2020年9月6日日曜日

フラナリー・オコナー/フラナリー・オコナー全短編

フラナリー・オコナーは1925年にアメリカの南部で生まれた作家で、39歳の若さで自己免疫疾患でなくなった。
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。

オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。

オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。

■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。

■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。

彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。

■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。

■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。

私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。

■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。

2020年8月2日日曜日

スコット・スミス/シンプル・プラン

仕事で疲れて帰ってきてようやくくたくたになった体を布団に横たえる。
ひどい疲労のためか、明日への不安のためか眠れなくなるときは自分がふとしたことで金持ちになったことを考える。
会社はやめる、都心に部屋を借りるか家を買って昼まで寝る。
車を買うならこの車種、ハイブランドの服も買う。
そんな事を考えている間に眠りにつき、また死んだ顔で朝の電車に揺られる。

現代生活では金持ちになるというのはもうおとぎ話だ。
なるほどベンチャー企業の台頭で嘘みたいな出世を遂げる、誰も気が付かなかったアイディアを針の目を通すような緻密さで商品化し、IPOで株を売り抜けあとはもう悠々自適の生活、または仮想通貨のようなバブルもある、だがそんなのは本当に本当に稀で、そしてそれらですら自分から行動しないと決して得ることはできない。
あなたはそんな努力をしているか?
してないなら毎回の査定の分でしか一生給料は上がらない。
富裕層は日本では全体の2.4%とするとあとの約98%は一生うだつの上がらない生活をするわけだ。

金があれば、でも金はない。
もし金があれば、しかし一生がそれだけで変わるくらいの金をどうやって?
何もしてない俺が?

答えは簡単、拾うのだ。
落ちている金を拾っちゃうわけ。
それは恐らくまずい金だからお前が懐に入れちゃえば良い。
それはどこにあるの?
雪ぶかい郊外に墜落したセスナ機の中に。
それは誰の金なの?
恐らく犯罪者がどこかから強奪したもの。
どうやって見つければ?
大晦日の日に兄とその悪友と自殺した両親の墓参りに行く途中に、兄の犬が野生の動物を追いかけていき、その先で見つけるのさ。

スコット・スミスはすべてのサラリーマンの夢を神経症的に肉付けし始めた。
金を得る妄想の第一段階を。
すべてのうだつの上がらない、努力しないあなたたち(9割以上の私達)が如何にして現実的に大金を手にするか。

だいぶ運に頼りにしたとしても、うだつの上がらない僕を始めとする登場人物たちが揃い、カネを手にした。いわばシミュレーションの初期設定が揃った状態で、そこで物語はほぼ自然に転がりだす。
文字通り坂を下りだす。(本人たちは人生の坂がようやく登り始めたと思っているのがお笑い草なんだ)

貧困層の子供として生まれ、なんの才能もなく、生活に手一杯としてもなにもやってこなかった僕たちがカネを手にするとどうなるのか。
いわば金は選択肢を倍加させるツールである。
あくまでもこれは手段であって金がほしいと常にいっている人でも硬貨や紙幣を愛しているわけではない。これをどう使うかが問題なのだ。
そして所在不明の金は消費する前にどう使うかが重要になってくる。
ほとぼりが冷めるところまで保管し、その後発見者の3人で分けよう、と主人公の僕は提案し実施しようとする。
これが平凡な僕が考えたシンプル・プランだった。

一度自分のものと思った金に次第に執着し始める主人公たち。
金という何色にでもなる絵の具で灰色だったキャンバスを色とりどりに染めていくはずだった。
ところがその前段でシンプル・プランが狂い始めていく。
必死に修正しようとする主人公の姿はなるほど滑稽で無様だが、しかし殆どのあなたたちは裏社会に繋がりがあるわけでも、警察の操作情報を抜けるほど強いパイプがあるわけでもない。
彼らより果たしてうまく動くことができただろうか。

これは金がほしいという妄想に対しての一つの回答である。
正直言えばかなり運に頼りすぎている印象は拭いきれない。
主人公はめっぽう運が悪いのだが、最終的には異常に運が良いからそれが物語の作為に見えるところも結構ある。
しかし、主人公たちの灰色さ、真綿で絞め殺されているようなぬるい地獄が雪に振り込められる田舎町に暗示されている表現は楽しかった。

2020年7月12日日曜日

日影丈吉 編/フランス怪談集

河出文庫の正解の怪談集(の復刊)シリーズ、フランス編。
収録先は下記の通り。
編集と収録先の翻訳の一部も務める日影丈吉は自身も作家で怪談も書いている。(短編集の感想はここから。)

  1. 魔法の手 ネルヴァル著 入沢康夫訳.
  2. 死霊の恋 ゴーチエ著 田辺貞之助訳.
  3. イールのヴィーナス メリメ著 杉捷夫訳.
  4. 深紅のカーテン ドールヴィイ著 秋山和夫訳.
  5. 木乃伊つくる女 シュオップ著 日影丈吉訳.
  6. 水いろの目 グウルモン著 堀口大学訳.
  7. 聖母の保証 フランス著 日影丈吉訳.
  8. 或る精神異常者 ルヴェル著 田中早苗訳.
  9. 死の鍵 グリーン著 日影丈吉訳.
  10. 壁をぬける男 エーメ著 山崎庸一郎訳.
  11. 死の劇場 マンディアルグ著 渋沢竜彦訳.
  12. 代書人 ゲルドロード著 酒井三喜訳.
※(上記収録先、ここから拝借)

不在がちな超自然要素
フランスのステレオタイプ、おしゃれで恋愛好きと言うのが真実であればさぞかし幻想的な怪談が生まれそうだと思って読んだんだけど、良い意味で期待を半分裏切られた。

典型的な幽霊譚、怪異譚に属するものは、②③だけ!
少ない。しっとりとした情緒は和風ホラーに通じるところがあるのでは、って気がしていたが。
他のどの話ももちろん怪異を扱っているのだが、非常に現実的なのだ。
現実に起こった(という体の)不思議な話、恐ろしい話が殆どを占める。(ただしこれは編集者の日陰の趣味も大いに関係しているとは思うからフランスの怪談全体の傾向をこれと決めつけるのは尚早か。)
例えば④なんかは華やかな社交界(女性)と勇壮な戦場(男性)で人を引きつける紳士が若い頃に遭遇した、男女間の艶っぽい出来事を扱った中編で大変怖いが超自然的な怪異の要素はゼロだ。

フランス人の恐れたもの、それは恋愛
多様な収録先の共通点として、現実的である(超自然の不在、つまり自然である)ということが根底にある。となると次にその中でどんな傾向があるかというと、これはズバリ恋愛である。
恋愛が作中で大きなファクターになっているのは①②④⑥⑨、やや弱いがロマンスという意味では③⑤⑦⑩を入れてもいいはず。
恋愛というのは強い執着を生むわけだから、これは怖い話になりやすい。(本邦だと四谷怪談か、ぱっと思い浮かぶのは。)
資料に取り憑かれる②は、日本にも通じる強烈な想いが幽霊となって結実するパターンだが、他の短編はそっちに舵を取らずに現実を変容させて悲劇に落ち込ませている。
嫉妬が不幸を招く①⑨(⑨は中編で④と合わせてこの本の中でも主役級の2編だと思う。)、恋心が破滅を招く、もしくは予兆させる⑤⑥⑩などは、そんなフランスのお国柄を意識させる短編と言える。
怪談というのは人を怖がらせないといけないから、その土地その次代の風俗や慣習を色濃く反映している。怪談を読めばそれを読む人たちが何を恐れていたかが読み取れる。
フランスの人たちにとって恋愛は大きな関心ごとで、大きな喜びを生み出す一方でときに大きな不幸や不和の種になることを知っていたのだ。

改めて超自然要素
恋愛の怖い話をそのまま書いてしまえば、まあメンヘラ化彼女がストーカーしたとか、メンヘラ化した彼女が刺しに来たとか、そういった物語としては下世話でつまらないものになってしまう。
そこで再登場するのが超自然要素なのだ。これは怪談集なのだ。
その不在がちな超自然要素がどのように働いているか、改めて考えていきたい。
①ならジプシーの魔術が現実を捻じ曲げて不幸に導く。
⑨は来たるべき破滅を超自然が横にずらす(このずらしはぜひ読んでほしい)。いわば不幸の転移であり、それが物語にもたらすのは悲しみだ。あえて怖くしなかったことで情緒が出た。この短編は常に閉鎖された状況でストレスが増大していく構成で非常に面白い。
徹頭徹尾現実的では面白さに制限がかかってしまう。それを超自然が未知の境地に押し上げてている、もしくは転移させている。
これで物語に転換がおこる。ゾンビものとは違う、現実が続いて最後に突き落とすのだ。
いわば恋愛における悲劇的な結末を一段深化させる、そんな感じか。
日常ではいけない場所に突き落とすためのスパイスのような。危ない薬と言ってもいい。


2020年6月28日日曜日

マリオ・バルガス=リョサ/楽園への道

同じ血を引く反逆者の物語
サマセット・モームの「月と6ペンス」を読んだのでなんとなくゴーギャンのイメージはあまり良くなかったが、この人物は小説家を魅了するらしい。
ゴーギャンは実はペルーに縁があり、それがこのノーベル賞作家バルガス=リョサの何かに引っかかったらしい。
彼はゴーギャンとその祖母、フローラ・トリスタンを題材に長い小説を書いた。それがこの「楽園への道」だ。
ゴーギャンは名前だけ走っている人も多いだろうが、フローラ・トリスタンとは?
彼女は1800年代初頭に生きたペルーの貴族の血筋で、貧困にあえいで育ち、逃亡者で、思想家であり、著述家であり、労働者を団結させて組合を立ち上げさせようとした社会主義者でもあった。
バルガス=リョサはこの二人の晩年の人生を交互に、ミルフィーユのように何層にも重ねて書いている。
かなり特車構造でもある。なぜかというとこの祖母と孫は生きている間は一度も面識がなく、したがって交互に繰り返される二人の人生が直接交わることがないからだ。
バルガス=リョサはこの二人を異なる時代に生きた反逆者として書いている。
反逆者と言っても社会の破壊者ではない、それぞれの理想を追い求め、当時の社会にその実現を目指した追求者として、だからタイトルは「楽園への道」なのだ。

二人の共通点〜出自〜
同じ血を引いている以上にこの二人の反逆者には似ているところが多い。
ふたりとも根っからの反逆者ではなく、しばらくは既存の社会の一員として生活をしていた。
ゴーギャンでいえばむしろ金融業界で働くエリート(当時で言うブルジョワ)であった。(その前は船員をやっていたから育ちが良いわけではない。)それがほとんど興味がなかった絵画に出会って自ら筆を執り、そしてその魅力に取り憑かれて人生を狂わせていく。
フローラはペルーの貴族であった父親が早逝し、その後は貧困から望まない結婚をし、そこから逃亡し、文字通り世界を遍歴する中でフェミニズム、それからコミュニズムに開眼していく。
いわばある出来事から覚醒し、それから世界と戦うことになった。

二人の共通点〜生き方〜
既存の世界と対立する新しい世界秩序に目覚めた二人は、爆発的なエネルギー。
それまで持て余していたエネルギーを文字通り100%ぶつけていくことになる。
そのためには周囲との反発も厭わなかった。アウトサイダーになり、警察を始めとする権力と摩擦が生じることもじさない。
禁欲的ではなく感情を発露させ、他人と戦い、快楽をあけっぴろげに求めた。
しかし結局は自分の理想が全てに優先された。
世界との対立にしても、自分の居場所を作る的な自己防衛ではなく、世界の一員であることを高らかに宣言し、それでいて世界をあけすけに批判した。
ここはゴッホとの対比を見てほしい。アルルの狂人ゴッホにとっては世界は違和感に満ちていて、そこにとどまって生きること自体が戦いだった。
一方でこの祖母と孫はどんな環境でも生きるたくましさ、強靭さがあった。
無知や搾取と戦った。
今までこうだったから同じやり方を踏襲している、という考えのなさを批判するベンチャー精神で、未踏の大地(ゴーギャンでいう南の島、フローラでいう諸外国の労働環境)を切り開いていった。

二人の共通点〜最期〜
二人も自分勝手と言われて差し支えないほど自己中心的で、無限のエネルギーを燃焼して生き急いでいる。
最後は旅の途中でなくなるまで燃え続けた。
ふたりともついに終の棲家を見つけることができず、家族に対しては愛情はあっても保護することはなかった。それは自分本位で身内は愛さなかったと行っても良い。また生きるために他人を利用する強かさと鈍感さを持っていた。

二人の差異
二人の共通点はそうだとして、違うところはどこだろう?
性別が違う。
これは結構重要で、フローラは女性であることがそもそも彼女の苦難のひとつなのだ。
搾取される側のフローラと、半ば無意識に搾取する側のゴーギャンであると言える。
また祖母は世界と明確に対立したが、孫は世界と対立したのは副次的なものだった。
楽園を実際の社会構造に求めたフローラと、あくまでも自己の内部(の発露しての作品とそれに付随する名声)に求めたゴーギャン。

楽園とは
まずこの二人は楽園を目指したが、それは確実に存在しなかった。
いわば頭の中にある楽園を創造しようとした。
フローラが実際に労働者とあってもほとんど賛同が得られなかったように、ゴーギャンが移住したタヒチでも彼の夢想した楽園がなかったように。
失望や落胆は彼らを諦めさせることはできなかった。
フローラは時に非合法の会合を持ち続け、ゴーギャンは絵筆を取り続けた。
ともに病魔がその体を蝕んで動けなくなるまで。
かっこいい死に様は存在せず、かっこいい生き方だけがあるように楽園はなく、ただそれにいたろうとする道こそが人を感動させた。
いわば不可能への挑戦であり、作品や思想そのもの質と関係なく、その情熱やその実行者が単に善悪の基準を超えて、燃え盛る炎のように人を魅了する。

批判性と普遍性
この作品は文明というよりは画一的な近代化批判がある。
西洋の進んだとされる文明が後進国を教化することで、もともと個性があった文明の良さを消してしまうこと。
そして教化のあとは鈍化させることで労働力として搾取すること。その権力の手先として活動するのが警察とそれからキリスト教教会だった。
フローラの置かれている状況も非常に悲惨であって、近年の#metoo運動もそうだけど女性は生まれながらにして差別されている、ということを強く意識させる。
またゴーギャンもフローラも人種差別はしないことも非常に面白い。
 今世界が混乱している、というよりは混乱が世界の抱える問題をあぶり出しているだけだと思うが、そんなときにこの小説を読み、そしていつになったら人が平等に生きられるのだろうか、と考えることは楽しい。
そのためにできることが見つかればそれは間違いなく楽園への道、その道は非常に険しいだろうけど、あなたや私が道半ばで倒れてもそれはとても尊い。
凡人である私は、少なくともその道を歩む人をバカにしない人間になりたい。

2020年6月13日土曜日

種村季弘 編/ドイツ怪談集

河出文庫の世界怪談アンソロジーシリーズ、ドイツ編。
収録先は下記の通り。

  1. ロカルノの女乞食 ハインリヒ・フォン・クライスト著
  2. 廃屋 E.T.A.ホフマン著
  3. 金髪のエックベルト ル-トヴィッヒ・ティ-ク著
  4. オルラッハの娘 エスティ-ヌス・ケルナ-著
  5. 幽霊船の話 ヴィルヘルム・ハウフ著
  6. 奇妙な幽霊物語 ヨ-ハン・ペ-タ-・ヘ-ベル著
  7. 騎士バッソンピエ-ルの奇妙な冒険 フ-ゴ-・フォン・ホ-フマンスタ-ル著
  8. こおろぎ遊び グスタフ・マイリンク著
  9. カディスのカ-ニヴァル ハンス・ハインツ・エ-ヴェルス著
  10. 死の舞踏 カ-ル・ハンス・シュトロ-ブル著
  11. ハ-シェルと幽霊 アルブレヒト・シェッファ-著
  12. 庭男 ハンス・ヘニ-・ヤ-ン著
  13. 三位一体亭 オスカル・パニッツァ著
  14. 怪談 マリ-・ルイ-ゼ・カシュニッツ著
  15. ものいう髑髏 ヘルベルト・マイヤ-著

日本の階段との共通点
共通認識としての宗教、勧善懲悪と因果応報、つまり民衆のための怪談。
上記のうち、
1,4,5,6,10,11、14
は幽霊譚に属する。
幽霊譚の構造というのは(物語の逆順をたどると)過去思いを残したまま死んだ人が現世に幽霊として現れて、そのわだかまりとともに成仏(や昇天)するというもの。
いわば人生のロスタイムであり、おまけ。
本来死んで終わりの人生に対する想像上の救済措置といえる。

これに加えてあるのが因果応報の要素。
1,2,3,4,5,7
幽霊譚とかぶりつつも上記の作品がこれに該当する。
こちらは言うまでもなく過去の悪行は未来で必ず相応の罰で返されるというもの。
悪いことをすれば必ず報いを受ける、ということは善行の奨励でもある。

幽霊譚と因果応報の要素が一番わかりやすく出ているのが4の「オルラッハの娘」。これは善悪の幽霊両方にとりつかれた娘が主人公の極めて宗教的な物語。

宗教はいろいろな側面があるけど、大衆を押さえつけておくための手段として為政者に機能していた面もあるはずだ。
  • (年、または権力の)上にあるものを尊敬し、いうことを聞くこと。
  • 悪行をすると必ず報いがあること。
  • 善行と勤勉が奨励され、その報いは死後に待っていること。
(余談だが私は宗教を現代において、例えばテロリズムの言い訳や隠れ蓑にされることを上げて無益どころか有害、という言に関しては強く反対だけど、じゃあ宗教が全部良かったかというとそうではない。宗教の各キャラクターが象徴するがごとく、宗教を良し悪しで判断するのは無理だ。)

この宗教観が敷衍した世界で成立する怪談というのが、構造的に日本に似ている。
日本の怪談は仏教、儒教的な規範に基づいているところが多いから、死後報われるというよりは徳のランクがあがってまた人間に生まれる、とかなのか?ここは少し違うね。

為政者が幽霊を使って愚かな民衆に説教をかましている、とは流石に穿ちすぎでもっと純粋に楽しめば良いと思うけど、背景を考えると清濁合わせて民衆のための物語である、という認識。

逸脱した怪談たち=Black Metal
友達のお兄ちゃんの同級生が体験した話なんだけど~
上司の親戚に起こった話なんだけど~
怪談の枕に語られるこの手の導入には、この怪談は実話ですよ、というエクスキューズが含まれる。
幽霊なんていないし、といったら怪談はだいなしなのである。
難しいもので人の体験の伝聞というのは整合が取れすぎていると逆に嘘くさくなる。
実話というのは少し不整合や、矛盾が残っているものである。

上記の「典型」の範疇に入らない怪談たち。
それも抜群に面白い。
8,9,12,13,15
がそれらか。
9「カディスのカ-ニヴァル」の意味不明さ、それ故に残る不気味さはまさに口述される怪談の醍醐味だ。
またこれらの逸脱はキリスト教外というのがキーワードにもなりそう。
pagan、つまり異教(キリスト教こそ異教で土着の信仰なんだけど…って思うけど)の物語は、常識として大衆に定着した宗教観の埒外にある。
それは非常識でそしてオルタナティブだ。
12「庭男」は恐ろしくも自由だ。自然の大きさ、わけの分からなさ、人間を魅了するが人間の味方ではないその闊達さを表していてめちゃくちゃ面白い。

これらの怪談の野蛮な力は、権力としてのキリスト教に反旗を翻し、顔に死化粧を施し、土着の神々の名をなのって気炎を吐いたブラックメタルを彷彿とさせる。
キリスト教の生に対するアンチテーゼだから当然死がモチーフになるんだけど、実は相当エネルギッシュだ。
(面白いのは文字通り死のデスメタルはスラッシュメタルなどの激化だから、対立的なブラックメタルとはちょっと構造が違う。)

2020年5月31日日曜日

トム・ジョーンズ/拳闘士の休息

男性の物語より女性の物語が面白かった。

どれもこれも明確に喪失している物語で、そこから取り戻そうとする運動が発生するわけなんだけど、どの主人公も決して同じものは取り戻せない。

孤独というよりは断絶した人間が主人公で、無関心ではなく明確な敵意と戦っている。

先天的、後天的に健康を残っており、それが精神に強い影響を与えている。

観念的だが、肉体的な欠損によってそれらが生じているため、肉体的な物語である。

主人公たちは常に間違った場所にいるが、世界全体が間違った場所なのである。その類型が著者が体の不調のため結局行くことのなかったベトナム戦争だった。

ここでは異常がある人が適応を見せて正常になる。だから戦場から戻ると鏡の世界は終わって異常が異常になって生きられなくなってしまう。

戦場とは地獄であり、しかしここでしか生きられない人もいるというメッセージでもある。

 

女性が主人公の話は何が面白いのかというと違和感がヒントになっている。

狂気に陥ったらその世界は正常にひっくり返る。

違和感があるということは正気と狂気の狭間にいるのが主人公たちということになる。

彼らを正気に引っ張るのが、この世界のもう一つの側面、主人公たちが望みながらも得られなかった素晴らしい世界だ。

「私は生きたい!」この物語に出てくるのはありふれた不幸で、否応なく人間は緩やかに死んでいっていることを意識している。彼女はとても不幸だが、特別ではない。

死んでいく彼女には世界が美しく見える。この奇跡は紛れもなく著者自身が患っている癲癇に通じる(神の啓示に似ている、と著者は癲癇について述べている。)。

これは死によって世界が輝き出すのではなく、もともと輝く世界に死の床で気づく、ということ。

もともと世界は美しいのに、そこにうまく馴染めない人達がいる。

彼らにとって世界は戦場で、そこに立ち続けるには戦わないといけない。

男性の主人公たちは誰もが破滅的だが、彼らにとって死は自殺ではなく(たとえ旗から自殺的に見えても)、生命は戦いに同じで負けたときが死ぬときなのだ。むしろ負けん気に満ちた彼らはアンバランスな生きたがりでもある。

ここでは狂気はタナトスではなく生きる手段になっていると個人的には思う。

だから生と死の間で揺れる、という表現はちょっと違っていて、彼らの葛藤は生きにくい世の中をいかに戦うか、で実は覚悟はもう完了されている。

 

もともと世界は美しいのにそこで戦い続けるとは矛盾だが、その矛盾こそが人間を人間足らしめているものなのかもしれない。少なくともトム・ジョーンズにとってはそれが彼の書きたいこと。

2020年5月4日月曜日

G・ガルシア=マルケス/百年の孤独

この物語のどこが孤独なのか?
この物語に出てくる人々は私達が漠然と南米に抱いている先入観というか固定観念をある程度なぞるようである。
つまり南米の人たちというのは、、、

  • 猥雑で底抜けに明るい。
  • よく飲みよく食べ、色事も多い。
  • 気前が良く、親族を大切にするし、また他人であっても身内のように扱う。
  • 情熱的で優しい。
  • 独特の死生観と宗教を持ち、その明るい生活には流血が伴う。
  • 彼らの生活には死が隠しようもなく存在感を持ち、異なる文化圏に属するものからすると不謹慎や唐突という印象を抱くこともある。

要するに孤独とは一番縁遠い人たちに見えるわけで、この蜃気楼の村マコンドが地上に存在するその100年間は概ね熱狂の年月と言っても良い。
彼らは常に誰かといて愛し合い、食べ、そして眠っている。
一人でいるということはほとんどなくて、小さい頃は本の虫であってもそのくらい穴蔵からいずれ出て他人と愛し合うか、もしくは殺し合う。
そうブエンティアの一族の男性はまたよく戦い、よく殺し合ってもいる。

彼らは他人と関わることで生きている。
愛するにしても、殺すにしても他人との関係性があり、つまりここのどこに孤独があるのか?


微笑みの爆弾と孤独
突然だが冨樫義博さんの漫画「幽遊白書」のアニメ版の主題歌、馬渡松子さんの歌う「微笑みの爆弾」という歌をご存知だろうか?
こちらの冒頭の歌詞を読むと、孤独には2種類ある事がわかる。
つまり、誰もいない環境での孤独と人がいる中での孤独の2つが。
前者のほうが希望がある分、後者のほうがより孤独であるだろう。
この百年の孤独というのはこのとき間違いなく後者の孤独である。
マコンドのブエンティアには常に人がいて、そしてたいてい騒がしいのだから。

彼らは大家族で、妻や愛人その子ら孫らに囲まれ、その気前の良さから親族ではなくても慕う人も多く、同時に敵も多く命を狙われることもあるが、それでも孤独なのだ。
なんでだ。
彼らは愛し合っているのでは???


愛の不在=孤独
物語の終盤、百年の中でようやく愛によって生まれた子供がいた。
それまでのブエンティア家には愛によって生まれた子供がいなかったのだ。
彼らの百年の楽しい喧騒の中には実は愛がなかった。

つまり孤独というのは愛の不在ということになる。
じゃあ愛ってなんだ?
この南米の人達は情熱的に愛していたのでは、恋人を、子どもたちを。

彼らがただただ殺し合いをしていたというのではない。
例えば独善的な(つまり変わった考えを頑固に持っている)アマランタやフェルナンダにしても彼女らの恋人や子供を自分なりの方法で愛していた。


愛の正体と成立の困難さ
愛って難しいって話で、愛というのは片方が愛していてもだめだし、またお互いに愛していてもそれが通じ合っていなければだめだというのです。

よくよく読んでみると愛し合っている二人でも本当に通じ合っているケースは本当に少ない、というか作者によると最後の二人以外には誰もいない。
彼らの愛は性欲由来でただ消費するようなものだったり(これは非常に多い、大佐の17人の子どもたちなど)、相手を思った愛でもその対象には届かないというかむしろ害になったり(フェルナンダとメメの親子関係など)、通じ合ってはいなかった。
ウルスラはそういった意味で象徴的な存在。文字通りブエンティア家の地母神的な存在で異常な長命で孫の孫の孫の〜くらいの子孫までその手で育て上げた。ウルスラは子孫たち、その妻たちを限りない愛をもって接したが、誰もそれと同じようにはウルスラを愛さなかった。彼女はそういった意味では孤独を象徴しているキャラクターでもある。


神を必要としない世界の酷薄さと
愛を実現できる可能性としての人間のポジティブさを歌う
いつからかマコンドに置かれたキリスト教会とその牧師もうまく動いているとは言い難い。
彼らは百年にわたって部外者である。
神がいないで完結している世界。
愛に神は必要ない。
本当は人間だけで完成するのだ、この世界は。
流血と嘘、弾丸とナイフ、謀略で汚れたこの地を地獄と呼ぶのは勝手だがこの混沌の中でも人間には可能性があって、でもそれが人間の愚かさで実現できないのは悲劇であり、そして喜劇でもある。

前述の通りようやく完成した人間の愛、しかしそれもまた儚く終わってしまった。
ここにあるのは本来の野蛮な世界である。
直接の引き金が人間の怠慢であっても、自然本来の残酷さが強調されている。

欠点のある他人を愛することは難しいなら愛し合うことは更に困難だ。
しかもそれがきちんとお互いに通じ合うとなるとこれはもう奇跡だ。
「百年の孤独」はその奇跡に至る道、ではない。
読めばわかるがマコンドの、ブエンティア家の百年は繰り返しの百年でもあった。
つまりループだった。
愛し合い、殺し合い、食べ、排泄するループ。
その中でやっと生まれた愛がどうなったか?

ガルシア=マルケスは「百年の孤独」で人間に絶望しているわけではない。
たとえ百年ごしに生まれた愛がすぐに終わったとしても、この神ですら役に立たない、残酷な暗闇の世界で愛の火を灯せるのは人間だけだ、と言っているように私には思えた。
つまりゴールがある(愛が生まれた!よかった!完!という)物語ではなく、この世界、そこに住む人間が持つ可能性をこの長い物語に込めた、(消えた愛がまた生まれる可能性があることを示唆する)終わることのない人間讃歌であった。