2020年11月23日月曜日

平井呈一 翻訳/世界怪奇実話集 屍衣の花嫁


怪談が好きでそれこそ学校の怖い話から小泉八雲の怪談、それから死ぬ程洒落にならない怖い話、稲川淳二さんの怪談はもちろんyoutubeの玄人・素人怪談師などなど。

別に蒐集家というわけではないがとにかく怖い話を求めてしまう、人一倍怖がりなのに。


怪談というのは創作怪談と実話怪談がある。

創作怪談は文字通り作者が想像で組み立て作ったもの、一方実話怪談は実際に起ったことの記録である。

ところが怪談を好きな人ならわかるが、怪談というのはたいてい実際に起ったという体で語られることが非常に多い。

話の枕に「これは友人の先輩(兄嫁の友人、義理の兄の親友、職場の先輩のおじさんとか何でも良い)から聞いた話なんだけど~」という枕がつくあれです。

怪談というのはノンフィクションであることが前提なのだ、いくら創作でも実際の伝聞ですよ、とするのはお約束のようなものだ。


前置きが長くなってしまったが、平井呈一がイギリスの実話怪談を集めたアンソロジー。

ここに集められたのは怪談の原型にして本質である。

私いちいち話しにオチを求めてくるやつが一番つまらないと思っているタチであるが、それでも無意識に話に落ち着き、起承転結を求めてしまう傾向があることは否めない。

この本で展開される物語はそういう意味ではきれいに落ちていないものも少なくない。

いかにも因縁の有りそうな幽霊たちの由来は詳らかにされないし、絶対存在するはずの怪しい城塞の隠し部屋はついに発見されない。

また逆に本筋に関係のない情報が多く含まれていたりもする。

要するにあんまり洗練されていないわけで、これは当時に実際に怪異を経験した者たちの伝聞をまとめた記録だからである。

この物語としては大きく欠損のあるエピソードが、しかしそれ故に抜群に怖くて面白い。

要するに、どうにもスッキリしないがゆえにこれは本当にあったんだ、と読み手が思えちゃうのだ。怪談好きとしてはこの体験は何にも代えがたい。

これらの原材料である素材の粗さを自分の想像力で補い、整合性の取れた完成度の高い怪談が後々生まれていくのである。

そこでは幽霊にまつわる悲劇があるだろうし、怪しい館には猟奇的な過去のある秘密の小部屋があるのである。

特に生々しい「ハリファックス卿怪談集」からの抜粋も含むI、それからⅢのベル・ウィッチ事件の詳細な研究は面白かった。

Ⅰは階段の原型、Ⅲは原型を(悪意はないんだろうけど)研究して超自然を解明しようとして結果因果の枠に当てはめようとする、つまり怪談の誕生の場面として面白い。


ネットが行き渡った現代は素人が誰でも発信できるのだから、今は(実話)怪談の時代と言える。

怪談を好む人ならこの本を手にとってもらって間違いない。

後書きによるとこの本が復刊されるのは60年ぶりということだ。

東雅夫さんに感謝。少なくともひとりここにこの本の再発を喜んでいるおばけ好きがいます。

ドミトリー・グルホフスキー/MTRO 2033-メトロ2033-

後にゲーム化もしたロシアのSF。

地球規模の核戦争で世界が概ね滅んだあと、残留放射能とそれにより突然変異化した獰猛な生物から逃れるため、ロシアにわずかに残った人類はその地下鉄で暮らしている、という設定。


オプティミズムと純文学

あとがきで作者が述べているのだがこの小説は核戦争の危険性を声高に訴えるものではない。

核シェルターとしての昨日を実際荷物ロシアのメトロが地下に深く伸びていくように、この小説はアルチョムという一人の主人公がいかに困難な人生に立ち向かっていくか、というところに焦点を当て、それ故に面白くなっている。

主人公アルチョムは危険だが温かい故郷から離れ、メトロの狭いがそれでも彼らにとってそれが限界の世界、それからその境界の向こう側を遍歴する。

自分の足で動く場合もあれば流される場合もある。

若くて無知なアルチョムは概ねカモとしてまたは都合の良い敵(彼にははっきりした信念がないゆえに明確な敵にはなりえない)として騙され、殴られ、殺されかけながらもメトロの自分の地図の空白を埋めていく。


メトロが舞台なのはこれが人間世界の縮図であるから。

つまり暗く、狭く、危険で、そんな中でも人は互いに手を繋ぐでもなく、猜疑心に煽られ、宗教、イデオロギーを言い訳に他人と食べ物を取り合い、殺し合っている。

技術的に大きく退化した状況で、当てにならない伝聞に尾ひれがついてとんでもない噂が飛び交う。

頼りない懐中電灯の光で文字通り暗闇を切り開いていく。

ある意味では主人公アルチョムはこの暗闇が支配する世界で確固たるものを探しに行くわけなんだけど、この形式はロードノベルのそれがあるからSFであると同時に純文学的でもある。

アルチョムの精神的な成長が欠かれている。

この混沌とした世界での自分の役割を意識することだ。

いわば無理やり巻き込まれた旅路を自分の意志で貫徹しようとするその過程であり、傍観者からより良くするために行動する者への意識的な転換である。


ペシミズムとSF

純文学的な成長物語、そして派手などんぱちを経ての大団円という王道的な筋をたどること物語、しかしその背後にはそれらを覆す意地の悪いペシミズムがある。

当初作者がネットで発表していた版では主人公アルチョムは最後命を落としたそうだ。

これはアルチョムが感じた運命(=王道的な成長物語)の否定であるし、このペシミズムは物語の核心(結末)に迫っている。

それは人類という種の今いるステージと限界を指し示したもので、比較的ファンタジー色の強い世界観の中でここは明確にSFだなと感じた。

核戦争で地下に撤退せざるを得なかったのは人間の失敗だが、それを経て人類がどう変わったのか、というのがこの結末に結実している。

前半からの運命論的な物語をあっさり裏切るような趣があるが苦味があって良い。


2020年11月15日日曜日

ナオミ・オルダーマン/パワー

今年面白かったゲームと言えば「Ghost of Tsushima」だろう。

開発元であるサッカーパンチが2009年に発表した「インファマス」というゲームは手から電撃を放つ男が主人公のオープンワールドゲームだった。

また、冨樫義博の漫画「ハンターハンター」でも登場人物の一人キルアは雷を操る。

ハリウッド映画の「アベンジャーズ」に登場するトールももとは雷神で、雷神というのは日本含めて様々な国の神話に登場する。

雷というのは、単に力の象徴にとどまらない。

超自然のちからなら、別に念動力でも炎を操る力でも良い。

雷というのは天から地に落ちるから、これは神性を帯びたもので、それを人が使うということはいわば由緒のある天上の存在から人間に下賜された形になる。

つまり雷を操るということは天意を得た、ということの暗示になる。


この本では雷を手に取るのは女性たちである。

作中でも言われているがこの力を得た状態というのは弾が装填された銃を持っているようなものだ。

世界中で銃で人命が失われているが、悪いのは銃だろうか?

いや、それを使う人間が悪いのだ。銃はどこまで行っても道具だからだ。

つまり、力というのはあればそこに秩序をもたらし、また暴力や死を呼ぶ。

たとえ天から授けられた力であっても使う人間によってその結果は様々でこの本が面白いのは、力を得た女性の変遷を素直に書いているところだ。

つまり女性の男性化である。

端的に言って暴力的になる。

思考が力に立脚しているから、力づくでものを得、力づくで異性をレイプするようになる。

オルダーマンはこの作品で女性らしさは生得のものではなく、環境が形作るものだと定義している。

つまり女性が力を得れば女性らしさが失われ、社会的に弱い場立場になった男性がその代わりに女性らしさを身に着けていく。

当然この世界では、おしとやかで異性に従う性質は男性らしさと呼ばれることになり、女性はこの気質と振る舞いを男性に求め、そうでなければ男性を虐待するだろう。

女性が力を得れば女性らしい世界、優しく生産的な世界が成立するのだろう、というのは幻想であると言っている。


男性は夜一人で歩けない、襲われるからだ。

もし夜道でレイプされ金を取られたとしよう。

警察に行くとそこは女性警官でいっぱいである。

襲われたと訴えると、あなたが犯人を誘惑したのでは?と言われるのだ。

そんなバカな、と男性のあなたは言うかもしれない。

しかし女性は今そういう立場にある。

この男女の逆転を回す力になっているのが女性に与えられた新しい力、雷である。

何を馬鹿な、腕力も武器もあるぞ、と思うかもしれないが、男性が女性に基本的に上から目線で接することができるのは潜在的に力が、つまり腕力が強いという点によっている。

いざとなれば殴っちまえ、というわけだ。

例えば相手が見るからに反社会的勢力のような外見をしていたり、筋骨隆々の男性なら女性には攻勢に出る男性もほぼ100%態度が変わるだろう。

男性が実際に力が強いことを根拠に女性に対して潜在的に自信を持っている。

これが作中では装填した銃に例えられているが、雷を得た女性は雷によってこの自信を獲得したわけだ。


せっかく世界に平らかにする力を天から得たのに、バランスが逆転しただけで結局力によって一報を制御搾取する構造は変わらない、という円環の物語でもある。

砂時計を逆にしたかのごとく、世界の構造は変わらない。

女性優位の世界はディストピアだとすれば、いま男性が女性を力で抑えている状況がすでにディストピアである。

大切なのは、男女いずれかが優れているわけでも劣っているわけでもないということだ。

女性の作者がこれを書くことは大変だったと思う。

なぜなら力の弱い女性が力を持ったら男性に対する積年の恨みを晴らしてスッキリ、という物語になるのが人情ってものだからだ。

天に与えられた力が人間界を変えられないなら人間の力で変えていくしかない、というメッセージを私はこの本から受け取った。