二人の貧しい男が決して来ることのない男をずっと待ちわびている。
待っている間することがないのでなんなやかんやで暇つぶしをしようとする。
いろんな物語には原型や典型があったりする。これは典型というよりはもはや日記に近い。動きがあっても繋がりがない。ただただ時間がダラダラと過ぎていく。途中で登場人物が増えるものの会話は妙にふわふわして噛み合わず、そして定まらない。走行しているうちに日が暮れ、待ち人は遂に来ないことが発表され、また明日は必ずその人は来るので待ってほしいと言われる。
これって何かと言われると私達の生活にほかならない。私達の生活は本当に同仕様もなく、そして自分たちは貧しいけどいつか救い主がきてそうすると私達の毎日は劇的に向上するはず。今は良くないけど今後良くなるから頑張ろうというわけだ。待ち人、つまりゴドーはキリストやその他のマスコットである必要はない。例えば宝くじが当たるでもよいし、お金持ちの男(との結婚)でも良いし、自分への正当な評価である出世や予期せぬ遺産相続でもよい。ゴドーとは私達の希望の総体、擬人化されたそれであり、そしてそれはくるくるとは言われているのに、決して来ることがない。
昨今のベンチャー起業家、実業家、金満家なら「主人公の2人は待っているだけで自分から行動を起こさない。彼らの貧困は自己責任。」とでものたまいそうだが、しっかり今作にはそんな金持ちが奴隷を引き連れて出てくる。彼ポッツォは奴隷を搾取することで生活の水準を満たしているのだ。満たされているがゆえにゴドーを必要としないが、そんな彼にも不幸が訪れる。
こうなると俄然ゴドー=死説が現実味を帯びてくる。無慈悲なゴドーを私達は待つ必要がないのだが。主人公2人は常に自殺が一つの解決策として検討している。待っても来ないならこちらから会いに行こうというわけだ。
死への欲求タナトス、しかしそれは貧者にのみ許された最後の贅沢でもある。一方止めるものは望まなくても迫りくる死を受けれなくてはいけない。
この本は限界までに余計なものを削っている。遂には話の筋すらなくなってしまった。そのシンプルさはさしずめ鏡となって人はそこに自分の顔、つまり自分の望むものを見るわけだ。そういった意味では読み手側にとっては楽しい本だ。作品の解釈をあーだこーだ考えるのは、受け取り側の醍醐味だからだ。正解はないので虚しくもあるんだけど…。
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