あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。
ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。
親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。
異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。
すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。