きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。
誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。
私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。
この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。
天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。
スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。
私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。
この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。
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