憂慮した第45代アメリカ合衆国大統領はメキシコとの国境に長大な壁を築くことを公約に掲げている。
邪悪な暗黒大陸(と言われる)メキシコで何が起きているのか、それ丁寧に書いたのがこの一連の小説だと思う。
丁寧にとはどういうことか。それはマクロな視点とミクロな視点で麻薬戦争という出来事を書くことだ。
ドン・ウィンズロウは麻薬戦争をその言葉通り戦争と捉え、半世紀以上続くアメリカが取り組んでいる最も長い戦争だと捉える。なぎ倒されるわらのような大量の死を描く一方でなぶり殺しにされる一人の個人を描いてきた。アメリカの警官が拷問されて死ぬ、メキシコのナルコ(麻薬を売る人たち)やシカリオ(カルテルの暗殺者たち)が大量の銃弾を浴びて死ぬ、老人が殺され、子供が橋から投げ落とされ、大学生が焼き殺された。
万単位の死とそれを構成する、一人ひとりの死をつまり、各個人の生きざまを描いてきた。
一つの放たれた銃弾のような男、(この物語の主人公)アート・ケラーははじめは若き捜査官として、その後出世を重ね今作ではアメリカ合衆国麻薬取締局(DEA)の局長としてこの戦いにアメリカ側の兵力として参加してきた。
自分の手を血で汚し、汚職に加担したケラーは麻薬戦争にどっぷり浸かってきた。
そこで彼がみた生まれながらにして邪悪なメキシコ人が神聖なるアメリカを汚染している風景ではなかった。いかにして麻薬が生まれ、それがビジネスになるのか。
直接的な戦争以上に人が死ぬ争いが継続しているのは紛れもない。とんでもない金を生むからだ。貧困から麻薬を作り、貧困から麻薬を売る、そしてアメリカの貧困層が麻薬を買って使う。
汚い金でも金は金ではアメリカの高官ですら買うことができる。
いよいよ善悪の区別がつかなくなってきた。嘘つきの人殺し共に囲まれてケラーは自分が一体何と戦っているのかわからなくなってくる。(自分が嘘つきの人殺しの一人に成り下がったことに失望している。)キリのない殺し合いの連鎖に疲れてくる。誰が本当の悪なのか。
麻薬戦争を描くということはその表面の残酷性を描くだけでは不十分だ。
誰が駒を動かしているのか?
アメリカは本当に被害者でクリーンなのか?
この物語はあくまでも物語だ。この本に書かれていることが全て真実だと信じることは危険だが、私のような門外漢にはルポタージュ的な側面も強いと思う。
壁を作ることのアホらしさには気がついていたが、はっきりと言葉に出来ない違和感を根本を読むことで少しクリアにはできた。
アメリカでは大麻の合法化が進んでいる。
身体に影響がある以上大麻の合法化がいいことしかないというのは嘘だと思う。依存症などの問題は絶対ある。
しかし禁制になっていないだけでタバコや酒だって同じように薬物なのだ。(アメリカには禁酒法というのがあった。結果的にはマフィアが力を得た。)
合法化された州では大麻を楽しむことができる。かつては大麻はナルコたちの主要なビジネスの一つで、そのために一体何人の人間が殺されたのだろうか。
諦めないナルコたちは次の商品を開発し、新商品の一つフェンタニルは国境を超えたアメリカで大量の貧乏人や若者を殺している。(アメリカのラッパーLil Peepはフェンタニルの過剰摂取で亡くなっている。これは現実の話。)
麻薬の合法化を聞くとベスターの「虎よ!虎よ!」というSF小説を思い出す。
巨大すぎる力をあえて民衆にばらまいてしまう主人公。
使い方はみんな次第。規制するのではなくて民衆を信じたのだ。
年を経たケラーは清濁を併せ呑み、そして彼なりの考えを導き出した。
この柔軟さがかれの本当の強さの一つだ。
排除するのではなく向き合っていこうという姿勢。
たしかにこのやり方があっているかどうかはわからない。
しかしもうあまりに血が流れ、そしてそれは止まる気配がない。
善対悪というわかりやすい欺瞞から脱却し、今違う手段を取るべきだという、それは一つの提案である。
この物語を読んで感じるのは怒りだった。第一作「犬の力」からそうだった。
それはケラーのと言ってもよいが、作者のウィンズロウのだ。
ウィンズロウは他の作品でもアメリカに蔓延する麻薬について、アメリカの社会構造を交えて描いている。
買い手があるから売り手がある。かくて市場が完成する。
終わりのない戦いは続く。
ケラーの戦いはひとまずこの物語で終わり。
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