2019年7月7日日曜日

野谷文昭編訳/20世紀ラテンアメリカ短編集

最近アメリカ文学にハマっていたが、このときのアメリカは北アメリカ大陸のことを指した。
国は違えどアメリカ大陸には南があるわけで、こちらの方は私は未開の土地である。
ボルヘスを数冊、ガルシア・マルケスを数冊、あとはアンソロジーを1冊くらいか。

北と南、私はいずれも行ったことがないが隣り合う両者に格差があるのは確かだ。
経済的な観点で言えば北が高く、南側の人間が北に行くには制限がある。(10年以上前に北アメリカに留学していた友人に聞いた。)
イメージで言えば南は粗野でメキシコは終わりのない麻薬戦争に疲弊している。
要するにゴシップ的な知識のみで、肝心な文化がわからないのだ。
旅慣れない私はこの本を手にとった。

編者はいくつかのテーマを作り、それに区分けする形で物語を紹介している。それによってなるべく万遍なくラテンアメリカの文学を紹介しようという試みだろうと思う。その為非常にバリエーションに富む内容になっている。

ラテンアメリカは広大だ。決して目に見えない国境線で区切られ、多数の異なる文化を持つものが住んでいる。彼らは互いに争い、そしてまた異なる大陸からの征服者と争い、破れている。
おそらくラテンアメリカが粗野で文明的にはやや遅れていると私達が思っているのは、このヨーロッパやアメリカからの侵略とそれに対する屈服、勝てば官軍なら負けるのは悪人であるから、負けたラテンアメリカは悪くて劣っているという認識が蔓延したせいではなかろうか。

ラテンアメリカの文学はそういった意味では剣呑である。高低差があり、その差が苦い記憶と暗い気持ちを生み出している。
一方的な軋轢が弱者を現実的な力で苦しみ、彼らの呻吟する声を汲み取って文字にした、そんな趣きがある。だからどの物語も血と死で彩られている。
ところがどの物語をとっても単純でわかりやすい恨み節担っていないのが面白い、そして病的でもある。
殴られ続ける子供がこれが日常だと思いこむように、ラテンアメリカの人々は闘いそして奪われることにある意味慣れてしまった。大丈夫というのではない。ただ感覚と感情が麻痺してしまった。
だから彼らは強くたくましくそして悲劇的である。
彼らの日常には常に影がつきまとう。そして文学とは人を書くことだから、筆の先がその暗い歴史と感情を掘り起こすのだろう。

別に彼らの歴史は血にまみれており、今もその苦しみは終わらない、彼らは可愛そうな人たち、というのではなく。すでにその時期はとっくに過ぎており、例えば南米の死者の日とかで楽しそうに笑っている彼ら一人ひとりが苦しい歴史を持っていて、それでも笑ったり泣いたりしているのである。
彼らがねじれているとしたらそれはもう長い間に起きたことの結果であり、良くも悪くも彼らの一分になってしまっていて、私の目からするとそれはなんだかとても不思議で、こんな言い方を許してほしいのだが面白くも写ってしまう。

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