2018年2月3日土曜日

ミシェル・ウェルベック/素粒子

フランスの作家の長編小説。
「地図と領土」、「プラットフォーム」に続いて三冊目。

1928年にアルジェリアに生を受けたジャニーヌは当時にしては先進的な女性だった。野心的な医師と結婚。豊かな暮らしの中で子供を設けるが子育てには感心がなかった。不倫の末もう一人男の子を設けるが、やはり育児は放棄。異父兄弟の兄ブリュノは平凡な教師に、弟のミシェルは天才的な分子生物学者になった。ともに愛情の欠如した家庭で育った二人は全く異なる個性を持つが、その奇妙な関わりはおとなになっても続いていた。

「地図と領土」でも自分自身を登場人物として描いていたが、後書きによるとこの本の主人公には作者自身の生い立ちがかなり反映されているようだ。親に顧みられず友達も少ない、人付き合いへの苦手意識が長じても治らず、孤独感に苛まれるが故に他者を強烈に求めるが、自分の経験と自己評価の低さでまたもや人と良好な関係を築けずさらに孤独と身中に貯まる欲求不満と怒りをふつふつとたぎらせていくという悪循環。ウェルベックは割りと飽食と薄れ行くつながりという視点から現代を鋭い角度で描く作家と言われるが、昔の人間が皆仲良くやっていたわけではなく、きっといつの時代にもその次代に馴染めない人たちと彼らが抱える孤独があったのだろう。現代社会ではその孤独が豊かさの中で浮き彫りになっているのかもしれない。(そういった意味ではやはり現代を書けているとうことになる。)
読んでて思ったのはちょうど「地図と領土」と「プラットフォーム」の間の子みたいな作りになっているなということ。孤独で強い、つまり一人で生きていくことができる飛び抜けた才能を持った天才分子生物学者のミシェルはどうしても「地図と領土」のやはり天才芸術家ジェドを彷彿とさせる。一方ミシェルの兄であるブリュノは「プラットフォーム」の主人公性欲は強いが常に満たされない不遇の冴えない男ミシェルに通じるところが多いにある。二人はともに社会と健全で普通の関係は築けていない。前にも「プラットフォーム」の感想で書いたが、ウェルベックはとにかく対立する2つという一人構図が得意でこの小説にも主人公の兄弟をはじめとする様々な2つが出てきて、それの対立と類似、つまり異なる2つの比較というところが肝になってくる。面白いのは相変わらずウェルベックの小説というのは筋やストーリーというのはあまり強くなく(「プラットフォーム」はストーリーにわかりやすい動きがある、比較的。)、特定の場面を切り取って会話や感情の動きを丁寧に書いていく。いわば切り取った日常により大きな場面を封じ込めているわけで、全体的に比喩的な作りになっている。甘いノスタルジーに中年の汚い性欲を重ねるなど、露悪的に受け取られるかもしれないが、単に奇をてらって悪趣味に走っている趣はいよいよ感じられず、やはり愛情を軸とした関係の一つの頂点にあるのがセックスという、ひとつの儚い(おそらくそうではないことを作者も登場人物もすでに気がついている。)理想があり、ウェルベックの物語に出てくる主人公たちは人間関係の形成に重篤な障害をかかえているあまり、そのセックスというところだけを切り取ってそこに執着してしまう。(性欲が根源的に強い衝動であるというのもあると思う。)つまりセックス狂やニンフォマニアとは明らかに異なり、あくまでも思春期の子供が思い描く究極の愛の果にあるセックスへのあこがれが、愛情そのものへの経験の無さからセックスの前後をすっ飛ばし、愛の象徴としてのセックスを強烈に希求させている。だからかパートナーとのセックス描写はその殆どが幸福な雰囲気の中で描かれている。いわばずれた人間を描いており、その浮きっぷりが切ない。彼らが汚いとしてもどこかに純粋さがあり、それがキャラクターを複雑かつ愛嬌のある物足らしめていると思う。だからやっぱり個人的にはミシェルよりブリュノの方に感情移入してしまうのである。
お互いに好きなことをぶつけるだけで微妙に噛み合わない兄弟の会話。やっと手に入れた愛情のある関係の終焉。確執のあった母親との別れ(ここに一つの大きな虚無、いわば復讐後の虚しさを取ることができる。)。断絶と死に彩られているが、最後が新しい”子供”を作って自分(たち)を受け継いでいく、と受け取ることができて大変興味深い。

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