2019年1月27日日曜日

ドーマル/類推の山

中学生の頃、学校の行事の一環として山に登った。槍ヶ岳。結構高い山のようで私も嫌な顔をしつつどこか楽しみにもしていたのだろう。ところが果たして山の中腹あたりで私は高山病にかかってしまった。今考えると多分私は呼吸が浅いのだろう。上の方まで(頂上は天候不順でいけなかったのですぐ手前の山小屋まで)行ったのだが終始フラフラ。二日酔いのような頭痛と吐き気に襲われ、砂利道に倒れたりしてた。それ以来山には登っていない。稜線を歩いてみたいけど多分また高山病になるかと思うと躊躇してしまう。

そんな私が手にとったのがこの本。登山小説といえば登山小説だが主人公たちが登るのはこの世に存在しない架空の山である。山と登山というのはさんざんなにかに例えられている(「そこに山があるからさ」が最も有名だろうか。)が、この本はまさにそれをそのまま小説にしたような本だ。地上にありながら点に接している山を登ることで、より高次の人間になるのだ。高山は過酷でそこでは真の人間性と生存能力が問われる。いわば人生の結晶というか、短く濃くデフォルメされたのが(フィクションにおける)山ということができるかもしれない。

シュルレアリスム小説とされているし、実際シュルレアリストたちと交流(と断絶)があったようだ。しかし言語を絶するなんだかよくわからない世界が構築されているわけではなく、類推の山だけが地図にない異界でそこには未知の動植物による独自の生態系が成立している、といった程度。作者の想像で描かれる不思議な生命たちはたくましくそして可愛げがあり、椎名誠の描くそれらに結構似ている。

ここ(現実)ではないどこかへ行き、人として成長する。というのは面白い設定だが、逆に言えば現実世界にいれば人として成長することはできないと言っている。ドーマルはフランス国内を転々とし、その生活は困窮していたらしい。次第に体調を崩し、若くしてなくなってしまう。この小説も未完である。
ドーマルはかなり細かく書くタイプみたいなので読んだ印象半分も行っていないのではないか。(ようやく登山を開始した!というところで終わってしまう。)直近の構想は友人たちに漏らしていたが、そこから先はもはや誰も知らない。
結核に侵され、もはや長くはないと悟って書いたこの作品、登山に熱中していた彼にとって神秘的な山というのはそのまま天に登るはしごだったのだろうか。グルジエフに連なる神秘思想に執心していたと言うし、あの世の存在を信じていたのかも知れない。山に登るのはあるいは、しかし頂点を極めたあと彼は、つまり主人公たちは降りるつもりがあったのだろうか。しかし空気が希薄な頂上から眺める景色はそれはそれは筆舌に尽くしがたいものだったろう。

まずは低い山からでも良いかもな、とちょっと思った。

2019年1月20日日曜日

フォークナー/八月の光

アメリカの南部は泥濘のようにどろりとしている、知識としては知っている。時には知ったかぶって「南部はやべえよ」とか言ったりする。一度も行ったことがないのに。

小学生の頃、同級生にアメリカ人と日本人のハーフの男の子がいた。お母さんがアフリカ系のアメリカ人。彼は陽気でそして運動がものすごくうまかった。ある時放課後野球をすることになり、運動が苦手な私も何故か参加したのだった。その男の子はホームランを打った。相手チームには軽薄な(子供だし別に嫌な奴ではない)男の子がいて悔しかったのだろう、こういった。「黒人は大リーグに帰れ」。ハーフの子は泣いた。彼は明るい男だったから泣くだなんて私も含めて誰も思わなかったろう。

「八月の光」、嫌なタイトルである。私は夏が嫌いなのだ。この本が取り扱っている問題の一つに差別がある。(いろいろな要素から私が取り出したのはこの要素だ。つまり一番衝撃的だった。)
差別とは言い訳、大義名分であり、思考停止である。
主人公の一人クリスマスは白人と黒人の混血児だと噂される。見た目は完全に白人なのだが。でも彼が混血児だとすると、それはまあ密造酒も売るのも、白人女をレイプして殺すのも、そんなに愚かなのも説明がつくのだ。なぜなら彼は黒人だから。黒人の血が流れており、それは汚らしく、人を悪事に駆り立て、そして遺伝性だから。黒人なら殺しても仕方がない。彼らは悪いので。どうしようもなく悪いのだ。全員生まれつき犯罪者なのだ。彼らは無知で愚かなのだ。だから殺しても良い。
黒人である、ということがいいわけになり、大義名分になり、思考停止の白人たちは彼ら、つまり黒人に加えて彼らが黒人と判断した者たちを迫害していく。そしてその白人流の正しさは神が保証している。黒人といえば悪人であり、聖書といえば正しいのである。God Bless America。ここは白人の天国。
クリスマスは白人でもなかったし、黒人でもなかった。だからアメリカの土地はどこにいってもヨソで、彼は本当にもう行くところがなかった。God Bless America。ここは白人の天国。

アメリカでは差別が日常茶飯事だ。日本人はたまに言うことがある。「アメリカの白人はとんでもない差別主義者だ」と。言外に日本人は差別しない、という認識がありそうだ。
たしかにネイティブ・アメリカンを虐殺し、奴隷として使役するために海の向こうから黒人を拉致、こき使った挙げ句にその弱みがあるので彼らを弾圧(して殺害)するとはずいぶんな奴らだなと呆れ半分に思うことはある。しかし本当に彼らだけが差別だけなのだろうか。日本は島国だから割と外国人の流入が少ないのでは。アメリカは(原住民はほぼ皆殺しにされた)移民の国なので人種のるつぼだ。つまり人種のメッカであり、異なる人種が同じ土地に住んでいる。私は思うのがアメリカが一番異種交配と差別に関しては先進的だ。だって歴史が長いから。そのアメリカでさえ未だに差別がなくならないのだ。もし日本にたくさんの移民が暮せば、現状のアメリカよりひどい差別が横行するような気がする。日本人は差別を知らない。と思っているが、差別は知るものではなくてそこにあるものだ。この本を読んでアメリカの白人は無知で差別的だ、宗教は害悪だと思う人がいたら、残念ながら私は彼とは友だちになれない。
この本には嫌な奴しか出てこないが、それらは全部私達なのです。

2019年1月14日月曜日

NoLA presents“assembrage:SWARRRM Split 7inch release show”

年末にようやくSWARRRMの「こわれはじめる」の感想をかけた。
一回書いたのがイマイチでやめてから何となく書くのが難しくなってしまったので、年内に書ききったことでなんとか整理をつけることができたかなと。
そうこうしているそのSWARRRMとassembrageのスプリットのレコ発があるということで、もうなにも懸念はない身なのでこれを見に行くことにした。
ラインナップには結構見たこともないバンドもいてそれも楽しみだった。

NoLA
一番手は東京のハードコアバンド。メンバーがひとり減ってから見るのは2回目かな。もう完全に違和感ない4人組。
まだ若いのによくまあと思わせる音楽性で、凶暴なハードコアに泥臭いスラッジをくっつけた音楽性。スラッジって結構魔力的な物があると思うんだけど、その吸引力にとらわれることなく(つまり完全にスラッジコアバンドになることはなく)、出音的には短くコンパクトにまとまったハードコア。といってもいわゆるタフなスタイルとは一線を画す音楽性であって、そういった意味ではスプリットで共演したRedsheerを始めとする日本の激情スタイルに通じるところがないわけでもないのだが、それらのバンドが醸し出す懊悩などの感情に囚われすぎないところが良いところ。わかりやすく言えばブルータルなのだ。パワーバイオレンスにおけるスラッジパートとも違う、Eyehategodなどのもつブルージィなロックンロール感をブーストさせた感じ。もはや人生どん詰まりといった自暴自棄さを健康的なハードコアで補填しているのも良い。
そういった意味では結構どのジャンルからも距離をおいている独自の道を追求しているバンドなんだなと思った。

DIE YOU BASTARD!
続いては東京(?)のハードコアバンド。名前はしっているが見たことも聴いたこともないバンド。ドラム、ベース、ギターに専任ボーカルの4人組。ベーシストとギタリストはもちろんフライングV。
突っ走るドラムにあっついボーカルが乗るジャパニーズスタイルのハードコア。なんだけどどうも様子がおかしい。明らかにうるさすぎる。日本のハードコアは速いだけ(速いだけのハード子も大好きです。)のハードコアに勢いを保ちつつ叙情性を大胆に持ち込んだやり口であって、ギターソロなどにその特徴が顕著に現れるわけなんだけど、このバンドはそもそもあまりそんなギターソロの頻度が多くない。そして何よりドラムがうるさい。とにかく叩きまくるし、とにかく速すぎる。これもう見てて笑ってしまった。すごい好き。格好良い。日本のハードコアも地位を確立していて、逆に言えばある程度の型ができている中で、このバンドはそんな方を豪腕でもって追い抜いていこう!というそういう気概が曲に出ている。妙なやけっぱちさがあって、それがねじけた感じではなく、ひたすら前に前にストレートに出ているのが男らしい。
それで気がつくんだけどバンド名はDIE YOU BASTARD!でこれはかの有名なMotörheadの曲名。4人のメンバーの内3人がMotörheadのマーチニミを包んでいる。(ボーカリストの方は背中にでっかくレミーの顔があしらわれたジャケット。)「死ねや、くそったれ」そんな精神で始まっているバンドなのだった。納得。
会場を巻き込んでいく温かいMCも良かった。

Intestine Baalism
続いて東京のデスメタルバンド。名前も知らなかったです。91年から活動してるベテラン。佇まいからして完全にメタル。そういった意味ではハードコアバンドが名を連ねるこの日一番浮いたバンド。ギタリストが二人いて両方共ボーカルを取る5人組。ギタリストはもちろんふたりともフライングV。だんだんわかってきました。
曲が始まるとこれもうデスメタル。容赦のない低音ボーカルとイーヴィルなしゃがれボーカルの掛け合い、複雑なリフワーク。曲は長めなのだろうが、飽きさせない構成。というのも疾走するところと、じっとり停滞するパートのメリハリが利いているから。リフが魅力のバンドなのだが、疾走するところでは冗長性はバッサリ捨てて突き進むところが格好良い。速度に差が生じれば必然的に、リフが映えるパートでリフの魅力が体感的に実感されるから、結果的にはこのやり方こそがリフ至上主義なのかも。そういった意味では曲は結構プログレッシブ。驚いたのはそれまでの無愛想な凶暴性を一転させる叙情的なギターソロ。哀愁もあれば、勇壮でもある。今まで顧みなかった感情の要素をこのギターソロで取り戻そうとするかのようだ。これ面白いな!と思って、はじめはBetween the Buried and Meっぽいかな?と思ったのだが、最近たまたま見たCarcasの「Heartwork」だと気づいた。そうなるとメロデスだ。私はメロデス全く聴いていなくて、前編メロディアスなデスメタルかな?と思っていたんだけど、「Heartwork」を聴くとどうも違うみたい。つまりデスメタルの曲があって、そこにギターソロ(やその他の要素)としてメロディを持ち込み、両者を同居させている、というやり方(他のやり方もあると思う)なのだなと。そうなると確かにIntestine Baalismはメロディック・デスメタルだ。個人的にはこの日一番面白かった。
全編とにかくポーカフェイスなメンバーも良かった。

OTUS
東京のハードコアバンド。見るのは3回目かな?この日一番タフなハードコアだったのでIntestine Baalismほどではないけどラインナップの中では特異。ボーカルの方がIron Monkey、ベースの方がEarth CrisisのT-シャツ。
ギタリストがアンプを複数使うところ、最新作「Mold」の真っ黒いアートワーク、以前見たライブの盛り上がりから、モダンでブルータルなハードコアかなと思っていて、この日も実際間近で見たら間違ってない。とにかくステージのアクションが激しい。縦横無尽に動くボーカリストだけじゃなくて、ベーシストの人もとにかくよく動く。一番前で見てた人は結構怖かったんじゃなかろうか。フロアも盛り上がってこの日唯一激しいモッシュが発生。とにかく何が起こるかわからない、という危険さを持ったブルータルなバンドだなな。
ただ改めてよくよく聞くと音楽的にはただ暴れているだけじゃない。ギターのリフをとってもひたすらモッシュパートだけを演奏しているわけじゃなくて(とはいえ低音ミュートと高音を噛み合わせたモッシュパートは格好良すぎる。)、結構デスメタリックなトレモロを挟んだりして面白い。一番思ったのはボーカルの頻度が結構高め。メロディアス差は皆無だが、ひたすらモッシュさせるだけじゃないバンドだな、と。叫ぶというのはそもそもハードコアバンクの本文だよね、主張がまずあってそれを曲にするという。

SWARRRM
つづいてはこの日の主役、神戸の混沌グラインダーSWARRRM。いつだってライブをみたいバンドの一つ。4人組という体制は変更なしだが、やはりベーシストはメンバーが変わったようだ。新メンバーは若くて侍のような佇まいの方。このバンドはベースの運指が非常に激しいので大変だろうと思う。
ほぼもう完全に最近の曲で構成されたセットリスト。大胆に肉抜きされたギターの音が耳に突き刺さる。ライブで聞いて思うのは引き算されたといってもただ音の数を減らしたわけではない。逆に減った分リフへの比重は大きくなった。コード感はかなりのもので、なんとなく知っているようなコードフォームも見えたような気がする。音楽理論はからきしなのだが、曲に対して結構コードの数が多い?ただ同じコードを回転させているような印象ではない。音の数も統制されていて、盛り上がるところではギターもかなり感情的だ。AlcestのNeigeがボーカルを採っていた頃のフランスのブラックメタルバンドMortiferaが好きなのだが、結構ここに通じるトレモロ感がある。メロディアスなトレモロリフが印象的なのだが、妙にささくれだっていてそれがガリガリこちらの心臓に刺さるのだ。流石にそこまでヘヴィではないものの赤裸々な音のサウンドが回転してメロディアスな情景を作り出していくやり方は似ている。
観客の中にはおそらく歌詞をなぞっているような方も見受けられた。その気持わかります。自分にあまりない感情を惹起させるようなOTUSやIntestine Baalism。対してSWARRRMは個人的な特定の感情を呼び起こすようだ。曲に同調して体が透明に鳴っていくような気がして好きだ。

assembrage
最後はこの日の主役、大阪のデスメタリック・ハードコアASSEMBLY OF THE RAGEことassembrage。ドラム、ベース、ギター2本に専任ボーカルの5人組。ギタリスト2人とベーシストはもちろんフライングV。この世界ではフライングVが一番イケてるギター/ベースなのだ。私は学習した。
恐ろしいことにギタリストとそしてベーシストの足元には悪名高いエフェクターHM-2が置かれていた。だいたいサウンドが理解できると思う。いわゆるスウェディッシュ・デスメタルのサウンド形成に大いに貢献したのがこのエフェクターだ。輪郭がたわんだような汚い音(褒め言葉)が特徴。
このバンドが面白いのはデスメタルの音を使いつつハードコアを演奏するところ。うひょー音がきたね〜(褒め言葉)と思って聴いていたんだけど、これ本当ハードコア?リフが複雑すぎない?でも例えばIntestine Baalismとは全く異なる出音。あくまでもかっちりしているあちら側に対して、こちら側はとにかく勢いが半端ない。(ちなみに演奏がうまくないということはまったくなかったと思う。)でもassembrageをしてシンプルなハードコアと言ったらそれは完全な嘘だ。ときにはユニゾンし、時にはタッピングも入れるギターソロ、そしてなによりよくよく練られた複雑なギターリフ。これはメタルでは???と轟音に包まれてわからなくなる。2つのジャンルをつなぐのにやはり日本のハードコアがあると思う。感情的という強力な粘着剤で異なるジャンルきっちり結びつけている。北欧のメタルはデスであってとにかく死んだ機械の金属の表面のようにコールドだ。一方assembrageは違う。徹頭徹尾血が通ったハードコアだ。


なかなかの長丁場だったが、共通項はありながらもジャンルに振れ幅があるラインナップで楽しかった。名前はしっているが見たことなかったバンド、名前すら知らなかったバンドを見れてよかった。
ライブはやはり自分にとっては結構気付きの場というところもある。それはそれで楽しいし好きなのだが、そういう見方しかできないのが良く嫌になる(ブログ書くのをやめたら別の見方ができるような気がしている。)のだけど、やはりSWARRRMはすごくてそんな雑念吹っ飛んでしまうくらいのライブだった。

2019年1月6日日曜日

ウンベルト・エーコ/ヌメロ・ゼロ

ウンベルト・エーコといったらショーン・コネリー主演で映画化もされた「薔薇の名前」なのだろうが、手が出ずにいるうちにこの「ヌメロ・ゼロ」が出版されたので手っ取り早くこちらを読むことにした。これがウンベルト・エーコ最後の長編小説になったそうだ。

「薔薇の名前」は確か中世の修道院で起こる殺人事件に関する小説ではと思うが、こちらは現代の小さい、一時的な出版チームに起こる出来事を描いている。
割と短い本で本編は250ページくらい。話の動き自体はさほどないが興味深く読ませる。ずばりメディアの欺瞞に満ちた仕組みを描いた本で、普段彼らがどうやって紙面を埋めているか、ニュースを作り出しているかというところが物語仕立てで説明されている、と言っても良いくらいの作りだと思う。それなのに読ませる物語に仕立て上げるのはすごい。

さて出来事が起こってそれをなるべく客観的に報告するのが、私の考えるニュースというか報道であって、どうしても人が記事を書く以上は主観が入るのは仕方がないにしても、なるべく簡潔なのがその本文なのだろうなと思う。
ところが実際はかなり違うというところをエーコが描いていく。主人公たちは特殊な目的で集められ、あるスポンサーの役に立つように出版されなかったという体で過去の新聞を作る。ちょっとわかりにくいのだが、すでに起こった事件について書く、という形。
まず新聞会社も公的な会社である以上確かにスポンサーがいる。つまり彼らの顔色をうかがいつつ紙面を作っていくことになる。この時点で公平ではないし、彼らはどのニュースをどういう書き方で紙面に乗せるのか、というのを当然の顔してこなしていく。つまり読者に届けられるのは意図的、恣意的にひどく歪められたニュースであり、多分に書き手の印象操作がその中には含まれている。彼らはその雑味をなるべくさとられないように描くので、つまり新聞(ひいては他のメディア)というのは特定の誰かの思想を、それとわからないように一般人に浸透させるという、報道とはかけ離れたものにすでに成り下がっているよ、というわけだ。誤謬があっても問題ない。読者はもうすでにそのニュースのことなんて忘れているよ、だって新聞は毎日刷られているからね、とこういうわけだ。

これはひどい!ということになるのだが、物語には一つの筋があってそちらでは主人公は同僚の妄想じみた陰謀論に少しづつ絡め取られていく。同僚はとりつかれたような周年で持ってイタリアのかつての独裁者ムッソリーニが生きていたという陰謀を追っているのだ。最終的には紙面に乗せることを企んで入るものの、彼はライフワークとしてほぼ病的に真実を追っている。ところが同僚は明らかに行き過ぎているし、主人公にはやはりどこかしらありふれた陰謀論の持つ危うさを感じてしまう。
新聞が嘘しかかかない、少なくとも本当のことをありのままに書かないとして、しかし真実とは?という問いかけがもう一つこの物語には埋め込まれている。
真実は隠されている、しかし真実なんてありましたっけ?処刑されたムッソリーニは本当に本人だったのか?たしかに明確に答えがあるだろう。それは事象だからだ。しかし事象を観察するのは人間なのだ。伝聞の度に人間の観察がはいる。
交通事故というのは大抵揉めるそうだ。お互いに向こうが悪いというから。同じように人の観測というのは概ね適当なのだ。私は真実は人の数だけあるとかテキトー言いたいわけではない。そもそも事象をありのままに観測すること自体がほぼ不可能なのだ。たしかに事象があったとしても人間にはまともにそれを観測することができない。概ね真実とは人間から絶対的に離れているようだ。