2019年10月27日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集2

平成というすでに過ぎ去った時代を怪談という切り口で捉えようとする試み。
冒頭を飾る前作で時代性というものをたしかに私は感じ取ったのだった。
二冊目のラインナップは下記の通り。

①小川洋子「匂いの収集」
②飯田茂実「一文物語集(244~255)」
③鈴木光司「空に浮かぶ棺」
④牧野修「グノーシス心中」
⑤津原泰水「水牛群」
⑥福澤徹三「厠牡丹」
⑦川上弘美「海馬」
⑧岩井志麻子「乞食(ほいと)柱」
⑨朱川湊人「トカビの夜」
⑩恩田陸「蛇と虹」
⑪浅田次郎「お狐様の話」
⑫森見登美彦「水神」
⑬光原百合「帰去来の井戸」
⑭綾辻行人「六山の夜」
⑮我妻俊樹「歌舞伎」
⑯勝山海百合「軍馬の帰還」
⑰田辺青蛙「芙蓉蟹」
⑱山白朝子「鳥とファフロッキーズ現象について」

確実に作品の趣が1と変わってきている。
時系列で作品を収録しているから平成という中でも意識の流れに変遷がある事がわかる。
前回の感想でも書いたけど、前作収録作品が書かれた(性格には世に出た)平成初期には確実に親しい他人、家族や恋人が大いなる謎であり、その感情はふとしたきっかけで恐怖に変わることが、あったはずだ。そのぼんやりとした不安を怪奇小説に消化している作品がいくつか見受けられた。
ところが時代がかわってこの短編集だとそのたぐいのものはないかな。強いて言えば①は恋人がわからない、という要素はあるけれどもどちらかというと不穏な伏線が落とし穴のような恐怖に落ち込む典型的に落ちが聞いた怪談といえる。

どちらかというと私が感じたのは自己の内部に踏み込んでいく作品が多いこと。
平成中期は他者から離れて自己に向き合う、いわば精神病的な時代だった。
現実とのギャップが心身に軋みを生み出し日常生活に支障が出る。自己と深く向き合う中で本当の自分、または新しい自分に出会い、問題の解決に一歩踏み出す、というような。
浮世離れした少年が預言者のような男にであり、本来の自分を見出していく④、アルコール中毒になり会社と社会から脱落した男が非現実で闘争し治癒に向かう⑤、忌み嫌う父親の血が自分の中に流れていることを自覚し、そして同一化していく⑥、ぼんやりと霞がかかった日常を生きる女が本来の荒々しい自分を取り戻す⑦までが、そういった流れになっていて非常に興味深い。私小説的になりがちなこういう物語で、暗いおとぎ話のような鈍い光を放っている⑦は特に好きだ。

一方で怪談が現代に息を吹き返して豊穣な花を咲かせたのも平成中期だったのかと。
平成を代表する怪談の一つ「リング」シリーズのスピンオフである③、「ぼっけえきょうてえ」の作者の田舎の土着ホラー⑧、大阪の下町を舞台にした近代ノスタルジックホラーの⑨、人と神の交わり、そして神の摂理の前に人間としてただただ呆然とするしかない⑪と⑫などなど。題材としては古典的と言っても良い恐怖の要素を現代という、怪談が成立しにくい明るい舞台装置の中で見事に復活させていて、どれも面白い。
特に浅田次郎は「鉄道員」などだけ読んで良くも悪くも読みやすい本を書く人だと思っていたが、実は全然違った。こんなに美しい文体を書けるとは。なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。怪奇小説の短編集があるということで必ず読む。

世の中が電気と知識の敷衍によって便利になっていき、幽霊たちの居場所はなくなるようだが、この本を読むと恐怖という感情は普遍的で現代平成の世になってもちっとも減じていないようである。

マイケル・フィーゲル/ブラックバード

誘拐事件や監禁事件の際に加害者と被害者に特異な関係が築かれることがある。
一種の共存関係が結ばれるわけだ。ストックホルム症候群という名称で知られるこの概念はフィクションでの登場頻度は高いのではないか。

この物語は一人職業テロリスト(本来の思想的テロリストと区別するために私が勝手に作った言葉です。)が犯行現場で女の子を拾ったところから物語が始まる。
禁断の関係がドラマティックに物語を盛り上げるように、この小説も恋愛小説といえる。
誘拐犯と被害者、そして父親と女の子と、二重の意味で禁断の関係が描かれている。
恋愛では互いに秘密を共有することで関係性が深まるという。
罪の感情というのはとっておきの秘密であり、これを時期に展開する物語は非常にロマンティックだと言える。

被害者に生じるストックホルム症候群は一種の防衛機制で圧倒的な力関係の中でサバイブするための術である。
一方で共依存という関係があって、これは不健全な関係で二者がそれぞれの役割にハマって依存すること。ときにはこれは自分によって良くない自覚があってもその関係から抜け出すことができないとか。
職業テロリストなもので終日さらってきた女の子を見張っているわけには行かない。
女の子の方はやろうと思えば逃げ出せる環境で色々な理由をつけて結局誘拐犯の男から逃げることをしない。男は自分を間接的に殺そうとしたのにである。
不幸な家庭に育ったこともありどこにも居場所がないのが一つ、テロリストに鍛え上げられて殺人を犯した今帰りにくいのが一つ、男と奇妙な関係になっているのが一つ。
だが実際には新しい生活を始めるのが怖い、もっと素直に言えば生活スタイルを変えるのが文字通り(テロリストであり、組織からも追われているので)死ぬほど面倒くさいのだ。ブラック企業からなかなか退職できない社畜みたいなもんだ。忙しくて時間ないし、まともなスキルもないしといっている間にズルズル時間が立ち更にやめにくくなる。

面白いことに誘拐した男の方も同じである。
幼いときに否応なしにこの業界に突っ込まれ、中年を迎えるまで他の生き方を知らないのだ。彼が女の子を拾ったのは寂しかったからである。互いに食い合う裏社会で信頼できる仲間が欲しかった。(この恋愛小説がある観点ではずっと片思いなのは面白い。)
彼は組織を抜けたあとも殺し屋以外の生き方を模索しようとはしていない。

この本にはカタルシスがないのは意図的なのだろうかと考える。
フィクションとして殺し屋の追われ命を狙われる生活も楽しそうには書かれていない。
断片的な男の日記をたどっていく少女の旅路だが、しかし殺し屋のくせによく寝る男の本質も特別ニヒルでもない(故に私は好感が持てた)、つまり冴えない男であり(これは本書の帯にも退屈なという形容詞で表現されている)、そんな男を追う少女の姿はなかなか納得できないものがあるが、その他人には理解不能な情熱が恋なのだろうかな?と思った。

2019年10月15日火曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集1

題名の通り終わりを告げた平成という時代に世に出た日本のホラー小説を集めたアンソロジー。
過去の偉大なアンソロジーに対する敬意とその衣鉢を継ごうという意思を感じる一冊。
平井呈一が翻訳した小説を集めたアンソロジー「幽霊島」を読んで再燃したホラー熱で購入。というのも私はあまり日本の最近の作家の小説を熱心に読んでいるわけではないから。

収録作は下記の通り。
①「ある体験」吉本ばなな
②「墓碑銘〈新宿〉」菊地秀行
③「光堂」赤江瀑
④「角の家」日影丈吉
⑤「お供え」吉田知子
⑥「命日」小池真理子
⑦「正月女」坂東眞砂子
⑧「百物語」北村薫
⑨「文月の使者」皆川博子
⑩「千日手」松浦寿輝
⑪「家──魔象」霜島ケイ
⑫「静かな黄昏の国」篠田節子
⑬「抱きあい心中」夢枕獏
⑭「すみだ川」加門七海
⑮「布団部屋」宮部みゆき

この本は明確に収録作に指向性があるわけで、なにか訴えたいことがある。もしくはまとめて読むことに意味がある。
怪奇な物語、という側面から一つの時代を切り取ってみようという試みであることは間違いない。
時代性という言葉がなにか、というのは最近考えるのだが、一つに時代性を抽出することで比較検討ができるというのがある。
恐怖(とそれを嗜好する趣味)は普遍的な感情だが、流行り廃りだけでなく物語にはそれが書かれた時代が反映されている。
ここでは「平成」のそして「日本」という時空が抽出されている。

収録作を読んで思ったのが、人間、つまり他者との関係性がそのまま怖い話になり得るなということ。
独断で収録作を対人関係に起因する物語だと感じたのは①②⑦か。どれも超自然に片足は突っ込んでいるが、幽霊譚や怪談というのはちょっと違う。どれも怪異の発生源は明確に実在する具体的な人間関係だ。
電力が行き渡り明るくなった世界に、暗がりで生きるモノたちの居場所が亡くなったのもそうだろう(幽霊がリアルではなくなった、説得力が減じた)。
(また穿ってみれば現代人の比喩が下手になったとも言えるかもしれないが、)幽霊は因縁の可視化だとすると恐怖の一つが人間関係であることは昔からそうだが、どうも平成ではいま生きて横にいる親しい人間が恐怖の対象でもあったわけだ。
核家族化から少子化へ、共働きによる労働時間の増加などによる孤立化が生み出した現代なりの恐怖なのかもしれない。知らない、ことが何よりの恐怖になり得るのだから。
④や⑤は隣人に対する恐怖と考えることができるから、この段階を経て、しかしすぐにふっとばしてもう親や恋人が何を考えているのかわからない、と飛躍するのは面白い。ここは日本ならではか?

典型的な怪談もあるが、どれも見事に平成の世に馴染んでいる。
⑧のような短い短編を見るとわかるのだが、どの物語にも怪異を呼び出すための装置が巧妙に配置されている。
というよりは恐怖の本質はいくつかの類型があるが概ね普遍的であり、あとはそれを日常生活になじませる手段が必要だとすれば、各作中に出てくる風俗という点で怪談というフォーマット自体がその都度の時代を色濃く反映しているのも必然というわけだろうか。

⑫などは現代でしか生まれ得ない怪談であり、そういった意味では非常に面白い。私はなんとなく盲目的な科学への信頼は宗教じみていると思っているのだけれど、そういった意味ではSFは未来(と現代)の怪談とも言える。(ここは例えばバラードなんかを引き合いに出すともっと面白そうだ。)

2019年10月6日日曜日

神林長平/戦闘妖精・雪風<改>

作者はひねくれ者なのかちょっと変わった構造になっている小説。
ファースト・コンタクトから30年経ち未だ見知らぬ異星人(どんな姿をしているのか地球人は未だにわかってない)ジャムと戦い続ける地球空軍の話。
読んだことはないが「言葉使い師」という著者もある作者の言葉はある意味では信じていけない。一番わかり易いヒントは主人公に対する描写でとにかく「感情がない非人間的」ことが地の文や会話で強調されるが、実際は正反対の人物造形をしていることがすぐわかる。

本来地を這う人間が空、しかも異星の空で戦闘機で戦うという上と下の構造。これはそれと重なるようにもう一つの階層がある。
それがジャムと人間の関係で実際に相手の姿すらつかめていない地球人がもちろんジャムの下につけている。
作中ではジャムはおそらく機械知性であることが示唆されており、人間とはそもそも体、もしくは媒体と言ってもよいがそれの概念が全く違う。だからお互いにお互いを近くできないのだ。人間が無視されているように感じる、という主人公深井中尉の直感はだから正しい。
敵が機会だから面白いのではなくて、種族が違うのでお互いにわかりあえない、認知できないというのは私が面白いと感じるところ。だから戦争というコミュニーケーションに落ち込んでしまうのは生物的に見て双方ともに共通して愚かである、ということを表している気もする。
この一冊は同じ世界観の物語が連作短編という形で進行するのだが、最後の「スーパーフェニックス」は怪談めいているのだが、実際には上記の媒体の差異による認知のズレを強制的に正そうとする試み、いわばファースト・コンタクトをやり直す、といった趣があってこの本の中でもダントツに面白い。
ぶれていた階層が強制的に重ね合わされる、コネクトされるのだがそこにはやはり違和感しかなくて、これはもう一つの人間の限界を示している。

ある人が何かを造ったときそれを世に出した時点でもう自分のものではなくなってしまうように、人類が作った機械知性ももはや人間の手を離れてしまった。
この先はジャムと手を組んで人間の及び知らぬはるか高みに登ってしまうのだったら、それは面白いなと思う。雪風シリーズはあと2つこのあとに続編が出ているからそれを読めばわかるのだろうけれども。
戦争に人間が必要なのか?とはこの作品によく出てくるワードなのだが、そもそもこれは戦争なのだろうか。はじめから人間は無視されているような気がしてならない。だって飛べないから、というのはあまりに詩的だろうけど。そういう(人間的な)雰囲気も込められている、あくまでも人間の視点で書かれているのが非常に面白い。