2016年8月7日日曜日

アルフレッド・ベスター/分解された男

アメリカの作家によるSF小説。
ベスターと言えば何と言って「虎よ、虎よ!」が有名だと思う。広大な宇宙と現代とは大きく姿を変えた地球の人間社会を舞台に描かれた壮大な復讐譚で私も大変楽しく読んだ。この「分解された男」はそんな「虎よ、虎よ!」の前に書かれたベスターの第一長編。

24世紀の地球では犯罪は絶対に起こりえない。なぜなら超感覚者エスパーたちの誕生により犯罪に至る前の段階でそれらを未然に防ぐこぐ事が可能になったためだ。モナーク物産の社長ベン・ライクは「顔のない男」の悪夢に悩まされていた。モナーク物産は実はライバル企業であるド・コートニー・カルテルとの競争に負けつつあった。ライクの頭に浮かんだ起死回生の一策とはド・コートニー・カルテルの社長であるクレイ・ド・コートニーの殺害であった。ライクは不可能になった犯罪に挑む。

本当は「ネタバレあり」とかくこと自体ネタバレになるので(なんかあるのか!と構えてしまう)、そういった書き方や核心に迫る事は書かない感じでやりたいんですけど、この本に関してはどうしても結末、それも「虎よ、虎よ!」の結末も書いてしまわないと気が済まないので、両方読んだ人や気にならないよという人は続きから読んでいただければと。完全に言い訳めいてますが「分解された男」も「虎よ、虎よ!」も結末を知ったからといってもその魅力が大きく減じることはないと思います。



これは犯罪を犯したベン・ライクとそれを取り締まるエスパーのリンカン・パウエルの対決激であり、そういった意味ではミステリーとも警察小説ともとらえる事が出来るのだが、私は何かというとこれはディストピア小説だと思った。この小説の舞台となる24世紀に地球では犯罪はほぼ(意識のない犯罪は恐らくエスパーの限界状あり得るだろうから)根絶され、そういった意味ではユートピアに少なくとも今の地球寄りは近い世界だと言えるだろう。しかしその実はそうではないと思う。エスパーというのは何かというと人の考えがわかる。(エスパーには等級があり、その能力にも幅があるのだが。)劇中でも「のぞき屋」と称されるが全く持ってその通りで彼らが人の心を読み、よからぬ考えを持つものは摘発される。かの有名なフィリップ・K・ディックの「マイノリティ・リポート」もそうだったが、思想で罪に問われる、というのはディストピアものの一つの典型である。思想の自由を奪われ、少数により監視された社会で野心的で急進的、そして知性と行動力を持ったベン・ライクは最後の自由人である。私は勿論らいくの殺人を肯定しているのではない。ここでライクの犯す殺人はある意味では自由の最も極端な例である。(ライクはこの殺人を周到に考え、準備しそして何より自分で実行している。)
そんなライクを追いつめていくリンカン・パウエル。どうも好青年の用に描かれるがこいつがどうにもいけ好かない。(私がライクに肩入れしている事も多いに影響があるだろうが。)ちょっとした妄想癖と軽口はあるもののユーモアとウィットに富んだ伊達男らしいのだが、自分に惚れている女性のエスパー・メアリーを「その気はない」といいつつ良いように使ったり(「その気はない」から良いではと思われるが、本当に彼女の事を思うなら自分から遠ざけるのが本当に良い男というものだ。パウエルは彼女の好意、つまり弱みに付け込んで、「自分はその気はない」と言っているから自分はフェアだと思っているクソ野郎だ。)事件の鍵を握るコートニーの娘バーバラを事件解決のため、精神的に遅滞させ、(これはパウエルが直接指示した訳ではないが、少なくとも彼は意義は唱えなかった。)自分の良いように使っている。あげくには彼女にほれられ一緒になるという始末。(恋人であるメアリーは自分から身を引いた事になっている。)
殺人という犯罪を起こしたライクはそれだけでこの世界の極刑(死刑ではない)である「分解」の対象であるから仕方ないのだが、さらに後半パウエルはライクをタダの犯罪者以上に世界に対して悪い影響のある男だと独断的(エスパー協会に対しても強圧的にただライクは世界を損なうからと強引に説得しただけである)に決めつけ、ライクがただライクであるというただそれだけの要素でライクを追いつめ筆舌に尽くし難い酷い目に遭わせる。私は死刑に対しては複雑な考えを持っているが、それでもこのパウエルの所行をみるに、いっそ死刑にすれば良いと思った。ここでもパウエルは「世界とライク本人のためを思って」などというのだ。
物語全体をパウエルだけでないエスパーたちの悪いヤツは矯正して、つまりなおしてやる、という上から目線が覆っている。
私はこの小説がクソだと言っている訳ではないし、むしろ非常に面白く読めた。この場合の面白いはなるほど爽快感とは無縁で胸くその悪いものだったが、私に感情は多いに怒りに突き動かされた。つまり私は大いにこの小説で感動した。ただ楽しいだけが芸術では絶対無い。
思うに本当にディストピアがこの小説では描かれている。オーウェルの「1984年」は最高のディストピアを描いているが、もしかしたら本当のディストピアはこんな感じで明るいイメージとうさん臭い笑顔でやってくるのではなかろうか。いかにも”良いもの”でしょう?といった笑顔で私たちの自由を侵害してくる。自分たちの考えを押し付けてくる。思想から行動が制限される。(私は勿論人を傷つける行動が伴う思想は危険だし制限するべきだと思っている。私は無政府主義者ではないと思う。)「おまえたちをより良くしてやる」という上から目線。ディストピアの要素はこれでもかと詰め込まれている。ただ直接的にはそれが表現されていないだけだ。
これに続くベスター2つ目の長編前述の「虎よ、虎よ!」とは全く別の視点で書かれている。こちらの主人公フォイルは学は無くとも生命力にあふれ、既存の社会に敢然と立ち向かい、復讐という善悪を越えた感情に命をかける自由人だった。(フォイルが善人で素晴らしいヤツだと言っている訳ではない。)そしてその物語の結論は地球を軽く吹き飛ばせる様な力をすべての人に分け与える、という衝撃的なものだった。世界は貧しく弱いもの立ちのもので、彼らを信用し、彼らに世界を作らせる、というまさに、まさにこの「分解された男」とは全く逆の世界のあり方を描いた作品だった。私はやっぱりこちらの世界の方が好きだ。とても荒々しいのだけれど、自由で人に対する信用、つまり愛があるからだ。それが幻想だとしても、それは美しい。
ベスターは恐らく捻くれていて、わざとこんな歪んだ世界をいかにも素晴らしいものとして書いたのではないかと思う。それは巨大な皮肉の機械のようである。そうでなければ僻み根性の非常に強い私が、全然そうでない物語を指して検討の外れたことを言っているだけなのかもしれない。ここのところは是非、実際に読んで、そして可能であれば「虎よ、虎よ!」も併せて読んでいただき、その上で判断していただきたいと、切に願う。

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