アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・シティのポスト・ハードコアバンドの3rdアルバム。
2017年にEpitaph Recordsからリリースされた。
1990年に元Gorilla Biscuitsや元Youth of Todayらのメンバーによって結成され2枚のアルバムをリリースした後、1995年に一度解散。その後1997年に再結成後1999年に再度解散。2012年にまたもや再結成し、ようやく発売されたのがこのアルバム。流砂という名前のバンドで私はRevelation Recordsのコンピレーション・アルバム「In-Flight Program」に収録された「Omission」という曲しか聞いたことが無い。恥ずかしながら再結成後に発売されたアルバムという盛り上がりに押されて買った次第。
wikiを見るとFugaziとHelmetとよく比較されると書いてある。
少し線の細い、ナイーブさを秘めた甘い歌声が伸びやかに、外へ外へと歌っていくオーセンティックなロックバンドとしての風格に良い意味で驚かされる。しかしよくよく聞いていると、ジャギジャギ刻むギターはやはりずっしりとした重みを感じさせ、またリズムの転換や凝った(ここではメタリックという意味ではない)リフなどにその来歴をはっきりと感じさせる。逆に言えばハードコアをどこまで”歌”に昇華させられるかというチャレンジでもある。ここで個人的に感心するのはその外向性であり、ハードコアが技量に凝り(悪いことではない、むしろ良いことでもあるとはっきり思います)、内面の葛藤を取り扱うと概ね内省的になり、そのサウンドはその懊悩を反映し、暗く、また反動的に攻撃的になっていく傾向からははっきり意図的に決別している点だ。重たいハードコア・サウンドにわかりやすいメロディを乗せるのがこの手のバンドの単純明快な(こちらも良い点と悪い点があるが、概ね出自のジャンルに拘りのあるファンは苦い顔をする。)上昇志向の一つの結果、つまりセルアウトとするなら、歌化することがある意味ではハードコアという持ち味(凶暴さ)をかなぐり捨てている、という見方ができる。引き合いに出されるというFugaziにそこまで似ているかな?と思ったのだけど、たしかにハードコアを脱却した音と、その脱却しようという精神こそが実はハードコアの真髄なのだという、そのやり方が似ているのかもしれない。
そんな内部闘争があったのかどうかは正直全くわからないのだが、そんなのどこ吹く風であくまでもからりとしたロックを演奏する姿はいかにも格好良い。Elliotのような切なさ、Refusedのようなマス感、どちらも実はその身内に取り込みつつ(結構楽曲は複雑じゃないかと思う)、あくまでも表面上としては実直なロックサウンドとしてアウトプットする。今作しか聞いてないから曖昧な判断だが、Helmetの強靭さ、冷徹さはほぼなく、もっと柔らかい感じ。「Omission」を聞くとなるほどだいぶ今の音からすると強面の音楽をやっているからいろいろな音的な変遷があったのだろう。音は強靭だがとてもしなやか。8曲目「Fire This Time」はストレートに内面に秘めたハードさが出ていてわかりやすいと思う。内面をわかりやすく吐露するエモ・バイオレンスや激情に比べると、やはりちょっとその真意は測りにくい、というのはあるかもしれない。それくらいクールではある。(クールさの弊害ともいえるかもしれない。)
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