設定や舞台がはるか未来、別の惑星であっても、その中での極めて短いスパンの個人的な体験を描いている物語が多い。
スペースオペラ的な勇猛果敢な冒険のようなものはなく、どれもひねりが効いている。
説教的とまでは行かないが警告的である。
つまり基本的にどの作品も未来的で先進的でありながら、多分に現実的であり、物語自体が比喩的である。
技術が進歩した未来で人類にとって脅威になりえるのは、攻撃的な異形のエイリアンではなく、どこまでいっても人類の抱える問題である。
未来やまだない技術を扱うのはそれ自体予言と言うよりは、それを使って視点を変えることにある。
つまりすでに発生している現実的な問題、中にはあえて無視されている問題について別の視点でそれを眺めることによって、その危険性を暴露してやろう、という思想・姿勢とそれの実施が、ハーラン・エリスンが私達に提示する危険なヴィジョンである。
新しい問題を広大な宇宙にもとめるというよりは、既知の問題、根源的な問題を宇宙というスクリーンに映し出すというやり口は、どちらかというと内省の動きであって、そういった意味では「インナー・スペース」を提唱して新しい波の旗手となったバラードの短編が収録されているのも頷ける。
エリスンの短編を手にとったことのある人ならわかると思うが、エリスンは弱い人の味方だ。
だからこの本、一連の3冊に含まれている物語はどれも個人的な物語の体裁をとっている。
ときに光の速度を超えて宇宙の果にたどり着けたとしても、変わらない悩みにとらわれる人間、少しも賢くならない人間が書かれている。
こんな作品ばかり集めたのはエリスンで、なぜなら彼はこんな物語が好きで、そしてSF自体を愛する彼はこれらの物語が(人がなんと言おうと)素晴らしい物語だと信じている。
だからこれは襟すんなりの布教なのである。
大言壮語の夢物語が跋扈する文學界に、見たくもない現実を叩きつける聖典といってもそれは正しいだろうが、はちょっと違うものにも思える。
学生自体友人と音楽を進めあったあの時だ。「絶対いいから聞いてみろ」といってニヤニヤした顔でイヤホンを片方差し出してくる、あの雰囲気である。
この本が夜に出てから早~年。一度は本邦で挫折したこのシリーズを、今たしかに懐かしい悪友のような顔をしたエリスン自身からからしかと受け取ったぜ。
(諦めきれずにこの危険なヴィジョンシリーズの全冊発売にこぎつけた日本の関係者の方々に深く感謝。)
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