2019年8月24日土曜日

ドン・ウィンズロウ/ザ・ボーダー

埋められた死体、吊るされた死体、バラバラに刻まれて奇妙なオブジェクトのように積み上げられた死体、切られ並べられた生首たち。メキシコではカルテルと呼ばれる組織が幅を利かせ、警察や国を買収して血で血を洗う抗争を日夜休むことなく繰り広げ、大量の麻薬を北のアメリカ合衆国に運び込んでいる。また同時に移民や犯罪者が大量に国境から合衆国に流出している。
憂慮した第45代アメリカ合衆国大統領はメキシコとの国境に長大な壁を築くことを公約に掲げている。

邪悪な暗黒大陸(と言われる)メキシコで何が起きているのか、それ丁寧に書いたのがこの一連の小説だと思う。
丁寧にとはどういうことか。それはマクロな視点とミクロな視点で麻薬戦争という出来事を書くことだ。

ドン・ウィンズロウは麻薬戦争をその言葉通り戦争と捉え、半世紀以上続くアメリカが取り組んでいる最も長い戦争だと捉える。なぎ倒されるわらのような大量の死を描く一方でなぶり殺しにされる一人の個人を描いてきた。アメリカの警官が拷問されて死ぬ、メキシコのナルコ(麻薬を売る人たち)やシカリオ(カルテルの暗殺者たち)が大量の銃弾を浴びて死ぬ、老人が殺され、子供が橋から投げ落とされ、大学生が焼き殺された。
万単位の死とそれを構成する、一人ひとりの死をつまり、各個人の生きざまを描いてきた。

一つの放たれた銃弾のような男、(この物語の主人公)アート・ケラーははじめは若き捜査官として、その後出世を重ね今作ではアメリカ合衆国麻薬取締局(DEA)の局長としてこの戦いにアメリカ側の兵力として参加してきた。
自分の手を血で汚し、汚職に加担したケラーは麻薬戦争にどっぷり浸かってきた。

そこで彼がみた生まれながらにして邪悪なメキシコ人が神聖なるアメリカを汚染している風景ではなかった。いかにして麻薬が生まれ、それがビジネスになるのか。
直接的な戦争以上に人が死ぬ争いが継続しているのは紛れもない。とんでもない金を生むからだ。貧困から麻薬を作り、貧困から麻薬を売る、そしてアメリカの貧困層が麻薬を買って使う。
汚い金でも金は金ではアメリカの高官ですら買うことができる。

いよいよ善悪の区別がつかなくなってきた。嘘つきの人殺し共に囲まれてケラーは自分が一体何と戦っているのかわからなくなってくる。(自分が嘘つきの人殺しの一人に成り下がったことに失望している。)キリのない殺し合いの連鎖に疲れてくる。誰が本当の悪なのか。
麻薬戦争を描くということはその表面の残酷性を描くだけでは不十分だ。
誰が駒を動かしているのか?
アメリカは本当に被害者でクリーンなのか?
この物語はあくまでも物語だ。この本に書かれていることが全て真実だと信じることは危険だが、私のような門外漢にはルポタージュ的な側面も強いと思う。

壁を作ることのアホらしさには気がついていたが、はっきりと言葉に出来ない違和感を根本を読むことで少しクリアにはできた。
アメリカでは大麻の合法化が進んでいる。
身体に影響がある以上大麻の合法化がいいことしかないというのは嘘だと思う。依存症などの問題は絶対ある。
しかし禁制になっていないだけでタバコや酒だって同じように薬物なのだ。(アメリカには禁酒法というのがあった。結果的にはマフィアが力を得た。)
合法化された州では大麻を楽しむことができる。かつては大麻はナルコたちの主要なビジネスの一つで、そのために一体何人の人間が殺されたのだろうか。
諦めないナルコたちは次の商品を開発し、新商品の一つフェンタニルは国境を超えたアメリカで大量の貧乏人や若者を殺している。(アメリカのラッパーLil Peepはフェンタニルの過剰摂取で亡くなっている。これは現実の話。)

麻薬の合法化を聞くとベスターの「虎よ!虎よ!」というSF小説を思い出す。
巨大すぎる力をあえて民衆にばらまいてしまう主人公。
使い方はみんな次第。規制するのではなくて民衆を信じたのだ。

年を経たケラーは清濁を併せ呑み、そして彼なりの考えを導き出した。
この柔軟さがかれの本当の強さの一つだ。
排除するのではなく向き合っていこうという姿勢。
たしかにこのやり方があっているかどうかはわからない。
しかしもうあまりに血が流れ、そしてそれは止まる気配がない。
善対悪というわかりやすい欺瞞から脱却し、今違う手段を取るべきだという、それは一つの提案である。

この物語を読んで感じるのは怒りだった。第一作「犬の力」からそうだった。
それはケラーのと言ってもよいが、作者のウィンズロウのだ。
ウィンズロウは他の作品でもアメリカに蔓延する麻薬について、アメリカの社会構造を交えて描いている。
買い手があるから売り手がある。かくて市場が完成する。
終わりのない戦いは続く。
ケラーの戦いはひとまずこの物語で終わり。

2019年8月11日日曜日

アンナ・カヴァン/アサイラム・ピース

アンナ・カヴァン、読むのは二冊目。
この本は短編集で、前読んだ長編「氷」とはだいぶ趣が異なる。「氷」が不条理ながらもSFの要素を持っていた(バラードが絶賛した)のに対して、この本に収められた短編にはいずれもその要素はない。一部(「上の世界へ」はSF的な世界観を感じ取れる)を除きどれも日常に根ざした現実的な物語である。
ほぼ女性の一人称「私」が主人公の物語であって、これらは作品であってたとえ、私小説であってもフィクションなのだからそのまま作者の姿を投影しているわけではないのだが、それでもだいぶ生々しい内容になっているように感じられる。

概ね、孤独であり(家族、恋人、友人から話されており、また会社で働いていない)、現実的な問題(裁判などか?)を抱えているが、それ以上の獏としたつまり根拠のない不安とそして罪悪感を抱えており、それが現実世界に対する認知・知覚に変容を発生させている、といった共通した女性像が浮かんでくる。

アンナ・カヴァンは変わった人で世界を転々として育ち、常に不安や抑うつを抱え、ヘロインを常用し(少なくとも使い始めた当初のイギリスでは合法だったらしい)、自分で創作したキャラクターの名前に本名を改名した。
どこにも居場所がない、はっきりしないが確かな不安感があり、別の誰かになりたい、なんとなく前述の主人公の姿に通じるところがある。
なんなら表題作は自身が入院した精神病院をもとに作っているし。彼女の作品と彼女の人生は(どの作家もそうだが彼女の場合は特に)強く結びついている。
書くことは彼女のセラピー、現実に適応しようとする試みだったのかもしれない。(が、最終的に彼女をそれが癒やしきることはなかった。)

どうしても生い立ちなどからヴァージニア・ウルフを思い出してしまう。暗い作風など共通点はあるが、読んでみるとだいぶ印象は異なる。
意識の流れを捉えようとしたウルフの場合は知覚過敏という印象が強い。とにかく敏感な人で通常の生活ですら彼女には刺激が強い。ギラギラ突き刺すように輝く彼女には世界がよく見えず、それをなんとか解き明かそうとしているように見える。

世界が不可解である、生きにくいという部分は共通しているが、カヴァンの場合世界が自分に対して敵意を持っている、とまで思いつめているようだ。自分の痛みには敏感だが、カヴァンは他人に対しては鈍感というかわかりやすくて、他人というのはほぼ彼女にとって敵でしかない。あまり好奇心というのはなくて、世界というのはとにかく怖い。理由はほぼないのだが、なぜだか自分が有罪だと強く信じ、確信している。面白かったのは、はじめ太宰治の「待つ」の女主人公に似ているものなのかなと、つまり何かを待っている、白黒つかない宙ぶらりんの空白が彼女を怖いと思わせているのかと(怖いのは恐ろしい物自体ではなく常にそれを待っているときであるので)。ところが「終わりはそこに」を読むと、残酷な現在という回答が提示された後も彼女の不安は消えないので、これは相当厄介な抑うつ状態である。いわばもう諦めて絶望しているような状態。

一方でウルフに関しては他社は不可解だが、常にその謎を解き明かしたいという探究心がある。彼女にとってはまだ世界は未確定であり、絶望しきっていない物語を提示する。(つまり希望がある分より残酷だと言える。)

一貫して心の弱さが提示されるのだが、しかし一連の「アサイラム・ピース」では無垢な精神薄弱者の危うさと対比して醜悪に自分勝手なパートナーたちが静かにしかし強烈に描かれている。
彼らは残酷な世界からのエージェントで彼女たちを苦しめる敵そのものだ。
殴りようのない、広く巨大で無慈悲な世界を擬人化し、その醜さを描くという意味で、これはアンナ・カヴァンの抵抗なのだ。