2019年7月21日日曜日

ダシール・ハメット/血の収穫

ハードボイルドというジャンルがあり、この小説を書いたダシール・ハメットがその創始者らしい。そのハメットのはじめての長編がこの本。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、

ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。

一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。

物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。

不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿