2019年9月23日月曜日

A・ブラックウド 他 平井呈一 訳/幽霊島 平井呈一階段翻訳集成

翻訳家平井呈一が翻訳した海外のホラー小説を集めたアンソロジー。
平井呈一といったらなんといってもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の翻訳だ。真っ赤な表紙のあの本。それから明らかにドラキュラに対応した真っ青な表紙のレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を読んだ学生時代。アーサー・マッケンの「怪奇クラブ」。それから猫が表紙に書いてある平井呈一自身が書いた「真夜中の檻」も読んだ。

そんなわけで若干のノスタルジーもあって手にとったこの本、ごくたまにある面白すぎて読みすすめるのがもったいない、という気持ちを味わえる良い本だった。
中でも心底震えたのがF・マリオン・クロフォードの手による「死骨の咲顔」。まさに鬼気迫るこの怖さはなんだろうと思ったら、齢100歳の幽霊屋敷に使えるおばあさんの口調だった。まるで金田一耕助シリーズに出てくるようなおばあちゃん口調なのだ。年振り、少しなまっているような、半ば死んだ言葉たち。もちろん原著は英語で書いてあるわけだから、(単語のチョイスはあるだろうが)訳者である平井が言葉を当てはめ、補いこの雰囲気を作っているのである。
ここに平井呈一の凄みを感じたわけで、つまり英語をそのまま翻訳しても堅い文章にしかならない。例えば現代ならGoogle翻訳にかけたような少し奇妙な日本語である。これに意識というフィルターを掛け、意訳の工程を経て硬かった文を柔らかく、違和感なくしていくのが翻訳者の仕事だろうか。
それだとしたら時代背景や小説の設定、それから読者のことを慮って更に言葉を選んでいくのが翻訳家平井呈一の腕なわけだ。
もちろん原文からの距離は離れるから、それは批判があるかもしれない。しかし断言してもよいが波の翻訳者が前述の「死骨の咲顔」を翻訳しても絶対にこんなに怖くはならないだろう。
平井呈一は原著を再構築する作家的な側面を持っているといいいたいわけではなく、極めて尖ったどこまでも翻訳者なのである。
彼の目的は唯一つ、原著の面白さを英語を解さない日本人に伝えて怖がらせること。

そう思って読みすすめると付録の生田耕作との対話でやはり翻訳に対する強いこだわりを見せていて、これは非常に納得感があった。
つまりただ訳すだけでは全くだめだと、翻訳者は日本の言葉をとにかくたくさん身につけてないといけない、そしてこの教養を存分に奮って翻訳しないとならない。そういった意味では平井は自身を職人だと考えている。

かねがね思っていたのだが、ラブクラフトの仰々しい文体は現実離れした恐怖や怪異を読者に伝えるための一つのやり口であって、そういった意味では怪異を呼び出す呪文なのだ。平易な文章で恐怖を惹起させる巧みな作者もいるだろうが、やはり凝った文体が生み出す圧倒的な没入感を伴う恐怖というのは他に代えがたい。

ラブクラフトといえばこの本に収録されているのはいわゆるクトゥルー物ではなくて「アウトサイダー」というのも面白くて、つまり平井が考える恐怖が肉体的な恐怖ではなく、考えること、根本的にはその暗がりに何変えたいのしれないモノがいるのではないか?と考える恐怖であることを示している。そういった意味で収録されている作品にははっきりとした共通項があるようである。
こうなるとか怪異自体とそれに影響される人間の認知のゆがみというか揺らぎが、もう一つの恐怖の源泉でもある。

じっとりとした恐怖を味わいたいならこんなにうってつけの一冊もないだろう。

2019年9月16日月曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]3

設定や舞台がはるか未来、別の惑星であっても、その中での極めて短いスパンの個人的な体験を描いている物語が多い。

スペースオペラ的な勇猛果敢な冒険のようなものはなく、どれもひねりが効いている。
説教的とまでは行かないが警告的である。
つまり基本的にどの作品も未来的で先進的でありながら、多分に現実的であり、物語自体が比喩的である。
技術が進歩した未来で人類にとって脅威になりえるのは、攻撃的な異形のエイリアンではなく、どこまでいっても人類の抱える問題である。
未来やまだない技術を扱うのはそれ自体予言と言うよりは、それを使って視点を変えることにある。
つまりすでに発生している現実的な問題、中にはあえて無視されている問題について別の視点でそれを眺めることによって、その危険性を暴露してやろう、という思想・姿勢とそれの実施が、ハーラン・エリスンが私達に提示する危険なヴィジョンである。
新しい問題を広大な宇宙にもとめるというよりは、既知の問題、根源的な問題を宇宙というスクリーンに映し出すというやり口は、どちらかというと内省の動きであって、そういった意味では「インナー・スペース」を提唱して新しい波の旗手となったバラードの短編が収録されているのも頷ける。

エリスンの短編を手にとったことのある人ならわかると思うが、エリスンは弱い人の味方だ。
だからこの本、一連の3冊に含まれている物語はどれも個人的な物語の体裁をとっている。
ときに光の速度を超えて宇宙の果にたどり着けたとしても、変わらない悩みにとらわれる人間、少しも賢くならない人間が書かれている。
こんな作品ばかり集めたのはエリスンで、なぜなら彼はこんな物語が好きで、そしてSF自体を愛する彼はこれらの物語が(人がなんと言おうと)素晴らしい物語だと信じている。
だからこれは襟すんなりの布教なのである。

大言壮語の夢物語が跋扈する文學界に、見たくもない現実を叩きつける聖典といってもそれは正しいだろうが、はちょっと違うものにも思える。
学生自体友人と音楽を進めあったあの時だ。「絶対いいから聞いてみろ」といってニヤニヤした顔でイヤホンを片方差し出してくる、あの雰囲気である。
この本が夜に出てから早~年。一度は本邦で挫折したこのシリーズを、今たしかに懐かしい悪友のような顔をしたエリスン自身からからしかと受け取ったぜ。
(諦めきれずにこの危険なヴィジョンシリーズの全冊発売にこぎつけた日本の関係者の方々に深く感謝。)

2019年9月8日日曜日

ボストン・テラン/その犬の歩むところ

ロードノヴェルだが、物語を動かしていくのは、何かを得ようとする言葉に出来ない若い情熱でも、なにかから逃げようとする恐怖心でもない、一匹の犬である。そしてこれは何かを得ようとする物語でもあり、ときになにかから逃避行でもある。
広大な北アメリカ大陸を切り裂き、その内部に踏み込んでいく現代アメリカの神話だと思った。

複数の教義に向かってモーセよろしく犬がアメリカ大陸を渡っていく。
すべてがそのドグマに向かっているのであり、登場人物たちはそのために配置されている。彼らの喋る言葉、そして地の文体は神話を構成する言葉たちであり、それらは現代の小説のレベルからすると明らかに仰々しい。
ハワード・フィリップス・ラブクラフトが彼の物語に仰々しい文体を持ち込んだのはそれが呪文だったからだ。触腕蠢く怪物たちはいわばそういった呪文なしに顕現し得ない「現実離れし」た存在である。彼の文体は現実と虚構の埋まり難い溝を埋めるための呪文であった。もしくは読み手に対する催眠と言っても良い。
一方テランはこの物語の格を上げるために装飾的な文体を用いる。それは彼(もしくは彼女、テランは覆面作家)が書く作品が素晴らしい物語だからだ。

彼女の描く人物たちは非常に個性的だし、それぞれが十分に人間的である。納得できる行動をするし、髪型や髪の色、語尾に変な癖をつけたり、(面白い黒人のような)明らかに誇張された「わかりやすいキャラクター」ではない。
その上で棘がつまり複雑性がなく、ややのっぺりした人物像系である。複雑な人間性というのがある程度省略されて、主要な人物たちは概ね定まった過去と声質を持っている。
つまり、
過去に悲惨な経験をし、それを悔やんでいる。
過去の悲劇の少なくとも何割かは自分の責任だと思っている。
その自責の念を別の何かで夫妻をゼロにしようと密かに願っている。

主要な登場人物たちをさして彼らが全員根っからの善人だとするのは不十分だ。
彼らは善悪がはっきりと別れており、主人公たち全人は葛藤はある家のように書かれているが、読者の一人としては彼らの迷いを感じ取ることができない。
いざとなったら自分の命を他者のために投げ出す彼らは、私からするとやはりどこかの神話の登場人物たちに見えてしまう。

彼らの見えない顔は実は苦痛に恍惚としているのでは。
彼らの涙や苦痛は私の感情を引き出すには足りない。
というのも彼らへの共感ができないのだ。それは神話の問題というよりは、神話が救おうとしている人物のハードルが高く、私のような卑小で世俗にどっぷり浸かったつまらない男などはその崇高な門の前では門前払いされてしまうからだ。


2019年9月1日日曜日

椎名誠/[北政府]コレクション

読書のはたくさんの楽しみがある。
醍醐味といっていい、その中の一つに「想像す」ることがある。
”街の上空に浮かぶ巨大な宇宙船”という言葉で想像する宇宙船は人によって異なる。
人によってはアダムスキー型、スタートレックに出てくるような金属質だが丸みを帯びたもの、日本のアニメに出てくるような前後に長く数多の砲塔が突き出ているもの、近代的な角度によって色が変わる道の材質でできている流線型。
物語は文字で書かれているからじつは書かれた時点では完成していない。読み手が読んだ時点で完成するからだ。一つの書かれた物語を100人が読めば、100通りの物語、世界、風景、解釈がある。
こう考えると単に物語を読むという以上に、読書という行為が崇高なものに思えていつもゾクゾクする。

椎名誠のSFを読むとこれは読書の本質をついていると思う。
徹底的にぶっきらぼうで愛想がないからだ。世界や人物の過去や未来がほとんどかかれない。なぜなら「生存すること」がいろいろな椎名の物語では目的に吸えられていて、そんな人間や動物たちには今しかないからだ。
いわば説明のない空漠とした世界に、著者は適当な生物、構造物を作り上げてくる。筆を一振りすれば、人間すら捕食する虫と思しきもの、もうひとふりすれば人造の生体機械たちが生まれてくる。いわば神に等しい行為で、まさしく絶対心としてのストーリーメイカーの面目躍如といった趣。
ただ多かれ少なかれこんなことはどの作者(プロでもアマチュアでも)やっている。
ここで活きてくるのが作者・椎名誠の世界の辺境を放浪した実体験である。(あとどうも椎名さんは図鑑を読むのが好きらしいので、紙で得た知識もあるはずだ。)
自分で触った、食った経験がその椎名誠という一人の神であり、ホラ吹き男である作者の放言に妙な説得力を与える。
人造人間つがねの強靭さと危うさ、人を襲う野生の馬のような筒だましの恐怖、誰も実態を知らないが世界に爪痕を残した北政府、そんな見たことも聞いたこともない生物や機構の姿が無愛想な文字を追ってくると不思議に脳裏に浮かんでくる。(これは既存の言葉に頼らず、自分で言葉を生み出しているそのやり方もその力に大いに寄与していると思う。)数々の修羅場をくぐった百舌(もず)の峻厳でしたたかな顔つきもなぜだか想像できるようだ。

全くわからない世界、それを説明もしないが、まるでオーバーハングした長大な絶壁のような物語を書くのが椎名だが、そこには実は確固たる足がかりが用意されている。
これを縁にえっちらおっちら物語の壁を登っていく、そして振り返るとそこにはここでしか見れない絶景がある。

今回この本に収録されている物語は私全部読んだことがある。
でもやっぱり面白い。とてつもなく良い。
これが物語の、読書ん醍醐味だと実感する。

肉体的であるという意味ではアメリカ文学に通じるところがある。
登場人物たちが感傷的でないということは、前述の通り生きることに必死過ぎて余裕がないからだ。(とはいえ弛緩はあって、多く含まれている食事のシーンで表現されている。)
しかしこれを脳筋バカの極めて男性的な物語とは捉えていけない。なぜなら鑑賞はなくても思考があるからだ。
生き残るということは戦いで、それは判断の連続だ。武器を使うことはその一つに過ぎない。
だからこれらの物語の楽しさの一つに戦闘シーンが挙げられるが、それだけがすべてではない。
誤った判断で徹底的に荒廃した世界で手前勝手な判断(結構よく間違っている)でたくましく生きていく、それは非常に無益でそして抜群に面白い。