久しぶりに読むイーガン。
バリエーションに富んだ作品が収録されている。
面白いのは難民問題をタイムトラベルを絡ませてSF的に書いている「失われた大陸」。面白いネタを選んだ結果、というわけではない。
難民問題の核をむしろタイムトラベルというギミックを使うことで露骨にわかりやすく描いている。ここで強調されるのは具体的には隔絶と孤独感、どこにも所属する事ができない人をどう救うのか?または逆に排除するのかという問題だ。
後書きによるとイーガンは執筆が後回しになるくらい、この問題に熱心に取り組んだそうだ。
非常に効率的な考え方が反映された小説を多く書く人なので(面白いのは彼が書く物語は結果的に非常に感情的なのだが)、この事実は面白かった。
その他はいつものイーガン節。
意識の拡張や変遷が作品の根底にあり(テーマそのものではない)、そこから物語が動き出していく。
資格の拡張、そこから意識と記憶を非人間体への移植(彼は人間でもロボットでもないので周囲との摩擦が生じて物語になる)、さらにジャンプアップしていき(この短編集は日本オリジナルで作品のチョイスと並べ方は非常に巧みだと思う)印象的なのはラスト2つの中編。
はるか未来、どのくらいかというと僕らがもう古代人として伝説的に思い出されるくらいの未来。
肉体を捨てた人類を含めた様々な人種がデジタル情報になって広大な宇宙を行き来する融合世界アマルガムを舞台にした小説群。
肉体を捨てて意識をデジタルに、というアイディア自体はありふれたもので、私達も攻殻機動隊を始めいろいろな作品で慣れ親しんでいる。
多くが肉体を乗り捨てる、不老長寿になるといった考えにとどまっている中、イーガンはその先を進んでいる印象。
精神など肉体のおもちゃに過ぎないというが、逆に言うと肉体の軛から抜け出した精神は自由に選べる肉体、はたまたその肉体自体なくても存在できる意識となってどんどん変容していく。
衣食住、食欲、性欲、睡眠欲といった肉体に起因する”問題”から開放された人間の精神はどんどん現状から変容していく。
肉体的欲求は娯楽や美徳として昇華(消化)されている側面があるため、現代人から見るとモラルや常識が通じないので、イーガンの描く世界が偉くいびつに”非人間的”に見えるかもしれないが、逆にイーガンは人間の本質は精神、というとあれだがデジタル化できるデータだと捉えているわけで、非人間的というのは当たらない。むしろ肉体という制限がなくなったときに残る人間の本質とは?という問題に真摯に取り組んでいるのがイーガンでは?
2019年11月24日日曜日
2019年11月23日土曜日
沼野充義編/ロシア怪談集
物語というのはそれが書かれた土地、時代を反映するものである。もちろん怪談だってそう。これを読めばその土地に暮らす人の生活が、そして何を恐れていたかがわかる。
私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。
怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。
特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。
いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。
ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。
それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。
ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。
私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。
怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。
特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。
いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。
ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。
それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。
ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。
2019年11月4日月曜日
チャールズ・L・ハーネス/パラドックス・メン
聞き覚えのない作者だったが、ブライアン・オールディスが推薦していること。そのオールディスの「寄港地のない船」と同じ竹書房から出ていること。翻訳したのが中村融であることという条件が揃えば買わないわけにはいかない。
ジャンルはオールディス曰くワイドスクリーン・バロックということである。というかこのジャンルはこの作品を褒めたいがためにオールディスが作り出したというのだからなおさら読まねばならない。いわば近代SFの一つの里程標的な作品と言えるだろう。
以前にも数冊このジャンルを読んだことがある。
簡単にまとめると時空(宇宙と時間)を舞台に(=ワイドスクリーン)、特殊な能力を持つ主人公(=バロック)が縦横に活劇を繰り広げる、という物語である。
真っ先に思い浮かんだのはむしろこのジャンルでは語られることがない(と思う)ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズ。
この物語の場合主人公であるアラールという男は記憶喪失で自分が一体何物なのか?という謎を追っていくことで物語が進んでいく。
一方私がちょうど思春期の頃、日本ではセカイ系といわれる一連の物語が非常に流行ったことがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」以降の、作品名を上げると高橋しんによる「最終兵器彼女」など、どこかで読んだので間違っているかもしれないがとある人(名前は忘れた、東浩紀氏だったような)によると「主人公たちの問題がそのまま世界の命運に紐付いてい」るような作品を指す言葉、ジャンルだったと思う。
ちなみに最近読んだ神永長平の「戦闘妖精雪風」もちょっとこの雰囲気あった。
この「パラドックス・メン」では銀河を舞台に地球の命運をかけた闘いがあり、どうもその鍵を握っているのが主人公とその正体、ということになっているので、個人的にはこの作品、さらにはこの作品を説明するために生まれたワイドスクリーン・バロックという言葉にセカイ系を感じてしまったのである。
この作品「The Paradox Men」(が下の題の「Flight to Yesterday」という名で)発表されたのが1953年なので、もちろん2000年代周辺(雪風は1985年だそうだ)の日本の作品が(もし本当に受けたとすれば)この作品からの流れに影響を受けたのだ。
もちろん結構な差異もあるわけで、この作品のアラールは救世主、あるいはセカイの破壊者たる自覚を持って積極的に戦線に参加していくわけではない。むしろ巻き込まれ型の主人公を地で行く、追われる中で戦い、そして真相に近づいていく。(こういう物語の運び方はハリウッド的)
いわば主人公の自意識が超拡大して物語、つまり作品の中の時空を覆っていないわけで、あの「セカイ系」に特有の青臭さというはまったくない。
「パラドックス・メン」では時間を3次元に追加するもう一次元捉える4次元論が展開されるあたり、かなりまっとうなサイエンス・フィクションである。
ただこういうワイドスクリーン・バロックが、コードウェイナー・スミスによる一連の単語とキャラクターの世界と融合し、独自に飲み込み、ある部分を拡大解釈して生まれたのが「新世紀エヴァンゲリオン」(作中の人類補完計画はスミスの「人類保管機構」からとった、またスミスの作品に出ている猫少女ク・メルは日本でオタク流に解釈されたとか)などの日本の創作群だったらと考える。
そういった「線」を感じさせる作品なので、今読むのは非常に面白い。
ラベル:
SF,
アメリカ,
チャールズ・L・ハーネス,
本
登録:
投稿 (Atom)