2019年11月4日月曜日

チャールズ・L・ハーネス/パラドックス・メン

聞き覚えのない作者だったが、ブライアン・オールディスが推薦していること。そのオールディスの「寄港地のない船」と同じ竹書房から出ていること。翻訳したのが中村融であることという条件が揃えば買わないわけにはいかない。

ジャンルはオールディス曰くワイドスクリーン・バロックということである。というかこのジャンルはこの作品を褒めたいがためにオールディスが作り出したというのだからなおさら読まねばならない。いわば近代SFの一つの里程標的な作品と言えるだろう。
以前にも数冊このジャンルを読んだことがある。
簡単にまとめると時空(宇宙と時間)を舞台に(=ワイドスクリーン)、特殊な能力を持つ主人公(=バロック)が縦横に活劇を繰り広げる、という物語である。
真っ先に思い浮かんだのはむしろこのジャンルでは語られることがない(と思う)ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズ。

この物語の場合主人公であるアラールという男は記憶喪失で自分が一体何物なのか?という謎を追っていくことで物語が進んでいく。
一方私がちょうど思春期の頃、日本ではセカイ系といわれる一連の物語が非常に流行ったことがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」以降の、作品名を上げると高橋しんによる「最終兵器彼女」など、どこかで読んだので間違っているかもしれないがとある人(名前は忘れた、東浩紀氏だったような)によると「主人公たちの問題がそのまま世界の命運に紐付いてい」るような作品を指す言葉、ジャンルだったと思う。
ちなみに最近読んだ神永長平の「戦闘妖精雪風」もちょっとこの雰囲気あった。

この「パラドックス・メン」では銀河を舞台に地球の命運をかけた闘いがあり、どうもその鍵を握っているのが主人公とその正体、ということになっているので、個人的にはこの作品、さらにはこの作品を説明するために生まれたワイドスクリーン・バロックという言葉にセカイ系を感じてしまったのである。
この作品「The Paradox Men」(が下の題の「Flight to Yesterday」という名で)発表されたのが1953年なので、もちろん2000年代周辺(雪風は1985年だそうだ)の日本の作品が(もし本当に受けたとすれば)この作品からの流れに影響を受けたのだ。

もちろん結構な差異もあるわけで、この作品のアラールは救世主、あるいはセカイの破壊者たる自覚を持って積極的に戦線に参加していくわけではない。むしろ巻き込まれ型の主人公を地で行く、追われる中で戦い、そして真相に近づいていく。(こういう物語の運び方はハリウッド的)
いわば主人公の自意識が超拡大して物語、つまり作品の中の時空を覆っていないわけで、あの「セカイ系」に特有の青臭さというはまったくない。
「パラドックス・メン」では時間を3次元に追加するもう一次元捉える4次元論が展開されるあたり、かなりまっとうなサイエンス・フィクションである。

ただこういうワイドスクリーン・バロックが、コードウェイナー・スミスによる一連の単語とキャラクターの世界と融合し、独自に飲み込み、ある部分を拡大解釈して生まれたのが「新世紀エヴァンゲリオン」(作中の人類補完計画はスミスの「人類保管機構」からとった、またスミスの作品に出ている猫少女ク・メルは日本でオタク流に解釈されたとか)などの日本の創作群だったらと考える。
そういった「線」を感じさせる作品なので、今読むのは非常に面白い。

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