が混沌として簡潔ながらも詩情に(作者は詩人でもありました。)あふれまくった短編に何とも言えない味わいがある。今作ではより幻想味は抑制され、かわりに悲劇的かつ宗教に関する不信感(無神論者であったそうな)をイギリス人らしく黒いユーモアに包み込んだ作品が目立つ。幻想味はあるものの大きな事件が起こる訳ではないが、おもしろおかしいとも思える物語の向こうに人間を冷静に観察し、その豊かな表情を書いている様な感じがあって、昨今の例えば派手な事件によって異常な心理を書こうとする物語とは明らかに別の境地にある作風。どちらが優れている訳でもないが、やはりこういう小説にはなにかしら深く感銘を受けてしまう。私が自分自身の日常で感じるもどかしさに名前を付けずに、より深い考察をもって目の前に提示する様なそのような感じがある。もともと何かに名前を付ければ本質がいくらか失われるのだから(言語のもつ限界)、変に説教じみた物語より、こういう言葉とそれが紡ぐ風景が心に響くのは当たり前かもしれない。

どの短編も面白かったのだが、特に最後に控える中編くらいの長さのある「天国の鐘を鳴らせ」が凄まじい。始めはなにかよくわからんな、って感じで面白くなかったのだが、中盤から一転、凄まじい物語になる。(最後のために前半は絶対に必要だったと、読み切ってから気づいた。)これは人生の話しだし(人の一生を短編に閉じ込める事が出来る、というのが作者の尋常ではない力量を証明していると思う。)、恋の物語だ。昨今恋の物語は成就する事が一つの前提にすらなっているが、これはいわばそんな風潮の中で見向きもされない様な恋物語かもしれない。恋物語というにはあまりにも儚い。一体恋に破れ落ちぶれた孤独な魂はどこに行くのか。
彼を悩ませ、居ても立ってもいられない気持ちにさせるのは、マリーを失ったことだけではなかった。彼自身のうちに何か孤独で頑迷なものがあって、それもまた彼を悩ませ、彼の奇妙な風体と一体になっていた。天国の輝きは曇り、もう望ましいものではなくなった。彼はこの世の住人だが、この世には嫌悪を覚えた。この世界を愛したい、狂おしいほど愛したいと思っていたが、その中に溶け込む事はできなかった。
ちょっと中々ない孤独感だ。コッパードはスポーツを愛する快活な人だったようだが、その身のうちにどんな孤独を抱えていたのだろうか。
私は気に入ったフレーズがあるとページを折って後で読めるようにするのだが、この本では4回ばかし折った。

ちなみにこの素晴らしい作家を日本に紹介したのはかの平井呈一さんで、荒俣宏さんも好んで訳したとの事。幻想怪奇のジャンルの本を読んでいるとこのお二方の名前は良く目にする。偉大な方達でおかげさまで大層面白い読書体験が出来ます。感謝。
というわけで非常にオススメの”物語”。本読むのが好きな人は是非どうぞ。

2014年11月1日土曜日

グレッグ・イーガン/宇宙消失

オーストラリアの作家によるSF小説。
原題は「Quarantine」で意味は隔離という事らしい。

西暦2034年突然太陽系が黒い膜によって覆われた。地球は大規模な恐慌状態に陥ったものの膜の正体は判然とせず、また破る事も出来なかった。人類は膜を「バブル」と呼び、次第にバブルに覆われた状況にも慣れていった。
33年後もと警察官の探偵ニックはとある失踪した女性の捜索依頼を受ける。先天的に脳に障害を持つ彼女ローラは精神病院に収容されていたが、セキュリティをくぐり抜け失踪したという。捜査を始めるニックだが、彼女の失踪のは以後には宇宙を揺るがす謎が横たわっていた。

イーガンの小説は昔結構ハマって短編集を(多分)全部読んだ。ただ長編はとにかく難解という話でなんとなく敬遠していたのだが、やっぱりSFは面白い。なにか読みたいな、ということで手に取ってみた。
SFというのはギミックが魅力的ということもあり、まずは小説の説明を。これが楽しい。
バブルの説明はあらすじ参考の事として、まず未来の人間達はモッドと呼ばれるナノマシンを服用する事で脳のシナプスの配線を意図的に組み替えて、半ばコンピュータ的に脳を使っている。脳は人間の色んな感情を司っているから、モッドを使用する事で感情をある程度コントロールする事が出来る。寝たいときにはすっと眠れるし、何かに集中したいときは機械的にその状態にもっていく事が出来る。悲しい状況でもまったく悲しまないという事も出来る。主人公ニックはカルト集団に妻を爆殺されたが、悲しむ前にモッドを使用して悲しい、という感情を抑制した。その後何かしらのモッドで妻の幻覚を見る事を選択している。人間というのは自分の感情や 身体の動きというのは自分のものにしても完全にはコントロールする事は出来ないが、この小説ではそこがテクノロジーによって征服されている。このようなモッドの使用は非人間的であると考える趣もあり、物語の中でニックもたびたびそう問われるが、その度にニックは半ば無意識的に感情的になり、こう返答する、元々人間の感情は不自然なもので、自分はモッドによってその元々の不自然な感情を強化しているにすぎない、自分がそうなりたいと思った状態にモッドを使ってなる事はなんら悪い事ではない、と。 作中ニックは忠誠モッドと呼ばれるモッドを強制的に注入されていて、自分の敵対組織に忠誠を誓う事になる。自分の忠誠はモッドによる人為的なものである事はニックにも分かっているが、それによって惹起された感情(というか脳の働き)自体は自然なものとはいっさい変わらないのだから、その働きに従うというのである。これは中々どうしてな判断である。短編を読んだときもそうだったが、イーガンは人間がどこまで人間なのかというアイデンティティに関わるテーマを好んで書いている。 誰だって悲しいのは嫌だが、自分の意志で人間以上の存在になった人間は果たして人間なのか?人間じゃないならどこから人間じゃなくなったのか?はっきりと言明する訳じゃないが、そんなテーマが見え隠れする。
このテーマだけでも何冊でも本が書けそうだが、イーガンはさらにもう一つとんでもない要素を物語の柱にしている。
それが量子力学である。シュレディンガーの猫というと日本の創作物にはたーくさんでてくるあれがまさにテーマである。
(こっから先は完全な門外漢である私の思うところを書いているので実際の科学、それから作者イーガンの意図と異なる事があるだろうが、ご了承くださいませ。)何かというのは ”観測”されるまで、あり得る可能性すべてを全部保有した状態(作中では”拡散”状態と言い表される。)であって、”観測”されて初めて一つの結果が” 選択”されるのである。常に今ある私というのは”選択”された一人であって、されなかった無数の私は別の宇宙で生きているのか?それとも一つの結果が”選択”された時点で死んでいるのか?それは分からない。この選択は一体どういうロジックで行われているのかは分からないが、とあるモッドによってどれを”選択”するか意識的に選ぶ事が出来たら?人間はそれこそ人間を超えた力を得る事が出来る。例えばさいころを手に取れば何でも好きな目を選択する事が出来る(というか他の目を選んだ無数の自分は死ぬ。)。そんな馬鹿なと思うでしょう。私もそう思いました。しかしどうも基本的な考え方は量子力学に沿っているらしい。考え方通りに無限の可能性に広がっていく宇宙に頭が痛い。私の頭では完全に理解できている気がしないが科学って面白いものです。

広大な宇宙がはらむ量子力学の謎と、個人レベルのアイデンティティのミクロの問題が渾然一体となって一人の女性の失踪事件がニックと読者をとんでもない結末に連れて行く事になる。SFの醍醐味がぎゅっと詰まった本でした。これはオススメ。