アンナ・カヴァン、読むのは二冊目。
この本は短編集で、前読んだ長編「氷」とはだいぶ趣が異なる。「氷」が不条理ながらもSFの要素を持っていた(バラードが絶賛した)のに対して、この本に収められた短編にはいずれもその要素はない。一部(「上の世界へ」はSF的な世界観を感じ取れる)を除きどれも日常に根ざした現実的な物語である。
ほぼ女性の一人称「私」が主人公の物語であって、これらは作品であってたとえ、私小説であってもフィクションなのだからそのまま作者の姿を投影しているわけではないのだが、それでもだいぶ生々しい内容になっているように感じられる。
概ね、孤独であり(家族、恋人、友人から話されており、また会社で働いていない)、現実的な問題(裁判などか?)を抱えているが、それ以上の獏としたつまり根拠のない不安とそして罪悪感を抱えており、それが現実世界に対する認知・知覚に変容を発生させている、といった共通した女性像が浮かんでくる。
アンナ・カヴァンは変わった人で世界を転々として育ち、常に不安や抑うつを抱え、ヘロインを常用し(少なくとも使い始めた当初のイギリスでは合法だったらしい)、自分で創作したキャラクターの名前に本名を改名した。
どこにも居場所がない、はっきりしないが確かな不安感があり、別の誰かになりたい、なんとなく前述の主人公の姿に通じるところがある。
なんなら表題作は自身が入院した精神病院をもとに作っているし。彼女の作品と彼女の人生は(どの作家もそうだが彼女の場合は特に)強く結びついている。
書くことは彼女のセラピー、現実に適応しようとする試みだったのかもしれない。(が、最終的に彼女をそれが癒やしきることはなかった。)
どうしても生い立ちなどからヴァージニア・ウルフを思い出してしまう。暗い作風など共通点はあるが、読んでみるとだいぶ印象は異なる。
意識の流れを捉えようとしたウルフの場合は知覚過敏という印象が強い。とにかく敏感な人で通常の生活ですら彼女には刺激が強い。ギラギラ突き刺すように輝く彼女には世界がよく見えず、それをなんとか解き明かそうとしているように見える。
世界が不可解である、生きにくいという部分は共通しているが、カヴァンの場合世界が自分に対して敵意を持っている、とまで思いつめているようだ。自分の痛みには敏感だが、カヴァンは他人に対しては鈍感というかわかりやすくて、他人というのはほぼ彼女にとって敵でしかない。あまり好奇心というのはなくて、世界というのはとにかく怖い。理由はほぼないのだが、なぜだか自分が有罪だと強く信じ、確信している。面白かったのは、はじめ太宰治の「待つ」の女主人公に似ているものなのかなと、つまり何かを待っている、白黒つかない宙ぶらりんの空白が彼女を怖いと思わせているのかと(怖いのは恐ろしい物自体ではなく常にそれを待っているときであるので)。ところが「終わりはそこに」を読むと、残酷な現在という回答が提示された後も彼女の不安は消えないので、これは相当厄介な抑うつ状態である。いわばもう諦めて絶望しているような状態。
一方でウルフに関しては他社は不可解だが、常にその謎を解き明かしたいという探究心がある。彼女にとってはまだ世界は未確定であり、絶望しきっていない物語を提示する。(つまり希望がある分より残酷だと言える。)
一貫して心の弱さが提示されるのだが、しかし一連の「アサイラム・ピース」では無垢な精神薄弱者の危うさと対比して醜悪に自分勝手なパートナーたちが静かにしかし強烈に描かれている。
彼らは残酷な世界からのエージェントで彼女たちを苦しめる敵そのものだ。
殴りようのない、広く巨大で無慈悲な世界を擬人化し、その醜さを描くという意味で、これはアンナ・カヴァンの抵抗なのだ。
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