2019年9月8日日曜日

ボストン・テラン/その犬の歩むところ

ロードノヴェルだが、物語を動かしていくのは、何かを得ようとする言葉に出来ない若い情熱でも、なにかから逃げようとする恐怖心でもない、一匹の犬である。そしてこれは何かを得ようとする物語でもあり、ときになにかから逃避行でもある。
広大な北アメリカ大陸を切り裂き、その内部に踏み込んでいく現代アメリカの神話だと思った。

複数の教義に向かってモーセよろしく犬がアメリカ大陸を渡っていく。
すべてがそのドグマに向かっているのであり、登場人物たちはそのために配置されている。彼らの喋る言葉、そして地の文体は神話を構成する言葉たちであり、それらは現代の小説のレベルからすると明らかに仰々しい。
ハワード・フィリップス・ラブクラフトが彼の物語に仰々しい文体を持ち込んだのはそれが呪文だったからだ。触腕蠢く怪物たちはいわばそういった呪文なしに顕現し得ない「現実離れし」た存在である。彼の文体は現実と虚構の埋まり難い溝を埋めるための呪文であった。もしくは読み手に対する催眠と言っても良い。
一方テランはこの物語の格を上げるために装飾的な文体を用いる。それは彼(もしくは彼女、テランは覆面作家)が書く作品が素晴らしい物語だからだ。

彼女の描く人物たちは非常に個性的だし、それぞれが十分に人間的である。納得できる行動をするし、髪型や髪の色、語尾に変な癖をつけたり、(面白い黒人のような)明らかに誇張された「わかりやすいキャラクター」ではない。
その上で棘がつまり複雑性がなく、ややのっぺりした人物像系である。複雑な人間性というのがある程度省略されて、主要な人物たちは概ね定まった過去と声質を持っている。
つまり、
過去に悲惨な経験をし、それを悔やんでいる。
過去の悲劇の少なくとも何割かは自分の責任だと思っている。
その自責の念を別の何かで夫妻をゼロにしようと密かに願っている。

主要な登場人物たちをさして彼らが全員根っからの善人だとするのは不十分だ。
彼らは善悪がはっきりと別れており、主人公たち全人は葛藤はある家のように書かれているが、読者の一人としては彼らの迷いを感じ取ることができない。
いざとなったら自分の命を他者のために投げ出す彼らは、私からするとやはりどこかの神話の登場人物たちに見えてしまう。

彼らの見えない顔は実は苦痛に恍惚としているのでは。
彼らの涙や苦痛は私の感情を引き出すには足りない。
というのも彼らへの共感ができないのだ。それは神話の問題というよりは、神話が救おうとしている人物のハードルが高く、私のような卑小で世俗にどっぷり浸かったつまらない男などはその崇高な門の前では門前払いされてしまうからだ。


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